東大現代文2008年度第四問 東大現代文を統一的に読む~東大現代文の3つの思想「無意識・非個人性・超日常」第2回 

東大現代文を統一的に読む~東大現代文の3つの思想「無意識・非個人性・超日常」第2回 2008年度第四問 
(本稿は、2022年10月8日に「Amebaブログ」で発表したものです。)

2008年度第四問を読む 舞台での役者と感情の昂まりの表現

★解答例 文字数は、句読点抜き、文字のみで最大74文字を基準としています。

設問(一)
(役柄の感情のあり方を推測するのでもなく、ましてや)セリフが特定の身体状態の過程に由来するとは思いもせず、「嬉しい」という言葉に対応する一定の振る舞い方があると想定して演じようとすること。

注:東大の解答欄に書くには長すぎるので、冒頭のカッコ内はなくてもかまいません。

設問(二)
定刻に必ず涙を流せることに驚嘆しつつも、実は演技を離れた、涙を流すという技術があるにすぎないのではないかという疑念をもっているということ。

設問(三)
感情を表現しようと、個人的な出来事を想起することにより、役柄を全身で演じ切ることによって生まれる感情の高まりを表現しきれていないということ。

設問(四)
五つの解答例を用意しました。
①感情とは、現実に対する身体の状態(の名)であり、その発生後に意識されるものなので、役柄の心のあり様を予め意識的に想定せず、ただ、全身で演じれば自ずと表現されるということ。

②感情とは、現実に反応する身体の状態自体であり、全身で演じれば自ずと表現されるため、予め意識的に役柄の心のあり様を想定して演じるべきではないということ。

③感情とは、身体の動きの中に充溢しているもので、役者が全身で演じることで自ずと表現されるため、予め意識的に心のあり様を想定して演じるべきではないということ。

④実際の生活と同様に舞台でも、役柄を全身で生きることにより自ずと感情は生まれ、表現されるので、予め意識的に心のあり様を想定して演じるべきではないということ。

⑤舞台での感情の高まりの表現は、役柄の状況を全身で演じれば自ずと生まれるので、予め意識的に心のあり様を想定して演じるべきではないということ。

 たとえば、「うれしくなりなさい」と言われて、ただ「うれしくなる」ことはできません。うれしくなろうと意識したからといって、それだけではうれしくなれません。しかし、「私は音楽を聴けばうれしい気分になれる」ということに思い至れば、音楽をとおして「うれしくなる」ことができます。つまり、「感情」というものは、たとえば、音楽を聴く耳という身体部分への刺激をとおして、いわば「作り出す」ことができます。感情は身体の反応と関係がありそうです。
 あるいは、「好きなものを思いきり食べる」ということも、「口などの身体をとおして、うれしいという感情をつくること」と言えます。当たり前のようですが、ただただ「うれしい気持ちになりたい」と思ってもうれしくはなれないのですね。
 こうした、ごくごく日常的な事柄と、演劇について書かれた本問とは通底する問題意識を扱っています。意識、無意識、身体という問題です。
 そして、本問はたしかに、演劇というひとつの芸術を扱った文章ですが、
東大の先生たちの出題意識は、私たちの生き方そのものを問うものとなっています。それは、私たちは意識して何かをなそう、なそうとする、しかし、無意識の力をもっと生かすべきではないだろうか?という問いです。

 本文では、まず冒頭で「ただただうれしいという気持ちになろう」とする女優が登場します。日常生活でひたすらうれしくなろうとしてもできない、ということはすぐに分かることです。しかし、なぜか、演劇、演技となると、ただ「うれしいという感情」を追い求めるという、奇妙ないわば「逆転の発想」というような考え方をしてしまうんですね。
 あと、演技をするときに、役者自身が自分の個人的な感情の体験を持ち込んで演技をするということがあるかもしれません。これは演技を良くするものなのでしょうか?それとも演技のテンションを下げてしまうようなものなのでしょうか?
 演劇という芸術は、個人的なものを超えたもっと凄まじいものなのではないでしょうか?
 芸術に個人的な事柄を持ち込むことには厳しい批判を向ける芸術論があります。芸術とは個人を超えた、もっともっとスケールの大きなコスモス的なものだというのです。逆に、芸術家という個人の個人的な事柄からこそ、よい芸術が生まれる、芸術家個人の悲痛な体験の意味を無視してはいけないという芸術論もあります。
 後者の芸術論のほうがなじみやすいという面が強いと思いますが、人生で一度は前者の芸術観の方を採ってみてもいいと思います。本問では、どちらかといえば、前者の考え方に立って読み進める方が、内容にスムーズに入っていけそうです。

1.演劇についての〈像〉

★連載のはじめにまず、2008年度第四問を取り上げてみましょう。竹内敏晴『思想する「からだ」』(晶文社、2001年)からの出題です。演劇における役者の 感情表現が主題となっています。
 本問を、関連事項をまじえて読んでいきたいと思います。本問の核心を捉えるための手段のひとつとして演劇以外の話を見ていきたいと思います。

 生の演劇を見たことのある高校生はさほど多くはないでしょう。本問も実際に観劇体験が豊富な受験生を想定して作られたとは考えられません。ただ、映像での舞台体験や映画やテレビドラマでの俳優の演技とのアナロジーで演劇について考えることはできると思います。本問では、演劇や役者について、あらかじめどのような〈像〉を持っているかで読む方向性が変わっていくと思います。

★芸術に対する基本的視点 「見えないボールをつかむ、見えない力を見えるようにする」

 最初に、芸術というものを考えるときに必要と思われる最も基本的な観点のひとつに触れておきましょう。次の一文を読んでみてください。

〔引用文〕
 確かに私達はこの現実の中で生きている。そこで恋愛し、殺し合い、死んでいく。ところが私達の思考はそうしたものを超えた、見えないものを求めて常に活動している。(渋谷陽一、『音楽が終った後に』、ロッキングオン、1982年、97頁、強調は引用者)

