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知の流儀
知の機能は、ある種の「超越性」にあると考えられる。
超越した先は、数学的世界観であったり、歴史学的世界観であったりする。
人間はもちろん、世界が計り知れないほどに複雑怪奇であることを知っている。
だからこそ抽象の観点から分類し、学問として知の体系を築き上げてきた。
ゆえにそれぞれの学問が扱う論理は、現実よりもほとんど理想化されいる。
理想はすぐに過熱する。学問としての理想が、人間の欲望に置き換わる。
知の大木は、やがて、そうやって腐り始める。
何かを考え始めるとき、まずは人間についてある程度知らなくてはならない。
「考える」主体である人間について理解した上で、学問を成り立たせなくてはならない。
知の「超越性」に折り合いをつけるためだ。
人間の存在そのものに、一種の揺るぎない事実が確約されている。
いわば過熱の対になる「冷却」として、それは機能する。
これら二つのレンズを通し、現実と理想のバランスを取りながら、少しずつ進歩してゆくしかない。
「知」をより物質・肉体的に捉えることで、わかりやすく信じることができる。
そしてこの信仰可能性こそが「知」が生き残って行くための指標であり、やがて名もなき文化となって、閉鎖的に消滅・継続されていくものである。
もし宇宙人が地球にやって来たら。人類が想像する「知」の枠組みは完全に破壊されるに違いない。地球という閉鎖空間での思考法はきっと通用しない。
私は、そういう「宇宙人」を歓迎すると同時に、地球の伝統的な「知」の文化に触れて生きてきたことを誇りに思うだろう。
「知」の時代が終わりを告げるその前に、何か一仕事あるのかもしれない。