詩とそれにまつわる話(かっっっっっくいい大人)
なくていいもの
あってほしいもの
日常的に行う取捨選択
これは欲しい
これは要らない
その裏で
選ばれないものが泣いていたら
どうしよう
輝く星たちの中に
一つだけ燃えるように赤いものがあれば
燃え続ければいいのじゃないか
それと同じで
選ばれなくても
燃え続けることに意味があるのじゃないか
そんな大人
かっこよくて
見惚れる
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自分が行ったこと、自分が掲げてきたものが、もしかしたら無意味と認識されるかもしれない。
そう思うと、怖くて動けなくなる時がある。
自分がやりたいことをやればいいのに、その後のことを考えると怖い。
私が大学でのフィールドワークのために通っていた島、口永良部島は「島民が島の生活を作っている」という認識が強くあります。それは、その人たちが「俺らが島を良くしているんだ!」と言う自負があるのではなく、「島の中のことは誰かがやらなければならなくて、それができる人が回している。それが結果的に、全員の生活へと行き渡り還元されている。」と言う感じです。
でも、島の人たちには、他の人に「これは負けない」と言う自負があったり、自分の中に、「人間こうあった方が良い」「自分はこうするべきだ」という決まりが完成していると、お話をしていて思います。
個々人の生き方と、島の生活と、島での態度と、それら全てが責任感に繋がっていて、
それが私にとって、"かっこいい大人"の姿として目に焼き付く。
「人は"歯車"のようだ」というお話を、島の方に話していただきました。時計をパカッと開けると、幾つもの歯車が重なり合って動いていますよね。人もそれと同様に、一つの歯車となって、他の人と組み合わさり、一人が回れば同じように他の人も回すようになる。その他の人が回るとまた別の人も回って、全てが繋がっている。
社会(島)が一つの時計だとする。どこかで錆び付いていれば、全体的に回り方が良くなくなり、動きが悪くなっていく。どこが錆びているのか?どうしたら錆びは落ちるのか?自分が歯車だとして、錆びないように、自分自身に油を刺すことはできているだろうか?
大学のプロジェクト活動をしているときに、「一生の思い出や良い話は、そのままプロジェクトの意義にはならない。感想が意義になったら、もっと良い社会になっているはずだ。色んな人を巻き込んで活動をしているから、それがこれからも起こるように、別の場所・別の人が経験できるようにすることが、プロ意識を持って活動することだと思う。」と、OBの先輩がおっしゃっていました。
「今、この場所で私たちが行うべきことは何か。」
私たちは歯車のどの位置にいるのだろうか。どんな歯車を回しているのだろうか。そして、どんな時間を見せたいのだろうか。
芯を通した島の大人の姿は、歯車を見据えて、燃えているよう。
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