 この文を書いた渋谷陽一氏は、「ロック」と呼ばれた音楽の評論家です。ビートルズ、レッド・ツエッペリン、クイーン、セックス・ピストルズなどのグループについて、評論を書いていました。渋谷氏は音楽に関わるということを、日常的、人生的なものとは違ったレベルにあることとして捉えます。それは、「見えないものを求めて常に活動している」こととしてまず位置づけられます。
 音楽に関わる、たとえば聴くということには、人それぞれに楽しんだり、慰めを得たりなど様々なありようがあるでしょう。しかし、渋谷氏の言う音楽(ロック)とはそうしたレベルのものではない、凄まじいものです。それはなにか超越的なものだと言っていいかもしれません。

 少し長いですが、次に引用する文章を読んでください。渋谷氏の同書、145~146頁です。おそらく、中学生・高校生が読めば、生活が、世界の見方や感じ方が根底から揺さぶられるだけの力を持つ文章であると思います。
 ある映画について書かれたものです。「ミケランジェロ・アントニオーニ」という、イタリアの映画監督がいました。これから引用する文章は、このアントニオーニ監督の1966年の作品『欲望』(原題は“Blow Up”、「写真の引き伸ばし」という意味です)についてのものです。ヨーロッパ映画らしく、難解で、そのテーマが謎、という映画なのですが、渋谷氏は見事にこの作品を解釈します。引用してみましょう。

〔引用文〕
 主人公のカメラマンが公園で殺人事件を目撃し、カメラに収める。家に帰って現像するがはっきりとは写っていない(☆)。かすかに何かが写っている部分を必死で引き伸ばし拡大してみるのだが、曖昧なものは全て変化しない。
 公園に行っても事件の痕跡は全く残っていない。そこでカメラマンはだんだん混乱してくる。彼は自分の記憶の確証をフィルムに求め、なおも引き伸ばしを続ける。むろん確証は得られない。
 映画の最後に主人公は奇妙な一団に出会う。異様なスタイルをした何人かの男女がテニスをやっているのだ。
 しかし彼らはラケットもボールも使っていない。それでもその一団はテニスを楽しんでいる。それを観ていた主人公の前に見えないボールがころがってきて、奇妙な男女は主人公にボールを投げてくれるように要求する。
 主人公はかがみこみ、その見えないボールを手にする。そこで映画は終わってしまう。
 ロックとはその見えないボールを持つことなのである。
 映画のラストで現実は見事にひっくり返される。彼が写真を引き伸ばして行くことによって得られると思っていたものはその時すでに現実ではなくなり、彼は見えないボールの方を選んでしまったのである。彼にとってはそれが現実になったのである。
(中略)写真を引き伸ばしていったい何が見えるというのだ。
(中略)ツエッペリン[LED ZEPPELIN、英国のロック・バンド、1968~1980]は、「ステアウエイ・トゥ・ヘブン」(注:邦題「天国への階段」という名曲)でひとつの宣言をした。今確かなものは音楽しかなく、だから僕らはそのチューンを鳴らすのだ、と。これはかけ声のようなものでもあるし、唯一無二のメッセージともいえる。つまり彼らは、「僕らは今、見えないボールをつかんだのだ。」と言ったわけだ。

(下線による強調は引用者。☆引用者注:実際の映画では、カメラマンが、公園にいた独特の雰囲気のあるカップルを撮影して、現像した後に、殺人事件の影を認めます。この点は、渋谷氏の記憶違いですが、当時は、ビデオもなく見直すこともできなかったので、やむをえないです。)

 どうでしょう。渋谷氏はロック音楽について、それは日常を超えたレベルにある、見えないが確かなものをつかむものだ、と言うのです。「もしも全てのものが相対的であり、僕らの生そのものも、そうした相対性の中でしか位置付かないとしたら、一体僕らの生とは何なのだ」(同書155~156頁)と渋谷氏は書きます。すべてが相対的なものと思われる中、音楽だけは確かなものなのではないか。そう渋谷氏は問います。
 たしかに音楽は目に見えない芸術として、特異なものです。たとえば絵画や写真、映画などとは異なった衝撃を人間の感覚にもたらすもので、見えない力をそのまま表現することができると言えそうです。これこそは確かなものだ、という感覚や確信を与えてくれる存在でありうるでしょう。

 その一方では、絵画について、次のような、思わずあっと驚くようなことを言った人がいます。

〔引用文〕  
 絵画の使命とは見えない諸力を見えるようにする試みとして定義される。同じように音楽は、音的でない諸力を音的にするように努める。(ジル・ドゥルーズ、『フランシス・ベーコン 感覚の論理学』、宇野邦一訳、河出書房新社、2016年、79頁、強調は引用者)。

 ジル・ドゥルーズは20世紀のフランスの哲学者です(1925~1995)。「速くあれ、たとえその場を動かぬときでも!」という言葉をはじめ、人をなにかへと促し続ける言葉を書き続けた哲学者でした。現代文にも影響を残していて、2008年度第一問の筆者、宇野邦一氏は、フランスの大学でドゥルーズに直接学びました。また大学入試で頻出の國分功一郎氏の研究の専門のひとつがドゥルーズです。ドゥルーズ的発想が國分氏の文章の多くの箇所に見られます。
 このドゥルーズによれば、たとえば、有名なゴッホの「ひまわり」の絵は何を表現しているのでしょうか。

 〔引用文〕
 ヴァン・ゴッホはまさに未知の諸力、ひまわりの種子の驚異的な力を発見したのだ。(同書、81頁、強調は引用者)

 ゴッホのあの色彩は、ひまわりの種子に内在している「見えない力」を表現している、言いかえると、ゴッホは、ひまわりの種子の持つ見えない力を見えるようにし、それを私たちは感じ取るのだ、というのがこの一文の趣旨です。ゴッホの「ひまわり」は、学校でも必ず習うわけですが、ドゥルーズのような捉え方はかなり異色だな、と感じるなのではないでしょうか。
 さらに、ポール・セザンヌの絵について、こう書かれます。

