東大の現代文の三つの思想「無意識・非個人性・超日常性」
東大の現代文の三つの思想「無意識・非個人性・超日常性」
(本稿は、2022年10月8日に「Amebaブログ」に発表したものです)
1.東大の現代文は三つの思想を、様々な題材で出題している
本稿は東京大学の入学試験における現代文の問題についてのひとつの試みを叙述しようというものです。東大の現代文の多くの問題は、「無意識・非個人性・超日常性」という三つの思想と関係しているということを見ていきます。
東大の過去の現代文の問題を個々に検討することに加えて、その問題相互の間に内容的な、あるいは思想的なつながりがあるということを見て取ることは、文章を読む楽しみを与えてくれるということをなによりも伝えたいと思っています。
東大の現代文の過去問については、桑原聡編著『東大の現代文25ヵ年[第11版]from1997to2021』(教学社、2022年)と『東大入試詳解25年現代文第2版1995~2019』(駿台文庫、2020年)という2冊の本によって、1995年の問題にまでは遡って読むことができます。本稿では、問題文全文を掲載することをしておりませんので、ぜひこれら2冊の本で全文を参照しながらお読みいただきたいと思います。
この2冊の本で東大現代文を読んでいくと、ある共通した考え方、感じ方が繰り返し出てくることに気づきます。こうした考え方や感じ方を三つの言葉にまとめたものが「無意識・非個人性・超日常」です。これらの言葉が東大の問題文にそのまま出てくるというわけではありません。問題文に述べられている事柄を概念として捉えたものが、「無意識・非個人性・超日常」です。
東大の現代文は過去問が群れをなして三つの思想を展開していきます。ここには、問題文を通じて「無意識・非個人性・超日常」というありようについて受験生に考え、また感じてもらいたいという東大の姿勢がまちがいなくうかがわれます。本稿では、こうした東大の先生たちの「問題意識」を真正面から考えていきたいと思います。
過去問のいくつかの問題で「三つの思想」を読み取ると、別の初見の問題に出会ったときに読解の手がかりになるという面白い読み方ができるようになります。本稿では、東大入試における現代文の異なった年度の過去の問題を、その内容に着目して相互に関連づけながら読むとどういう世界が見えてくるかを探求していこうと思っています。たとえば2001年度第一問という古い問題があります。この問題の最後の設問は、どういうことをどうまとめて書けばよいのか見当がつかないような大変な難問になっていて、東大現代文史上最も難しい問題のひとつであると思います。その際、それ以前に出題された1996年度第5問と、同じ年に出題された2001年度第四問に書かれた内容を手がかりとして読めばなにかが見えてくる、そうしたプロセスを叙述してみたいと考えています。
あるいは現在もっとも新しい問題である2022年度第4問もまた、過去の問題と関係づけることで多くのことが見えてくるという問題になっています。過去問がどのようにこの問題に現れてくるのか、そのようにして読み解いていくことも、読むということの楽しさを教えてくれるはずです。
先述来の「三つの思想」のすべて、あるいはそのうちのいずれかが現れている過去問が以下のとおりです。35題あります。「出題年度―問題番号」で表しています。「★」のマークは、内容が芸術論であることを示します。本稿では、東大現代文で多く出題されている芸術論を突破口にして東大現代文に入り込んでいきます。
★1996―5、★1999―5、2000―1、★2000―4 ★2001―1、★2001―4、2002―1、2003―1 ★2004―4、2005―1、2005―4、2006―4
★2007―4、★2008―4、★2009―1、2010―1 ★2010―4、2011―1、2011―4、★2012―4 ★2013―4、2014―1、2014―4、2015―1、2015―1
2016―1、2016―4、2017―4、2018―4、2019―4 2020―1、★2020―4、★2021―1、★2021―4 ★2022―4
東大現代文における「無意識・非個人性・超日常」の思想は実践につながっている、すなわち受験生が生きることにかかわっています。ここでは、「無意識」ということを取り上げてみましょう。東大現代文では、「無意識についてこう考えると、こういう効用がある」というようなストレートで一般的な書かれ方をした文章は出題されていません。どういう問題提起のもとで文章が書かれているのか、それを読み取らなければなりません。
