ボーイ・ミーツ・ボーイ (2/8)
2 それはただ夏の陽を浴びることであり、
空の静けさと溶け合うことであり、
バイロン詩集より
「そこの二人ッ」
カンニングが見つかった瞬間、おれは男らしくすっくと立ち上がり、試験官のタニシに言った。
「やったのはおれです」
「おまえなー」
タニシはおれを通りこし、ジュンの目の前に立った。
「おまえは南川のせいで、数学を落としてもエエのかッ。大事な時期やということが、わかってないのかッ」
おれは激高するタニシに向かって、
「勝手にのぞいたンです」
「そんなはずないやろがーッ」
ジュンは目をしばたいて、いまにも涙をこぼしそうになっている。 取り上げられた答案用紙の解答欄はジュンと同じだ。
「そっちも見せろ」
タニシはジュンの隣の保田の答案用紙と、ジュンのものと見比べた。
「写してないやろな」
「そんなことしてませんよ。プライドがありますからね」
同じ陸上専攻でも長距離ランナーの保田は、にが笑いの口を閉じると、おれをちらりと見て、人差し指2本でバツ印をつくった。
シリアスな表情を期待していたわけではないが、勝ち誇った表情に頭の毛が逆立つ。
「ただですむと思うなよ」
タニシはそう言って、おれの額をいきなり小突いた。
おれは昂然と頭を上げた。
「おまえのすることは、人の答案を盗み見ることだけか。記録は一向に伸びんどころか、うちの学校へきてから自己記録さえ出せんやないか。なんのために体育科にきたんや」
タニシは入り口の扉を指した。
「出てけッ」
校庭に出ると、グランドにつづく芝生にぽつねんと座りつづけた。頭上には鉛色の黄ばんだ空があった。
(きょうも黄砂か……)
誰もいない。
校舎の西側のガラス窓は薄墨色の雲を映して、おれを陰気にした。
フェンスの向こうから、ヒマな教師の声が聞こえる。
「ご存じですか? 体育科の菅谷が、今年の9月にもアメリカの大学へ入学するらしいですね」
「うちをまだ卒業してないでしょ」
「あっちは、年齢にかかわらず、デキル生徒は、高校なんてすっとばして、入学できますからね」
「そうなんスか」
「彼の研究が認められたと聞いてます。決定じゃありませんがね」
「あの菅谷なら、やるでしょうな」
教師もウワサ話が好きなのだ。
「しかし、どうなのかなァ。お神酒徳利の片割れが、妨害すンじゃないかな」
「あの南川でしょ? あれは手に負えません。なんで、あんなのとツルんでるのか、わかりませんな」
「アシを引っ張られますよ。それもあって、アメリカへ行くのかもしれませんよ。両親が海外留学を望んでいるそうです」
教師の目に映るおれって、不良まがいのアホなのか?
もともと自己肯定感の希薄なおれは、もしかするとやつらの言うおれが本当のおれなのかもしれない。そう思い出すと、胃袋がよじれるような気分になった。
(なんで、ジュンは、黙ってるんや)
いつから、おれの知るジュンと現在進行形のジュンとはちがっていたのか。
テストのカンニングがばれた次の日から10日間、おれひとり自宅謹慎の身の上となった。
ポジティブに生きよう。ジュンに押しつけられた片目の黒猫=フックをしたがえてキッチンへ。説教なんてクソくらえ、とふてぶてしい態度で身構えているおれに、オトンの怒りは息子ひとりにとどまらなかった。
「母親が甘やかすから、こういうことになるんや!」
オカンは週5で午後1時から6時のパート勤めに出ているので、わが家の晩メシは手早く簡単につくれるメニューがほとんどだ。
どんぶりメシにレバニラ炒め、それとインスタントのシジミのみそ汁。白メシの上にチリメンジャコとオオバをちらし、生タマゴを割って落とし、ネギと梅干しをのせ、ごま油と醤油をたらす。
一気に胃袋に流しこむ。極楽、極楽。
「わたしひとりに子育てを、押しつけたパパにも責任はあるンやないの」
韓国ドラマにしか関心のないのオカンは鼻の穴をひろげて、こうなったらいますぐにも退学させて働かせるしかないと暴言を吐いた。
「黒猫がきてからロクなことない」
オトンはテーブルの下にいるフックを足蹴にした。
「ナニすんねん! フックがかわいそうやろ。八つ当りすんな」
「親にむかって言う言葉かッ」
