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2月17日 今日は人生最幸の日

おはようございます!


微笑めば友達ができる。しかめっ面をすればしわができる。


#ジョージ・エリオット


2月17日


今日は、『天使の囁きの日』


北海道の「天使の囁きを聴く会」が1994年に制定
天使の囁きとは、空気中の水蒸気が凍ってできるダイヤモンドダストのことである


本日のお誕生日


マイケル・ジョーダンさん、岸谷香さん、舞の海秀平さん、YUKIさん、吉瀬美智子さん、大原かおりさん、パリス・ヒルトンさんなどなど


もんち的には、平成の牛若丸の舞の海秀平さんのお誕生日


本日お誕生日の方々、おめでとうございます
㊗️㊗️㊗️㊗️㊗️


舞の海秀平


本名は長尾 秀平(ながお しゅうへい)。


青森県出身。


中学2年生の時、スキー場で木造高校相撲部顧問の岩城徹に「うちで相撲をやらないか」と声をかけられた。


中学3年になって周囲の中学相撲の選手が高校相撲の強豪校に勧誘されていった中で長尾は体重60kgの小兵であるため中々呼び声がかからず内心傷ついていた。


中学生頃まで夜尿症が治らなかったらしい。


高校時代の岩城が付けた稽古は厳しかった。


山形県の高校教員採用試験(社会科)に合格していたが、大学在学時の同郷の後輩である成田晴樹の急死を契機として一転大相撲入りを志す。


入門を相談した際に母の猛反対に遭い、結局母とは絶縁することでようやく入門を許された。


しかし、身長が当時169cmで日本相撲協会の新弟子検査合格基準(当時は172cm以上)に達しなかった。
1度不合格を経験した後、手術でシリコーンを頭に埋め身長を一時的に高くして合格を掴んだ。


学生時代に残した全日本相撲選手権大会ベスト32の実績が認められて幕下付出資格を取得、1990年5月場所に本名である『長尾』の四股名で初土俵を踏んだ。


十両に昇進し、四股名を郷里の舞戸町と部屋の出羽海に因んだ『舞の海』へと改名した。


その後、多彩な技で大型力士を倒すその取り口から「技のデパート」、「平成の牛若丸」の異名で呼ばれるようにもなった。


「猫騙し」の活用に始まり、「後退する立合い」、「くるくる舞の海」と言われた目回し作戦、1991年11月場所の曙戦でみせた「三所攻め」、1992年1月場所の貴闘力戦でみせた「居反り・襷反り」、当時の二子山理事長に「八艘跳び」と呼ばれた1992年1月場所・北勝鬨戦での立合いジャンプ作戦など、四十八手を駆使した取り口を見せ、1994年9月場所には小結に昇進。また通算では5度の技能賞を獲得している。


しかし1996年7月場所、小錦との取組に勝った際、体重差約200kgの小錦が舞の海の左膝へ倒れ込み、左膝内側側副靭帯損傷の大怪我を負い、同場所及び翌9月場所を休場し十両へ陥落した。


1999年11月場所には十両10枚目まで落ちていた。
13日目の水戸泉戦で敗れた際に左足首靭帯を損傷、左ふくらはぎも肉離れを起こし14日目を休場、6勝8敗と窮地に追い込まれる。千秋楽は無理を押して出場するが、若光翔に敗れて幕下陥落が濃厚となり、現役を引退した。


引退後は日本相撲協会には残らずタレントに転身。
NHK大相撲中継の専属解説 のほか、スポーツコメンテーターとしてフジテレビ系「FNNスーパーニュース」のスポーツキャスターなども担当。


現役時代の自身の取り口から立合い変化を肯定する論調が多い。
また、小兵だった自身や均整の取れた体格のモンゴル人力士の躍進から、「相撲は体重ではないことを日本人力士は再認識して欲しい」と日本人力士の大型化に警鐘を鳴らすような発言も目立つ。


家族構成は妻、妻の連れ子2人、実子1人。妻となった女性は出会った当時バツイチで2人の子供がおり、いわゆる「夜の仕事」をしていた。
子供が苦手だった舞の海は、女性の子供たちと上手くコミュニケーションが取れず、舞の海の母親も結婚に反対していた。


連れ子が舞の海を「お父さん」と呼んでくれるようになったのには時間がかかったようであり、初めて「お父さん」と呼んでもらえた日には、洗面所に駆け込んで涙したという。


小さな身体で、大きな力士を倒していく姿はカッコ良かったですね。


懐かしいです。



本日が皆様にとって、人生最幸の一日になりますように😍


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#2月17日

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もんち
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