カルトとは何か
2022年7月8日に安倍晋三元首相が、街頭演説中に銃撃によって凶弾に倒れた。犯人の山上容疑者は、母親が入信している宗教団体の「世界平和統一家庭連合」(旧統一教会)のカルト性が注目されている。宗教のカルト性は、1980年代末期から1990年代中期のオウム真理教事件が、特に取沙汰され大きく注目を浴びてきた。今回の件で、「政教一致だ」との批判を含めつつ、現在その火の粉が創価学会にも飛び火し始めている。
しかし、そもそも「カルト」とは一旦どういう意味なのだろうか ー Googleでの検索や書籍等で調べる中で、個人的に最も注目したいのは、創価学会が2000年に発刊した「仏教哲学大辞典(第三版)」の記述である。この辞典の「カルト」についての記述が非常に面白い。
本書は現在、絶版となっているが、今回はこの創価学会版「仏教哲学大辞典」から「カルト」について見ていきたい。
カルトという用語は、あまり馴染みのない言葉であった。どちらかと言えば、宗教研究の中で用いられていた言葉であったようだ。
そのため、本書では、前半が「カルトは宗教研究の中でどのような立ち位置だったのか」が説明され、中盤に行くにつれて「カルトの認識変化をみていく」。そして、後半では「宗教における役割と社会との相互関係からみた」カルトについて論じている。
カルトとは、もともと祭儀を指している。この祭儀では、時には生け贄を捧げるなどの行為が行われ、宗教的興奮状態を起こし、神からの応答を受ける行事であった。
祭儀事態における宗教的崇拝から延長され、その崇拝を色濃く取り残していったのが「カルト」という言葉であることが分かる。そして、崇拝の熱心さ、狂信さを「カルト」と呼ぶようになり始めた。
正統派のキリスト教は「神」を信じないものは「異教」であり、「カルト」と位置付けられている。そのため、仏教等には彼らのような「神」は存在しないため、正統派のキリスト教から見ると仏教等は「カルト」に当てはまってくる。
ここでは学問の話をしており、ともかく新宗教や少数派宗教を「カルト」と呼ぶ場合があるという。そして、社会に逸脱した理解されない団体も「カルト」と呼ぶ。
ここで「セクト」について出てくる。「セクト」と「カルト」は似ている部分と異なる部分があることを示している。本記述に基づけば、「セクト」は宗教集団の内側で正統性を主張し、「カルト」は宗教集団の外側で宗教的真理を主張する。
ここまでを見ると、「カルト」とは、単に異教についての記述であり、あまり危険性は見えてこない。しかし、1960年代からその一面が見え始めてくる。
社会の中での奇異的な集団やその運動に対して「カルト」と呼び始め批判の声が始まる。ここまでは、常識では理解できないものへの批判であり、その奇妙さへの声である。しかし、1978年の「人民寺院事件」から一変し始める。
この惨劇は、2001年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が発生するまで、アメリカ合衆国民最多の被害者数を記録した事件と言われている。そして、それと同様のことが、日本でも起こり始めていく。
日本において「カルト」という言葉の定着は、1990年代に起きたオウム真理教である。今まで奇異に感じていた宗教団体、特に新興宗教がその正邪を見られず、一括りに「カルト」ということになってしまった。
本書の「仏教哲学大辞典」の面白い所は、本来の辞典という役割からすれば、この前までの記述で十分である。しかし、この内容だけでは、現代における「カルト」の問題を正確に把握しきれてないと考えたのだろう。「カルト」というものをどう分析し、どう定義するのかを、読者の判断に任せることになってしまう。そのため、宗教の本来の役割から、カルトとなってしまう理由が考察され、読者が、正確にカルトについて論じれるように記載されている。
「順応機能」を我々創価学会員としての言葉に変換すれば「忍耐」や「時を待つ」ということになるだろう。例えば「冬は必ず春となる」は、自身の苦悩を耐え忍んだ先に必ず開かれていくという考えである。また「御みやづかいに法華経とおぼしめせ」というのも社会の中にこそ修業の場であるという意味を含み練磨していくことを強調している。このことからも、順応機能は、我々の思想の中にもある。
