東方神起に出会って広がった人生
私が東方神起の5人に出会ったのは、2009年。
当時ONE PIECEの圧倒的主題歌、「ウィーアー!」をカバーしたものがアニメのオープニングで流れたときだった。
それまで東方神起の曲どころか、存在すらよく知らなかった私は聞きなれた曲と耳なじみの良いハーモニーに一気に心を奪われた。
そこから続いて東方神起はShare The WorldでONE PIECEの主題歌を担当する。ちょうど局面的にもエースが捕まって全面戦争に突入する、ストーリー的にも大事なシーンで、わざわざ録画してオープニングからまばたきせず見たのを覚えている。
そこからは東方神起にずぶずぶとハマっていった。
それまでは外国の曲は、洋楽こそ聞いた事はあったものの(中学の時とかアブリル・ラヴィーンのGirlfriend流行っていた)それ以外の国の曲は聞いたことがほとんどなく、私にとってK-POPはカレー屋さんでかかっているインドの曲とほぼ同じ、「知らない国の歌」という位置づけだった。
だけどそこから東方神起にハマった事で、youtubeで彼らの動画を漁り、当然彼らの母国、韓国にも辿り着いた。
東方神起の5人は皆、日本語もすごく上手だけれど母国語で楽しそうにしゃべっている彼らを見て、「韓国語を理解したい」と思うようになった。
まだまだ今ほどK-POPが一つのジャンルとしては確立しておらず、韓国のアイドルが日本で曲を出すときは必ずJapannese ver.を出す時代。
周りの友達にも「え~~韓国ぅ?」と言われながらもめげることはなかった。
そんな中、彼らのLIVE、4th LIVE TOUR 2009 ~The Secret Code~で東京ドーム公演が行われる事が発表された。
知り合いにチケットを持っている人がいて、行ける可能性があったのだが年10日程しか休みのもらえないブラック部活に所属していたのと、まだ高校生で親の許可を得ないといけない年齢だった事もあり、「次の機会に行けば」という親を説得しきれず、泣く泣く諦めた。
だけどそのあと、「次」は来なかった。
そのすぐあとに報道された3人のSMへの訴訟問題。
人気絶頂の中での報道には「解散か?」と書かれ、当時Twitterで必死に情報を調べても「3人がお金のために東方神起を捨てた」とか「本当は5人で出ようとしてたのに2人が裏切った」と溢れる不確かな情報の中で、
「3人派」「2人派」「5人を変わらず望む人たち」と3つの派閥にファンも分裂していった。
彼らの母国にまで興味を持つほど好きになった人達だったのに、こんなことになってしまったのがすごくすごく悲しかった。
いけなかったLIVEは今も死ぬほど後悔してるのでそれ以降私の座右の銘は
「推しは推せるときに推せ。LIVEは行ける時に行け」になっている。
どちらが悪いとかは分からなかったし、そんな単純な話ではないと思うけど、物理的に距離が空いていく2人と3人、どんどん痩せていくチャンミン、あんなに仲がよかったのに、気まずそうにスケジュールを消化する5人を見るのは胸が痛かった。
それ以降、少し時間が空いた後、3人はJYJとして、2人は東方神起として再活動を始めた。
5人の最後のLIVEに行けなかった悲しみを埋めるべく、3人の東京ドームやひたちなかでのLIVEも行ったし(ひたちなかは交通の便が悪すぎて痛い目を見た記憶w)2人のLIVEには単独やa-nation、SMTOWNなどバイト代を貯めては何度も何度も足を運び、そして何度行っても前回の感動を超えたLIVEを見せてもらっていた。
活動の形式は変わってしまったし、JYJはその後思うように国内でも活動できなくなってしまったけど、5人から教えてもらった魅力は私の中で衰えず、
それまで趣味で勉強していた韓国語をきちんと学びたい、喋れるようになりたいと思うようになっていた。
当時社会人をしていた私は、週に1度の休みの時に知り合いの韓国人のオンニ(お姉さん)に韓国語を教えてもらっていた。
レベル把握のためにハングル検定、そしてTOPIKと受け、並行して留学のための資金集めをしていた。