オトンとおれのバトルがはじまりそうになったとき、
「まあ、ええやないの。退学になったわけやないのやし、カンニングのいっぺんや2へん、どういうことないワ。この子、十七になるンとちゃう? 来年には、選挙権もあるんやら、もう大人や」
大学生のアネキは時に応じておれの味方となる。
しかし――、女は信用できん。
「女子高生を3人も殺した犯人、見つかってないねンよ。殺人犯にならへンだけでも、ありがたいと思わんと――」
「そんな度胸があったら、もうちょっと頭もエエのやないかしらン。要領もわるし、損得もわかってないし――だれに似たんかしらン」
オカンの差し出口はオトンの怒りを倍増させた。
「おまえらには、男が社会に出てする苦労がわかっとらん! だれのおかげでこうやってメシが食えてると思うンや。この家のローンも、おまえらの学費も、おれに何事かあった日にはどうなるか……」
電気会社に勤めるオトンは近ごろ思考が後向きである。リストラの恐怖におびえている。よくて、関連会社への出向である。
「またや、またや、昭和生まれのオジサンはこれを言うたら、女子供が黙ると思てるねン。パパはそんなんやから、上司にも部下にも見限られるねン」
「おれの学費はタダや。メシは食わしてもろてるけどな」
オトンは一瞬、絶句し、大きなため息をつくと、
「なんぼ付属の大学でも、推薦がなかったら、こいつの頭で入れる大学はないぞ。こいつはなぁ、アホの寄せ集めの学校でも、ビリに近い成績やねんぞぉ!」
オトンは鬼の首でもとったような顔つきになった。
「うちから、一歩も出たらいかん。ふらふらしてるのがバレたら、こんどこそ退学やぞ」
おれはそっぽをむく。ついでにゲップが出る。
「聞いてるンかーッ!」
「自分のことは、自分でケリつける」
オカンがそのとき、
「あんたはそれですむかもしれへんけどな、世間がゆるさへん」
奥歯にものがはさがったオカンのもの言いに、湯呑みを持つ手が止まる。
思い至るフシはあった。
きのうの夜、電話があり、ジュンの母親がオカンに嘆いたのだ。
「うちのコも零点にされまして……。このままではいろいろむずかしいことになるらしいンです」と。
オカンは恐縮して2度とカンニングをさせないと約束したという。いままでジュンとの間で、いろんなゴタゴタがあったけれど、1度たりともジュンの母親が文句を言ってきたことはなかった。
おれはそのことが自慢だったが、オカンは致命的なひと言を口にした。
「メーワクがられてるねンで、アンタ」
「あいつのほうが毎日、放課後にやってきてるんや。おれはいっぺんも誘うてないデ。きょうもフックのジャーキーもって――」
「ジュンくんのおかあさんは、そう思てないみたいや。あんたに脅されてると思てはる口ぶりやったわ。ジュンくんがそんなふうに言うたんやないのン」
フックを腕に抱え上げると、2階へ駈けあがった。
おれのほうは、何ひとつ変わっちゃいない。
騙されていたのだ。あいつは裏切り者なのだ。極楽トンボのおれを、陰であざわらっているにちがいない。
心の閻魔帳にジュンの名前を書きなぐった。
トラウマになるかもしれんと思いつつ、スマホでゲームでもしようとしたが思い止まる。先月、8000円も請求されたとオカンが怒り狂ったからだ。
翌日から、おれは日々、だらだらと愉快に日常生活をエンジョイすることにしたが、外出がままならないという現実に直面し、次第に頭とからだが分離しそうになった。
たとえば、誰かれなしにメールをしたくなるなんてことはビョーキ以外の何ものでもない。スマホのブルブルに興奮するなんてことも、以前のおれにはなかった。
(おれって、こんなに軟弱やったっケ)
ただ意外だったのは、グランドが恋しいとかけらも思わなかったことだ。走っても、走っても、中学生の頃に出した自分の記録に追いつけない。それどころか、日毎に遅くなっている気さえする。
(体育科なんて、むいてなかったのかも、な)
ジュンは朝と昼の2回、おれのスマホにメールを入れてくる。
文面はいつも同じ。『ミークン、フックは元気にしてる?』
(おれの安否をたずねるのが、礼儀ってもんやろ! クソッタレが!)
