映画「卒業」
アメリカン・ニューシネマと映画「卒業」
撮りだめしてたまった番組を消化したいところだが、相変わらずゲオは旧作映画が2週間で110円と安く、最近は名作映画を借りる習慣ができている。中でも最近は「アメリカン・ニューシネマ」と呼ばれる60年代~70年代のアメリカの映画を主流で見ている。
詳しくはwiki諸々参考にしていただければいいが、「アメリカン・ニューシネマ」とは、60~70年代にこれまでの体制的な価値観で統一されていたハリウッド映画を刷新し、既存の価値観に縛られない新しい映画を作っていった一群の映画とのことである。その中でも、今回鑑賞した「卒業」は、アメリカン・ニューシネマの萌芽となった映画といわれている。将来に不安を抱えるエリート青年が、人妻と不倫の末にその娘と恋に落ちる姿を描く作品だ。結婚式の最中、主人公が教会からヒロインをさらっていくラストシーンが有名で、僕も何かの映像でそのパロディを見た記憶がある。
映画をたくさん見てきたわけでもなく、当時を生きてきたわけでもないので、「卒業」がどれだけ当時の常識を覆す作品だったのかはよくわからないところはあるが、何だか観ていて気分の悪い作品である。
共感しづらい登場人物
まず、登場人物が共感しづらい。主人公ベンジャミンは大学を卒業後実家に戻って後、やることもなくフラフラしている。その中で父親の知り合いの妻、ミセス ロビンソンと不倫関係になる。その後の人間関係を考えると、難がありそうなその行動だけでも僕にはよくわからない。さらにベンジャミンは娘である幼馴染のエレインが帰郷した際、エレインにひょっこり鞍替えしてしまう。いやいや、母親と関係を持った後に娘に手を出すって、どんだけ奔放なんだよと映画を見ながら感心する。
当然のことながら母親との不倫関係がバレた後、エレインはベンジャミンがいやになり、大学に戻ってしまう。その後、ベンジャミンはエレインが忘れられず、エレインのいる大学近くに下宿を借り、エレインにストーカー行為をする。ベンジャミンの行動は現代の価値観でみると立派な犯罪行為だ。近隣住民にも疎まれ、エレインの父親が下宿を訪ね、二度とエレインと関わるなと告げられ、最後に暴走したベンジャミンはエレインの結婚式の最中に乱入する。エレインもベンジャミンに呼応し、二人は逃走するためバスに乗り込み、物語が終了する。
正直言って、主人公ベンジャミンには同情する余地がほとんどない。もともと実家にはプールがあるような上級〜中産階級の息子として何不自由なく育てられている。大学卒業後、「生きがいがねえや」とフラフラされても、いやいや、あなた金持ってるんだし自分で何とかしろよとも思えてしまう。その後の行動についても自分勝手かつ節操がなく、何より「これが正しいのだ」といえるような大義があるわけでもない。少年漫画に出てくる主人公とは真逆のキャラクター性だ。
その他主人公と関係をもってしまうミセス・ロビンソンについても、欲求不満のために20歳のベンジャミンを誘惑するという、首をかしげる行動だ。さらに事がバレたら責任をベンジャミンになすりつける。できれば関わりたくない相手だ。ヒロインのエレインについては、最初のデートの際にストリップショーを見せられただけでも、普通はベンジャミンとの仲は考え直すだろうが、彼との関係を続ける。その後親との関係がバラされ、ストーカー行為を繰り返すベンジャミンに対しても、結局は許してしまう。単にお人好しという表現ではすまない、不思議な感性を持ったキャラクターで、どちらにせよ感情移入はしにくい。
物語の印象
また、そんな登場人物が織りなす物語も基本的には陰鬱だ。主人公ベンジャミンはじめ、鬱々とした登場人物が人生の突破口を広げようと暴走する結果、周囲から疎んじられ、そのことに何ら折り合いがつかないままラストの教会のシーンでウサを晴らし、物語が終わる。あまりにも気持ちのいい展開が起こらないもので、途中で鑑賞するのが辛くなってきた。
「卒業」を今鑑賞する意味
しかし、だからこそこの映画には価値がある。自分が面白いなと思った映画やアニメ等を振り返ると、登場人物には何かしらの大義やら信念があって、一方で他者の信念とぶつかり合っていく様がドラマを作っていった気がするのだが、それだけが物語の醍醐味というわけではない。正しくない主人公、正しくない登場人物達が、周囲の規範・価値観とぶつかりながら敗退していく様に、自分の人生を省みるような気がしてくるのだ。ある意味、他人にも思えないのがベンジャミン他、「卒業」の登場人物たちだ。自分が他の誰でもない何者になりたくて、でも何をすればいいかわからずぼんやりと過ごして、ただただ自分が嫌いになっていった、みたいな経験をした人はいっぱいいるのではないだろうか。そんな人にこそ、「卒業」は心に刺さる映画だと思う。
上記のとおり、この「卒業」は鑑賞後に爽快感を味わう類のものではない。鑑賞直後のざらつく感情は余計なものを見てしまったとさえ思えてくる。だが、そのざらつく感情こそが、自分の映画経験には必要なものと考える。上映当時こそ若者の感情を代弁する映画みたいな括りで語られることの多いらしい「卒業」という映画だが、僕はその表現が現在において適切か疑わしいと思っている。
ベンジャミン他登場人物から漂う虚無感や退廃した空気感は、確かに「何にもなれない」若者の姿といえるかもしれないが、今この国で、この世界で「何にもなれない」虚無感を感じているのは若者だけだろうか。昔ほどでないにしろ、自分にはそうした空っぽの感情が常に横たわっているし、他の人だって、日頃見ようとするかしないかは別にして、何かしらの空虚な感情と付き合って生きているんだろう。そう考えると、「卒業」は1968年という時代の、ある年齢に向けた映画、という括りでは説明できない普遍性があると思う。ぜひ、多くの人に鑑賞してほしい映画だ。