子どもの童話の大人な楽しみ
こんにちは。
薄墨というものです
みなさん、白雪ひめ読んだことありますか?
世界で一番絵本化されているというこのグリム童話。きっとみなさんご存知でしょう。
では、白雪ひめの名前の由来はご存知でしょうか?
有名な毒リンゴは、実はお妃にとっては三回目の挑戦だったことは、みなさん知っていますか?
子ども向けの絵本化やアニメ化にあたり、童話の細事が省略されたり、変更されたりということはよくあります。
そして、変更された状態で語り継がれていき…世間のイメージと実際の忠実な和訳の童話を聞いた時のイメージが全く違う童話って結構多いんです
昔からのお話も、時代の流れによって変わっているのです
白雪ひめもそんな童話。
よくある絵本の白雪ひめはダイジェスト版で、元々はその2倍くらいの長さのお話だったりします。
お妃が、白雪ひめの肺と肝臓を取ってこいなんて命令を下したり、毒の櫛で殺したりするくだりは、よく改変されてたり省略されてたりするイメージ。
残酷です。
残酷ですが、童話ではそれはサラッと流されるので、子どもはトラウマにならずに楽しみます。
流石に映像化や画像化するともう見せられない感じになりそうですが…
元より子ども向けのお話だから童話なわけで。
読んでみると、ちゃんと過剰なトラウマ表現にならず、でも面白さや不気味さも損なわず、計算尽くされた語り口になっています。
現に、小学生くらいで初めて読んだグリム童話は、私の中ではトラウマになっておらず、楽しい記憶として残っています。
偉大な童話の力に、感心するばかりです。
さて、そんなグリム童話の白雪ひめ。原初の白雪ひめが気になって、読んでいたのですが、大人になって読むと気になる言い回しが一つ出て来ました。
それは、白雪ひめが毒リンゴを食べてしまって、ガラスの棺に入れられた時のある一節。
七人の小人が、白雪ひめをガラスの棺に寝かせて弔っている間に、山の動物たちがその死を悼んでやってくる時に出てくるこんな一文です。
「…すると、ありとあらゆる動物たちがやってきて、白雪ひめのことを悲しんで泣きました。さいしょにきたのはふくろうで、次がからす、さいごは、はとでした。」
(『子どもに語るグリムの昔話2』p.105〜106より引用)
なんだこの具体性は、と。
なぜこの鳥たちはわざわざ順番まで語られているのだろう、と。
なんなんだこのこだわり…
ありとあらゆる動物、と言っておきながら、具体的に挙げられているのは悉く鳥類ばかりだし…
と、モヤっとしていました。
…ところが、ある時、人が語る白雪ひめを聞いた時、急にピンと閃きました。
…もしかして、マザーグースじゃない?と。
ふくろう、からす、はと。
この鳥たち、みんなあの有名なマザーグースの詩に出てなかったか?と。
『マザーグース』とは英語圏に昔から言い伝わる、子ども向けの童話または童謡風の詩のことです。
小さい子どもの時に、親にあやされながら読みきかせてもらう、英語圏では、定番当たり前の文化でみんなの幼き日の思い出。
故に、外国の文学には、マザーグースの詩をもとにした言い回しやマザーグースをモチーフにしたキャラクターがたくさんいます。
『不思議な国のアリス』の「ハンプティ・ダンプティ」とか。
(卵が答えになるなぞなぞの詩)
ゲーム『Undertale』の「マフェット」とか。
(お茶会中の少女、マフェットちゃんが蜘蛛に遭遇する詩)
きらきら星の歌詞も、マザーグースの詩が元ネタです
白雪ひめの話に戻ります。
ここで着目したいマザーグースはズバリ、『誰が駒鳥を殺したか?』(原題『Who Killed Cock Roin?』)
駒鳥の死を動物たちが悼んで、分担して弔う様子を描いた詩です。
三羽とも、あの詩に出て来ます。
ふくろうは駒鳥の墓守として。
からすは駒鳥のお葬式の司祭として。
はとは駒鳥のお葬式の喪主として。
詩で言及される順番は、フクロウ→カラス→ハトの順です。
この言い回しは、もしかしてこの詩をもとにした言い回しではないのかな?と。
ただ、気になる点としては、マザーグースは英語圏のものなのに対し、グリム童話はドイツの言い伝えをまとめたもの。
言語が違うはずなのに…?
と思って調べてみたら、英語とドイツ語は、どちらもインド・ヨーロッパ語族のゲルマン語派に含まれる言語であることが分かりました。
語族、語派というのは、言語の文法や発音の相違から、ご先祖さまと考えられる言葉を系統別に分類した、言語の分類のことで。
日本語は、古代中国語や漢字から分岐して今の日本語になったと習うと思いますが、
ヨーロッパの言語もそんな感じで、ある言葉が、それぞれの地方で言葉が分岐進化して、今の言葉になったとされています
英語とドイツ語の先祖は同じで、ゲルマン語だったんですね。
そして、マザーグースもグリム童話も、遥か昔から語り継がれてきた歴史深いもの。
纏められたり、編纂されたりした時代は明確ですが、元のお話、詩がどれくらい昔からあったのかは、不透明のはず。
英語とドイツ語が分岐する前の、ゲルマン語の時代からあった可能性は十分あります。
昔のゲルマン語文化では、森で死を悼む鳥といえばフクロウ、カラス、ハトだったのかもなあ…と、遠いの国の遥か昔の言葉と文化に思いを馳せました。
大人になって調査や勉強が楽しくなってから分かるテキストの違い。
そこから見えるのは、子供の時とはまた違った視点からのお話の世界でした。
子ども騙しが分かった時に一番しらけるのは、子どもだと思います。
そんな子どもに長く愛される話というのは、それくらいの歴史と魅力と奥深さを持っているということ。
子供の話を大人の目線で楽しむのも、良いものだなあ…と、しみじみ思いました。
今回の読書記録
最後に、今回出てきた本の書誌情報をサクッと書いておきます。
気になる方はぜひ!
『子どもに語る グリム童話2』佐々木梨代子、野村滋訳/こぐま社
『よりぬきマザーグース』谷川俊太郎/岩波書店
蛇足
ハトって平和の象徴、なんて言われますけど、街中のハトの行動を見ると、平和の象徴というよりは、平和ボケって感じがします。
今回出てきた3羽の中で、飛び抜けて呑気な気がします。
フクロウは、野生であれば、人になかなか姿を見せない気高い猛禽類ですし、街中のカラスは、常に周りを警戒していて、何かあれば人間にすら立ち向かってくる、油断ならない存在です。
でもハトは…
人間のおこぼれを日常的にもらっているのか、人間には警戒心もなく近づいてきますし、
奴ら、大切なはずの巣すら、駅の構内やらベランダやら…人通りの多いところへ作ります。
人に追われて逃げる時もギリギリまで、てこてこ歩いています。
何かの本で、飛ぶのを横着して車道の端で轢かれたハトを見たことがある、という話が出てきて、嘘だろ、と悼む前に呆れが出てしまいました。
ハトが平和な時代しか生き抜けないから平和の象徴であるとする説は、俗説だそうですが、この調子だと、あながち嘘とも言えなそうだな、なんて思います。
そんなハトがいつまでも生きながらえて、ハトの姿を見ながら、のんびり童話を語れるような、
そんな世界であるといいな、なんて思います