才能なんてただの言葉

おはようございます。
こんにちは。
こんばんは。

もし、何かわからないけど何かを期待して開いてくれた方はすぐに閉じてください。
全く役に立ちません。
偏差値40の不潔な男が書く文章なのでタメになることはないでしょう。
普段、自分が苦悩していることを吐き出しているだけです。

才能(主観)
少し勉強したら、少し運動したらすぐできてしまう人
少し聞いたら全部理解しちゃう人

才能(グーグル先生)
ある個人の素質や訓練によって発揮される、物事をなしとげる力

私の主観は解像度が荒すぎるが、共通して言えるのは「少し」だ
少ししただけでなんでもできてしまう人がとてもカッコよく思う。
そうなりたいと思うが、現実の私はめちゃくちゃ訓練しても発揮されることがないのだ。

小学生
6年間、運動会の50メートル走はドベ

中学校
テストで100点取ったことない(テスト期間中、勉強は1日10時間はやっていた)

高校
全国統一模試の偏差値40(もちろん勉強していた)
テニス部に入っていたが3年間球拾い(マジです)

大学
友人から「生きてて楽しい?」と言われ

社会人
上司から「大学卒業してたんやな」

どれか共感してくれたものはあるだろうか?
全部、共感できた人は是非、オフ会をしよう。
まあ、ここまでくると「のび太くん」が自分に感じられる。


僕はあやとりと射撃もできないから、、、、あれ?
って思うようになってからドラえもんは見なくなった。
アメトークの運動出来ない芸人も辛くてみられない。
4年間スイミングスクールに通ったが飛び込みをするとお腹は真っ赤かになります。

僕が才能に固執するかわかっていただけただろうか。
そう!僕は全て才能のせいにしようとしているのだ。
でないと、耐えられないのだ。

そんな中、八木仁平という人の才能の定義に出会った。

才能(八木仁平)
つい、やってしまうこと


これを見た瞬間にYouTube、書籍を買って見まくり読みまくった。
体系化されてわかりやすく本当に誰でも見つけれらると思います。
そんな私も見つかりました!
才能が!!!

「自己開示」

見つけた時は嬉しかった感覚が今でもあります。
世界が変わって見えました。

八木仁平さん曰く
「見つけて→育てて→活かす」
らしいのでここから育てないといけない。
育てて活かすことが本当の勝負的なことが書いてあった。

よし!育てよ!
待てよ?

僕は思ったんです。
わかりにくいから
才能を「計算が早い」にしておこう。

僕は「計算が早い」の才能があり少しやっただけでMAXレベル100になれるとしよう。
でも、A君という人は元から「計算が早い」がレベル100でMAX1000だったらどうすんだよ!!!!

地球人最強のクリリンだけどサイヤ人がきたらただの噛ませ犬成り下がってしまう感覚だ。

さらに電卓、パソコンが出てきて「計算が早い」という才能自体いらなくないか?

今の時代にサイヤ人がいてもほとんど役に立たない。むしろ迷惑だ。

僕はこのように思ったわけだ。
(ここまでやらない言い訳が考えられるのは才能かもしれない)

本を出しているから人を絶望させる文章は書かないであろう。
しかし、はっきりと言わなければならない。

・全員が才能を持ってはいるが世の中で使える才能とは限らない

・才能を相対的に見たら実は平均以下がありうる


いや、辛い。
まだ、人生60年くらい残っている。(100歳まで生きる予定)

これで終わりでは流石にここまで読んでもらった方に申し訳ない。
そんな絶望の中で出会ったのは

日比野克彦という東京藝術大学学長の才能の定義だ

才能(日比野克彦)
人との違い

これには救われたね。
なぜ救われたのか私の独断と偏見で書かしてもらう

三角形を思い浮かべてほしい
東大に合格する人は三角形の一番上に配置されることが多い
でも、三角形の一番上ではなく右下に配置したらどうだろう。
もはや三角形ではなく円にしてもいい
ここで言いたいのは僕たちが勝手に東大を上位にしているだけだ。
上位になっているものを才能と呼んでいるだけだ。

上位が才能という感覚が抜けない人がいるなら次はこうしてほしい
僕はマジで全力で勉強して真剣にテストを受けても偏差値40だ。
手を抜いたら偏差値40を取ることは容易いだろう。
ただ、真剣にやって偏差値40を取れる人が世の中にどれだけいるだろうか。
東大に入れる人よりも少ないかもしれない。
世の中の数%だろう。(多分、、、)
真剣にやって偏差値40取れる数%を三角形の一番上に持ってきてほしい。
東大生と変わらない、もしくはそれよりも希少な才能になったのがわかるだろうか。

それでも世の中は東大に行ける人のが生きやすそうだよねという感覚は抜けないだろう。今の世の中は、言葉の思考ができる人が有利なのは間違いないからしょうがない。でも、そんなんで落ち込むのはナンセンスだと僕は思っている。(理由は今度書こうと思う)縄文時代であれば使えないやつだったかもしれない。でも、今は令和だと聞こえてきそうだ。

今回、僕が言いたいのは
もう、才能なんてただの言葉でただの思い込みなのだ。
私たちが作り出した都合の良いただの言葉なのだ。
そう考えると上も下もないのだ。
ただ、言葉と数字で切り分けただけなのだ。
そこに意味は全くないのだ。
言葉と数字を使っているせいで一人一人全員違うのにまとめられたりしてそこから外れたらダメだと言われるのだ。(親、先生とか)
そんなただの言葉で人生落ち込んでいるほど暇ではないのだ。
(ちょっと前向きに言ってみた)


最後にもう一度、一番上の才能の定義を見てほしい。
「できる」「理解する」「素質」
全てただの言葉だ。
理解する出来ないに上も下もない。
理解できる人に理解しないでと言っても無理だろう。
100人中99人は理解が出来て理解出来ない1人だったら辛いかもしれない。
でも、三角形の天辺に1%と書いたら凄そうと感じないか?

これでも、「でも」「だって」と聞こえてきそうだ。
そんや君は仏教の「空」を学びなさい。


熱く語ってしまったが、意味があるから才能という言葉は生まれたのであろう。
でも、忘れないでほしい。
才能なんてただの言葉だ。
そう思えた僕は何気に前向きに生きてます。

じゃあ、なんで才能という言葉が生まれたのかは次回、僕の見解を書いていこうと思う。


追記
なぜ上位が優れていると感じるかは

資本主義ができた経緯
ダーウィンズの進化論

が関係していると思います。
もう、生まれた瞬間からそのような教育を受けているからしょうがない。
自分がそのような思考に囚われていること自体に気がつけないのだ。

分かりにくければ詳細は

Spotify
日比野克彦さんとの対談
レイ・イナモト「世界のクリエイティブ思考」
コテンラジオ
「資本主義編」

これを視聴すればいい。

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