大逆転勝利

 日本が1点差に詰め寄りながらも、メキシコを捉えきれなかった8回。
 逆転に燃える日本はピッチャーを大勢に代え、メキシコの6番ウリアス、7番トレホをテンポ良く抑える。
 8番トーマスにはデッドボールを与えてしまったが、9番バーンズを空振り三振で切って取った。
 9回を任された大勢が吠える。メキシコの勢いを潰し、日本に追い風を与える投球だった。

 9回裏、日本の攻撃は3番大谷から始まる。これ以上ない好打順である。
 大谷、吉田、村上が抑えられたならもはやあっぱれと言うしかあるまい。
 しかし、そう簡単にいくはずがない。そう思わせてくれる打順だった。
 大谷はネクストバッターズサークルで代わったばかりのピッチャーガイエゴスの投球練習をじっと見つめていた。
 投球練習が終わる。バッターボックスに歩きながら、大きくひと振り。客席では誰もが立ち上がって声援を送っていた。
 バッターボックスの石をひとつ取り除き、バッティンググローブとアームガードを気にしながら、大谷が打席に立った。
 肩にバットを乗せてゆったりと構える。気負いはない。ガイエゴスのセットと同時にバットを立てる。
 ガイエゴスの初球は何から入るか。どんな投球を見せるんだ。大谷の出方はどうか。1点ビハインドの最初のバッターだ。大事にいってほしい。
 さまざまな思いが交錯する中、放たれた1球。ボールは外角高めへ。
 初球。
 大谷はこれを狙っていた。ステップはいつもどおり最小。しかし、体重移動と体の捻りは最善。
 これぞ世界の大谷だ。このプレッシャーのかかる場面で初球を狙って振り抜いた。
 鋭い打球はセカンドの頭を軽く越えて右中間へ。セカンドは動くことが出来ず、見送るばかり。
 大谷は走り出すと同時にヘルメットを脱ぎ捨てた。「俺の気持ちを邪魔するな」と言わんばかりに。
 端から1塁で止まるつもりはない。前傾姿勢の全力疾走。滑り込むまでもなく余裕の二塁打。
 2塁ベース上で、日本ベンチを鼓舞する大谷。
「さあ、来い!」両手を振り上げながら叫ぶ日本の若きエースに引っ張られない男がいただろうか。いや、いない。
「俺に続け!」この男は、日本代表全員の心にさらなる大きな炎を灯した。
 ノーアウト2塁。
 驚いたのはメキシコだ。まさかこの場面で初球からあんなに迷いなく振り切れるものなのか。しかも甘いボールでもなかった。外角いっぱいだったはずだ。やられた。もっていかれた。先ほどまでの勝利のムードは一気に崩れ、続く4番・5番をいかに抑えようかと弱気になった。
 4番吉田、この勢いに乗らない手はない。しかし入れ込みすぎても良くない。吉田はバットを軽く持ち、静かにガイエゴスを見つめる。
 セットポジションと同時にバットを揺らし始める。硬さは感じられない。
 誰の脳裏にも先ほど7回のホームランが頭をよぎる。決めてくれるか。決めてくれ。大きな大きな期待とプレッシャーが吉田を包む。
 初球、150キロのストレートが高めに外れる。2球目、151キロのストレートがインハイに外れる。2ボール。
 次が狙いどころか。それとも制球が定まるまで様子を見るか。ストレート2球のあとだ。変化球か。ぐるぐると多くの思考が浮かんでは消えるが、吉田に迷いはない。決められるときに決める。それしか考えていない。
 3球目、スライダーが低めに外れる。ガイエゴスにも先のホームランがちらつく。なかなか勝負にいけない。
 4球目、ど真ん中ストレート。次のために1球待つ吉田。追い詰められているのは相手だ。焦る必要はない。落ち着いている。
 5球目、ストレートが高めに外れた。ファーボール。つないだ。日本のホームラン王に。
 吉田は村上に向けて指を差しながら1塁へ歩き出す。
「お前がやるんだぞ。お前が決めるんだ。」
 口には出さずとも伝わる思い。全員でつなげた思いだ。
 やはり回ってくる、巡ってくる運命。これを神の采配と言わずして何と言う。
 バッティンググローブを締め直し、打席に歩み寄る村上。バッターボックス前で数度足踏みをしてひと振りする村上。
 この流れで燃えないわけがないだろう。普段から鋭い目がさらに鋭くピッチャーを睨み付ける。
