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時代の変化ってなんなんだろうか

話題のフジテレビ

フジテレビに関するニュースが連日取り沙汰され、昨日は10時間も会見をしていたようだが、かなり時代錯誤なんじゃないかという印象を受けました。直近で企業の不祥事での記者会見と聞いて思い出すのはまずジャニーズ。昨年のことだがこれが4時間。それから一昨年の大規模通信障害でau。これが2時間。あとは2021年のLINEの個人情報流出。これも2時間。三菱UFJの貸金庫の問題も2時間。吉本興業の闇営業の会見も5時間半。どう考えても異常に長い。変な記者もいたので必要以上に伸びた可能性もあるが、逆の言い方をすれば、上手く説明すべき事項が絞れておらず場当たり的に対応して冗長になったとも言える。いずれにしても10時間も会見というのはさらっとネットで調べた限りウクライナのゼレンスキー大統領就任後の12時間の会見くらいしか見つからない。ただ長くやれば良いというものでは無いでしょうし、10時間もそんなに話す内容があるのか?と感じた。

前時代的だなと感じたこと

いつものことながら話が脱線したので「時代」に戻すが、私が前時代的だなと今回感じたのは2点。1つ目はこのご時世に公然的なセクハラがフジテレビ内に存在したことを否定できないこと。これに関しては正直空いた口が塞がらない。(昔、部下の奥さん達を自分の家の隣に全員住まわせていた人がいたが、あれは確か400年程前か。)2つ目は会見の冗長さ。2つ目に関しては、「やることに意義がある」とか「とりあえずやりましたというアピール」に見えてしまい、ダラダラと決まらない長い会議をやっている日系企業や官庁に見える。

前時代的とは?

では「前時代的」とはどういうことだろうかと考えてみる。直感的な表現を使えば「時代に合わない」とか、「え、まだそんなことやってんの?」というような表現になる。もっと簡単な例を挙げると、もし、今日このお昼に、あなたが川に散歩に行って、その川で板ごしに洗濯物をしている人がもし近くにいればその人はよほどみすぼらしい格好をしていない限りかなり奇異な目で周りの人から見られるだろうし、あなたも私もその人に対していくばくかの疑問は感じるだろう。少々、極端かもしれないがこれが「前時代的」だなという感覚。(しかし、何かの機会でアマゾンの奥地に行って、原住民が同じことをしているのを目撃しても何ら疑問には感じないだろうし、前時代的とも感じないとだろう。)

自分の経験で考えてみる

例えば私がまだ大学生だった時の話。当時、私が所属していた部活にはまだまだしっかり「アルハラ」があった。新歓や部活の飲み会で先輩からのコールを断るなんて言語道断。低学年はしっかり先輩に飲まされて潰れつつ飲み会を盛り上げるのが仕事。先輩は潰れた後輩の介抱をして家まで届けるのが仕事。そういう独特の雰囲気があった。しかし、不思議なことに当の私は散々、「アルハラ」を受けていたが、学年が上がっても後輩に飲むことを強要することはしなかったし、むしろ自身が幹部を努めていた時には声を大にして「飲み会でコールで多少、声を挙げても良いけど、飲酒という行為自体を強要はしないしさせない。飲むか飲まないかは本人が決めれば良い。それと未成年は絶対にアルコール禁止。」を公約に出したところ、至極健全な飲み会になり潰れる人も減って余計な仕事も減って、更に思わぬことだが部員が一気に増えたのを思い出す。(もちろん、アルコール好きの一部の部員から「つまらない。」との苦言も出た。)このコンテクストの中では「アルハラ」「コール」は前時代的となる。(余談だが、とある後輩で医師になっても尚、プライベートな飲み会でコールを試みた猛者がいたが、周囲にドン引きされてそこで時代の変化を悟り、「寂しくなった」と酔っ払った状態で夜中に私に電話してきたが後輩がいたが彼も恐らく「前時代的」と周囲に思われたのかもしれない。)

