「一期一会」
こんばんは。
私には、眠れぬ夜に
忘れられない人がいます。
「偶然」の出会いなのか?
はたまた「必然」の出会いなのか?
私は、それを「一期一会」と呼びます。
一生忘れられないで合い
であり、また
最後まで背負う「問い」という存在
なのかもしれません。
もっと言いたいことがあった・・・。
もっと感謝したかった・・・。
もっとお互いを知りたかった・・・。
それは「欲望」かもしれません。
しかし、そう思うだけで
心がいっぱいになってしまいます。
私は
「あの人のいない世界なんて
存在しなくてもいい」
なんてまで思い込んでいました。
しかし、私は「今、生きています」
これもまた事実です。
あの人と
お別れしてから
ずっと寂しかったです。
辛かったです。
悲しかったです。
ですから
その出会いは
「一期一会」ということに
したいと考えます。
「一期一会」は
禅語の一つですが
そのほかにも
たくさんの「禅」の言葉があります。
それらは全てみな
「禅」の最終ゴールまで向かうための
「指針」となる言葉です。
決して「禅語」じたい
または「一期一会」が
「禅」のゴールや全ての「答え」なのでは
ないと思います。
本当の「答え」とは
苦しんで
のたうち回って
試行錯誤して
初めて感じられるものかもしれません。
ですから
ただ止まっているだけでは
前に進めない。
「答え」に近づくことすらできない
のでしょう。
人間の時間は「限り」があります。
そう考えると
なんと厳しいことなのかと
嘆息(たんそく)してしまいます。
加齢に伴って
人はいろんな「荷物」が増えてゆきます。
まずは、その中で
「一番大切なことをいつも
心に留めておくこと」だと思います。
それでも
気持ちがいっぱいで辛い時は
「祈る」ほかに
道はないと思います。
もしかしたら
切りたくても
きれない「縁」というのは
あるのかもしれません。
私はその「答え」を知るために
いろんな本を読み
いろんなことを見たり聞いたり
して来ました。
それでも「答え」が
見つからずに
「七転八倒」して来ました。
作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんは
「人は所詮は、凡夫なので
一生悟りは開けない、
いや開かなくてもいい」
という言葉を残しています。
凡夫(普通の人)として
生きてゆくのも
悪くないのかもしれません。
「答え」を探すのと
それに「執着」することは
全く違うことです。
ほどほどに「考えて」
「それで良いのかも」と
思うことができることが
一番良いことなのでしょう。
最後までお付き合いありがとう
ございます。
それでは・・・
おわり
intothegarbageさん
素敵なお写真ありがとう
ございます。