「実践」ということで、無意識ということに思いをめぐらすことで、私たちにはどういうことができるようになるのか。2008年度第四問は、舞台での役者の演技のあり方を問う問題でした。役者の演技のありようを学ぶことが私たちの生活にどうかかわってくるのか。役者の演技について深く考えることが、一見関係のまったくなさそうな、「河川という空間の整備をいかに行うか」ということをテーマとする問題(2011年度第一問)とつながっているというふうに東大の現代文は「無意識の思想」を次々と構成していくありようを見ていきたいと考えています。この2問は文章の題材も使用される言葉も概念も異なっているけれども、同じ方向性をもつ考え方として読むことができるものなのです。
あらかじめお断りしておくと、本稿ではさまざまな事柄を「無意識」というひとつの言葉で表しています。精神分析的な意味、意識しないままで自分の中になにかが起きるというような状態、あるいは突然思いもかけない外的なショックを受けるという状況などです。たとえば2022年度第四問では、「意識の彼方からやって来るもの」という表現が二度でてきます(武満徹「影絵(ワヤン・クリット)の鏡」、『樹の鏡、草原の鏡』所収、新潮社、1975年)。こうした表現も本稿では「無意識」という言葉に含めて考えています。
「意識」という言葉についても、一定のイメージを持っておきましょう。専門家の間でもその定義は様々ですが、次のようなまとめられ方は親しみやすいものと思われます。
〔引用文〕
〔意識という言葉で〕モノやコトに注意を向ける働き(awareness)と、自分は自分であることを認識できる自己意識(self consciousness)を合わせたものを指すことにする。要するに、自分は今、見ている、触っている、喜んでいる、記憶を思い出している、自分のことを考えている、といったいろんなことを感じる、心の重要な感覚だ。(前野隆司、『脳はなぜ「心」を作ったのか=「私」の謎を解く受動意識仮説』、ちくま文庫、2010年、22~23頁、なお同書では、意識が心を統合的にまとめる作用だという一般的な見方がくつがえされていきます)。
上の前野氏の意識の定義ですが、「モノやコトに注意を向ける働き(awareness)」という点などは、「注意」という言葉の意味があらためて問題になりそうです。
ただ、前野氏が強調したいことは明らかだと思われます。意識とは、心がある物事に特に向けられているような状態であるとされます。心というものは意識されない部分が膨大にあると思われます。そうした点からいえば、意識とは心の極めて狭い部分だということがポイントなのでしょう。
19世紀の生理学者アドルフ・ホーヴィッツによれば、意識について核となる三つの観点は次のようにまとめられます。意識というものについて、非常に豊かなイメージをもたらしてくれる観点です(山本恵子、「無意識の美学—ニーチェと現代」に紹介されています。無意識の美学 (jst.go.jp))
(a) 意識は何かを指向するところのものである
(b) 原則的に意識は狭小で制限的であり、意識へは常に部分しかやってこない
(c) 意識にやってくるのが何らかの明晰さや明瞭さであること(強調は引用者)
やはり、意識とは特定のものに向かう働きであるとされ、このことは、心というものが一定の物事に特に向けられてある状態であることを意味します。そして、ホーヴィッツははっきりと、意識は、「原則的に狭小で制限的」であるとしています。いわば広大な心というもののうちのごく一部だということです。
ここからひとつのことが言えそうです。私たちは、たとえば「意識的にやることが重要だ」と度々口にし、また耳にします。しかし、意識というものが「原則的に狭小で制限的」であるのならば、「意識的に」ということの持つ意味はどう考えられるべきなのか、という問題がでてくるということです。そして、本稿では、東大現代文はまさにこの問題を問うているのだということを見ていきます。
(※意識については、「原則的に狭小で制限的である」ということに加えて、「遅れたものである」という側面もあります。何かがある、何かが起こった、そのとき意識は、その結果を手にするということが本質としてあるという側面です。もちろん、そこから意識はあらためて自らの働きをなすという面もあります。このことについては、本連載第2回以降を参照してください。)
本稿は東大現代文に、「無意識・非個人性・超日常」というテーマを見出していきますが、「死」というテーマをめぐって一連の問題を集中的に取り扱った書物があります。東大現代文に関しては、教養書として一般向けに書かれた紹介と解説の本がいくつか出版されていますが、その中でも随一、出色の名著といえるのが、竹内康浩著『東大入試至高の国語「第二問」』(朝日新聞出版、2008年)です。その冒頭で取り上げられる、金子みすゞの詩の中でも広く知られている「雪」と「大漁」という二編の詩が出題された1985年度第2問(ただ、当時は金子みすゞはまだあまり知られていませんでした)の解説だけでも読んでもらいたいと思います。東大現代文という大学入試問題の妙と竹内氏の読解の筋に驚嘆し、いつのまにか最後まで読破していることになること間違いなしです。たとえば、金子みすゞの詩と映画の寅さんのセリフ(1992年度第二問)、大人がよく口にする「とんでもありません」という言葉(1998年度第二問)、これらが「死」ということを通じていかに関連しているのか、「様々な事柄を関係づけて読むことの楽しさ」を存分に味わえることと思います。
