菅沼定盈と菅沼定邦「松山越えの記」3
1819年3月9日、菅沼定邦は家来、池田寛親らを連れて松山越えをしました。池田寛親は歌を詠みながらお供をし随筆を書きました。
菅沼山に到着した時に詠んだ歌
高き名の菅沼山ハ菅の根の長き世までのほまれなりけり
この山は、武田が守っていた中山砦や久間山の近くだろうと書いてあります。
菅沼山から900mほど下ると鳶が巣山に至る。
眼下に長篠古城跡が見え昔のことが偲ばれる
後ろなる峰におろちの狙うとも知らでや鳶の巣を頼みケん
(鳶の巣をねらう蛇のように、菅沼の山から鳶が巣山を狙っているのを武田は知らなかったという意味だろうか)
一行は鳶が巣山を後に乗本の里に下りてきました。
ますらおが立てし炎は昔にて軒はに燃ゆる桜の紅
武士が立てた戦の炎は昔のこと、いまは里の家の軒に桜の花が赤く燃えて居る、と歌っています。
乗本を下り、菅沼のお殿様、定邦とお供の池田寛親たちが、大野川を渡り長篠村に行くと村長(庄屋)が出迎えており医王寺で酒、寿司を振る舞ってくれ、午後四時に岐路に着きました。
帰りがてら、長篠城に立ち寄ると今は畑となっていたが、堀がわずかに残っており草むらからカエルの鳴き声が聞こえてきたとあります。
また、生い茂る木々の梢からモズのさえずるのを聞くと、この古戦場の風情がなんとももの悲しく感じられる。畑の中を探してみると、石化した米が沢山出てきたようです。
これは1573年菅沼定昌がここを居城としていたころ武田に寝返ったので家康公が菅沼定盈、酒井忠次を中山砦に、他の者は篠原と岩代に陣を構えるように命じ、城に向けて火矢を放ち城攻めをした。この時に焼けた兵糧の米である。河内の国で起きた信貴山の戦い(松永の城)と同じだ。と感じ
亡くふともその名朽ちせぬためしにやかくさへ石に成りて残れる
という歌を残しています。
一行はまた岩代川(豊川)を渡り有海の篠原に着きました。
ここは、鳥居強右衛門が敵に捕らわれて磔になったところだという。
塚があり傍らに歌が彫られていて
我が君の命に変わる玉の緒を何おしむらんもののふのみち
天正3年5月16日鳥居強右衛門勝商36歳
とあり、まったく不憫に思って
尋ね来て誰も昔をしのば野の消えにし露にそでぬらしけり
と歌を読みました
この後、定邦等は再び豊川に出て、「釜」というところから船に乗り新城城に帰ったようです。
原文
それより有海村の釜といふ所より御船にめされケるに、このほどの雨にて水かさ勝りて、流れいと早く御身矢よりもとく下りて、まだ日の入り果てぬ程に今朝渡りし鳥原川岸に至るも不思議なり
暮れぬ間に今朝の川瀬にきにけらし日に長篠の昔訪ねて
※ 菅沼定邦(1787~1845)陸奥の国相祥胤の四男で菅沼家に養子に入った
別名:亀丸・新八郎・小大善・桃嶺 墓:四谷全勝寺・新城宗堅寺
二代に渡り菅沼家以外からの養子が続いたのを憂いて田峯菅沼家から婿養子を取り隠居60歳没
※ 池田寛親 定邦と共に陸奥の相馬家から新城へ 菅沼家の家臣になる
参考文献:池田主鈴寛親 斎藤彦徳氏
池田寛親が江戸時代に書いた随筆を現代文に替えた書物です。
実際に松山越えをしながら、菅沼定邦、菅沼定盈がだどった山道を再現しよてみました。案内をしてくれた地元の「鳶が巣山の狸さん」いわく、ほぼ同じルートだと思うよ。と。
実際、菅沼山の頂上から日間賀島が見えるのか、いや、昔はきっと見えたに違いない。木をどかしてみてみたい。そう思いました。
殿さまが乗り降りした豊川は、おそらく弁天橋の南あたりの瀬ではないかと思います。一昔前「いかだカーニバル」というイベントがありにぎわったところです。