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いにしえの松見坂

上京して初めて暮らした街へ寄り道をする。
専門学校入学のために上京したわたしは、兄が
暮らしていた風呂なしの古いビルに転がりこんだ。
狭い部屋を妹に占領され窮屈だったろう。

いつも朝の通学時間帯
渋谷駅まで走ればたぶん二十分くらいだろうか
授業で使う水張りされたパネルを持ちバタバタと
音を立て道玄坂の下りを爆走していた。
この坂を、わたしはゆっくりと歩いた記憶がない。
時々兄と一緒に家を出ても、
兄は道玄坂の途中で吉野家に入る。
『わたしも食べたーーい』叫びながら別れると
夜、テイクアウトされた牛丼がこたつの上に置いてあった。

松見坂の入り口少し奥まった所に銭湯があった。
勢いよく脱いだのはいいが、浴場へ入っても
まさかの座る椅子がない。
全裸でオロオロしていると、手招きをして
わたしを呼んでくれるおばあちゃんがいた。
『ここへお座り』『ありがとう』
救われた気持ち!嬉しさで全力のお辞儀をする。
番台に座っていた無愛想なおばちゃんに
顔を覚えてもらったときも嬉しかった。
『おかえり』『ただいま』
たわいない言葉のやりとりをあたたかいと感じた
田舎っぺの心細い気持ちも相まって、
銭湯はわたしにとっての拠り所となる。

学校帰りは、東急ハンズに寄り、
課題で使う画材やトレペを調達した。そのあと
異次元の松濤や、艶めかしい円山町から神泉町を
通り抜け、少し遠回りのルートで松見坂を目指す。
遊びの誘惑にのっちゃうと銭湯に間に合わない。
遊びも銭湯も大好きなわたしにとって
悩ましい選択の時間があった。

あの銭湯はマンションへ姿を変え、
銭湯帰りに必ず寄っていた半地下のスーパーは
お洒落なカフェになっていた。
しかもアイドルが主演したドラマのロケ地で
女子たちはアイドルが存在したその空間を
確かめるべく、根気強く逞しく並んでいた。
最近もこの界隈で芸能人が飲食店を出店したり、
なんだか賑わいをみせている。

兄と暮らしたあのビルを通りの反対側から眺める。
窓に目張りがされ使われていないことがわかる。
銭湯が無くなれば住まいには向かないのだろう
賑わいの片隅で俯く。

井の頭線に乗ろうと駅へ向かう帰り道の駒下。
兄と一緒によく食事をした蕎麦屋と、
コロッケも美味い肉屋、足繁く通った
お気に入りのパン屋も同じ場所で営業していた。
その店主たちは当時と変わらない
おじさんとおばさんであった。
ご多分に洩れず、二代目か三代目であろう。
面影そのまま、わたしの目の前で笑みを浮かべ
いにしえの松見坂は一人になったわたしを
優しく包みこんでくれた。

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