「オープンポエトリーの会」第6回報告その3
12月6日(金)三島市で開催した「オープンポエトリーの会」の報告の続きです。詩の/は改行の意味。
嶋 治子さんは「秋になると」。姉の家から届く柿と銀杏から、家族の秋の生活を描いた詩です。
ですが朗読の時に嶋さんが、急にこの詩から第3連を外すと言われました。第3連には、庭の南天の植え場所を巡る夫婦の行き違いが描かれ、しかし時の移ろいとともに南天が庭のあちこちに繁茂して、どうでも良くなる…といった一節があり、そこに至り戻るための伏線的な行があちこちに残ったままで違和感が残ります。私にはこの詩の見せ場は「夫婦の小さな行き違い」に思われ、それを外して秋の風物詩として整えても、それでは何のために書いたの詩なのか分からない、と申し上げました。詩を良くする為の荒療治として、注目される行や連を外したりして、構成をいじる事はよく提案されるものですが、今回の場合にはちょっと急ぎすぎ、削り過ぎだと思えます。…むしろ自分が書きたいと思った事、あるいは隠したいと思ってしまう事柄を堀り下げ言葉を肉盛りすべきだと私は思います。
他には、詩は語り方・語り口が、ストーリーや文字以上に意味をもつ大切な要素になる事がある、という発言がありました。
オープンポエトリーの会は厳密には合評会では無いため、詩の添削的な事は通常やりませんが、今回は敢えてコメントしました。
たいいりょうさんは「朧(おぼろ)」。たいいさん独自の、無意識に浮かんだ言葉を映像的に繋いでいく手法で描いた詩です。本人的には夢ではなく自動書記的なもので、こうした詩を書く事で苦しみ(精神的な)から解放される感覚があるといいます。「記憶の朧に沈みながら/虫たちは 対岸に渡ろうと/手足をばたつかせ 泳いでいた」と始まり、「月が朧に浮かんでいた/水面には 月影が 映じていた」と、印象的な情景が描かれた後、私も、現れた海鳥も朧に飲み込まれる。そこで「ようやく わたしも目を/開けることができた」と、現実へと戻されます。
さとう三千魚さんは「肩こり」。11月23日に市内の水曜文庫で行ったさとうさんのイベントで、来客からのリクエストで書いた即興詩です。お題意と好きなお花などを聞いて、その人の為に書き、ミニ感熱プリンターで印刷し押印して差し上げる、という事をさとうさんがやっていて、その第115個目の詩です。
「疲れてるの/かな//どうなのかな//ろう梅が咲いてた/花が//香ってた/夢を忘れていた」…とこの詩は続く。改行・空行は敢えて入れて、別の行へ言葉どうしを近づけて、新しい意味や映像を作ろうとしている。自分でつくる隙間、宙ぶらりんの中で詩を探す。疑問形は問いかける形になり、相手が居る感じに出来てきます。
空白が多い詩なのですが、名刺の空白と同様に、そこは相手・聞き手が入り込める空間なのだ、というコメントがありました。
私は4月24日にnoteへアップした「夜の輪行」を読みました。
オープンポエトリー、次回第7回は12月21日(土)15時から静岡駅そばの「あざれあ」で開催です。詩に関心ある方、ぜひおいで下さい。ではでは。