東大のホームページで読むことのできる「アドミッション・ポリシー」では、「(前略)入学試験の得点だけを意識した、視野の狭い受験勉強のみに意を注ぐ人よりも、学校の授業の内外で、自らの興味・関心を生かして幅広く学び、その過程で見出されるに違いない諸問題を関連づける広い視野、あるいは自らの問題意識を掘り下げて追究するための深い洞察力を真剣に獲得しようとする人を東京大学は歓迎します」とあります(強調は引用者)。この「関連づける」ということを、本稿でもこれからやってみます。
2.意識と無意識という問題の日常性と東大現代文との距離
東大現代文の「三つの思想」のうち、意識と無意識ということを考えてみましょう。学問的な場面にとどまらず、日常の多くの事柄において多くの人々が「意識」、「無意識」という言葉で物事を考えています。先に少し触れましたが、私たちは、ふだん「意識的にやることが重要だ」と考え、意識が行動の起点であると考えがちです。言いかえると、ふだん私たちは、意識的に考えて、そのうえで計画し、行動を決めていくなどと思っているのではないでしょうか。だから、なんらかの事柄をなそうとするときに、意識的な姿勢ということを重視することになります。
その一方では、スポーツでなぜ練習を重ねるのかと言えば、「意識しないでも」身体が反応するようになるためとの答えが返ってくるでしょう(「ゾーンに入る」という言葉もよく言われます)。銀行や証券会社の一部では新入社員が大きな恥を感じるような激しい研修を行うと言われていたことがありました。一度存分に恥を感じて、「あれだけの恥や厳しさを経験したのだ」という強い無意識が残っていれば、利益をあげようとするときなどに多少の強引な行動をするにも気後れしなくなるという意図であろうなどとも考えられます。いわゆる自己啓発などでは、「無意識を鍛える」ということも言われています。あるいは、音楽がテーマの映画やドラマの多くでは、「誰かのために」と、無意識に思いがわき上がってきたようなときに素晴らしい歌や演奏になるという展開が見られます。こうした例で考えると、必ずしも意識ばかりでなく、無意識ということの働きや効用にも一般的な理解があると言えるでしょう。
さらにひとつ日常、目にする例を挙げてみましょう。ゼロ年代中頃から高校野球の優勝チームの選手たちは、優勝が決まった次の瞬間にはマウンド(ピッチャーの投げる場所)付近に集まり、全員で人差し指を空に向かって立て、挙げています。以前はマウンド近くでひたすらわきあがってくる喜びに身をまかせるかのように互いに身体を抱き合うなどして触れ合っていたのが(清原和博氏はそのときの記憶がないとどこかで言っているほどです)、現在の高校生たちは互いに触れ合いつつも、片方の手では人差し指を立てるポーズをつくっています。これは「意識」していないとできないポーズでしょう。
高校生としては最大限にまで、状況に無意識的に反応できるようになるよう身体を鍛え上げ、意識せずとも考えるべきことを考え、無心でプレーしてきた選手たちが、最後に見せるポーズは相当に意識的なのです。「喜びをどう表しても人の勝手」というレベルを超えて、意識と無意識のありようを考えるということについての興味深い行動であると思います。今の時代の東大受験生たちは、そして東大現代文であれば、優勝決定の次の瞬間、ひたすら抱き合い触れ合うことと、片手では指を立てることのどちらを選ぶでしょうか。
今、私が挙げたような事柄は、非常にとっつきやすい意識と無意識という問題についての例です。しかし東大の現代文では、スポーツのような分かりやすく、直ぐに実感しやすい例はないし(「武道」ということが一度、並べられた例のひとつに挙げられていたことがあります。2009年第一問、原研哉、『白』、中央公論新社、2008年)、また、「意識よりも無意識を働かせると様々な効用があるのである」というような一般論的な文章もなく、このあたりが難しいところです(先述の2022年度第四問「意識の彼方からやって来るもの」という表現はかなりわかりやすい、例外的なものと言えます)。
3.東大のいう「体験の総体」と芦田宏直氏の〈像〉で読むということ
★東大のいう「自己の体験の総体」と現代文
東大は、受験生へのメッセージで、国語という科目の問題への取り組みについて、受験生に対し、「自己の体験総体を媒介に考えることを求めている」と述べています(高等学校段階までの学習で身につけてほしいこと | 東京大学 (u-tokyo.ac.jp))。東大現代文には読み手(受験生)が自己の主観を完全に排して、ひたすら問題文中の言葉を論理的に詰めていくことで客観的に読むことのみをただ求めているのではないのではないか、東大は自己の体験や、その体験をもとに考えていることと問題文に書かれていることとの距離を測りつつ、問題文に触発されながら考えることを求めているのではないか、と思われる面があります。
