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佐藤優著「獄中記」を読んで

学ぶことは好き、けれど優秀ではない

 元来、生まれてこの方、勉強することは嫌いではない。
 思い返せば、中学1年生頃の休日は、朝6時に起きて、起きた勢いのまま机に座り、当時中学祝いで買ってもらったラジオカセットで音楽を聴きながら、両親が起き出す9時ぐらいまで勉強するのが、楽しみだった。誰かに強制されたわけではなかったが、テスト前になると、自動的に起きていた。その頃、学校でよくやらされたのが、テスト前になると渡される「勉強記録」というプリントがだった。試験日までの2週間、自分の勉強時間分の色を塗るというヤツだ。休日分を塗ると、余裕で8~10時間とかになった。これがスタンダードだと思っていた。けれど、周囲の友達は2~3時間とかだった。インチキしているのではないかと疑われるのも嫌だったし、そんなに勉強しているのに点数が低かったら恥ずかしいので、塗りなおした覚えがある。

 とはいえ、別に優秀かといわれると、そこまで優秀ではない。
 大学入試も、自己推薦で受かっていなかったら、大学には入れていなかっただろう。入学後は、早々にあった「自然科学序論」という理科3教科(物理・生物・化学)のテストで全部落ちた。普通は、勉強してきている教科があるので、どれか1つは受かるはずであるが、全て落ちたので、2単位のために3コマ授業を受ける羽目になった。
 大学院へは、GPA(内申見たいなやつ)が、3.3以上あれば、推薦で入学できたはずだったが、自分は3.26で0.4足りず、受験になった。院試は、夏と冬の2回あり、募集人数の多い夏は不合格だった。

 新卒で入社した50人程度のメンテナンス会社の入社試験での点数は最も低かったと言われていた。当時はリーマンショックと3.11も重なり、かなりの就活難だったから、就活生が多かったようで、最終面接でも自分のほかに3人は居たと思う。その中で最下位だったようだ。SPIなどの能力テストは正直言って苦手だ。

社会人になってからも勉強を駆り立てたもの

 社会人1年目。入社した会社は、メンテナンス会社だった。正直、あまりよく分かっていない中、入社した。実は、IT業界の会社とこの会社の2社しか受からなかった。エンジニアになりたいと思っていたので、実際にモノに触れるメンテナンス会社にした。入社して1週間は、研修。研修明けから、配属されたのは、東京湾の沖にある火力発電所だった。朝は7時半に出社する。出社といっても「詰め所」と言われる正直キレイなところではない。分煙もされていない事務所だった。8時~8時15分の連続テレビ小説が終わると、朝礼が始まる。その一業者の中で、体操して、KYして、今日の作業の打ち合わせをして現場に行くのだった。大学院を卒業して、こんな仕事でいいのかとも正直思ったりもした。しかし、この中で認められることができないなら、どこへ行ってもダメだろうとも思っていた。

 そんな時、ふと気が付いたことがあった。本を読む人は誰一人としていないということだ。文化庁の調査によると、平成30年時点で1か月に本を1冊でも読む人は、52.6%らしい。そして、以前よりも減っていると思っている人は、67.3%にも及ぶと言われている。ちなみに、3~4冊以上を1か月に読む人は、15.2%となる。ということは、1か月に3~4冊以上読めれば、日本全体の15%になれるということがわかる。と、ここまでは後々、社内読書の文化をつくろうとしたときに知ることだが、この社会人1年目の気づきから読書を加速度化させた。これが、社会人になってから、自分を勉強に駆り立てたものだった。

知の巨人「佐藤優」という存在

 大学院生の時に、ある友人が楽しそうに語っているのを聞いていた。彼は、大学卒業後、通信教育に入っていた。卒業してから、様々な本を読んでおり、大学院に進学した私としては、好きな本を好きなだけ読める生活が正直、羨ましかった。彼が話していたのは、当時の潮出版社から出されている「潮」に連載中だった「池田先生とトインビー博士の対談を読み解く」というものだった。その読み解きをしていたのが「佐藤優」という人だった。

 当時から今において、創価学会外部から創価学会について書くということは、あまり良い印象を受けないのが通念であった。佐藤氏にも何か裏側があるのではないかという、うがった見方を私もしていた。とはいえ、友人の楽しそうに話す姿に「佐藤優」という人間に興味を持ったのは確かであった。ただ、大学院生中は中々、彼の書籍を読むほどの興味はなかった。

 社会人になる手前になって、「読書の技法」という佐藤氏の本を手に取った。率直に面白いと思った。その影響もあり、100ページのキャンパスノートを買い、1年間で1冊使い何でも書くようにし始めた。最近では1年に1冊では足りず、4か月に1冊ペースになっている。とはいえ、まだまだ得体の知れない存在ではあったものの、もっと知りたいと思うようになり、書店で彼の名前が出るたびに購入していった。