結局、時代って「なんとなくこう、これが普通」的な空気なんじゃないかという仮説

「前時代的」について考えてみたが結局、これって何か明確な基準や論拠があるわけではなくてある種の「空気感」なんじゃないかと思う。「前時代的だなぁ」という判断は誰かが「前時代的だ!」とジャッジするのではなく、関係者かそうでないかに関係無く人々が感じる「空気感」なのではないかと思う。しかし、じゃぁ空気って一体、なんなんだろうかという話になってしまい収拾がつかない。更にはものによっては、この空気もひょこひょこ変わる。米国では前政権でLGBTQ擁護の大統領令が出たが、政権が変わり第二次トランプ政権ではLGBTQ擁護の政策を撤回するとしている。一昔前には地球の周りを天体が回っていると信じられていた時代があったし、もっと昔には地球は円盤のような形をしていて、端っこまで行くと落ちて死ぬということが本当に信じられていた時代があった。現代のような麻酔薬や麻酔器が無いのにも関わらず手術をしていた時代もあった。時代の変化で興味深いのは、変わる時はとてもドラスティックに変わるという点。時代が変わる直前には周囲から奇異な目で見られていた人の主張が次の時代では常識になっていることもある。時代の変化で先程の地動説と天動説の話で言えばコペルニクスやガリレオはまさにそのような人だろう。日本人で言えば吉田松陰や坂本龍馬がパッと思いつくが。彼らは開国と倒幕に向けて尽力した人物であるが、恐らく当時では相当な奇人変人と周りからは見られていたであろう。しかし、現代となってはその功績は非常に大きいと考えられているし英雄的な人物像がどことなくある。

時代を空気感と捉えてみると

歴史家の先生達から、批判を浴びそうな気もしますが、確かに時代を空気感と捉えてみると、かなり強引ではありますが、時代の変化は空気感の変化と言えます。空気が変わるということはそれまで空気を読めていた人が空気読めない人になり、空気読めてなかった人が空気読める人になることも先程の書き方から拝借すれば成立することになる。ジャニーズやフジテレビのような超巨大な利権を持ったまさに既得権益の権化とも言える組織が昨今、これほど、露骨に批判を浴びたりするのも時代が変わりつつあり、ジャニーズやフジテレビが空気読めてない、時代に合っていない組織と言えるからなのだろう。

権力を持つ巨大な組織にいる時に気をつけるべきこと、時代が変わる時に気をつけること

話を自分に照らし合わせてみて振り返ってみる。2つ感じたことがある。以前に書いたような他大学の不祥事しかり、昨今の巨大な権力組織の糾弾を見ていても思うのだが、まず、私も同じような立場になりうる可能性はあるということをしっかりと心にとどめておきたい。当たり前の話だが、私はセクハラやパワハラを誰かにしているわけではないし、おかしな診療をしているわけでも無い。しかし、もし私の所属している組織や関係のある集団がこのようなニュースになっているような巨大な不都合を内包していたら、組織が糾弾されそれに巻き込まれる可能性は私も全くもってゼロでは無いということ。それがたとえ私が生活している分には全く知り得ないような場所で行われていたとしてもである。更に言えば、時代が変わる時に、自分が古い時代の側にもし立っていたら、場合によっては私自身も淘汰される可能性があるのである。こうやって考えてみると私のような属人的な医局員は医局に所属しているからそれで安心なんてことは全く無く、組織に所属していてもそこには何の保障も約束も無いと思い直すことができるし、組織に所属することも当然リスクが織り込まれているのである。そしてもう一つは自分の実力がその組織を出たとしてどの程度なのかをきちんと把握すること。大きな組織が崩壊したり信用を落とす時、当然、その組織に残る人もいれば去っていく人もいるだろう。旧来の派閥が一掃されれば新体制で自分がどんな扱いをされるのかは蓋を開けてみないとわからない。そのような時に、外に出ても通用する実力がちゃんとあれば別に辞めようが、残ろうがきんと仕事で結果を残せば良いだけなのでそんな大人の事情がどう転がろうが私には関係無いという気持ちで眼の前の患者さんに真摯にエネルギーを注ぎ込めるし、自信を持って診療ができる。

時代が変わっても変わらない部分に着目してみる

時代という漠然としたテーマで直近のニュースと自分自身を振り返ってみたが、時代の変化だけはものすごく急激に起こる時は起こるのでここは抗いようが無い。川の流れや時間軸には逆らえないのでそれを変えることはできない。しかし、例えばだが、簡単のために天動説と地動説に話を戻してみると、地球が中心なのか、太陽が中心なのかという違いはあるが登場する惑星に変化は無い。地球が丸いのか円盤状なのかの形態学的な説の違いがあっても、地球が現在、存在していることは変わらない。幕末の例で上げれば、政治の中心が将軍家なのか天皇家なのかという違いはありますが、国の舵取りをする主体者が必要なことは変わりようがありません。同じように私の医業という仕事を取り巻く環境がどれだけ変わろうが、患者さんがある症状で困っていて、私の知識や技術を提供して、症状の改善をするお手伝いをするという医療の根源的な成り立ちが変わることは無いでしょうし、人が病気や怪我をしなくなる日もそうそうすぐには来ないでしょう。そうやって考えてみると、私の仕事というのは多少の形が変わることはあっても、患者さんの訴えや症状をその人に合った方法で良くするという部分は変わらないでしょうし、患者さんが良くなった時の私達の喜びというものも大きくは変わらないのではないかと思いました。

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