ナニ食わぬ顔で、きょうもやってくる。
ジュンに対して、悪感情を抱いているが、退屈しているもんだから、ついついに迎え入れてしまう。
「ミークンが、あとで困るから」
ジョンはそう言って、ノートを差し出す。
「ミークンの代わりに、写しといたよ。これで、遅れたぶんもすぐに取り戻せるからね」
取り戻したいと思うほどの勉強好きだと思ってくれているのかと思うとウレシ涙を通りこし、クヤシ涙が流れる。
「おれ、学校、やめるからいらんわ」
ジュンの目が、見開かれたまま停止した。
「そんな、ミークン、ひどい」
「おまえには、好都合やろ」
「2人で、女子高生殺しの犯人を探すつもりでいたのに……」
おれが学校をやめると、犯人を特定できないと、ジュンは言うのだ。
「おまえひとりで、やったらええやん」
「名探偵は、かならず2人組やのに……」
アメリカへ行くとは言わない。
(いつまで隠す気でいるんや、このクソバカタレは!)
フックは、ジュンを見ると、ニャアニャア鳴く。かならず、フックの好物のおみやげを持参するからだ。
きょうは、花カツオだった。
おれは冷凍うどんをふた玉、どんぶり鉢にいれ、だしの素と天カスを振りかけ、水を足し、チンする。素うどんの出来上がり。
その上に花カツオと味付けのり。
一応、2人ぶんつくったつもり。ただし、ジュンのぶんはおれが子供のころ、使っていた小さな茶碗に小分けする。
唐辛子をかけながら、
「数学の点数は、だいじょうぶなんか」
「うン……」
しゃがみこんで、フックの頭を撫でていたジュンは不安げな顔つきでおれを見上げた。
「ミークン、ぼくなァ、なんべんも言おうと思てたンけど、言えんかった」
そろそろくるかと思うと、なぜか、落ち着かない。
「温泉たまご、いるか?」
話をそらすと、ジュンの長いまつげがせわしなく上下する。ちょっと茶色がかった瞳が黒褐色に曇った。ますますいらいらする。
「いるのか、いらんのか、はっきりせェ」
ジュンはため息をついて、ダイニングテーブルの椅子にすわった。 割り箸を手にとろうとしない。
「まるごと、いらんのか」
おれは、2人ぶん食べることにした。
「こんなウマイもんをなんで食わへんねン」
ぎゅっとしまった胃袋にうどんを流しこむ。
「ああ、たまらん!」
おかんは家計管理にうるさい。毎日、タマゴの数を確認してからパートに出かける。とくに温泉タマゴはジュンのぶんと2つ減ることは認められているが、3つは許されない。
「サイコー!」
後口の梅干しの種をプッと吐き出すと、ジュンが拾ってゴミ捨てに捨てる。
「ぼくな、一歩でもエエから、夢に近づきたいンや」
「なん歩でも、好きにしたらええ」
「ミークンと別れるなんて、思てない。ぼくとミークンは、離れててもいつもいっしょやもん」
「サブイボの出ること言うなや。男同士やぞ」
ジュンは押し黙ると、涙をひと筋、ふた筋白い頬にこぼした。
「おまえなー、オトコやろ」
ジュンのこういうところがキライなのだ。
「もっと要領ようしゃべれんか」
「行こうと思う……」
「USJへ行くんか」
「USJは、ミークンと一緒でないと……」
「まあ、ええワ。おれかって、これから先、宇宙旅行をせンともかぎらんもンな」
「その時は、ぜったい、いっしょやデ」
「ドアホ! はっきりせェ」
おれは一喝すると、ちょうど飲みかけていた健康茶をジュンの顔にビシャッとひっかけた。
女みたいに、ビェーッと泣き崩れると思っていた。
力いっぱい浴びせかけたのだから……。
ジュンのひざに乗っていたフックは飛んで逃げていった。
「なんで、よけへんねん!」
ジュンは何も言わないどころか、眉ひとつ動かさなかった。
