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物語の作り方 No.10

 物語において、多用される三人称にようやく突入しました。自分史であろうとなかろうと、一度は、ひと様の視点で書いてみたい。そう思わない書き手はいない。自分以外のもう一人の自分になってファンタジーや夢を綴りたいという願望は、人類共通のものではないでしょうか。

3)三人称とは、父、母、彼、彼女、あるいは、にんじん、おかみはんなど他者をさす呼び方で書かれた作品
 ざっくり言うとこういうことになりますが、注意すべき点は、視点がズレないようにすることなのですが、これが思いの他むずかしい。知らないうちにズレていることが往往にしてあります。あるいは、この人の気持ちも書いておきたいという誘惑に勝てない。

〈自伝的小説〉
 信雄はきんつばを焼いている父の傍へ行き、
「あの馬、僕にやる言うてはるわ」
 と言った。母の貞子がかき氷に蜜をかけながら、ぎゅっと睨みつけた。
 中略
 主人の晋平はそう言って信雄の手にきんつばを握らせた。またきんつばかと信雄は父を上目づかいで見た。  
 宮本輝「泥の河

 文中で、「父」と「晋平」とが使い分けられいます。これは主人公の「信雄」の視点から見ると「父」ですが、三人称の視点だと 「主人の晋平」とも書けるのです。めんどくさいと思われる方も少なくないと思いますが、三人称の醍醐味はここにあります。
 一人称はあくまで主人公の視点の範囲――定点に置かれたカメラを想像してください――で物語は進行しますが、三人称の場合は、主人公に近い位置から情況を俯瞰できます。とはいえ、現在、出版されている多くの小説は、限りなく一人称に近い三人称小説です。

 なぜ、わかるのか?

 三人称小説の愛読書を開いてみてください。主人公の背後で起きている出来事の気配や物音は書かれていても、何が起きているかを見たとは書いていないはずです。なぜか? 主人公の登場しない場面を書くには、なんらかの仕掛けがいるからです。
 湊かなえ氏のミステリー小説等で、章ごとで登場人物が入れ替わる作品を読んだことがおありだと思います。この形式は多次元視点と呼ばれ、全知全能の「神」の視点とは区別されます。

 なんで好き勝手に書いたらあかんねん!

 若い頃の私は頑固でした。というより、わかろうとしなかった。
「赤毛のアン」が愛読書だった私は、モンゴメリの書き方でよいと思っていたのです。登場人物の誰かれなしの思考に侵入し、心理描写を表現してもいいと。一人称小説で受賞したので、三人称小説がいかなるものか、理解の範疇を越えていました。
 主人公の背後で起きる出来事を書くことも、登場人物それぞれの心理描写を書くことも可能なのは、「神」の視点であるということすら知りませんでした。二十代の私は漫画漬けでした。漫画に夢中になれたのは、神視点だったからだと気づいたのはずっと後でした。

 三人称小説の視点と神の視点とは異なります。

 20世紀に入って、神様視点で書かれる小説は少なくなりました。どこで読んだのか、忘れたのですが、間違っているかもしれません。科学の発展にともない、フロイトの心理学が世に受け入れられるようになると、神様の視点は減少したそうです。

 現在、一部の作家をのぞいて単行本全般の売れ行きは減少傾向にありますが、ファンタジー小説やライトノベルは隆盛を極めています。未体験の出来事を読みたい欲求のほうが、リアルな小説を読む人よりはるかに多い。
 それは、いまにはじまったことではないと思っています。民話も大半がファンタジーノベルですし、「竹取り物語」は、SF小説です。
 これらの小説群は、三人称で書かれていても、違った形の神の視点ではないかと思っています。昔は、「きつね憑き」の状態に陥ると、油揚を食べたり、きつねとそっくりの行動や仕草をしたと聞きました。当時の人々は、きつねが憑依したと思い、この呪いをなんとかしてもらおうとお祓いをしてもらったのです。
 呪術師の安倍清明は、当時の政治に必要不可欠の存在でした。
 かつての日本人は、身辺に起きる現象をリアルにとらえていたことがわかります。

