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1月15日 毎日が記念日

おはようございます!


楽しんで失敗する方が、

退屈しながら成功するよりいい。

 

#ジョージ・バーンズ


1月15日


今日は、『ウィキペディアの日』

2001年のこの日、インターネットの百科事典サイト「ウィキペディア」が公開された


本日のお誕生日


コシノヒロコさん、森田童子さん、石原良純さん、坂井ひろみさん、吉岡里帆さんなどなど

もんち的には、万引き家族の樹木希林さんのお誕生日

本日お誕生日の方々、おめでとうございます

㊗️㊗️㊗️㊗️㊗️


樹木希林


戸籍名、内田 啓子、旧姓:中谷。

旧芸名は悠木 千帆(ゆうき ちほ)

高校入学後、演劇部に在籍し、その傍ら薬剤師を目指していたが、大学受験直前にスキーで足を怪我したため、大学進学を断念した。

1961年に文学座一期生として付属演劇研究所に入る。

「悠木千帆」名義で女優活動をスタートする。

1965年に文学座の正座員となるが、1966年に文学座を退団。

1964年に森繁久彌主演のテレビドラマ『七人の孫』にレギュラー出演し、一躍人気を獲得した。

1970年からレギュラー放送が始まった水曜劇場『時間ですよ』で不動の人気を得る。

以降も、個性派女優として多くのテレビドラマ、映画、舞台に出演する。

20代の頃から老人の役を演じ、出演するドラマ、映画などでは老け役が当たり役だった。

特別番組の中のオークションコーナーで、「売る物がない」との理由で、特に思い入れが無かったという自身の芸名「悠木千帆」を競売にかけた。

芸名の売却後、芸名を本名の内田啓子にすることも考えていたが、「樹や木が集まり希(まれ)な林を作る=みんなが集まり何かを生み育てる」ということを連想し、自ら樹木希林に決めた。

郷ひろみとのデュエットで「お化けのロック」「林檎殺人事件」をリリース、大ヒットした。

1964年に俳優の岸田森と結婚するが、1968年に離婚。

1973年10月に内田裕也と再婚するが、1年半で別居し、その後別居生活を続けている。

1981年、内田が無断で離婚届を区役所に提出するも、樹木は離婚を認めず、離婚無効の訴訟を起こし勝訴した。

その後は1年に1回連絡を取り合う程度の関係となったが、2005年1月、乳がんが判明して摘出手術を受けたことを機に連絡は1か月に1回となり、以降毎年1月は一緒にハワイで過ごすようになったという。

内田との間に1人娘の内田也哉子がいる

1978年からフジカラーのCMに出演していたが、1980年に放送された『フジカラープリント お名前篇』では、お見合い写真を現像しにきた客役の樹木と写真屋の店員役の岸本加世子との「美しい人はより美しく、そうでない方は…」「そうでない場合は?」「それなりに映ります」というやり取りが流行語となった。

フジカラーのCMには40年にわたって出演し続け、2002年には消費者の好感度が最も高い女性CMタレント1位に輝いた。

2003年1月に網膜剥離で左目を失明した。

2013年金、全身がんであることを告白したが、2014年に1年半ぶりのがん治療が終了したことを会見で公表している。

2018年、自宅で家族に看取られ、死去。

75歳だった。

樹木の死から約半年後の2019年、夫の内田も死去した。

テレビドラマ

『時間ですよ』

『寺内貫太郎一家』

『ムー』

『ムー一族』

『影の軍団シリーズ』

『夢千代日記』

『はね駒』

『はみだし刑事情熱系』

映画

『夢千代日記』

『命』

『東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜』

『歩いても 歩いても』

『わが母の記』

『あん』

『万引き家族』

『日日是好日』

亡くなった後に出版された本が、大人気ですよね。

素敵な生き方をされた印象があります。

きっと天国でご夫婦で仲良くされておられますよね。


本日が皆様にとって、人生最幸の一日になりますように😍


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