絵に描いたように整った眉も目も鼻も口も、ストップモーションがかかったように透明な肌の上で停止している。
ジュンはダイニングテーブルをハンカチでふくと、自分は濡れたまま椅子から立ちあがった。
(……なんで黙ってるねん)
ジュンが帰ると、グランドで耳にした話を頭の中で反芻した。
雨がふり出した。なんとなく、雨の日の夕暮はさびしいと思った。 ベンキョーぎらいのヤツに学校へ来るなと命じる、これほど心地よい処分が他にあるだろうか。そう思う反面、おれの居場所は学校にしかないこともわかっていた。
(ああ、退屈やなァ)
翌くる日の放課後、ジュンはやってこないものと決めていた。
頭を洗うことにした。
子供の頃、しょっ中、2人で風呂に入ったっけ。ノスタルジックな気分に浸りながら、石けん箱でシャボン玉をつくってとばした。
このさい、シャボン玉のように過去をマッサツしなくてはならない!
生涯の友となったフックは、赤い舌をぺろぺろ出して洗面器の水を飲んでいた。
「おるかー」木村の声だ。
ひょっとして、アンニュイな心地に浸っているおれを、かったるい友情で力づける魂胆かもしれない。
(そんなにヤワじゃねぇぜ)
「みんなもいっしょやぞぉ」
木村の声は拡声器だった。
「風呂かー?」
突然、保田の声がきこえ、バスルームの扉が開いた。
保田はシャンプーでマッシュルーム頭になっているおれを見て、ヒューと口笛を鳴らした。
あとからやってきた遠藤は、あわてて浴槽に飛びこんだおれを見て、ゲェッゲゲゲと笑った。
「おまえら、なんやねん。きしょくワリィ」
暑苦しい図体の遠藤がバスルームに押し入ろうとすると、フックは逃げ出した。廊下でニャアニャア鳴いている。
「ヘンタイか、おまえら」
文句を言うと、保田は両手を拡声器のように口の横にあてがった。
「だれかさんは、落ち込むと、風呂場にこもるンだってな」
おれは立ち上がり、ムダ口を叩く保田にシャワーの蛇口を向けたが、かわされた。入れ代わりに三輪が首から先を扉の縁からのぞけた。
「ミークンのヌードを見てしまった」
「ゴーカンしてやろうか」
「マジ?」
三輪は振りむいた。視線の先に誰がいるのか、おれにはわかっていた。フックが甘えた声で鳴くのは、ジュンがいるからだ。
それに家の合鍵をもっているのは、ジュンしかいない。
「おまえら、不法侵入で訴えたるぞ」
「ジュンも訴えるンか? 見物やな」
木村はいつもくせで、おれが不正をたださなくてはだれがただすのだ、というような口調で言った。しかし、ジュンは三輪の影に隠れて、顔を見せない。もう一度、扉口に蛇口を向けようとしたその時、保田がフックを浴槽に向かって投げ入れた。
「ギャワーン」
絶叫がバスルームにこだました。
「フック!」
ジュンは叫ぶと、バスルームに飛びこんできた。
フックは一旦沈み、浮上すると、ジュンの胸に爪を立てて這いのぼった。片目のフック船長にちなんで命名された彼の気性はめちゃ荒い。人間の理不尽な振る舞いにいきり立つ。ジュンの肩にへばりついたまま、全身の毛を逆立てている。
毛糸がバクハツしたように見える。
ジュンはフックを落ち着かせるために、扉口に突っ立っている連中に向かって言った。
「帰れッ」
「猫ごときで、怒ることないじゃん」
三輪は不服そうに言い返した。保田はとっくにいなくなっている。木村と遠藤は何事が起きたのか、理解できていない。
そのとき――、ケサマルがあくびをしながら、入ってきた。
「しょうもないことしてンと、なんか、食いに行こうや」
ジュンは2人の鼻先でバスルームの扉をぴしゃりと閉めた。
「ゲッ、なんじゃい」
遠藤の押しつぶした声がきこえると、行こう、行こうという声とともに足音が遠ざかって行った。
