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建長寺跡(新城市)
建長寺といえば、鎌倉。神奈川県鎌倉市にある禅宗の寺院で、臨済宗建長寺派の大本山。正式には 巨福山建長興国禅寺 本尊:地蔵菩薩
建てられたのは建長5年(1253年)鎌倉幕府第5代執権・北条時頼の時代。
不思議なことに新城市に建長寺という地名があり、鎌倉の建長寺と関係があるのかないのか?と疑問に思っていたので調べてみました。
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場所は新城市のメイン?ロード、近くにはスズヒロ(から揚げ店)や精文館があります。手元の資料(文献)や近所の聞き込みで調べまくると、鎌倉の建長寺との関係がわかりました
建長寺
巨福山建長寺 本尊:地蔵菩薩
文安2年(1445)この地域の保司を任された椙山修理という人物が鎌倉臨済宗建長寺から別院としてこの地に建立
なんと、建長寺の別院!!関係大有りでした。
前門・山門・仏殿・庫裡・方丈・舎利堂などがあり境内2兆歩、山林6兆歩だったそうです。山門があったあたりは現在パスタ店があります。山門跡辺りから建長寺方向をみると
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建長寺は長享元年(1487)保司の退転に伴い無人となりいつとなく朽ち果てたようです。1500年代、塩瀬氏が治める領地となったころから明治に至るまでに田畑となったようです。畑を耕すと茶碗のかけらなどが出てきます。
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現在、国道151号線が建長寺を分断している状態です。
右の図と左の図で一致している所がありました。幽玄川、池、スズヒロの隣の山。これを重ね合わせると確かに山門跡がパスタやさんでした。
資料に、山門近くに石仏が現存するとあったので探しまくると・・・
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山門ではなく方丈付近にありました。土地改良等で場所が変わった可能性があります。この石仏をお祀りされている方のお話によると、
・松の林の中に寺があり石仏があった。もう一体どこかにあるはず
・この石仏はここに落ち延びてきた天皇クラスの高貴な身分の方のものだと言われている
・釣鐘は戦国時代に池の中に隠された。それが理由で災いが起こった
・建長寺は火の不始末で焼失した
・ご先祖様からの言い伝えを守り今でも大切に欠かさずお参りしている
という貴重なお話が聞けました。
※椙山修理は野田館があったころの冨永荘司の家臣で保司を任された
※椙山修理の屋敷は建長寺の南にあり現在稲荷神社があります
※保司とは地域行政役人のこと。荘、郷と並んで中世期を通して存在した
建長寺の山門近くには保司が設立した市場もあったようです
鎌倉の建長寺の別院としてここに建てられるにはそれなりの理由があったはずで、理由を調べたら、もしかしたら高貴な天皇クラスの身分の人物もわかるのかな?
とにもかくにも、新城に建長寺があった。これは事実のようでした。
参考文献:千郷村史