Dr.K
私の日常で生まれた個人的な備忘録
夏目漱石著「草枕」を、気のおもむくままゆっくり読む
記憶しておいた方がよいことはふたつ。ひとつは、とてもにがい経験で、もう二度としないと誓ったこと。もうひとつは、愛する人たちと過ごした、かけがえのない楽しい時間。 戦争。それは誰しも嫌なものには違いない。しかし、始まってしまうし、始まったからには雪崩のように全てくずれ去ってしまうまで終わらない。ただ投げ出されるように荒廃した土地、疲れきった人々の蒼白い顔。これらを、そのままの姿で鮮明によく覚えておくこと。 あなたが子どもの頃、きょうだいと過ごした時間。モンシロチョウを追い
仏陀はきのこを食べて死んだとされている。 いろんな死に方があるが、キリストはものすごく凄惨で痛ましいイメージの中、人類のために受難して、という印象があるが、仏陀は静かに、きのこで死んでいるらしい。 きのこというのは、よくわからないものだ。どんな専門家でも、突き詰めていくとよくわからないらしい。専門家であればあるほど、わからないと言う。それはなぜ生まれてきたか、とか、なぜ死ぬかとか、そういう本質的だけどわからない問題と似ている。 だから、きのこを食べる行為というのは、文
本の表紙というのは大切です。建物でいえばファサード、人でいえば顔といったところでしょうか。装丁というのは実に奥深い世界で、それだけで一冊の本ができてしまいますが、その本の装丁はどうしましょう。 さて、本という存在。これはとてもシンプルですが、人間の発明品の中でも非常に優れたものだと思います。小学生くらいまでは、所詮紙を束ねたもの、くらいの認識しかしていなかったのですが、実際はそれのみで独立する芸術品です。 文庫本でも良いものはもちろん良いですが、やはり単行本、それも総体
僕の愛読書のひとつ、「侏儒の言葉」より引用する。 この文章に初めて触れたときの驚き、というよりも、安堵が忘れられない。なぜ安堵したのかといえば、それまで自分の中でもやもやしてくすぐったかった所を一度に爽快にしてくれるような不思議な力を感じたからだ。芥川のアフォリズムはさすがに一級品で、有名な「人生は一箱のマッチに似ている」の言に至っては、僕には文字が輝いて見えた。以来、特に喫茶店などで煙草を吸う時はマッチによっている。 話が少し脱線したが、好悪あるいは快不快が行為を決
不幸について考える時に、まず思い出すのは渡辺一夫というフランス文学者が書いた文章のことだ。「狂気について」という評論選に収められている、「不幸について」及び「狂気について」。 人間はオギャーと生まれてから死ぬまで実際のところは孤独であり、また生きるということはその間に生じうる無限の不幸の可能性をはらむ(あるいは、はらみ続ける)ことにほかならない。そこで、不幸を分類してみると、絶対に避けられない不幸、無知なために避けられない不幸、容易に避けられる不幸が考えられる。病気、天災
街を歩いていると街路樹というものが植えられている。自動車の窓から見える街路樹の幹はささくれだって傷ついているし、車道の間の狭い隙間に窮屈そうに等間隔に植えられているし、酸素を提供する労苦の割に酷い仕打ちを受けたものだと思う。 原生林というものがあって、それは文字通り元々その場所に生えていた木々が残っている林なのだが、一つの空間として独特の力がある。さまざま種類の木が、互いを意識しつつ、しかし各々は一本立ちして、場所を作っている。例えばきのこ狩りなどで人間がそういう林に一歩
ある春の朝、街路樹は緑に燃えていた。都会の雑踏に建つその産婦人科医院は、昭和の思い出に浸り続けているような出で立ちであったが、日々新しい命と向き合ってきたせいか、決して古びた印象を与えなかった。 指折り数えて待つ、という確かな経験をそれまでしてきてこなかった僕は狼狽気味に一階の待合で看護婦の到着を待った。コロナの検査をしたのちに陰性とわかれば二階の分娩室に案内されるのである。数分の間であったが途方もなく長く感じられた。陰性、スリッパをしっかり履きなおして階段を登る。 妻
のんびりした山中の茶店の雰囲気を伝える。あたりの鳥の鳴き声が聞こえてきそうな風情である。 雨のなかたどり着いた茶店で火にあたりながら、いまや晴れ渡った山の景色は、文字通りの心象風景として清々しい。 婆さんとの緩やかな会話に不意に闖入する、戦争の文字。ドキッとする。 憐れの底に気楽な響きがこもる。さらりと書いてあるが、これが主題といえば主題であろう。 嬢様の身の上話を婆さんから聞くうちに、戦争や金のことで浮世の重みが身に降り注ぐ。志保田の嬢様についての導入は、この婆さん
どの世界にも権威というものはあるが、医者には特に権威主義的な人が多いようだ。譲らぬ岩のような存在は、それこそ岩の数ほど多い。 春の眠たさに身を委ねるものよいが、愉快な醒め方というものがある。一面の菜の花、一面の空気を刺すような雲雀の声。静けさのなかで時折屹立するような美。 自然を景色そのまま画として詩として楽しめ、という漱石先生。 しかし楽しむためには、第三者の地位に立たねばならないという。当事者になれば利害の渦に巻き込まれる。画の中には入っていけないから画として見るこ
春の野を行く画工のゆったりとした歩みそのもののように、俳句調の名文で始まる。 知性に訴えれば角が立って衝突する。感情に基点を置けばそのまま流されてしまう。意地(あるいは現代風に言えば意志)で貫こうと思っても、なかなか思う通りにはいかない。だから人の世は住みにくものだ。 人間の悟性の三角形の中に自分を置いたときに、どの角にも問題があって、居心地が悪い。ここで重要なのは、これら全てが「他者」を想定していることだ。 この、「向う三軒両隣りにちらちらするただの人」というところが良い
グレン・グールドは草枕を愛読していたらしい。彼のバッハと草枕の世界は、静かな美しさで通底している。ひとつの樹木を見ている時のような深い感慨がある。メランコリックであると同時に楽観的な、特殊な優しさがある。 高校時代から夏目漱石は好きだった。文体に人間が感じられた。ブレーズ・パスカルの言葉を思い出す。 漱石の作品のうち、殊に草枕は好きだった。医者として、現実の日本社会が抱える病根や矛盾に触れ、どうしても厭世的になる時、不意に思い出すのがこの小説だった。 しばらく、