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なにかに没頭するなら孤独が最適解
私は”孤独”である状態を悪いこととは思っていない。他者の考えに支配されることこそが辛苦の原因だと思っている。人間の悩みの八割は人間関係と言われるように、他人は自分になり得ないし自分は他人になることはできない。
孤独になれば思考が腐らない。少なくとも、低い所に行くことはないと思う。ただ現代は孤独の状態を作るのが難しい。退屈を紛らわすためにいつでもどこでも満たされることができるからだ。大半の人間はきっとこれで楽しい日々を送ることができる。皮肉でもなんでもなく、現代はパラダイスだ。
けどパラダイス状態で奪われる楽しみだってあるのだ。例えばスポーツの試合の結果とかは自分で試合を見て結果を知りたい人がいるし、映画やゲームの内容を知りたくない人だっている。ちなみにツイッターで”情報遮断”と検索をかけると、「スポーツ」「映画」「ゲーム」「アニメ」などの娯楽に関しては、”情報遮断”について発信している人が多い。いわゆる”ネタバレ”への対策は、どの人間も嫌がる傾向がある。私もネタバレどころか前情報もできれば断ちたいと考えている。
もちろん中には予め知っておいたほうがいいことだってある。天気のネタバレされた、といって天気予報に怒り散らす人は稀だろう。海外旅行に行くときだって、その地域の情報を入手することは安全面では有益だ。試験本番で無勉強で向かう人はほんまもんの天才しかいないと思う。
このように娯楽以外の部分では情報収集したほうが得をするようだ。また何かを作る時は、作り方を調べることが多い。中にはなんとなくで作れてしまう人もいるが、専用の道具などは使い方を調べているはずだ。
こうしてみると受け身な活動は”情報遮断”のほうが”面白く”、能動的な活動は”情報収集”してからのほうが”安心”をおぼえるようだ。面白いと安心を逆にしても成り立つ。
ただ受け身な活動を最大限楽しむには”情報遮断”という行為は能動的なもので、能動的な活動も”情報収集”という行為そのものは受け身な行為となる。
情報の価値は活動によって変動する。変動の基準は主体的な状態で決まる。そして活動で得られる感動は情報の是非で決まる。別に難しいことではない。受け身の娯楽はなるべく情報を断ち、能動的な娯楽は情報を得たほうが面白いということ。
私は能動的な活動をしてこなかった。アウトプット貧乏という自覚がある。家では集中できないし、それ以外の場所でしか執筆ができない。最近はいいカフェを見つけてそこで書けている。だが家に帰ったら、退屈凌ぎに情報の海へと飲み込まれてしまうかもしれない。
午前を執筆に費やすのは当然として、午後はどうしようか。程よく脳がシェイプアップされて、情報の海へと入ることのできないことがあればいいのだが。
極論、ネットサーフィンを一切せず、リアルでの活動に打ち込めればいい。これをボディメイクにおける減量期間みたいな感じで、とある日を迎えたい。すべてはそのための施策なのだから。