時おり、感じるのだが、ケサマルの言動はどこかズレている。
正直なのか、無神経なのか、よくわからない。おれはそれこそがヒーローの証しなのだと思っているんだけれど……。
なぜって、おれはそう出来ないから。
フックをかき抱くジュンと無言で向き合う事態に立ち至った。
フックはおれとジュンだけになると、逆立てていた毛を元にもどし、
「ミャー」
と鳴き、ジュンの頬に黒豆のような鼻をこすりつけている。
おれは咳払いをすると、浴槽に身を沈めた。
「ついでにフックをシャンプーしてやってもエエなぁ」
などと、脈絡のないことを口走った。
「学校にはもう、もどらへんかも、わからへん」
「へ? おまえ、退学になったんか」
しまらない返答をするおれからジュンは目をそらすと、フックに忘れられるのが、何よりつらいと言った。
ひと言、ガツンと言ってやろうと浴槽から身を乗り出すと、ジュンはいきなりおれの首にしがみついてきた。ジュンの細いあごが肩口に触れると、行き場を失ったフックはしかたなくおれの頭に乗っかった。
「おまえなー、マジ、キモイで」
おれはジュンの腕をふりほどいた。
「ケサマルくんやったら、エエのン」
笑える冗談と笑えない冗談がある。
ジュンはおれの顔に瞳をこらすと、いっしょに行きたいと言った。呆気にとられたおれはジュンをまじまじと見つめた。
「無理やとわかってる……」
ジュンはつぶやくと、そのままバスルームを出て行った。
おれは無性に腹が立った。きちんと状況を説明せェと言いたい。 いきなり、別れのあいさつだ。もう辛抱我慢たまらん。
外出禁止令などくそくらえ!
(せや、ナニか、食いに行こ)
人恋しいのが高じると、猫の顔が食い物に見えるのだ。
フックはさしずめ、あっさりタイプのネギ焼きやな。たったいま、ハードロックをがんがん聞きながら、腹いっぱい食いたい。しかし、いまのおれは、友情なんて不確かなものをマジで信じたくない。なんたって、ジュンは裏切ったのだ。おれにひと言の相談もなく、どこかへ行こうなどと言語道断。
(……だよな、フック)
バスルームから出ると、フックをバスタオルで拭いた。フックは暴れ回った。チビのくせに思い通りにならない。誰かさんと一緒だ。
お好み焼き屋の引き戸をほんの少し開け、首だけ先に入れたおれは、見知っている顔と目線のないことをたしかめると、静かに胴体と脚を中に入れた。
「ネギ焼き」
短く言うと、店のおばちゃんが、
「あいよ」
と答える。背もたれのない丸い椅子をまたいで腰かける。ほっとする。幸せな気持ちに満たされる。大きなコテを持った、ニワトリの脚みたいに皺っぽいおばちゃんの手に見入る。
「こんでエエねん、こんで」
「なんか言うたか?」
「なんもない」
溶いたメリケン粉が鉄板の上に流れる。ジュンがおれにとってネギ焼き以上の存在であってはならないと固く思った。
青ネギの散ったお好み焼きをいまや遅しと待ち構えていると、背中の引き戸がするするとあいた。
「やっぱ、きてるな、ミィナミガワ」
角張った遠藤の顔がまずのぞくと、あとからゾロ目のように見知った顔がつづく。ジュンに保田に木村、三輪とケサマルまでいる。五人も入れば満席の店だ。
「どうやって座るねん」
「気が合うね」
三輪はそう言ってニヤリと笑った。白い歯がうっすらと赤い唇を割って、キラリと光る。なんと、出来すぎの容貌だろう。ジュンと並ぶと、食べる前から胸ヤケがする。
ケサマルは、遅かったなと言った。
「ソトで、待っててくれたわけか」
「アタリ」
保田はうなずくと、ネギ焼きを追加注文した。おれはおばちゃんからコテをむしり取ると、生焼けのネギ焼きをひっくり返した。
「こんご、いっさい、おれの縄張りの店でネギ焼きを食うことを禁ずる」