国家とメディアの怖さを知った

 そして、彼の処女作である「国家の罠」にたどり着いた。このことによって、2000年代あった鈴木宗男事件の認識を改めさせられた。鈴木宗男事件について思い返すと、朝の番組やワイドショーでは、連日報道されていた。しかし、中学生であった私は、あまり内容は理解できていなかった。ただ、私の認識では、小泉首相や田中真紀子が「正義」で、鈴木宗男は「悪」のような印象を受けていた。「宗男ハウス」といった言葉からしてもあまり良いことをしていないという認識をしていた。このとき、外務省として関わってたいのが佐藤優氏である。テレビで見た印象は正直言って、記憶にはないが、YOUTUBEの当時の映像を見ると確かに様々出ていたようだ。
 この「国家の罠」を読んだ時に、自分自身が子供ながらメディアに踊らされていたのだと気づいた。しっかりと「自分の頭でモノを見て考える」という力をつけないといけないと痛切に感じた。そして、「反知性」にならないために「知性」を磨く必要があると感じたのだった。

友人からの非難を受けて

 佐藤優氏を知り始めてから、高校の勉強をするようになった。特に、今の仕事ではデータ分析を扱うことから、数検を受けようと思ったのは、佐藤氏からの影響が大きい。自分の能力の確認をすべきだと思ったからだ。そのため、まずは中学3年生レベルの数検3級から受験した。今は、2級の1次試験合格をもらっている。このレベルは、高校2年生の途中である。自分の限界点がここにあることが確認できた。今年の10月に、今年最後の試験があり、正直、準1級の高校3年レベルを受けて終わりにしたかった。しかし、高校2年生のレベルで止まっている以上、ここはブラさず、2級の二次試験を受けるつもりである。

 佐藤氏の書籍を追っていると気づくことがある。それは執筆スピードの速さである。一通り読み終わると次が出ている。そのため、彼の書籍でいっぱいになってしまうのである。

 今年の4月に、独自で行っている「KIRIsプロジェクト」という友人数人との勉強会の中で、佐藤優氏の「悪の進化論」の紹介を兼ねて「悪の進化論から読むこの世界の生きにくさ」というプレゼンテーションを行った。質疑応答の場で、一人の友人から痛烈に言われた言葉が刺さった。「佐藤優に傾倒しすぎなのではないか。彼が間違っているということもあるのではないか」とのことだった。正直に言うと、私自身も傾倒しすぎているなと思っていたのはあるものの、彼を超える著者を見たことがなかった。琴線と逆鱗のギリギリの逆鱗に触れるところであった。自分からの反論として、「人はどんなにフラットに物事を捕えようとしても、どれかに偏ってしまう。自分は佐藤優という人間に偏った状態で物事を見ていくのが良いと思っている」と答えた。私としては、とっさの苦しい言い訳ではあったが、本音であることに気づいた。
 このことがきっかけで、佐藤優という存在とどう向き合うかを考えさせられた。

いっそ、傾倒してしまおう

結論から言えば、「いっそ、佐藤優という人間を信じて傾倒してしまおう」ということに行きついた。これには簡単な理由がある。色々な人の書籍を読んでいい所取りをした場合に、後になってそのエビデンスを探すのが困難になる場合が多々ある。また、矛盾も生まれてくる。いっそ、佐藤優という人間のみにフォーカスしておけば、仮に引用する際は彼から導けば、即座に見つけれられ、単純明快である。そして、佐藤優氏の智慧や考えを、自身に入れて、それをコンパスの軸にして、他の書籍を読んでいくことで、その円を大きくしていけばいいのではないかと思った。いっそのことの強いコンパスの軸を作ってしまおうと思ったのだ。

 それと、彼に対する信頼もある。それは、そもそも、言論界で創価学会を取り上げるということは様々な形での非難を受けることになる。しかし、それに屈せず、敢えて正しいものは正しいと応援しているところに、彼の魅力がある。学会員の中にも彼に対して非難をする人間はよくいるが、よく読んでもらいたい。彼は創価学会において味方なのである。

 また、彼自身の信仰は、キリスト教プロテスタントの立場であり、その中でもカルヴァン派だと言っている。彼らの考え方は「神から与えられた仕事を全うすることが神に応えることである」といわれている。そうだとするならば、彼自身の力を最大限に出し切り、今置かれている職業作家という立場で、自分の使命に生き切っている。だからこそ、恐ろしいぐらいの出版スピードや、知の巨人と言われる理由が信仰から起きている価値観であると分かる。だからこそ、信用できるのである。

獄中記を読んで、、、思ったこと

 以上のようなことを考えながら、まだ全然読み切れていなかった「獄中記」を再読し始めた。そこでふと思った。今自分自身の勉強や研鑽を、この獄中記の「手紙」のように書いてみたらどうかと思った。自身の知識の定着にもなるし、その中で共感を持ってくれる人もいたらいいんじゃないかなと。また、傾倒するならこれぐらいのことをやってみてもいいんじゃないかとも。

 単なる日記ではなく、相手のいる「手紙」という形で残していくことでこちらのモチベーションにもなるのではないかと思い、不定期になると思うが始めてみようと思った。おそらく、頓珍漢なことも書くだろう。いつまで続くか分からない。けれど、この資本主義という「牢獄」の中で、自身の考えたこと、思ったことをもっと発してもいいんじゃないかと思った。

 この世界の片隅でひっそりと決意を書きたかったというのが、本投稿の趣旨である。「知的再武装」に挑戦しようと思う。

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