当時働いていた会社はボーナスも無く、薄給だったので転職も考えたけど何だかんだ正社員の仕事とアルバイトを掛け持ちする方向で落ち着いた。
9時間ほど会社で働いてその後アルバイトに行くなんて、今では考えられないし出来ないけど、当時は韓国留学という目標があったから頑張れた。
そうして約2年弱、資金を貯め、自分の力で初めて住んだ外国、「韓国」での生活は私にとって宝物の1年になった。
日本ではまずそもそも韓国語を話せる機会が無いし、新大久保などで韓国人と出会ったとしても「話してもらっている」状態。
実際に韓国に行って、韓国語でしか通じない環境で友達とコミニュケーションをとったり、電話をしたり、時にはトラブルにも対処して、緊張する事もあったけど乗り越えられた時は本当にうれしかった。
目に入る広告全てが韓国語で、聞こえてくる言葉も韓国語、自分が話す言語も韓国語と韓国語に染まっている日々を過ごして、夜中の12時近くまで家の近所のカフェで試験の勉強をしながら、韓国語に嫌気がさした時、癒しを求める音楽がK-POPだったときにはちょっと笑ってしまった。
自分は本当に韓国語が好きなんだなと思った。
ほんの数年前まではただの外国語のうちの1つでしかなかったのに。
1年いた留学生活のうち、後半の半年はだいぶ生活にも慣れ、仲の良い友達もたくさんできた。
性別も国籍も違うけれど、韓国語という共通のコミュニケーションツールを使ってお互いの国の事や今日の授業がどうだったとか、そんな何でもない事を話すのが本当に楽しかった。
もしも彼らに偶然会うことが出来たら「あなた達のおかげで、韓国に興味を持ち、こうして留学に来て人生が広がりました。本当にありがとう」と伝えたかった。もちろんそんな奇跡は訪れなかったけど(笑)
それから時が経ち、最近ジェジュンとジュンスのメディア露出が増えてきた中で、当時の騒動の事を語ってくれる機会も増えた。
2人からはあの時の激動のスケジュールと時々後悔のような感情が感じられた。
ジェジュンが「東方神起として活動していたのは5年くらい」と言っていて本当に驚いた。
年数としてはそうなのかもしれないけど、5年以上の活動を身を削って見せていてくれたんだなと思うと胸が熱くなった。
そして彼らの言葉を韓国語でそのまま理解することができて報われたと思った。最近は翻訳も優秀だと思うけど、そうじゃなくて自分で理解したかったから、このためだけにでも頑張った価値はあると思った。
そして最近、ジェジュンとジュンスが「JX」としてコンサートを行った。
セトリとあがってくる動画をみて驚いた。
あの頃の東方神起の歌を楽しそうに、懐かしそうに歌う2人がいた。
Don’t Say Good byeを自分達で歌わず、ファンたちに歌わせた理由が
「5人で最後に歌った曲だから自分達で歌ったら泣いてしまう」というのを聞いて私も涙がでた。
あの頃の5人にはいろんな感情があったかもしれない、
もしかしたら3人のあの行動は最善ではなくもっと別の方法があったかもしれない、
得た物より失ったものの方が大きかったかもしれない。
でも2人にとって東方神起が、20周年を記念してLIVEをしてくれるくらい大事な存在で忘れたい過去ではなくて本当に良かったと思ったし、韓国の曲も日本の曲も同じくらい大事にしてくれて、それを2人がのびのびと歌える時代が来たことが信じられなかった。
そして同時に今なお、東方神起の曲が忘れられないでいるのは、ひどいバッシングを乗り越えて名前を残してくれたユノとチャンミンのおかげだとも思う。
JXのLIVE、なんと来月には日本でやってくれて本当に本当に行きたいけど、今は妊娠中で何かあったら怖いので泣く泣く諦めました…
本当に泣く泣く…
行きたかったけど行けない思いを消化できず、東方神起への愛をnoteに綴ってみました。(笑)
最近はもうあの頃と同じように推してはいないけど、当時LIVEばっかり行ってた頃楽しかったなあと思うし、東方神起のようにハマれるアーティストにはまだ出会ってません…
いつか、一夜限りでもいいから5人揃って歌っている姿を見てみたいなあ…