おばちゃんはニワトリが首を絞められたような顔になった。
三輪はふふんと鼻をならす。
「じゃあ、きみのいないところでは、セーフなんだ」
保田は鉄板のふちをこぶしで叩くと、
「自宅謹慎じゃなかったっけ。ここにいてはいけないヒトがここにいるということは、実体はないということになるんじゃないかな」
おれを見つめるジュンの目に怖れが見える。おれが短気なのをジュンはだれよりも知っている。
「ノートを渡しわすれた……ミークン」
ジュンはおれの後ろに近寄ってきた。そのままじっと立っている。鉄板を囲んでそれぞれが座る。おばちゃんは人数分のネギ焼きの下地を鉄板に並べる。
「ジュン、アメリカに行くねんてな」
ケサマルは何を思ったのか、コンビニにでも行くような調子で言った。ジュンは答えない。
「ほんまに行くンか」と木村。
ふりむくと、ジュンはつぶらな瞳を真ん中にしぼるように寄せた。 困った時に見せる表情だ。
「どっちでもエエやろ」おれは吐きすてた。
三輪は悪戯っ子をとがめるように、女の子の騒ぐ切れ長の目を見開いておれを見た。おれはその目をにらみ返すと、おばちゃんに発泡酒をたのんだ。おれも、おれもと皆も、たのんだ。
おばちゃんは聞こえないふりをしている。おれたちは勝手に店の冷蔵庫を開け、発泡酒の缶を持ち出した。ジュンはカバンからノートを取り出すと、それでおれの背を突いた。
おれはふりむかずに言った。
「アメリカへ行く前にもう三センチ、身長を伸ばしたほうがエエことないか。子供とまちがわれるぞ」
たぶん、ジュンの長いまつげが震えているだろう。木村は眉間にしわを寄せた。いつも面倒を起こすおれを心配しているのだ。
かまわず、つづける。
「身長が伸びるという器具のパンフレットがうちにあるワ。いまならまだ間に合うぞ」
マイケル・ジャクソンだって、丸鼻、タラコ口を整形してこその人気だった。崩れることは計算外だったのだろう。
「男のジェラシーってサ。うっとおしいんだよ」
保田の一言が脳天にきた。そのせいで、口にしてはならないことを言ってしまった。
「誰かさんみたいに、小説のモデルになんかしたりせんワ」
「いつ、ぼくが……」
ヤツの出す同人誌を一読しただけで、そこに出てくる少女がジュンだとわかる。
「おまえだけが、バレてないと思てるねん」
遠藤が口を挟んだ。保田は青ざめると、焼き上がったばかりのおれのネギ焼きに発泡酒をふり注いだ。
「ゆるさん、ゆるさん、ゆるさん。ぼくはおまえとちがう!」
保田はわめいた。
「鉄板がワヤヤ」
おばちゃんはゆるゆると言ったが、おれはいち早く立ち上がった。 背中にくっついていたジュンはおれのジーンズからはみ出たシャツのすそを引っ張った。
おれはその手を払うと、丸椅子に座り直し、発泡酒漬けのネギ焼きをコテに乗せると、保田めがけて投げつけた。
「くらえッ」
「アジャッ」
熱いという言語と悲鳴とが一緒になり、奇妙な音声が保田の喉を突き抜けた。
「何すんねんな、アタマに食べらしてからに」
おばちゃんはそう言うと、台拭き用のおしぼりをびちゃびちゃに濡らし、保田の顔に貼りつけた。それから、おもむろに、水もしたたるエエ男やと言った。
「ムキになることないじゃん」
三輪は笑いながら、
「独り占めしたいからって、荒れてとーすんだよ」
「おもてに出るか、おまえ」
おれがつっかかると、三輪は一瞬はしばみ色に頬を染めたが、うけて立つよ、と言った。
「やめとけ」と木村は一言。
遠藤はネギ焼きの青ネギを前歯にくっつけたまま、何がおかしいのか、グゥェ、グゥェと蛙の鳴き声のような声で笑っている。
ケサマルひとり、ひたすら食っている。鉄板の音がじゅうじゅうと胸底を焼く。