〔引用文〕  
 岩は岩がとらえる褶曲の力によってのみ存在し、風景は磁力と熱の力によって、リンゴは発芽の力によってのみ存在する。(ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ、『千のプラトー——資本主義と分裂症』中巻、宇野・小沢・田中・豊崎・宮林・守中訳、河出文庫、2010年、385頁、なお、前掲『感覚の論理学』81頁参照)
 
 セザンヌというと、岩山であるサン・ヴイクトワール山や、リンゴ、モモなどの果物の絵が知られていますが、これらの絵は、岩に働いていたり、リンゴに内在したりしているような「見えない力」を見えるようにしたものだ、とドゥルーズ&ガタリは述べます。自然の中の見えない力の働き、物の存在や形態を生み出し、支える見えない力を可視化したもの、それがセザンヌの絵だと言うのです。
 音楽も絵画も、日常を超えた「見えない力」を見出したり、感じたり、創造したりすること、こうしたことに関わっているのだという観点を私たちはここで得ることができました。

★演劇というものの〈像〉と超日常性

 ここで、東大現代文2008年第四問に戻りましょう。先に私は本問について、「舞台演劇についてあらかじめどのような〈像〉を持っているかで読む方向性が変わっていく」と述べました。では、演劇について、あるいは本問で問題となる俳優の演技について、どのような、〈像〉がありえるでしょうか。
 演劇を見ると例えば、「うまい演技だ」、「面白い筋だ」、「圧倒的な力を感じる」など様々な感じ方があると思います。これらを二つの〈像〉に整理してみましょう。
 まず、①役者が、ある状況での役柄の人格や様々な感情などを表現し、出来事を構成するものが演劇である、という像があるでしょう。
 しかし、本問の内容により迫ることのできる演劇〈像〉は、②演劇とは、いかに日常を扱っていたとしても、役者や装置、照明が織りなす、日常とは別の、あるいは日常を超えるような力と力とが行き交う空間世界を創り上げるものである、というような「力にあふれた空間の創造」というものであろうと思われます。
 先取りして述べると、こういう「力にあふれた空間」には役者の個人的なものは邪魔になるというのが、本文の演劇観・演技論です(しかし、役者の個人的体験というものを重んじる演劇・演技論も、もちろんありえます)。この②の〈像〉は、前述の音楽や絵画についての日常を超えた見えないもの、「見えない力」というものからも得られるものです。

★さらにこの、「芸術とは日常を超えた世界に関わるものだ」ということについて、別の東大現代文の過去の問題から考えてみたいと思います。東大の現代文の過去問を相互に参照していけば、一体東大が受験生にどのような事柄を知り、感じ、考えてほしいのかという全体的なイメージをもつことができることと思います。                
 芸術とは日常を超えたレベルにあることに関わるものだ、ということについての過去問のひとつめは1999年度第五問、歌人の土屋文明について書かれた文章です(柳澤桂子『生と死を創るもの』)。そこでは、「生活を詠うといっても、単に日常の雑事を歌にすればいいというのではない。『他人の心に深く訴える』ようなものでなければならない。人間の生理、心理とはかけ離れたところから出発して、なおかつ感動をあたえようというのである」と言われます。
 ふたつめは、2010年度第4問、小野十三郎「想像力」です。「(前略)もし詩人が自ら体験し、生活してきた事からだけ感動をひきだし、それを言葉に移すことに終始していたならば、詩人なんてものは、人間にとって、あってもなくても一向にさしつかえのないつまらないものになるだろう。詩が私たちに必要なのは、そこに詩人の想像力というものがはたらいているからであって、それが無いと、謂うところの実感をも普遍的なものにすることはできない」と書かれています。
 このふたつの引用文の内容は芸術についての基本的な考え方として、まさに「高等学校段階までに」知っておくべきような事柄でしょう。短歌や詩というものは、日常をそのまま歌っても作品にはならない、なんらかの、たとえば想像力による加工というようなプロセスがなければ、人に訴えるようなものにはならないという思想です。

★本問に戻りましょう。2008年度第四問を読むためのひとつの必要と思われる〈像〉は、舞台とは場の力が高まっていき、力が行き交うようになる空間であるというものでした。本問は先述のように舞台での感情の昂まりが生まれるためには役者はいかに演じるべきかを論じるものであるところ、「感情の昂まり」のみならず、舞台そのものを、「力の高まっていく場」という像で捉えることが本文全体の〈像〉に迫る鍵になるのです。
 では、どのようにすれば、舞台が「力の高まっていく場」になるのでしょうか。感情表現というものの高まりを表現するにはどうすればいいのでしょうか。本文の展開を見てみましょう。

2.本文の展開 三種類の女優たち 特に泣く女優のなにがだめなのか

★本文の展開は、三種類の女優たちとともにあります。順番に見ていきましょう。
Ⅰ.「二流の役者がセリフに取り組むと、ほとんど必ず、まずそのセリフを吐かせている感情の状態を推測し、その感情を自分の中にかき立て、それに浸ろうと努力する」。例えば「嬉しい」というセリフがあれば、嬉しい気持ちになろうとする。その際、女優たちは、「どうもうまく『嬉しい』って気持ちになれないんです」といった言い方をすることになる(チェーホフの『三人姉妹』の末娘イリーナの第一幕の長いセリフの中に「なんだってあたし、今日こんなに嬉しいんでしょう?」(神西清訳)という言葉が例にとられています)。
Ⅱ.さらに、それ以下の役者は、感情の状態を推測すらせず、浸ろうともせず、ただ感情を表面的な身振りで演じようとのみします。たとえば、いかにもう「嬉しい」というセリフに合う身振りで演じようとする。女優は、「まず『ウレシソウ』に振舞うというジェスチュアに跳びかかる」のです。
ここで竹内氏は、「感情とはなにか、そのことばを言いたくなった事態にどう対応したらいいのか」と問題をたてます。そして、最終段落に「感情の昂まりが舞台で生まれるには「感情そのもの」を演じることを捨てねばならぬ、ということであり……」とあることから、舞台で「感情の昂まり」の表現を生み出すために、役者はいかに演じるべきなのかがテーマであることが分かります。
Ⅲ.そして、この問題提起に応じて、さらに第三の女優が登場してきます。このタイプの役者は悲しみの表現をする際に実際に涙を流す演技をしてみせます。涙を流したいときに涙を流すことは演技とはいえ驚くべきことである旨を一旦、竹内氏は書きます。しかし続けて次のように書くのです。