ここで、こうした「体験の総体」について述べた東大の受験生に向けたメッセージを、東大現代文を読んでいくため重要な文章と思われるので、全文を引用してみましょう。強調は引用者によるものです。
〔引用文〕
高等学校段階までの学習で身につけてほしいこと
東京大学を志望する皆さんには、アドミッション・ポリシーにも明示されているように本学に入学するまでに、できるだけ多くのことを、できるだけ深く学んでほしいと思います。以下、本学を受験しようと考えている皆さんに向けて、高等学校段階までの学習において、特に留意してほしいことを教科別に掲げます。
【国語】
国語の入試問題は、「自国の歴史や文化に深い理解を示す」人材の育成という東京大学の教育理念に基づいて、高等学校までに培った国語の総合力を測ることを目的とし、文系・理系を問わず、現代文・古文・漢文という三分野すべてから出題されます。本学の教育・研究のすべてにわたって国語の能力が基盤となっていることは言をまちませんが、特に古典を必須としているのは、日本文化の歴史的形成への自覚を促し、真の教養を涵養するには古典が不可欠であると考えるからです。このような観点から、問題文は論旨明快でありつつ、滋味深い、品格ある文章を厳選しています。学生が高等学校までの学習によって習得したものを基盤にしつつ、それに留まらず、自己の体験総体を媒介に考えることを求めているからです。本学に入学しようとする皆さんは、総合的な国語力を養うよう心掛けてください。
総合的な国語力の中心となるのは
1)文章を筋道立てて読みとる読解力
2)それを正しく明確な日本語によって表す表現力
の二つであり、出題に当たっては、基本的な知識の習得は要求するものの、それは高等学校までの教育課程の範囲を出るものではなく、むしろ、それ以上に、自らの体験に基づいた主体的な国語の運用能力を重視します。
そのため、設問への解答は原則としてすべて記述式となっています。さらに、ある程度の長文によってまとめる能力を問う問題を必ず設けているのも、選択式の設問では測りがたい、国語による豊かな表現力を備えていることを期待するためです。
1)文章を筋道立てて読みとる読解力、2)それを正しく明確な日本語によって表す表現力、つまり、問題文の言葉の論理を正確に辿り、その上で、問われている内容に関して的確な表現をする。このふたつの事柄については、国語の学習や受験指導においてまさに基本とされるべきことでしょう。本稿ももちろん、問題文そのものの論理を言葉で辿ります。しかし東大はこれらに加えて通常の、特に受験国語の世界にとっては意表を突かれるようなことを要請しています。「自己の体験総体を媒介に考えることを求めている」、「自らの体験に基づいた主体的な国語の運用能力を重視」するという具合に、二度も「体験」という言葉を国語学習の中に重要なものとして位置づけているのです。
現在の大学受験の現代文指導は、高校や予備校の現場では様々なありようで行われているかもしれませんが、参考書のレベルで見れば、ほぼすべてのものが、「自分の主観を排して、問題文の言葉を論理的に読み、筆者の主張を正確に読み取る」ことに主眼が置かれています。「論理的に読む」とは、例えば評論文であれば、筆者の問題提起と筆者のとる立場を正確に押さえて、その理由や根拠となる言葉を捉えていくことや、反対の立場と筆者の立場との二項対立的構造を踏まえて、問題文の言葉がどの立場のものかを対比的に捉えることなどに留意して読み進めることであるなどと言われます。ここまでは、まさに東大のいう「総合的な国語力」の一番目の、文章を筋道立てて読みとる読解力の要請に沿うものです。
その際、受験指導参考書では、筆者の主張を正確に捉えるためにはなによりも「自分がどう思うか、考えるかなどの主観を排すること」が強調されます。ここにおいて、「自己の体験」 を強調する東大のメッセージは、どのような意味をもつのでしょうか。それは文章の読解に「自分の主観を持ち込む」もの、読解における誤解を呼ぶ危険なものではないのでしょうか。
東大が「自己の体験」をもとに考えることをいかに重視しているかは、「外国学校卒業学生特別選考小論文問題(第1種)」に現れています。文科三類における同選考問題では、2019年には、「謙虚さは美徳であるという価値観について、あなたの考えを述べなさい」、また「現代社会では人間の持つ多様性を尊重することが求められるようになってきている。多様性にはさまざまな側面があるが、その中から一つを取り上げ、これについて論じなさい」、という出題がなされています。その際、「できるだけ自分の国の事例や自身の経験を交えて論じること」が両問題において求められました。
