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竜宮城での生活について

世の中に理不尽はたくさんあるが、浦島太郎の被ったそれもまた甚だしい。

亀を助けた漁師が、そのお礼として竜宮城で楽しい時間を過ごしていたが、家族に会いに故郷に戻ったら、現実では数百年が過ぎていた。その絶望感から開けるなと言われていた玉手箱を開けてしまい、おじいさんになってしまうというお話。

竜宮城から帰ったとき、数百年が経っていた現実で、すっかり孤独の身になってしまった彼の喪失感は想像だにしない。細かい解釈や諸説は抜きにして、結構救いのない話だな、とずっと思っていた。

しかし、時間を過ごす、というのは蓋しそういうことなのだろう。
つまり、実際の時間の流れと自分の感じる時間の流れとの間に関係は有り得ないということ。だからこそ、一日に何度も時計を見ては、その度に自分の感覚を実際のスピードに適合させているんじゃないかという気すらする。

時計、あるいは現実の時間とのアクセスを持ってなかった浦島太郎が自分の感覚する時間を、実際のそれと混同したとき、すっかり現実から隔絶したというのも納得できる。

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「ゆるく生きよう」という言葉を聞く。
それは、あなただけのタイムゾーンで生きればいいんだよ、と優しく囁く。なるほど、何かと急かされた感覚のあるこの時代に差す一条の光のような言葉だなと思う。

ただ、と敢えて斜に構えてみる。

やっぱり、社会と関わって生きてる以上、現実の時間から離れて生きることはできないんじゃないか。ゆるく生きよう、という言葉を信じたばかりに、気づいたらすっかり社会から取り残されたというのでは元も子もない。

別に、言葉尻を捕らえてやろう、というつもりはない。ただ、ゆるく生きる、というのはそのポップでキャッチーな響きとは裏腹に、案外タフなんじゃないかということ。ゆるく生きたいのなら、その分、現実感覚をないがしろには出来ないな、という話。地に足を着けてこそ、飛び上がれるというものだ。

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いまバンクーバーに来て、二ヶ月強が過ぎた。信じられないくらい時間が早い。
留学してたら時間の感覚がズレるだろうなあ、とは思っていたので、時々去年のカレンダーを参照することにしている。頭では分かっていても、やっぱり、実際の時間の流れと自分の感じる時間の流れの懸隔に驚く。

やや浦島太郎状態。
非日常や非現実も悪くないけど、ちょっとは修正していくつもり。健康的な方法で、少しずつ。

これは最近感じた、おとぎ話と現実の話。

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