〔引用文〕
 数年演出助手として修業しているうちにどうも変だな、と思えてくる。実に見事に華々しく泣いて見せて、主演女優自身もいい気持ちで楽屋に帰ってくる――「よかったよ」とだれかれから誉めことばが降ってくるのを期待して浮き浮きとはずんだ足取りで入ってくるのだが、共演している連中はシラーッとして自分の化粧台に向っているばかり。シーンとした楽屋に場ちがいな女優の笑い声ばかりが空々しく響く、といった例は稀ではないのだ。「なんでえ、ウ自分ひとりでいい気持ちになりやがって。芝居にもなんにもなりやしねえ」というのがワキ役の捨てゼリフである。

 東大の設問は、下線部ウ、「自分ひとりでいい気持ちになりやがって。芝居にもなんにもなりやしねえ」とはどういうことかを説明せよ、というものです。このワキ役のセリフの解釈が問われています。どう考えるべきか、続く段落を見てみましょう。

〔引用文〕
 実のところ、ほんとに涙を流すということは、素人が考えるほど難しいことでもなんでもない。 主人公が涙を流すような局面まで追いつめられてゆくまでには、当然いくつもの行為のもつれと発展があり、それを役者が「からだ」全体で行動し通過してくるわけだから、リズムも呼吸も昂っている。 その頂点で役者がふっと主人公の状況から自分を切り離して、自分自身がかつて経験した「悲しかった」事件を思いおこし、その回想なり連想に身を浸して、「ああ、なんて私は哀しい身の上なんだろう」とわれとわが身をいとおしんでしまえば、ほろほろと涙が湧いてくるのだ。 つまりその瞬間には役者は主人公の行動と展開とは無縁の位置に立って、わが身あわれさに浸っているわけである。 このすりかえは舞台で向いあっている相手には瞬間に響く。 「自分ひとりでいい気になりやがって」となる所以である。

 この箇所を素直にそのまま読めば次のようになるでしょう。 「役者は役柄に成りきるのが仕事である。にもかかわらず、この女優は役の人柄や状況を演じるのではなく、自分の個人的な状況における経験を役柄に置き換えている。 そしてその経験での悲しみの感情に浸り、外形的に涙を流し、深い感情を表現しているという迫真さにひとりで酔うことによって(「=自分ひとりでいい気になりやがって」の素直な解釈)芝居を壊している(=「芝居にもなんにもなりやしねえ」の素直な解釈)。
 しかし、この解答の方向性には何かが欠けています。 これは先述の、演劇の目的は役者が役柄の感情などをうまく演じることだと捉える演劇〈像〉①だけによる読み方です。 特に問題は、「芝居にもなんにもなりやしねえ」という文言の解釈、「芝居になっていない」とはどういうことかです。 これを例えば「芝居をだめなものしている」などの趣旨だとする言い換えは解答としては曖昧です。
 文章全体の趣旨が「舞台での感情の昂まりをいかに表現するか」というものであることを踏まえて、このテーマにいかに近づくかということを解答の方針にしなければならないでしょう。 ここで舞台とは力にあふれた空間、「舞台=力の行き交う空間」という演劇〈像〉②を思い出してみましょう。

★演劇と「非個人性、非個人的な力、力の空間」という思想

 あるいはここで再度ジル・ドゥルーズの思想を東大現代文と共鳴させてみましょう。 この箇所を読んで、次のようなドゥルーズ(と共著者のクレール・パルネ)の言葉を私は思い出しました。

〔引用文〕
 書くことはそれ自身のうちに自らの目的をもっていない。 それはひとえに生が個人的な何かではないからである。 あるいは、エクリチュール(引用者注:書くこと、書かれたもの、などの意味のフランス語)の目的とは生を非個人的な力の状態に運んでいくことである。 (ジル・ドゥルーズ&クレール・パルネ、『ディアローグ ドゥルーズの思想』江川隆男・増田靖彦訳、河出文庫、2011年、88~89頁、強調は引用者)

 この引用文は、ドゥルーズ&パルネが英米文学について述べた文脈でのものです。 「書く」とはどういうことなのか、それは一人の個人をという日常的には自明なレベルを超えていくことではないのか。 彼らが私たちに教えてくれるのは、個人的なものを超えたレベル、力というものがあるのではないかという考え方です。 日常的な「個人」という個的なあり方について、それは、限定され、制約され、あるいは閉じ込められて存在しているというような感覚はないでしょうか。 自分が自分というありようでしか存在できない存在者であること、「私が私であることの不快感」というような閉塞的な感覚。 そうした感覚を脱け出たレベルを私たちは求めているのではないでしょうか。 たとえばドゥルーズ&パルネにとって英米文学はそうした脱出のひとつの試みなのですが、「非個人的な生や力」という思想は、必ずしも英米文学に限られない私たちの目指そうとしているものだと考えることができると思います。

 そうすると、演劇というものについても、舞台という日常とはちがうレベルの世界を創造していくことで、役者や観客という「個人の生」を、非個人的な力の状態に運んでいくことがその目的になると考えることには十分な理由があると思われます。
 たとえば、素晴らしい舞台を見たときに、「エネルギーに満ちた空間だ」と感じることがあるでしょう。 そのときには「これを見ている自分は普段の自分とはちがう、なにか新しい力を感じる」と思うでしょう。 こうしたことを格好良く言った言葉が「力の空間」や「非個人的な力」なのです。 それは、舞台そのものを日常的なものを超えた力に満ちた世界にすることによって、個人という存在が、個的な閉じ込められた感覚とは異なったレベルへと至ることが演劇の目的であるという思想です。
 そうすると、役者が自分「個人」の感情や経験を芝居に入り込ませるなどは原則として批判されるべきことになります。 演劇についても様々な見方や思想があることはもちろんですが、この東大現代文2008年度第四問に向かい合うときに「力の空間」、「非個人的な力能」という〈像〉は読解の導きになるということを見ていきます。
 では、問題文中のどの文言に着目すればよいのでしょうか。先に私たちは、「舞台とは場の力が高まっていき、力が行き交うようになる空間である」という演劇像を得ていました。「非個人性・非個人的な力・力の空間」という概念を導きに考えてみましょう

