吉田の同点弾
源田の1ミリから数分。7回裏のバッターボックスに向かうのは、先ほどトレホを補殺したばかりの甲斐。
球場にはまだ余韻が残っている。この流れを掴んでほしいと思うのは、ベンチ、観客、放送席にとって至極当たり前のことだった。
しかしそんな願いむなしく、甲斐は三振。少しだけ球場の緊張が緩むのを感じる。
次のバッターはヌートバーだ。日本の応援団はまた期待が高まってしまう。ペッパーミルを掲げて応援する観客もいた。それだけでヌートバーへの期待や好感度の高さがうかがえる。
初球、空振り。大きなスイングが観客の心まで揺さぶる。
2球目、やや甘く入ってきたカーブを左中間へ打つ。内野は軽く越えた。飛んだ場所もいいか。抜ければ長打は確実だ。一瞬で会場のボルテージが上がる。
しかしここはレフトに捕球されてしまう。またアロザレーナだ。今日は何度も煮え湯を飲まされている。日本にとっては嫌な相手だ。嫌なところに飛んだ。また彼が流れを持っていくのか。日本側はそんなふうに思っただろう。
危なげない捕球のように見えたアロザレーナだったが、しかしその実、捕球後はかなり安心したように息を吐き、天を仰いでいた。勝利の女神は気まぐれであることを知っているのだ。掴みとったぞ。流れは渡さないぞという気持ちの強さを感じる。
ツーアウト。簡単にツーアウトをとられてしまった。表の守備での流れを掴みきれなかったか。そんな不安が、観客の心臓の音をドクンと大きくさせた。
次のバッターは近藤。打撃の天才と称される男だった。この上位打線で1点。そうでなければここで終わって、次の回にクリーンナップから攻撃を始めるのがよかろう。そんな雰囲気を感じる。近藤にとってどれほどの侮辱だっただろう。
近藤の次のバッターである大谷の偉大さが、そんな気持ちにさせる。テレビカメラも、近藤越しに、ネクストバッターズサークルの大谷を映し出す。
近藤はそんなプレッシャーもあったか、葛藤があったか、それとも必死の一念か。大谷につなぐ役割。理解しているからこその誇りと悔しさ。天才と呼ばれるこのバッターは、ピッチャーのウルキディをじっと見つめていた。
初球、高めのストレート。2球目低めのチェンジアップ。3球目、150キロのストレートをファールにする。4球目、アウトハイにチェンジアップが抜けた。
カウントは2ボール2ストライク。勝負のカウントだ。野球人なら全員が感じる勝負のカウント。
5球目、やや甘く入った変化球に、腕を畳みながら上手くミートする。打球は二塁手の頭上。ライト前へ抜けた。
盛り上がる会場。さすが近藤だ。そんな歓声が大きくなる。天才が放った技ありの一打は先ほどまでの失礼な期待、次イニングへの期待を、前倒しした。
当の近藤は、1塁ベースを越えて、手を叩く。仲間を鼓舞するように。自分自身の役割は果たしたとでも言うように。そして見つめる。日本中の期待を背負った大きな背中を。16番の背番号を。
見つめられている大谷は気づかない。集中力が極限まで高まっている。普段は優しい笑顔を誰にでも向けるこの大谷が、勝負どころで見せる眼光は、獲物を狙う鷹のように鋭かった。
メキシコ側も動きが速い。野手はマウンドに集まり、ピッチャー交代の準備が始まった。
代わるピッチャーはロメロ。スリークォーター気味に腕を目一杯伸ばして投げてくる左腕だ。左バッターの大谷をここで抑えようとしている。日本の中核である大谷を仕留めることで、日本に傾きかけた流れを、メキシコに引き戻したいのだ。
初球、高めのストレート151キロ。気持ち良く投げ込んでくる。
メキシコの内野は完全に大谷シフトで、大きく右に寄っている。ショートは2塁より右だ。
2球目、スライダーが低めに外れる。3球目、同じくスライダーが低めに外れる。3ボール。ボールが続く。大谷は勝負してもらえないのか。それとも無意識に大谷を避けてしまっているのか。
4球目、151キロのストレートが決まる。勝負か。大谷へ期待が集まる。
