見出し画像

新城歌舞伎「戦国天正合戦絵巻 長篠・設楽原の戦い 第一幕 援軍要請の場」

11月17日(日)新城文化会館で行われる歌舞伎の外題です

②着物を着て 立ち稽古が 始まりました


正面が織田信長 左に奥平定能

前半に登場する奥平 定能おくだいらさだよし(左で座っている)は、奥三河の国衆である山家三方衆一つで、作手奥平家の武将です。父は定勝、母は水野忠政の妹、子は奥平信昌・仙千代・奥平昌勝、娘がいます。
幼名は仙千代。監物丞、通称は美作守だそうです。
「貞能」という説もありますが歌舞伎では「定能」としました。

この歌舞伎の背景をすこし・・・
1564年、作手の奥平氏は今川氏から離反し、徳川家康に属しました。このとき定能は、家康から、牛久保領・大沼領・大給領など3,500貫文と遠江三分の一の知行を宛行われ、美作守の受領名を拝領したようです。
1570年に入ると、奥三河は徳川方の勢力と武田方の勢力争いの最前線となり、作手を治める奥平家がどちらにつくかが双方にとっての大きな問題となっていました。
1572年、武田勢に誘致され奥平家は武田方の家臣となりました。武田方は監視するために作手に砦を築き、その一つが古宮城と言われています。

さて、1573年、信玄が亡くなると、奥平定能と息子(長篠城)の定昌は武田を離れ徳川方に寝返ります。

※家康は奥三河における武田の勢力を牽制するため有力な武士団・奥平を味方に引き入れることを考え、信長に相談し、
「家康の長女・亀姫を定能の長男・貞昌に与えるべし」
という信長の意見を聞き意見を伝えてきたようです。
家康は信長の意見を入れ、定能に

  1. 亀姫と貞昌の婚約

  2. 領地加増

  3. 定能の娘を本多重純(本多広孝の次男)に入嫁させることを提示したようです

元亀4年6月22日、定能は家康に

  1. 信玄の死は確実なこと

  2. 定能親子は徳川帰参の意向であることを伝え、再び徳川の家臣となったわけです。

しかし、謀反します、はいそうですか。と、武田がいうわけがない・・・。

8月21日、定能は一族郎党の大半を率いて亀山城を退去し徳川方についた。
8月26日には、次男・仙千代をはじめとした人質3人が処刑された。
定能は、家督を信昌(九八郎)に譲って隠居し、自身は家康の許にあって、奥三河の地勢や人物関係を教える助言役に徹していたと言われています。

歌舞伎では
もう武田につくこともできない定能親子の決意も出せたらいいなと思っています。


左から 奥平定能 鳥居強右衛門 織田信長 徳川家康

定能のセリフに
「みすみす そなたを死なせたくはない・・」
と言って泣く場面があります。

鳥居強右衛門は長篠城の雑兵、しかし、強右衛門の在所は作手であり、定能と強右衛門は作手にいたころからの主従関係だったようです。
命を懸けて、使者に出た強右衛門と定能の絡みは 中盤の山場です

着物を着てのお稽古により、セリフに感情が入ります。
感情が入ることにより所作が決まってきます。
本番まであと二か月!
皆 頑張っています。
乞うご期待!



※定能は天正3年5月の長篠の戦いで、酒井忠次に属して鳶ヶ巣山奇襲隊として参戦し、窮地に陥っていた長篠城救援に貢献します。戦後は、信長と家康の両将から見込まれた信昌を引き立たせるべく、表舞台から完全に退きました。

③に続く・・・
観てみようかなぁと 興味を持ってくださることを願って・・・