★「泣く女優」のなにが批判されるべきなのか

 泣く女優は、「主人公が涙を流すような局面まで追いつめられてゆくまでには、当然いくつもの行為のもつれと発展があり、それを役者が『からだ』全体で行動し通過してくるわけだから、リズムも呼吸も昂ってい」たという状態まで行ったのです。そのまま「からだ」全体で行動し続ければよかったのです。
 しかしそこで彼女は自分のかつての感情に訴えてしまいました。そうすると、彼女は、役柄を全身で演じきらなかったために、また非個人性に徹することができなかったために、感情の昂まりを行くべきところまで表現しきれなかったのであり、これこそが「芝居にもなんにもなりやしねえ」の意味だということになるでしょう。私たちなりに彼女の行動から彼女の考えを推し量れば、彼女は、舞台というものを感情表現の上手、下手で決まる場所としてのみ捉えて、「高まり」の場としての、力に満ちた場としての舞台という〈像〉を欠いていたと言えると思います。あるいは激しそうに見える感情表現をすることが力の表現になるという思い違いをしていたのです。
 その後の第8段落に「テンションもストンと落ちてしまう」というふうにテンションという語があり、また、先に触れた最終段落での「感情の昂まりが舞台で生まれるには……」という本文の最終目標を表す表現などから、「芝居にならない」ということの要点は、①役柄そのものを演じ切っていないということと、②全身で最後まで演じ切らないことにより、テンションが下がり、昂まりをその頂点に至るまで表現できなかったということになるでしょう。
 「自分ひとりでいい気になりやがって」という文言については、これまで述べてきたような、「自分の体験に訴えて、悲しい感情に浸っている様子」と解しておくとよいと思います。解答としては、「役者が感情に浸ろうとして、自らの個人的体験を想起して役柄を離れたために、役柄を全身で演じ切ることで生まれる感情の昂まりが表現されなくなった」という趣旨のことを書けばよいのではないでしょうか。
 あるいは、下線部が、詰まるところ、「芝居になるか、ならないか」という、演劇の本質的なことを問題にしていると捉えれば、「演劇とは、役者が個人的な体験による感情を入れず、役柄を全身で演じ切ることにより生まれる感情の昂まりを表現する芸術である」という趣旨のことを書くことも考えられますが、これは行き過ぎた解答かもしれません。
 ここまで、「非個人性」という言葉を、使ってきましたが、本連載の第3回で見る2020年第四問では、詩人の谷川俊太郎氏が、作品ができあがっていくときの過程について、次のように述べています。

〔引用文〕
 作品をつくっているとき、私はある程度まで私自身から自由であるような気がする。自分についての反省は、作品をつくっている段階では、いわば下層に沈殿していて、よかれあしかれ私は自分を濾過して生成してきたある公的なものにかかわっている。私はそこでは自分を私的と感じることはなくて、むしろ自分を無名とすら考えていることができるのであって、そこに私にとって第一義的な言語世界が立ち現れてくると言ってもいいであろう。(強調:引用者)

 この谷川氏の感覚に照らしてみれば、「泣く女優」は、「無名」であらねばならないところで、まさに自分個人というものを全面に出してしまったという点が致命的にだめだったということができます。

3.三種類の女優たちはどのような批判されるべき「概念」と関係しているのか

 ★続いて、竹内氏は本来「悲しい」とはどういうことかという考察に移ります。悲しいとは、ある人にとってなくてはならない存在が失われたとき、そんな現実は取り捨てたい、「消えてなくなれ」という「身動き」ではないかと述べられます。だが現実は変わらない、「それに気づいた一層の苦しみがさらに激しい身動きを生む。だから「悲しみ」は「怒り」ときわめて身振りも意識も似ているのだろう。いや、もともと一つのものであるかも知れぬ」と、まず、激しく、悲しみと怒りとが不分明なほどの身動きがあるとされます。ここでは意識は悲しみとも怒りともとられるような明瞭ではないものとして心の後景に退いていると言えるでしょう。
 なんらかの状況や関係を生きるとき、なにかが起きる、そしてそのことに体が反応する。まさに意識することなしに、言い換えると、「思わず」体が反応す る。そして、この事態を意識し始めるのですね。そのとき、意識は必ずしも明瞭なものとは限らない、というようなことが言われています。

続く竹内氏の言葉を読んでみます。

〔引用文〕
 それがくり返されるうちに、現実は動かない、と少しずつ〈からだ〉が受け入れていく。そのプロセスが「悲しみ」と「怒り」の分岐点なのではあるまいか。だから、受身になり現実を否定する闘いを少しずつ捨て始める時に、もっとも激しく「悲しみ」は意識されて来る。
 とすれば、本来たとえば悲劇の頂点で役者のやるべきことは、現実に対する全身での闘いであって、ほとんど「怒り」と等しい。「悲しみ」を意識する余裕などないはずである。ところが二流の役者ほど「悲しい」情緒を自分で十分に味わいたがる。だからすりかえも起こすし、テンションもストンと落ちてしまうことになる。「悲しい」という感情をしみじみ満足するまで味わいたいならば、たとえば「あれは三年前……」という状態に身を置けばよい(引用者注:これは「喝采」という昭和時代の圧巻の名曲の一節です。歌手ちあきなおみ、1972年)。
 こういう観察を重ねて見えてくることは、感情の昂まりが舞台で生まれるにはエ「感情そのもの」を演じることを捨てねばならぬ、ということであり、本源的な感情とは、激烈に行動している〈からだ〉の中を満たし溢れているなにかを、外から心理学的に名づけて言うものだ、ということである。それは私のことばで言えば「からだの動き」=actionそのものにほかならない。ふつう感情と呼ばれていることは、これと比べればかなり低まった次元の意識状態だということになる。