 魔術の忌まわしさを知り、それに怯えて背を向けた彼でありながら……誰よりも大切だった女性を、よりにもよって、誰よりも魔術師然とした男に譲ってしまった。
  虚淵玄「Fate/Zero1

「俺はここで死ぬのか……」
 そう思いつつ昴作はヒョロヒョロと立ち止まった。眼の前の電柱に片手を支えると、その掌に、照りつけた太陽の熱がピリピリと沁み込んだ。
 彼は今にも倒れそうに呟き入りつつ、地面に映る自分の影法師を見た。
 夢野久作「童貞」                            

 彼、彼女がつかえるのが、三人称。この作品がもし、一人称で書かれていたとしたら、「昴作」は、私、僕、俺などの個人をさす呼び方になり、「彼」という人称代名詞は使えません。

 にんじんは、へっぴり腰をして、踵を地面にうちこみながら、闇のなかでふるえ始める。闇はとても深く、かれは盲目になったような気がする。ときどき突風が、かれを、氷の敷布のようにつつみ、運び去ろうとする。  
 ジュール・ルナール「にんじん

 不朽の名作です。親による虐待は、どこの国にも昔からあったことがわかる自伝的小説です。

 おかみはんは今年の正月で数え七十五になった。二月生れの年強であるから、今様の数え方でいうと七十三ということになるのであるが、明治生れのおかみはんは暮れの餅搗きをしながら、あーあ、これでわしも七十五になるわい、と思ったのである。       
 車谷長吉「なんまんだあ絵」

 自己の目(作者)を他者の目(祖母)に託して事物を見る作品の好例として、載せました。冗舌体ということもありますが、流れるような文章は本作が三人称であるということすら忘れさせます。
 これとは対照的に、作者の目と主人公の目とが、同一でない作品を以下に上げておきます。

 空海の日々は、なお少年であることがつづいている。
 かれがその少年期をふりかえるとき、その青年期の作品から推して、屏風ケ浦から吹きあげてくる海風の館の片すみに老いて陽にきらきら映える樟の葉のざわめきが、一枚の絵のように象徴していたにちがいない。
 司馬遼太郎「空海のいる風景

 お断りするまでもなく、本作はエッセイではありません。司馬作品によく見られるますが、主人公の視点で活写される部分と作者の解説の部分にストーリーがわかれています。読者はなんの違和感をもつことなく、司馬ワールドに誘いこまれます。通常の三人称小説、とくに物語を現代に設定した小説では、この手法は避けられています。しかし、多くの歴史小説では、時代背景などの解説を、作者の目線で書かれています。

 補足として、複数形小説の視点を載せておきます。

 おばあちゃんはぼくらのお母さんの母親だ。彼女の家で暮らすようになるまで、お母さんに、さらにお母さんがいるとは、知らなかった。           
 ぼくらは、彼女を「おばあちゃん」と呼ぶ
 アゴダ・クリストフ「悪童日記

 この小説は三部作のうちの第一作です。本作は日記の形態で書かれていますが、双子の少年の視点なので終始、「ぼくら」という複数形で語られています。全体主義国家に生まれた少年二人は、第一作の結末で一人は国境を越え、一人は越えられません。本作を書いた作者もまたハンガリーとオーストリアの国境を越えています。スイスで工場労働者となり、自らの体験をベースとした物語をフランス語で書きました。
 この本が話題になったとき、彼女は五十歳を越えていました。現在形で書かれた簡潔な文体は強いインパクトを与えます。

課題①愛読書を視点の面から考えて読み返してみてください。目からウロコの発見が多々あるかと思います。そのうえで、自分がいまから書く小説の視点をどうするか、熟考してみてください。

 拙文にお目通しいただき、ありがとうございます。


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