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読書会はリベラルアーツの宝庫だった!

こんにちは BOKUです。
先日、読書会に初参加してきました。
読書会といっても、その場で各々読書をするのではなくて、事前に読んできた課題本の感想を言い合ったり、雑談して、自由に意見交換をする会でした。

今回の課題本は芥川龍之介の作品「藪の中」
藪の中で起こった殺人事件に関して、尋問を受けた7人の証言を並べた話です。それぞれの証言は微妙に食い違い、真相がわからないまま話が終わります。

話は短くスキマ時間でも十分に読み切れる文量なのに、読む度に次々と新しい発見や考察が生まれてきて、普段文学の本を読まない僕でも非常に楽しめた作品でした。
(版権の関係で、青空文庫では無料で作品を読むことができるので、リンクを掲載しておきます。)

それでは、読書会に参加して感じたことをnoteにまとめてみます。



話の広がりを感じた

まず、読書会を通じて感じたことは、「話の広がり」です。
共通の話題を起点に会話の中で、自分一人では素通りしていたことに、気づきを得ている人がいて、話が連想ゲームのように広がりました。

たとえば、

人の記憶は案外あやふやなもので、証言というのは、自分にとって都合のいいように記憶を改ざんしてしまっているのではないか?
3人の証言の食い違いについて話題になったときの話です。

よくミステリー小説では容疑者が3人だったりして、この3人登場したことが話を面白くさせているという意見や、
「ミステリと言う勿れ」にも登場した名言(個人的に刺さったセリフ)
事実は1つだが、真実は人の数だけある。」というキーワードがでました。

他にも、「多襄丸の自白の場面では括弧書きの表現がを踏んでいるようだ。」「死靈の場面の表現で棒線が多い。」といった表現の特徴に触れる意見があったり、自分一人では気が付かなかったところの視点に気づく面白みがありました。

ぼくが、会話の中で特に話の広がりを感じ印象的だったのが、こちら。

わたしにはあの女の顔が、女菩薩のように見えたのです。わたしはその咄嗟の間あいだに、たとい男は殺しても、女は奪おうと決心しました。

「藪の中」多襄丸の白状

多襄丸の白状の中に出てきた表現に、女の顔が女菩薩のように見えたから自分のものにしたいというセリフです。
仏像の顔って心が一瞬で奪われるほどの魅力があるのか〜?と話題になりました。
仏像は時代の影響を受けて顔は変化しているという話や、その当時でいうと最高の女を表しているという意見、教養や知性の感じる表現のようだという意見、菩薩のように美しくやさしい女性を表す表現、今でいうと九千房政光の作品があるよね。と話が展開。
九千房政光とは?

検索して作品を見た瞬間に、現代女性の仏像だ。多襄丸の心情に納得しました。

こんな感じで、僕一人では思いつきもしなかった気づきや話の展開がいくつも生まれました。
一人では気づかない視点の共有や、そこから広がる教養知の会話。
まさに同じ作品を読んだ仲間だけが共有できる、読書会の魅力・醍醐味を感じました。

「教養」といえば、読書する人だけがたどり着ける場所(齋藤孝)の
この文章を思い出します。

「教養のある人のほうが、人生が面白くなる」
この世はもっともっと複雑な楽しみにあふれています。その複雑な楽しみに気づき、面白がることができるようになる。

読書する人だけがたどり着ける場所より

気がついたから楽しめることって沢山あると思うんですよね。

「読書する人だけがたどり着ける場所」に関して以前noteに取り上げたことがあるので、リンク先を紹介しておきます。

表現の勉強になる

藪の中を読んでいると、普段使わない言葉に多く出会いました。「蘇芳(すほう)」「縹(はなだ)」「萩重ねらしい、衣(きぬ)の色」「紺の水干」
色を表す表現からも想像が膨らみ味わいがあります。

韻を踏むことでリズミカルなテンポを作り出したり、棒線を多用することで、異様な雰囲気を醸し出したりする書き方も、表現の自由、表現の面白さと感じられ勉強になりました。

まとめ

読書会をきっかけに、普段手に取らないような作品との出会いになる。
読書会を意識して、普段以上にじっくり読むことで深みに気づく。
読書会でおしゃべりすることで、新たな気づきや話に広がりが生まれる。

真相は読書会の中


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