 この男に全てをかける日本ベンチは、1塁に代走の切り札、周東を送り込んだ。これで長打が出れば必ず帰ってくる。メキシコにさらなるプレッシャーを与える。
 当の周東は自分の足がいちばん輝く舞台が整ったことに笑みさえ浮かべていた。自分には足しかない。その自分の足で試合を決める。そんな喜びに溢れていた。
 本日3三振。今までの試合も振るわなかった。そんな汚名を返上するチャンスが来た。ここまでどれだけの期待を裏切ってきたか。不甲斐ない。
 それでも起用し続けてくれた栗山監督への感謝、不振の自分へメッセージを送ってくれた鈴木先輩への恩返し。全てをこの打席で出しきらなければ。
 他の選手とは比べ物にならないプレッシャーと気負い。それは日本人のホームラン記録を塗り替えた偉大な打者、「村神様」だからこそのものだった。観客全員が神に祈る。
 打たなければ。決めなければ。気負いすぎとも思える追い込まれた表情。相手を追い詰めたチームの人間とは思えない表情だった。
 メキシコの守備のタイムが明ける。いよいよ勝負が始まる。プレイボールの声がかかった。
 腕を真横に伸ばし、バットを立てる。バットと右のかかとは小刻みに動く。勝負は一瞬だ。迷うな。これまでの不振はこのときのためだ。村上の眼光はガイエゴスを射殺さんばかりになる。
 初球、ストレート。甘い。打ちにいく。3塁側へファールになる。ただのファールに球場が揺れる。もはや来た球に気持ちをぶつけるだけ。小細工はない。悩みも思考も必要ない。頭を振り、いらぬ考えと嫌なイメージを遠ざける。
 2球目、スライダーがワンバウンドする。バットは動かない。球は見えている。勝負ができる状態だ。
 ベンチを確認するが指示はない。あろうはずもない。自分への絶対的な信頼。ここまで全く望んだ結果を出せていない自分に……。ありがたい。
 1球ごとにバッティンググローブと足場を直す。この瞬間に、次の一瞬に全てを注ぎ込む。そのために場を丁寧に整える。何度でも。できることは全てやる。やり尽くす。
 3球目、ど真ん中ストレート。
 絶好球。
 来た。
 この球だ。
 この球を逃す村上ではない。振り抜く。
 完璧に捉えた。これ以上はない。打球を目で追う。センターの奥へ。
 観客が総立ちになる。
 越えろ。越えろ。越えろ。
 それは村上の思いか、いや、日本の選手、ベンチ、応援団、全員の思いだ。
 センターは必死で下がる。フェンスまで下がる。抜けろ。抜けろ。追い付くな。
 日本国民の思いを乗せて打球は伸びていく。とうてい追い付けない深いところ。フェンスに直撃する。
 ボールがセンターを越えたのを確認してスタートする大谷。越えることを信じてスタートしていた周東。
 センターがクッションボールを捕球したときには大谷は3塁を回っていた。日本ベンチからは全員が飛び出し、腕をぐるぐると回す。1点だ。同点だ。
 周東は?大谷のすぐ後ろを走っていた。中継のショートにボールが渡った時には3塁を回っていた。これこそ切り札周東。当たり前だ、これが自分の仕事だとさらにスピードを上げる。
 ショートの返球むなしく周東がホームベースに滑り込む。キャッチャーは逸れたボールを追うことさえしない。
 周東は喜びのあまりスライディングの勢いを使って跳び上がり、ヘルメットを捨てる。同時にホームベースに駆け寄る選手たち。誰もが両手を上げて喜んでいる。
 遅れて村上が輪に加わる。その表情は喜びと安心で泣き出さんばかりだった。目に光る雫は、汗ではなく涙だったのかもしれない。
 当たり前だ。ここまでの不振。今日の3三振。どれだけ苦しかったか、屈辱だったか。しかし、その悪夢を自分の手で打ち破った。
 そんな村上を全員で迎えに行く。水をかけ、ぶつかり、叩き、抱き合った。
 やっと打ってくれた。やると思っていた。良くやってくれた。勝利の喜びと同じくらい、日本の主砲が復活したことを喜んでいた。
 大逆転勝利だ。


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