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11月14日 毎日が記念日

おはようございます!


自分に忠実でいたいなら行動開始!

どんなに小さなスタートでもいいの。

 

#バーバラ・ブラハム


11月14日


今日は、『世界糖尿病デー』

インスリンを発見したカナダのバンティング医師の誕生日から


今日のお誕生日


阿藤快さん、チャールズ皇太子さん、小林繁さん、中野浩一さん、パックンさん、片岡安祐美さんなどなと

もんち的には、プロレス界の父、力道山さんのお誕生日

本日お誕生日の方々、おめでとうございます

㊗️㊗️㊗️㊗️㊗️


力道山


本名、百田光浩。

朝鮮名、金 信洛。

日本統治時代の朝鮮・現在の北朝鮮統治範囲で朝鮮人の両親のもとに生まれた。

力士時代。

二所ノ関部屋に入門し、1940年5月場所初土俵を踏んだ。

1949年5月場所に関脇に昇進するが、1950年9月場所前に突然、自ら髷(まげ)を切り廃業。

民族の壁に阻まれて大関に昇進できなかったため廃業を決意したいう説が良く語られるが、場所別成績の通り、関脇で勝ち越すのが精いっぱいであり、大関に昇進できるような星は残していない。

力道山は酔うとあたりかまわず暴れることで周囲から疎んじられた。

師匠の二所ノ関親方との間にはこのような素行への叱責を受けるだけでなく、金銭問題を含むトラブルを多く起こしていた。

これが引退の理由だとも言われている。

プロレスへ転身。

その後、ナイトクラブでの喧嘩が元でハワイ出身の日系人レスラーのハロルド坂田(トシ東郷)と知り合い意気投合した。

力道山は坂田の勧めで練習を見に行き、プロレス転向を決意した。

1952年2月、アメリカに渡り、ホノルルで日系人レスラーの下で猛特訓を受けた。

翌年帰国して日本プロレスを設立する。

1953年にテレビ放送が始まったことに追い風を受け、全国民の支持を受けて大ブームとなる。

この興行で力道山のタッグパートナーは、戦前戦中に日本柔道史上最強と謳われる木村政彦だった。

しかし、その後力道山との間に亀裂が入るようになった。

その結果、1954年力道山は木村政彦からの挑戦に応じ「相撲が勝つか柔道が勝つか」と騒がれたプロレス日本ヘビー級王座の決定戦が行われた。

その戦いが、『昭和の巌流島』と言われていた。

1963年、東京体育館で行われたWWA世界ヘビー級選手権・ザ・デストロイヤー戦は平均視聴率で実に64.0%を記録、これは今日においても歴代視聴率4位にランクされている。

相手を威嚇するためにガラスのコップをバリバリと噛み砕いて飲み込む「人間ポンプ」という芸を持っていた。

1963年、遊興中の赤坂のナイトクラブで、暴力団の構成員であった村田勝志と、足を踏んだ踏まない、で口論になり、馬乗りになって殴打したところ、村田に下から登山ナイフで腹部を刺された。

だが、自ら持ちかけた喧嘩ということもあり警察沙汰にはせず、知り合いの医師の勤める山王病院に入院。

手術は無事に成功するが、術後、直ぐに暴飲暴食を繰り返し縫合箇所から食べ物が体内に漏れるなどして再び体調悪化。

この時は再手術も成功し、医師から飲食禁止のお達しを受けるが我慢できずに再び暴飲暴食し化膿性腹膜炎で死去した。

39歳だった。

しかし、ある説は、手術の際、麻酔を担当した外科医が、筋弛緩剤注射した後に気管内チューブの気管挿管を失敗し窒息したという医療事故のためという。

力道山の死後プロレス界を支えた両巨頭であるジャイアント馬場、アントニオ猪木も彼の弟子であった。

力道山は素行の面でいろいろと問題はあったが、日本のプロレス界の礎を築いた最大の功労者であることは間違いない。


本日が皆様にとって、人生最幸の一日になりますように😍

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