さらに2020年には、「私たちは「ことば」を使う存在だといわれる。「ことば」とはどういうものといえるか。自分の経験をもとにして論じなさい」という出題がなされました。これらは小論文問題であり、与えられたテーマについて自分で思考の枠組みをつくることが求められ、その枠組みを支えるものが自己の体験なのです。
★文章の〈像〉の全体性をつかむこと
では、東大現代文を「読む」ときに、「自己の体験」をもって臨むことの具体的な意味は何でしょうか。体験ということは、実際の生活での感覚、知覚、感性、知性、想像力、身体各部の動きなどをはじめ、人間の総体的なありようをいうものでしょう。「現代文にセンスは必要か」という古くからの問いがある。東大の立場からすれば「必要である」と答えることになりそうです。では、「自己の体験」をもって文章に臨めば何を得られるのでしょうか。それはひとつの「像」ではないしょうか。そして文章の「像」をもって読むことが東大現代文を読むということなのではないでしょうか。ここでひとりの哲学者の読書論を読んでみましょう。
哲学者で現在もっともユニークな批評家でもある芦田宏直氏はつぎのように述べています。
〔引用文〕
二十年ほど前、誰かがこういうことを言っていました。書物には、著者の〈入射角〉〈出射角〉があると。彼は著作の動機を〈入射角〉、解決場所を〈出射角〉と呼んだわけです。私の言葉で、その意味でもう一つ突っ込んで言うと、それは書物の〈像〉というようなものです。読み込んでいくと書物が継起的な言葉の羅列から離れて著者の〈像〉や書物の意味の〈像〉のように見えてくる瞬間がある。その〈像〉から自然と逆照射されるいくつかの言葉やフレーズがある。それが〈入射角〉や〈出射角〉の言葉です。それは論理的な演繹で辿れるものではない。書物の全体とは、言葉の全体ではなくて、〈像〉の全体性なのです。(『努力する人間になってはいけない 学校と仕事と社会の新人論』、ロゼッタストーン、2013年、88頁。強調は引用者)
まさに東大現代文には、「論理的な演繹で辿れるものではない」ものがあります。そういった文章が選ばれています。「意識と無意識」という問題を考えるときにも、前述のように、スポーツなどの直感的に分かるような題材は選ばれず、また、「意識よりも無意識的な側面を重視することからこそ生まれるものがある」というような一般的な命題は提示されません。文章を論理的に整理していく、しかしそれだけでは文章の核に届き切らないものがあります。「言葉の全体」を論理的に辿っても文章の核を捉えきれない、論理に加えて、「体験の総体」をもって考える姿勢がなければ読むことができない、そこで「体験の総体」をもってすると浮かび上がってくるものが、芦田氏の言う〈像〉ではなかろうかということ、これが東大現代文を読むときの基本的な姿勢ではないかということを考えています。〈像〉を浮かび上がらせるものは、読む者各自でしかありえないでしょう。それはその者の「体験の総体」によるというほかないのではないでしょうか。
文章を「体験の総体」で読むということ、〈像〉の全体性で読むということ、この二つのことは東大現代文において具体的には一体どういうことなのかをこれから見ていきたいと思います。さらに本稿では冒頭でも触れたように、東大現代文の中から「無意識・非個人性・超日常」をテーマとするものとしてまとめられた一群の問題に書かれた具体的な内容を相互に参照しつつ読んでいこうと考えています。東大のある年度の問題に書かれた内容を、別の年度の問題の読解の導き手とする、こうした具体的な例をいくつか示したいと思います。
東大は現代文の「高等学校段階までの学習」ということを強調し、大学入学までに知っておきたい考え方や感じ方という観点から問題文が選ばれているようです。目立つところでは、環境問題についての基本的な観点(2000年度第一問、2004年度第一問、2012年度第一問)、都会の時間とはちがった田舎の時間の感覚(1995年度第五問、2009年度第四問)などをはじめ、ほかにも芸術に関する基本的な考え方なども多いです。2001年度第四問の本文には、「われわれの文学的な言葉が抱え込む共通の価値を一言でいえというなら、それは「孤独」である」という一文があります(岡部隆志『言葉の重力―短歌の言葉論』)洋々社、1999年)。これは、文学というものについては、それが「孤独」ということに関わるものだということをまずは踏まえておいてほしいという問題文を通じたメッセージではないでしょうか。そして後にみるように、事実、この考え方や感覚をもってすれば読む方向
性が見えてくる問題を東大は出題しています。
それでは、まず、一題読んでみましょう。2008年度第四問です。
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