5球目、スライダーが低めに外れる。ファーボール。大谷は大きく一声だけ発し、1塁へと歩き始める。
打てなかったことへの悔しさか、いや、次につなぐことができた喜びだろう。自身の結果よりチームの勝利。日本の野球はこれを体現してきたのだ。大谷が次の吉田を信じていないわけがない。
1打出れば同点。この大事な場面で4番に回ってくる。期待せずにいられるはずがない。野球とはなんとドラマチックなスポーツか。
ロメロがセットポジションに入ると同時に、吉田がバットを高々と上げる。高く構えてゆらゆらとバットを揺らすのは、スイングの直前まで脱力をするためだ。脱力は次の一瞬で、爆発的な瞬発力を生む。
初球のストレートを吉田が振り抜く。いつもどおり全力、フルスイング。フォロースルーは大きく、最後は右手一本でバットをぶん回す。
たったのひと振りで、会場はどよめく。野球はツーアウトから。一打同点。バッターは4番。これ以上ないシチュエーションが会場の期待をぐんぐん練り上げていく。
日本もメキシコも、観客は手を合わせてグラウンドを見つめるだけである。
2球目、ツーシームがインコースに外れる。3球目、低めのチェンジアップに空振り。追い込まれた。日本のものかメキシコのものか、その両方か、歓声がまた大きくなった。
4球目、ロメロが本日最速153キロのストレートが高めに外す。これは釣り球だ。だとしたら勝負は次だ。追い込まれているのは吉田の方だ。相手は計画的に獲物を仕留めようとしている。
それでも吉田は落ち着き払い、高く大きく構える。そしていつもどおりバットを揺らす。追い込まれても自分らしく。これが日本の4番だ。そう誇示する。
5球目、インローにチェンジアップが来た。少しボール気味かもしれない。しかし追い込まれている吉田は手を出すしかなかった。
厳しいコースだ。先ほどのストレートも効いている。タイミングが合わない。
だがこの1球で全てが決まるのだ。打たないわけにはいかないのだ。チームメイトがつないでくれた打席、日本国民の期待を全て背負う打席、この打席は簡単には終われない。先ほど空振りした球と同じ球。なめられたものだ。
吉田の頭は焼き切れんばかりに働き、やがて真っ白になる。ただ来た球を打ちにいった。多少タイミングは合わないが、下半身は崩されずに残した。その分、バットを握る手は離れ、振り抜く腕は右手一本になった。
当てた。始めに感じたのはそんないっぱいいっぱいの拙い感想。
それでも、球場全員の視線を釘付けにするその打球はライト方向へ高々と上がり、なかなか落ちてこない。
歓声は大きいが、誰も確信していなかった。あれだけ崩されたのだ。あれだけ高く上がったのだ。ライトフライか。
しかしどうだ。打球は落ちてこない。ライトがゆっくりとポール際まで追ってくる。まだ打球は落ちてこない。
ライトが顔の向きを変えた。打球を追うことを諦め、下を向いてしまった。
打球がライトの頭上を越え、フェンスを越える。
入った。入った。入った。
爆発する歓声。興奮する実況。
吉田はというと、1塁ベース上で、天に両手を突き上げ、人差し指を立てて喜びをアピールしていた。やがてその手は、2塁ベースを踏む頃には、右手を胸の前で握る形となり、小さなガッツポーズで喜びを噛み締めていた。
ベンチを飛び出して喜び、称え合う日本ベンチ。ある者は抱き合い、ある者は両手を上げてガッツポーズをした。
近藤、大谷、吉田がホームベース付近で抱擁し合う。冷めぬ興奮。ベンチ前で迎えるチームメイトにバシバシと強めに叩かれる吉田。祝福が手荒くなるのは必然だった。
野球大国日本の意地と誇りをかけたこの大会で、この大一番で、このビハインドの場面で、やってのけたのだ。どれだけ言葉を尽くせばこの興奮を伝えられようか。まさに日本の未来を切り開くスイングだった。勝利の女神を振り向かせる一打だった。
試合は振り出し。いや、流れは完全に日本に傾いた。
next… メキシコの意地
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