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転ばぬ先の杖は 子どものためではなく 自分のため

子どもを大事にするって。
何をもってそうなんでしょう?

子どもがまだ幼い時。
一緒に過ごす大人は気が抜けませんよね。

目を離すと命に関わる事になりかねない。

新生児〜乳児の頃は言うまでもありませんが、
あんよが出来るようになれば、
一瞬目を離したらフラフラ〜と車道へ行きかねないし
指で小さなものが掴めるようになれば
すぐに口に持っていくし。
部屋のレイアウトは
子どもの手が届かないようにどんどんモノが上へ上へ上がっていくwww

大きくなってからもね。

小学校の行き帰り
お友達と自転車で遊びに行く
行ってらっしゃい!
無事帰ってきてよ!

etc...etc...

もう、言ってるとキリがないです。

子育て四訓と言うものがあります。


【子育て四訓】
乳児はしっかり肌を離すな。
幼児は肌を離せ手を離すな。
少年は手を離せ目を離すな。
青年は目を離せ心を離すな。


まさにその通りだと思います。


私は、とても大事に大事に育ててもらいました。
世の中の、
怖いこと
悲しいこと
嫌なこと
見なくて済むように育てられました。

それは、
親になってからやっと、
両親の、
特に厳しかった父の気持ちがわかるようにはなりましたが
それでも私は、自分が育てられたような、
見なくて済むように
と言う育て方はしたくないな。と、思っています。

というのは、
私は物心ついた時から理由が分からず息苦しくて、
常に自分の中に得体の知れないモヤモヤが常に蠢いていました。

それは"自我"
だったのかもしれません。

私は何をするにも自分で決めることは出来ませんでした。

「お前の性格は糸の切れた凧と同じ。
だからいつも、コントロールしてあげてないと
何するか
どこに行くかわからん。」

と、よく言われていました。

あは。
さすが我が父。
私をよくわかっていた。

私は、やりたい
と思ったら
それがリスクが伴うと分かっていても
やらずにはいられない人です。

ほなって。
やってみないとわからへんやん?
失敗することもあるかも知れへんけど
失敗せんかもしれへんし。
仮に失敗しても。
やってやらない後悔よりも
やった後悔の方が絶対にいい。

そう、感じていました。

それは今も変わりません。

でも、思春期の頃は
ボキャブラリーも少なかったし
こう言った自分の気持ちをどんなに訴えても、届くことはありませんでした。

一番父とぶつかったのは
短大生の時。
箱に押し込められてる気分でいる私は
その箱の中から出ようと
もがいて暴れました。

その度に、
正座させられて
4時間くらい。
説教です。

あの時間はしんどかったなぁ。。
説教する側も疲れただろうな。

父のことは
今も大好きです。
そして大嫌い。
亡くなってしまったので
もう、話すことは出来ませんが
あの時も
そのあとも
たくさん話しました。
たくさんあちこち一緒にも行ったし。
父も私も銭湯が好きでね。
よく2人で行きました。

だから、父ともっと話しておけばよかった、とか
出かけておけばよかった、
という後悔は無いです。

ただひとつ。
「お前やったら、いける(大丈夫)」
と、最後まで言ってもらえなかったこと。
それだけが心残りではあります。

転ばぬ先の杖は
子どものためではなく
自分のためだと私は感じています。

子どもが傷つくのを見たくない。
落ち込んだり
悲しい目にあったり
挫折するのを見たくないから。

だから転ばぬ先の杖を用意するのは
子どもが、というよりも、親が自分自身が傷つかないようにする為だと思うのです。

いいんですよ。
傷ついたって。
打たれて打たれて強くなる。
それだけの力を子どもは持って生まれてきています。

子どもを大事にするとは。
私の持論は
信じることです。

自分で命を守れる年齢になるまでは、
しっかり手を繋ぎ
その術を伝える。

でも、その必要が無くなってきたら。

あとはしっかりと信じてあげることがなによりも大事だと思っています。

何かあった時は必ず味方になってくれる。
そういう存在で居続けること。

それが、
私の親としての役目だと思っています。


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