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ニュースピークと虐殺の文法

こんにちは。
薄墨というものです。

虐殺の文法って一体どんなのだろう?
SF小説『虐殺器官』を読んでいて
ーいいえ、その単語で興味を持って本を手に取ったわけですから、読む前からー
それが、私のその時の読書の課題でした。

虐殺の文法は、『虐殺器官』の現代社会で、が創り出した文法です。
この文法に従って言葉を説けば、聞いたり読んだりした人々は、たちまち虐殺や暴力を躊躇しなくなり、虐殺の文法が一度広がれば、その地一帯は、あっという間に戦闘地域へと成り下がる…という、恐ろしい言葉です。

気になります。
人の心を掴み、善悪を覆す。ここまでの力を持つ文法とはいったいどんなものなのか?
人の皮を引っぺがして、人間をただの暴力的な獣に変えてしまう言葉の紡ぎ方とは、いったいどんなものなのか…?

ところが、いつまで経っても、いくら読み進めても、虐殺の文法の詳細は分かりません。
無理もありません。だってこれはSF小説の世界の画期的な発明。
SF小説のトンデモ超科学は、メタ的に言えば、作家さんの書きたいメッセージを効果的に伝えるための想像の産物です。誇張品です。
少なくとも、現代に実在するとされるものではありません。具体的ではないのは当たり前です。

それでも、文章好きとしては気になりすぎるところ。
ちょろちょろっと調べてみると「特定の団体や人を悪と弾糾するような言葉」や「他人を貶め、人間扱いしない言葉」や「ヘイトスピーチ」などが虐殺の文法のモデルではないか、とする説も見かけました。

うーん、しかしそれは、どちらかというと思想と感情を煽って生まれる差別という根本的なものの、表現という“単語”であって、虐殺の“文法”というにはあまりに感情的すぎる!

何より、小説内の虐殺の文法は、機械的に、楽譜を読むように使っても効力を発揮するわけで、悪口や皮肉や軽蔑称などのような、感情を伴わなくては敵意に結びつかないような言葉ではないのでは…と。
個人的にはそう思えて、ずっとモヤモヤしていました

しかし、ある日唐突に、自分が納得出来る説を見つけたのです。

意外なことに、別のSF小説で、私は具体的な「虐殺の文法」だ!と言える言語を見つけたのです。

それは『一九八四年』に出てくるニュースピークという言語。 

『一九八四年』世界の、戦争とナショナリズムに征服された世界で、国を保つために国の支配者ビッグブラザーたちが、国民たちに余計なことを考えさせないために編成している言葉のことです。

コンセプトは、極端に単純に。シンプルに。無駄なく。

その徹底ぶりは、単語数を極限まで絞るため、「良い」ことを「良い」と、「悪い」ことを「非良い」と、表現すると決めて、「悪い」という単語を消してしまうほど。(小説の中では編成者がその展望を嬉々として語ります)

その単純な言葉の仕組みを知って、私はある新書に紹介されていた話を思い出しました。
非行を犯して少年院に入った子どもたちの、背景に潜む、や認知機能の歪みについて論じた本のこんなエピソードです。

少年院にいる子どもで、反省が難しかったり、トラブルを起こしがちな子どもの中には、「イライラする」を多用する子どもがいる。
ところが、その「イライラする」をよくよく聞いてみると、それは「お腹が空いた」とか、「暑い」とかだったりする、という話です。

「お腹が空いた」も「暑い」も「イライラする」も全部「不快」ということですが、その程度は違います。
前者2つは具体的で、対応可能な不快です。
一方後者は、抽象的で対処しようのない不快です。
本質的に訴えたい意味はどれも同じ。
でもコミュニケーションの受け手としては、「不快」という言葉の本質的な意味より、「不快」の程度や具体性が大切です。その後の対応に繋がるわけですから。

自分で感情をコントロールする時も、重要なのは「快か不快か」という本質的な話ではなく、「その不快がどの程度のもので、何が原因か」というのが大切だと思うのです。
「イライラする」は抽象的な表現ですから、自分の状況を正しく認識できずで、不快感だけが溜まります。逃げ場がないです。
そんな状況が日常で、不快感が溜まりに溜まってしまえば、どんな人だって他人にぶつけたり、当たり散らしたりということをしてしまうでしょう。
少なくとも私は、そんな状況で理性的に振る舞える自信がありません。

ところが、その「イライラ」を「お腹空いた」「暑い」と具体的に認識して表現できれば、自分でも対処が可能です。
その不快を軽減するために動くことができる。
それだけで溜まる不快感はずっと軽くなる気がします。

しかし、思考をするときの語彙が少なく、二元的な単語ばかりだったらどうでしょう?
それこそ、認知の歪みや学習の困難さに気づかれずに、語彙や体験を身につけられずに放置されていた子どもの置かれた世界のように。
あるいは、『一九八四年』の世界のように。

「良い」以外のことは全部「非良い」で。
もやっとした、不快感と満たされなさが、怒りとなって鬱屈と溜まっていく。
それを言葉にして逃すことも理解することも難しい。怒りのぶつけ先を探す毎日…。

ずっと日常的に戦闘体勢。争いごとの絶えない、油断はできない世界でしょう。
他人に当たらずに生きていくのは不可能に違いありません。
まるで虐殺の文法をばら撒かれた地域みたいに。

そんなこんなを考えて、
ニュースピーク=虐殺の文法

この等式が、今の所、私の頭の中でどんな説よりも、一番しっくり来ています。

以上、最近考えたことを書き散らしたものでした。

今回の読書記録

最後に、今回の話に出てきた本の書誌情報をサクッと記録しておきます。
気になった方はぜひ読んでみてくださいね!

『虐殺器官』伊藤計劃/早川書房

『一九八四年』ジョージ・オーウェル/早川書房

『ケーキの切れない非行少年たち』宮口幸治/新潮社

蛇足

SFの定義ってどこからなんでしょう?
今回出てきた本のうち2冊はどうやらSF小説だそうですが…
SFは、Science fictionの略。
日本語だと「空想科学小説」らしいです。
しかし、『虐殺器官』も『一九八四年』も科学って感じはあんまり…どっちかというと社会科だと思います。

Wikipediaで見てみると、「SFの分類」なんて項目まであります。
なんとその数21項目。
分類も、ハードSFなんて、科学色の強いものから、ロストフューチャーSFなんていう、ファンタジー色の強いものまでさまざまです。

Wikipediaの分類によれば、『一九八四年』はディストピアSFでしょう。『虐殺器官』は…うーん、近未来SF?
『虐殺器官』には、物のヒストリーや、買い物履歴や興味関心が個人の電子チップに記録されている、今の社会に通ずる描写もありますが、2007年発表の小説ですから、現代が近未来でしょう。

サイエンスっぽくないという話だったのに、どちらもぴったりハマるSFの種類がありましたね。
SF、だいぶ複雑で多様化した分野みたいです。
竹取物語もSFに分類できるらしいですよ。

ここまで複雑化した幅広いものがSFなら、軽々に「SF小説が好きです!」なんて言い難いなあ、なんて思います。
だって相手が思い浮かべているSFと、私が思い浮かべているSFが、同じSFの中の別分類のものだったら…組み合わせによっては、盛大な食い違いが発生しそうです。

SF好きな人と話す時は、まずどのSFを指すのか、念のために示し合わせた方がいいですね。
それか好きな小説の題名を挙げるか。

とりあえず、SF好きの人と本談義が出来るように、ちゃんとSF全分類制覇して、自分の好きなSFをきちんと言えるようにしよう。
Wikipediaの「SFの分類」を読みながら、そう思ったのでした。

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