ポエム・イン・静岡 無事終了しました
静岡県詩人会で会報つくってる大村です。
1月26日、年一回の詩祭『ポエム・イン・静岡』が開催され、無事に終わりました。主担当で司会のさとう三千魚(みちお)さんや県詩人会の理事さん・会員さん、県外から来て下さった松下育男さんや観客の皆さん、どうもありがとうございました。トップの写真は講演者の廿楽順治さん。
廿楽順治さんによる講演「老いて、詩を生きるということ」は、「老いたならこんな詩を書けばいい」みたいな話かと予想していたら、ゼンゼン違っていました。(汗)
むしろ詩や文章における「老い」の定義、自体がモヤモヤした曖昧で、ブレているものではという指摘で、「若さ」だって70年代まで鮮烈だったものが今じゃモヤモヤしている。そんな中で詩に「老い」がどう現れ、どう扱われたかを読み解く、という試みでした。
冒頭は源氏鶏太の60年代の小説『定年退職』を挙げ、55歳定年なのに血圧が170-98位だケド元気、といった会話から、この頃の老年は今の老年とは大分違う、「老いる」という事の内容は社会、時代、地域によって違ってくるものではと指摘。
詩においても、若い詩人は沢山の情報と想像力で書くが、やがて枯れていくのが詩人の「老い」「衰える」のイメージですが、現実の詩人に当てはめてみると、それはあまり当たってないのではと。詩や文学の世界は「若さ」に重きを置きがちで、詩の内容もそれに染められてしまうが、若さに価値を置くのは怪しげで、三浦雅士『中原中也私論』の中から「青春」という概念が出来てきたのは江戸時代から明治、里見八犬伝の頃からではないか、と廿楽さんは語ります。
ここから廿楽さんはまず、小松左京のSF小説『せまり来る足音』をとり上げます。20代が牛耳る世界、70代の主人公はでラジオの地下放送で若者の流行語を学ぶ、言えないと外で殺されるから。(今のワシが娘から叢雲カゲツ(Vtuber)教わるようなモンだw)若作りに変装しないと出歩けない世界。ネタバレですが、ラストで20代は10代に殺される、彼らはもう言葉でなく吠え声で呼び交わす。その足音が迫るという話です。
この小説ではビックリマーク「!」が多用され、吉増剛造の1970年「黄金詩篇」が連想される。左京もこういう若い詩を見たのではないかと。ところがその若さも80年代には怪しくなり、主体的に絶叫するような詩は減る。70年代末には吉本隆明が『修辞的な現代』で若者の力がなくなり散文世代になった、と書きます。では老いは?と問うと、老いて書く詩は相変わらずモヤモヤしていて、若さvs老いの様な対立の図式でなく、ひと括りには扱えないものでは、と。
「老いて詩とともに生きる」場合に参照すべきはどんな詩かということで、天野 忠さんの『オヤ』、粕谷栄一さんの『楽園』、岩佐なをさんの『たんぽぽ』、岡崎清一郎さんの『恋歌』(国会図書館ネットで読めるらしい)、西脇順三郎さんの『人類』。(この辺は次号会報でもう少し詳しく書きます)そして最後に石原吉郎さんの『足利』と『百ヘクタール』をとり上げました。石原さんの詩については、もとから人の姿を描かずにいるためこれが老衰や退廃ともみられますが、廿楽さんとしては、閉塞感はあるものの「私が何かを語る時」のある種の極限値ではないか、と語られました。
このあと小休止後に県詩人会会員の朗読が行われ、忍城晴宣(おしじょうはるのぶ)さん、武士俣勝司さん、大西秀隆さん、室 十四彦さん、岡村直子さん、勝間田育子さん、酔芙蓉(鈴木和子)さん、いいださちこさんら8名の朗読が行われました。終了後は静岡駅南の居酒屋「とさか」で懇親会もあり、遠来の方も含め、楽しい時間を過ごしました。改めて皆さん、ありがとうございました。
紋切り形の報告で恐縮ですが、詩人会公報ではもう少し詳しくレポートします。
それまで暫くお待ち下さい。今晩はひとまずここまで、ではでは。
2025/01/27 大村浩一