アンコールワットより地元参拝客の多い祠の数奇な物語
外国人観光客が訪れる事はほとんどありませんが、アンコールワット入口のヴィシュヌ神と並んで、シエムリアプで最も信仰されているのがプレア・アンチェーク、プレア・アンチョム祠です。シエムリアプの中心部、王宮の斜め前にその祠はあります。
これからちょっと長旅になりそうなので、私も今日参拝して旅の安全を祈願してきました。
この2体の像には数奇な物語がありますので、こちらでご紹介します。
プレア・アンチェーク、プレア・アンチョムの姉妹は、捧げものをする人々の祈りに応えてくれると信じられています。この2人は、アンコールワットを建立したスーリヤヴァルマン 2 世の娘だったと伝承されています。スーリヤヴァルマン 2 世はヴィシュヌ神を信仰していましたが、この 2 人の姉妹は上座部仏教の信者であったと、現在では語り継がれています。
背の高い方が姉でアンチェーク、その隣が妹のアンチョムです。1950年にアンコールトム周辺の森で発見されましたが、もともとはアンコールワットのプレアポアン(千体仏、十字回廊)に、16世紀頃の当時の国王によって設置されていたと推測されています。王女姉妹は、シャム軍がアンコールを侵略した時にそれを追い払ったなど様々な物語が語り継がれています。アンコールワットに奉納されたであろう16世紀当時も、現在同様に崇拝されていたのかもしれません。アンコール王朝の衰退によりアンコール遺跡も放置されたため、その所在は1950年まで行方不明でした。
ここからは、完全に民間伝承のお話です。遺跡保護事務所に保管されていたこの2体の像の存在を知った、1954年から59年までシエムリアプ知事だったダップ・チュンという人物が、この像を横取りし、自分の家に保管していたそうです。毎日祈りを捧げ、黒魔術の力を経た彼は、通常は力持ちの5人の兵士がやっと持ち上げることができるこの像を、両肩に乗せて運ぶことができたと言われています。
彼は、プレア・アンチェークからの夢のお告げで、シアヌーク国王が自分を逮捕しようとしていると知り、2体の像を持ってタイに逃げようとしましたが、急に像が重くなり運べなくなってしまったので、慌ててプレア・アンチェークの右手首を切り取って、それを持って逃れようとしましたが、トボンカット村で見つかり逮捕され殺されました。
史実としては、シエムリアプとコンポントムを管轄する将軍であり、1954年のジュネーブ会議にはシアヌーク殿下に同行もしています。また1955年の選挙では、独自に小政党を立ち上げました。その後は、シアヌーク政権において国内保安大臣兼シエムリアプ州知事の重職に任命されました。その強硬な反共思想から、駐カンボジアアメリカ大使からは、シアヌークの後継者として育てる提案をされるなど、カンボジアの政治や将来にとっても非常に重要な人物だったと推察されますが、1957年にはシアヌーク内閣から追放されます。その後はシエムリアプ州知事としてプノンペンを離れていたのですが、いわゆる「バンコクの陰謀」と呼ばれるシアヌークに対するクーデター未遂が発覚し、逃走中に軍によって発見され射殺されたようです。シアヌーク国王は過去を回顧し、自分も加担していたその陰謀が暴露されるのを恐れたロン・ノルが、口封じに殺したと言っていますが、あるいはシアヌーク国王の指示なのか、その真相は闇の中です。
ダップ・チュンの自宅からは、プノンペンのアメリカ大使館の外交官だったビクター松井から提供された通信機や、親アメリカの南ベトナム人2人が発見されたようです。現在では、アメリカの情報公開によって「バンコクの陰謀」が、シアヌーク政権転覆のためのCIAによる計画だったことが、明らかになっています。またビクター松井は事件後すぐにカンボジアを離れ、1966年には同様の容疑で、ペルソナノングラータとしてパキスタンから国外追放になっています。
ダップ・チュンについて、残虐なストーリーが多く伝承されているのは、もしかすると、彼を殺害した勢力が意図して広めたものなのかもしれません。
「バンコクの陰謀」は、その後もシアヌークとは敵対したり協力したりを繰り返しながら、カンボジアの首相も務めたソン・ゴク・タンなどと連携して動いていたようですが、シアヌークではなく、ソン・ゴク・タンやダップ・チュンらの勢力がカンボジアを代表していたら、カンボジアの歴史はどう変わったのでしょうか。
同じくクメール・イサラクに参加していた、太平洋戦争末期にシアヌーク国王の護衛隊長だった日本人の只熊力さんなども、国王に狙われているとしてこの時期に日本へ帰国しており、その辺りの動きや関連性についても、これから調べていきたいと思います。
このダップ・チュンの奥さん、チャン・ウドンサックさんはトボンカット村でひっそりと余生を過ごしていましたが、彼女は往時様々な資産を持っており、そのうちの1つが現在のパークハイアットホテルだったそうです。2011年当時は、83歳でご存命でした。フランスからの独立運動であるクメール・イサラクに参加した彼女は、その活動の中で夫と知り合い結婚し、短期間ですがシエムリアプでいわばファーストレディとなりました。しかし1959年に夫がシアヌーク殿下によって処刑され、その後は村で生活をしていたようです。
ダップ・チュンはスヴァイダンクムのストゥントメイ村で埋葬されたとの話もありますが、ここは既に拡大した街の一部となり、現在観光客が訪れるナイトマーケットがある一帯です。裁判にかけられず、処刑されたと言う事実は、その後のカンボジアの歴史を予感させます。
1959年に取り戻された2体の像は、州の宗教局に運ばれ、壮大な式典で建物の正面に設置されました。ひとときの安寧を得ますが、まだまだこの王女姉妹の像への苦難は続きます。シエムリアプを制圧したクメールルージュの指揮官は宗教を否定しており、仏教を根絶する必要があると考えていました。最も有名なこの2体の像は、見せしめとしてシエムリアプ川に投げ込まれ、数年の月日を過ごすことになります。
1979年にクメールルージュがシエムリアプ市から撤退し、ベトナムの支援を受けたいわゆるサムリン政権が成立すると、 姉妹の像はシエムリアプ川から引き上げられ、最寄りのダムナック寺に安置されました。そして1982年に現在の安住の場所を得ることができました。
現在は、隣接する王宮と共に塀の中にありますが、稀に国王陛下が来られる際以外には、基本的に一般市民に開放され、地元民だけでなくプノンペンなど遠くから来た参拝客で賑わっています。
ここまで書いていたら、プノンペンが近づいてきました。今回はここまでで。
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