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止まらない時間に慌てる

終わりと始まりは表裏一体なところがある。それはある意味では必然的だが、どこか窮屈な感じもする。

何かが始まった時、「始まっていなかった状況」が終わるが、それと同じように、何かが終わった瞬間、次はなにか新しいことが始まるべきだというプレッシャーを感じるからだ。

過去と未来の間には「現在」があるという噂だが、実際それは、空間における「点」のような存在で実体がない。点には、具体的な長さや面積、体積がなく知覚ができないが、「現在」もよく似ている。ここだ、とピンを差した時点ではもう過去になっており、「現在」を明確に捉えるのは難しい。こういう掴みどころや実体のなさが終わりと始まりを強引に癒着させているような気がする。

もし「今を生きる」ということが、「今」の捉えどころのなさ故に、ただ絶え間なく過去を生成して、未来を消費することに等しいなら、人間はまるで回し車を走るハムスターみたいだと思う。
中高一貫の私学だったので、中学校では仏教の授業が申し訳程度にあったが、「人が何度も生死を繰り返し、新しい生命に生まれ変わる」という輪廻転生の思想を聞いた時、まさに「生きる」とは輪っかのような時間を廻り続けることだ、という絶望的な実感を持った。
全てのものは、流れる時間に対して動的でなければならない。地球が回るのも、血液が巡るのも同じことだ。「終わり」と「始まり」の共犯関係は、君は止まってはいけないんだ、というプレッシャーを与える。

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『いまを生きる』(原題: Dead Poets Society)という有名な映画がある。厳格な規律のある全寮制の名門高校に赴任してきたキーティング先生が、詩の美しさを通じて、学生たちに「今を生きる」ことを教える話。
ちょうど一年くらい前に観た時、将来を嘱望されるということの息苦しさとか、自由に生きることと現実とのジレンマに自覚的な”大人の”自分への嫌気とか、色んな感情がのしかかって結構重たい気持ちになったのを覚えている。

この『いまを生きる』という邦題は、映画にも出てくる "Carpe diem" (Seize the dayと英訳される)から来ている。調べてみたら実はこれ、もとは、 ”Memento mori Carpe diem” (死を思え、今を生きよ)というフレーズらしい。
「死を思う」ことと「今を生きる」ことが同列に語られるのは不思議で面白い。でも確かにそうだ。「今を生きる」って実は、死や終わりを意識する、あるいは相対化することなのかも知れない。どれだけ理屈をこねても、今ここを流れている時間は「現在」でしか有り得ない。「今を生きる」とは、なんとなく過去と未来の狭間に存在することではない。それは、いつか終わりがあることを知りながら、それでもだからこそ、見えるとも見えぬともつかぬ、瞬間的なこの時間を踏みしめることなんだと思ってみる。そう思いたい。

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バンクーバーはあと2ヶ月弱。留学生も多いこの町は、人が来ては去っていく。なんともなく「ばいばい」と言った人と、気付けばそれが最後のお別れだったなんてことはよくある。それは悲しいことでもあるけれど、なんだかこの町らしい潔さだとも感じる。

終わりを思うこと。絶え間なく歩き続ける回し車のような人生にも、確かに刹那の魅力があるはずだ。
“Seize the day”
とりあえず、これを帰国までのモットーにしよう。

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