 東大の設問は、下線部エ、「『感情そのもの』を演じることを捨てねばならぬ」とはどういうことかを説明せよというものです。この文言の解釈が問われています。具体的には「三種類の女優たちがやってみせたように演じてはならない」、ということになりますが、では詰まるところ、どういうことなのでしょうか。どう表現するべきなのでしょうか。

★問題文で二項対立をなしているものは何と何か

 これまでの文章の〈像〉をもとにこの箇所を読むと、どのような〈像〉が浮かびあがってくるのでしょうか。 この三つの段落からひとつの「二項対立」を取り出してみましょう。 具体的には、女優たちVS竹内氏ということになりますが、これを概念(言葉)で置き換えるとどうなるでしょうか。
 二項対立の一方である竹内氏の立場はすぐに気づくでしょう。 「本来たとえば悲劇の頂点で役者のやるべきことは、現実に対する全身での闘い」であるという表現、また最終段落での結論部分で、「本源的な感情とは、激烈に行動している〈からだ〉の中を満たし溢れているなにかを、外から心理学的に名づけて言うものだ、ということである。それは私のことばで言えば『からだの動き』=actionそのもの」 であると言われていることから、竹内氏にとって〈からだ〉、全身での動きということが演技における核心であることがわかります。
 たとえば、人に「あなた、人にバカとか言われませんか?」などと言われれば、身体が熱くなる、震えるなどの反応が即座に起きると思います。この身体の状態がまず発生して、それからその状態を意識するという順番なのですね。そして、自己の状態を「怒り」とか、「悲しみ」などの感情がわいてきたと、いわば、感情の名付けを行うということになります。
 ここでいわれる「感情」は、現実に対して反応する身体の状態そのものだ、ということになります。
 「本源的感情」という本文独特の言葉が使われていますが、生まれてくる感情というものは、身体の動きそのものである、言い換えるとある状況や関係を生きることは、身体の動きそのものがあるということであり、こうした身体の動きがあれば、それにつれて感情はおのずと生まれてくる。より正確には、身体の身動き・状態そのものが「感情」である。そして、こうした身動きをする身体の中に充溢している何かを、「悲しい」、「嬉しい」などという言葉で読んでいるだけなのだ。こうした趣旨が述べられています。
 繰り返しますと、肝心なのは、身体の状態、つまり感情がまず発生して、それから、それが意識されるという順序です。

実際の生活では、「身体の状態(感情)⇒それを意識する」、という順序です。
 そうすると、やはり演劇でも、身体の状態(感情)⇒それを意識、という順番でなければならないのではないか、ということが見えてきます。
 ところが、演じるとなると、どういうわけか、「主人公はどんな気持ちだろう?」などと、心のあり様を演じようとしてしまいます。竹内氏の言葉で言えば、「感情に浸る」ことがひたすら目指されることになってしまいます。これは、悪い意味で、逆転の発想であり、錯誤と言っていいようなものです。
 すでに第1段落において、ジェスチュアで演じようとする女優を批判するときに、「『嬉しい』とは、主人公が自分の状態を表現するために探し求めて、取りあえず選び出して来たことばである。その〈からだ〉のプロセス、選び出されてきた〈ことば〉の内実に身を置くよりも、まず「ウレシソウ」に振舞うというジェスチュアに跳びかかるわけである」 と述べられていました。 そこで言われている、主人公の「自分の状態」、「〈からだ〉のプロセス」というような事柄が最後に展開されたものが、「全身での闘い」、「『からだの動き』=actionそのもの」です。

★現代文読解のカギ 本問における対比構造

では、この「からだの動き」=actionそのものという概念と二項対立構造をなすもう一方の概念(言葉)は何でしょうか。これを見つけるのは本問ではすんなりとはいきません。竹内氏が明確には書いてくれていないからです。あまりになんでも明確に書くと、文章の味わいがなくなります。明瞭な評論文とはちがって、竹内氏の文章の魅力は、エッセイ的な響きをもつ言葉の連なりにあります。
 本文の第一段落冒頭における「二流の役者がセリフに取り組むと、ほとんど必ず、まずそのセリフを吐かせている感情の状態を推測し、その感情を自分の中にかき立て、それに浸ろうと努力する」という箇所から始まって、どのような概念(言葉)が問題になるのでしょうか。
 具体的な存在者としては女優たちです。 これまで批判されてきた三種類の女優たちを振り返ってみます。 まず、①役柄にそのセリフを言わせている感情の状態を推測して浸ろうとする女優。 次に、②セリフに現れた感情(たとえば「嬉しい」)の内実を推測することさえせずに、その感情に見合った典型的な身振りを想定して演じる女優。 最後に、③上記の①の態度をさらに深めて、役柄の感情を、個人的に体験した感情にすり替えて表現しようする泣く女優です。
 これらの女優たちに共通することは何でしょうか。 それは自分が主体的、能動的な立場で感情を描き出せると考えていることです。 批判されているのは、「演じよう、演じよう」とする態度なのです。 主体的に演技の内実を構成しよういう姿勢である。 この〈像〉を前提に文章の後半部分に戻りましょう。
 「二流の役者ほど『悲しい』情緒を自分で十分に味わいたがる。だからすりかえも起こすし、テンションもストンと落ちてしまうことになる」と女優たちはあらためて批判されています。 そして、東大の設問は、感情の昂まりが舞台で生まれるには、「感情そのもの」を演じることを捨てねばならぬ とはどういうことかを説明することです。 このことを肯定的な表現で述べれば詰まるところ、「からだの動きそのもので演じればいい」という趣旨のものとなるでしょう。 では否定的な面から記述すれば、どのような言葉(概念)がよいのでしょうか。 繰り返せば、「からだの動き」=actionそのものと二項対立をなす問題文での言葉(概念)は何だろうか。 竹内氏の文章は走り、「○○はだめで、全身で演じることが大事なのだ」というような一般的な立ち止まった表現は見られないというところに難しさがあります。

