「自由」とはやわらかい
こんばんは。
kohです。
突然ですが
一つ前の記事で
なんとか一つの目標である
500本目の記事に達成いたしました。
これも一重に
noteの街で色んな人に支えられて
励まされて、
休んでもあたたかく
むかえられて
書くことを続けた
通過点になれました。
熱くお礼申し上げます。
本当にありがとうございます😭😭😭
私がnoteを始めたきっかけは・・・
ただ始めてみたかっただけです。
そこには
こうだからこうという「条件付き」の
「意図的」なものはなくて
流されている間に
noteの街にたどり着いた気がします。
私の中ではそれが
休みながらもnoteを続けられた
「内的な」動機になる気がします。
「kohの世界」という
この世界で書いたnoteの記事は
私の強気もあり
弱気や情けなさもあり
なるべく記事の内容に
一貫性を持たないようにして
続けてきました。
何かを突き詰めて(特化して)
業績を残すこと。
それはそれで素晴らしいことだと
思います。
私には専門性はありませんから
それが逆に良かったとさえ思っています。
なぜなら
私が、きっと
「こういう路線でnoteを進めよう」
と決めてしまったら
いつか、その「路線」に自分が潰されてしまうと私は思ったからです。
あと、私のようなメンタル疾患の当事者として
どこまで書いていけるか?
どこまで進めるか?
を確かめたかったのも
根底にはあります。
色んな面で
「確固たる」自分のスタンスを決めてしまう
方もいらしゃると思いますが
noteは自由な表現できることが
「特色」と感じています。
noterさん一人一人が
それぞれ違った目線から
記事を書いてらっしゃると思います。
それはご自身が思ったことや
体験したことなど
誰かと共感したいという
熱い思いを胸に秘めて
noteというプラットフォームに
書いてみる。そんな勇気ある
一歩を踏み出すことです。
そこに常識や世間でいう
確固たる「目的」はないように思われます。
物理的に
「固いものほど割れやすい」という
定説があります。
noteに「目的」を入れることは
自由です。
それも、基礎的な土台やバックグラウンド
(例えばエッセイを書くのなら
「枕草子」「徒然草」「方丈記」など
日本三代随筆に目を通してみることなど、、)
がない状態から
その先を
突き詰めるだけ突き詰めてしまい
内容が先細ってしまうと
私は危惧します。
それはnoteの自由さのコンセプトには
合致するかどうか、私は疑問に思ってしまうのです。
私は「本好き」ですが
本というものは
専門家の「編集」という作業を
必ず通します。
ですからそこには、一つの
体系だって文章が走るのでしょう。
そこには掛け値なしで
著者の一貫性が保たれて
読むことができます。
noteでは
「有料」「無料」に関わらず
そこは考えないようにしたいと思っています。
それは一年noteにお世話になってnoterさんの
本気度が確信できたことだからです。
「夢」とはなんでしょうか?
私は「条件付き」の夢は持ちたくありません。
それは「やわらかくて」「自由」な
みたいなものではないてましょうか?
「夢」とは自分自身の
ためのものです。
だから、大切にしたいのです。
そのような
自由なプラットフォームの中で
これからも「精進して」
noteと付き合ってゆければと
ささやかな夢を抱いています。
どうか「自由」に
自分を表現することに
臆しないでほしいです。
そんな優しい雰囲気を
いつまでもnoteの街に
置いておいて欲しいとも願います。
もう一度「夢」という
揺れ動くものですが、
そんな「初心」を考え直してみたいと
思った次第でした。
おわり