「ミークン、ミークン、ミークン」
ジュンはこわれた留守録テープのようにおれの名を呼びつづけ、シャツのすそをつかんで離さない。
「どうする?」
三輪は白い歯を見せると、保田の顔に貼りついたおしぼりをはがし、鉄板に叩きつけた。
「店の前はやめてや」とおばちゃん。
「公園でどうかな」
三輪はさらさらと額に流れる髪をかきあげた。
「おまえら二人とも退学処分になるぞ」
木村がうんざりした声で言うと、ひたすら食べていたケサマルが突然立ち上がり、部室に忘れもんしたと言った。
「景気よくやろうじゃんか」
三輪はかばんを宙になげて、つかむと、すくっと立ち上がりおれと肩をならべた。
お好み焼きはアルコールと交ざりあって鉄板に付着し、液状化現象の様相を呈していた。
「おねがいやから、帰ろ」
ジュンはおれの手に手を重ねると、つよく握りしめた。幼い頃から、こんなことが何度あったろう。いつも、その手をふり払い、喧嘩をして飽きなかった。きょうはなぜか、ためらいがあった。動機に不純なものを感じたせいだ。おれは自分の感情に素直になれなかった。
店の外に出ると、狭い路地に眼光の鋭い男が2人立っていた。
みな一様に、怪訝な表情になった。
メガネをかけた方の男が<歯を見せずに笑いながら近寄ってきた。そして、くたびれた背広の内ポケットから1枚の写真を取り出して見せた。
「この女のコ、知らへんか?」
K女の制服を着た、地味な感じの女の子が写っていた。他のヤツはどうか知らないが、見たことのない子だった。少なくとも、おれらの乗る車両にはいない。
「おっさんら、ケーサツか」
ケサマルがきいた。
「ようわかるな」
メガネでない、背の低い方が答えた。三輪は前に進み出ると、
「もしかして、ぼくらのことを尾行していたのでしょうか?」
「いや、そやないねんけどな」
「ぼくの祖父と父は、公務員です」
「わしらもそやけどな」
「ふん」三輪は鼻先で笑った。
気取ったヤツというのは、どんな場合もスタイルを気にかける。腕にはさんだテニスラケットを、うしろに控える保田に手渡すと、プレスのきいた学生服のボタンを外し、内ポケットから名刺を取り出した。
「こんなこともあろうかと、祖父の名を印した名刺を常日頃より携帯しているんです」
三輪は下げ渡すように、小男の刑事に向かって突き出した。
「こっこれはッ」
何が書いてあるのか、男たちはそれを見て縮み上がった。
「あなた方のことは、祖父にはナイショにしておきますから、安心なさってください」
「よろしくお願い致します」
男たちは深々と頭を下げて、その場からいなくなった。
「どないなってんねん」
遠藤が訝ると、
「エヘン」
三輪は咳払いをした。それから、おれの方を見てつけ加えた。
「この中に、連続殺人犯の容疑者がいるってことじゃないのかな」
「な、な、なんてこと言うねん!」
保田がめずらしく関西弁で答えた。
「冗談ゆーのもええかげんにせぇよ!」木村は怒鳴った。
遠藤はゲラゲラ笑い、ジュンは怯えた表情を見せて後ずさった。 ケサマルは歯牙にもかけない態度だった。
おれの内側で何かが音を立てた。ずっと感じていたほんのかすかな違和感と関係ある気がしたのだ。
その夜、自分の部屋で、ここ2カ月の新聞を読みあさった。
女子高生が殺された事件は、かならず日曜日の夜だとがわかった。
今年になって、ジュンと土日に会わなかった。ケータイで呼び出しても、タニシの手伝いだと言って家にいたためしがない。
ジュンはほんとうに学校にいたのだろうか? なぜ、気にかかるのか、自分でもわからなかった。
オトンやオカンが、おれをわからんヤツだと嘆くのと同じなのかもしれない。
次の日、ジュンはこなかった。