★再度ジル・ドゥルーズの思想を手がかりに、一挙に本文の核心を捉える 何を問題と感じとるか?
ここで再度、ジル・ドゥルーズのいくつかの言葉を思い浮かべてみると、一挙に直感的な文章の全体的理解、言いかえると、「文章の像の全体性」に至ることができます。 竹内氏の文章について、感覚的な〈像〉としても、思想的な〈像〉としても、全体的な〈像〉を形成することができるはずです。 芦田宏直氏が書いていた「書物の全体とは、言葉の全体ではなくて、〈像〉の全体性」であるということを、本問において見出せることになります。 このことが、また問題文中にある解答に必要な言葉に結びついていくはずです。

 本連載の第1回で意識の特徴として、ドイツの生理学者ホーヴィッツの言う、(a)意識は何かを指向するところのものである、(b)原則的に意識は狭小で制限的であり、意識へは常に部分しかやってこない、ということに触れました。このことをさらにドゥルーズに習って見ていきましょう。
「意識が身体をコントロールする」という思想、この思想に対する違和感がドゥルーズの出発点です。まずは次の引用文を読んでみてください。

〔引用文〕
 私たちは意識やそれがくだす決定について、意志やそれがもたらす結果については無数の議論を重ねながら—その実、身体が何をなしうるかは知りもしていない(中略)ニーチェも言うように、ひとは意識を前にして驚嘆しているが、「身体こそ、それよりはるかに驚くべきものなのだ……」。(『スピノザ 実践の哲学』鈴木雅大訳、平凡社、2002年、33頁。スピノザは17世紀のオランダの哲学者。著書に『エチカ』など。強調は引用者)

〔引用文〕
 スピノザはたえず身体に驚く。彼は身体を持っていることに驚くのではなく、身体がなしうることに驚くのだ。(前掲、『ディアローグ ドゥルーズの思想』、104頁)

 何が問題か、それは、私たちが意識や意志の決定によって行動を起こすと考えていることです。たとえば、手を意識し、手を動かそうと意志する。意識や意志と呼ばれるものが、身体の一部分である手を動かそうとするから手が動く、こう私たちは普段考えていると思います(意識、意志と手の動き、という関係については有名な実験があります。ベンジャミン・リベット、『マインド・タイム 脳と意識の時間』、岩波現代文庫、2021年、第4章、および第1回でも引用した、前野隆司、『脳はなぜ「心」を作ったのか=「私」の謎を解く受動意識仮説』、ちくま文庫、2010年、76~80頁を参照してください)。
 しかし、あらためて考えてみると、意識や意志などというものはどのようなレベルのものなのでしょうか。

〔引用文〕
身体は私たちがそれについてもつ認識を超えており、同時に思考もまた私たちがそれについてもつ意識を超えている。自らの意識の所与の制約を超えた身体の力能をつかむことが私たちにもしできるようになるとすれば、同じひとつの運動によって、私たちは自らの意識の所与の制約を超えた精神の力能をつかむことができるようになるだろう。(前掲、『スピノザ 実践の哲学』、34~35頁、強調は引用者)
 
 意識とは何よりも「制約」という問題であると言われています。意識というものは極めて限定された、狭いものとして、人の心というものの中の表面的なものとしてあるのではないでしょうか。「身体」も「精神」も、「意識」的な心の部分、あるいは心の中の狭い「意識的な部分」が思いもよらないような力を持っている、こうしたことが述べられています。そして、次のように書かれるに至ります。

〔引用文〕
 身体というモデルが意識を超えるということを示すことは、思考に対する意識の価値を切り下げる。身体のもつ未知の部分と同じくらい深い思考のもつ無意識の部分が、ここに発見される。(同書35頁、強調は引用者)

〔引用文〕
 私たちは、自らの身体に「起こること」、自らの心に起こることしか、言いかえれば、他のなんらかの体がこの私たちの身体の上に、なんらかの観念がこの私たちの観念の上に引き起こす結果しか手にすることができないような境遇に置かれている。 (同書36頁)

〔引用文]
 私たちが自らの認識や意識の所与の秩序にとどまっている限り、なに一つわからない。
 そのままでは私たちは、物事の認識においても自身の意識においても本来の原因から切り離された結果しか、非十全な、断片的で混乱した観念しかもてないようにできている。 (同書37頁、強調は引用者)

 「無意識」という言葉が登場します。 これは、「身体」と同じく、未知の広大な領域をもつものとして、制約ということと一体となっている意識とは異なったレベルのものとして見出されたのです。 意識というものは、本質的に「遅れている」と言えるのではないでしょうか。 意識は、「結果を手にする」ということがその本質であり、しかも「本来の原因から切り離された結果しか、非十全な、断片的で混乱した観念しかもて」ず、意識について、行動を指令し、開始させるものとは考えることには疑問符がつくのです。
 意識というものは人間にとって重要なものです。意識、自己意識こそは人間をほかの動物から区別するものだとも言われます。その上で、そのもつ力の限界を見極めることが大切になってくる。これこそが、東大現代文が私たちに考えてほしいと考えていることでしょう。
 本問は、役者の演技論です。しかし、意識や無意識というありかたと行動との関係を考えるという点では、私たちの生活と強く結びついています。こうしたことこそ、東大が、「高等学校段階までの学習で身につけてほしいこと」で、「自己の体験総体を媒介に考えることを求めている」ということではないでしょうかアドミッション・ポリシー | 東京大学 (u-tokyo.ac.jp)