挑戦機能すなわち、「革命」であり「時を作る」ということだろう。我々創価学会員からすれば「立正安国」がこの考えに当てはまる。
「順応機能」が行き過ぎれば、「いつか神が私たちを救ってくださる」という考えに至り、結果的に、カール・マルクスのいう「宗教はアヘンである」に行きついてしまう。一方、「挑戦機能」が行き過ぎれば、自分たちの理想郷を作るために、暴力を使い始めるということである。
そして、この両機能を正しく発揮させるには、「時代状況」と「社会との相互関係」であると考察されている。
「理想や独自の世界を追求する」という点が重要である。自分たちの理想をどこまで現実の世界で近づけていくかー特に近年は、多様性という言葉が出てきているように、様々な考えがある中で、自身の宗教的信念を曲げずに柔軟に対応していくことが重要であろう。しかし、その柔軟性が無く、社会と逸脱し始めた時、国やメディアは「カルト」とレッテルを張り非難し始める。ましてや、自身の理想郷がつくるという大義の為に、暴力等でそれを達成し始めようするのはもっての外である。
先ほどまでは、宗教内部にあるカルトになりうる可能性面であるが、ここでは、「カルトは社会が生み出したもの」だと言っている。
確かに、よくよく考えれば、「カルト」とされるのは、内側からではなく、外側からのラベルである。そして、それは「社会との相互作用から生み出される側面」と「社会の抱える諸問題の反映という側面」で「カルト」が生れるのである。
ここの箇所は、よく分けて読む必要がある。「特異な新宗教はある。一方で新宗教側の特徴に関係なく周辺社会も要因である」と記載され、一方的な社会からのバッシングは、新宗教が受け入れられない社会にも問題があるの指摘をしている。
この部分は非常に面白い。まず、ナショナリズムを一言で表すのは難しいが、ここでは、民族間意識と捉えよう。その上での「文化ナショナリズム」とはどういうことだろうかー 例えば、東京にいる人が、大阪に出張で出かける。大阪に着いて、いつもの癖でエスカレーターの左側に立ってしまったとする。すると、周囲からは少々冷たい目で見られたときに、本来は右に立たなければいけなかったことに気づく。この経験は、私自身もよくしてしまうが、この奇異な目で見られることが関東文化と関西文化での違いにおける「文化ナショナリズム」ということではないだろうか。とすると、「主流派的伝統」とは今までの過去から現在に至るまでの伝統文化の中で、今まで誰も疑問に思っていなかったことから、新しい文化が出てきた時に、場合によって「カルト」になるということだろう。先ほどの例からすれば、東京から出張に来た人は「カルト」に当たり、大阪のエスカレーター周囲にいる人たちは、主流派的伝統の人たちであると言えるだろう。そして、その少数派を避難的な目で見てしまうという側面があると言っているのだ。
そして、上記の言葉でまとめられている。
「カルト」と一概に言っても、まとめきれないのがよく分かったと思う。行き過ぎた行為や暴力に対しては擁護できるものではない。しかし、宗教=カルトというのは、そもそも間違った考えである。見方を変えれば、そういうのを受け入れられない社会も未熟なのだということである。
まとめ
近年では、LGBTなどの平等が政策公約にあがる中で、宗教においてもそれを受け入れるだけの土壌がないと改めて感じる。既成宗教は正しくて、新興宗教はカルトであるというのも、論理として全くよく分からない。確かに、前述したように宗教学の領域では新宗教をカルトと呼んでいた事実はあるが、その場合の意味と、今回のようなバッシングで使う意味とでは全く異なる。
カルトを狂信的や熱狂的と言う風に論じられているが、ではどこまでが狂信的で熱狂的なのかは甚だ疑問である。私からすれば、年始の初詣で、何も考えず、企業が神社に数十万円を振り込む人たちの方が、カルトであると思う。その一方で、社内のシステム導入には比較検討しどれが一番良いのかを考える人たちである癖にといいたい。結局のところ、「カルトだ」「政教分離だ」と騒いでいる人の大半は、思想や宗教における正邪を見ずに、ただただ「カルト」という言葉のニュアンスだけで、危険なものだと認識している無知で、現代の平等を訴える感覚から乖離した時代遅れの人たちにしか見えない。