★こうしてドゥルーズによって私たちは無意識と意識ということについての考え方の方向性を与えられました。 意識というものは、生きるということの中では、「感情の発生」に後れている。 なんらかの出来事に後れている。 私たちは意識をもって行動の端緒と考えたり、意識によってなにかをコントロールしたりしようと考えがちであるが、これは疑わしいことだ、と。 こうしたことを踏まえれば、竹内氏の文章はどのように読むことができるのでしょうか。 〈像〉の全体性が見えてはこないでしょうか。
 竹内氏は、「本来『悲しい』ということは、どういう存在のあり方であり、人間的行動であるのだろうか」と、演劇を一旦離れてひとが実際に生きる場面から考察を行っていました。 ひとが「悲しみ」を生きる場面では、激しく、悲しみと怒りとが不分明なほどの身動きがある一方で、「意識」は悲しみを意識しているとも、怒りを意識していると言えるような明瞭ではないものとして後景に退いていたのでした。 そして、「受身になり現実を否定する闘いを少しずつ捨て始める時に、もっとも激しく「悲しみ」は意識されて来る」のでした。 そのうえで役者の演技について、「本来たとえば悲劇の頂点で役者のやるべきことは、現実に対する全身での闘いであって、ほとんど『怒り』と等しい。『悲しみ』を意識する余裕などないはずである」と考察はつながれていました。
 ここまでくれば、何が問題かを直観することも難しくないかもしれません。 しかし、まちがいなく問題を捉えるためにドゥルーズを思い出しましょう。 意識というものは本質的に遅れたものだということを思い出しさえすれば、竹内氏の問題化の流れにおいて、「意識は身動きに遅れている」、「意識は全身での演技による感情の発生に遅れている」ということが核心だとたしかに捉えることができます。
 上記の引用では、「悲しい」という過程が煮詰まっていったときに悲しみはもっとも激しく「意識されてくる」、また悲劇の頂点で悲しみを「意識する余裕などないはず」などの文言が鮮烈に浮き上がってくるのではないでしょうか。 まさに「意識は遅れている」という事柄の表現となって浮かび上がるのではないでしょうか。 そうすると、結局、女優たちはなにをしようとしていたのか、という〈像〉が明確になってくると思います。
 私たちが実際に「生きるとき」には、まず、事態や状況に対する身動きがあり、感情が生まれ、その後に、「感情についての意識」というものが遅れて発生するのならば、「演技においても」また、まず身体の動き、ある状況における身動きというものがあればおのずと感情表現につながるのではないか、感情の昂まりを表現することができるのではないか。
 ところが女優たちは、役柄の「感情そのもの」、内心を意識して思い描こうとし、うれしそうな身振りを意識的に演じ、涙を流すような感情を自身の体験に訴えてかきたてるということを意識的にすることで、悲しみの感情を表現しようとしてきたのです。 すべては、本来遅れたものである意識を始まりに置く誤りから来ています。 女優たちはその態度は様々であるが、結局のところ、意識して、あるいは意識によってのみ演じようとしている、こうした〈像〉が浮かびあがってきます。 「意識」という言葉こそが女優たちの態度を概念として捉えた言葉だということが見えてきたのではないでしょうか。 女優たちは、もっぱら意識的な方法をもって感情の表現ができる、「感情そのものを演じること」、ができると考えていたのです。
 やるべきことは「無意識的なもの」を生かすことです。本文において、意識的な姿勢というべきものがあるとすれば、それがなすべきことは、なにもかもを意識的にやろうとすることではなく、無意識的なレベルのものを考慮することです。
 全身で役柄を演じる、こうしたことを思いつけること。むやみと心のあり様を想定するのではなく、全身で演じることから意識せずともにわき上がってくる感情があればいいということに思い至ることのできる意識のあり様。      こうした意識のあり方そのものを形成するのも、その人の無意識がいかにあるのかにかかっているという考え方もできます。ただ、ここまでくるとかなり複雑な話になってきますので、ここで止めておきますが、肝心なことは、意識と無意識的なレベルとの適切な共働といえるでしょう。
 そうとすれば、設問の「「感情そのもの」を演じることを捨てねばならぬ」とはどういうことかについては、「全身で役柄の状況を演じることで感情はおのずと生まれるのであるから、予め意識的に心のありようを想定して演じてはならない」という趣旨のことを書けばよいということが見えてくるのではないでしょうか。

4.2008年度第四問と2011年度第一問を並べてみる

 本問は、演劇においては、「身体の動きにまかせて行動するべきことを、意識的にコントロールしようとすれば失敗する」という趣旨を語る文章でした。 演劇に関わっていない受験生や私たちにとっても自らの「体験の総体」を思えば、「意識的なコントロール」ではうまくいかない、というようなことに思い至ることがいくつもあるはずです。
 ここでは、ひとつ、東大の現代文の過去の問題から、実際の生活の場面で、こうしたコントロールが望ましくないような結果を招くことを描いた文章に少し触れておこうと思います。 いわば意識と無意識の問題の変奏と呼べるような問題になっており、東大がいかに「意識的なコントロール」という、ひとが陥りがちな考え方に強い関心を寄せているのかがうかがえるものです。
 その問題とは、2011年度第一問です(桑子敏雄『風景の中の環境哲学』、東京大学出版会、2005年)。 「河川は人間の経験を豊かにする空間である。人間は、本質的に身体的存在であることによって、空間的経験を積むことができる。 このような経験を積む空間を『身体的空間』と呼ぼう。 河川という空間は、『流れ』を経験できる身体的空間である」と書き始められ、河川の整備、河川を活かした都市の再構築という問題に移っていきます。
 そして河川の整備というとき、既知の概念によって管理、コントロールしようとすることの弊害が語られます。 たとえば、親水護岸という概念による河川整備は、水辺に下りたり、水辺を歩いたりということはできたとしても、それ以外のことをする可能性を奪われるのです。
 これに対して筆者は、「完全にコントロールされた概念空間に対して、河川の空間にもとめられているのは、新しい体験が生まれ、新しい発想が生まれ出るような創造的な空間である」として論を展開していきます。河川という空間における身体的存在である人々の具体的な経験の積み重ねこそが河川空間に意味をもたらしていくのであって、ひとりの人間が概念的に考えて構築した河川への意味づけは、経験の可能性をなくすものだという趣旨が述べられます。まさしく2008年度第四問と同じ方向性の考え方が示されているとは言えないでしょうか。

さらにもう一問、2015年度の第一問を読んでみてください。2008年第四問といかなる観点を共有しているのか。どんどん東大現代文の過去問がつながっていくことを感じることと思います。

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