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【エッセイ】蛙鳴雀躁 No.16

 拙文というより駄文の「ボーイ・ミーツ・ボーイ」の最終回は、まだ1行も書いていません。
 どうーするよと焦ってはいるのですが、何も思い浮かばない。
 だれを犯人にするかも決められない。
 描写と構成(起承転結)が小説の基本であると、えらそうに人にも言い、自分にも言いふくめてきたのですが、納得のいく結末が、このトシになっても思いつかない。
 そもそもが尻すぼみになる小説しか書けないわけですから、こういう事態に陥っても至極当然。
 お目通しくださっている方も限られていることだし、この辺でやめてもいいかと思ったり、せっかくお手伝いいただいたnoteなのだからいいかげんなことはできないと思ったり……思いはあっちに飛び、こっちでよろけ……どうする、ワタシ……。

 焦りを払拭するためにも、一昨日(3月14日)、娘たちと友人2人の5人で、タカラヅカを観に出かけました。
 午後1時の公演なので、西ノ宮北口の立ち食いソバに近い(椅子有り)店で、昼食をすませて大劇場へ。
 開演前に、大半の人がトイレを使用します。この列が長い。うねうねと大蛇のごとく続いている。最後尾を見つけるのに何分もかかる。
 二千人以上の女性がトイレの水をいっせいに流す。この水がどこからきてどこへいくのかなどと考えはじめると、環境保護団体からアレコレ言われるのではないかと気が滅入る。
 だからといって、観劇をやめられるはずもなし。
 2階のB席だったので、登山かよと思うほど階段を登り、ようやく座席へ。エレベーターを使えばよかったと後悔しても遅い。
 これくらい、どうってことないぜと思っていたけれど、老いの身にはこたえる。
 幕間にまたトイレへ。トシをとると、トイレが近くなる。
 休憩時間が10分延長されて、40分あったのでなんとか二幕目に間にあう。

 帰りに、大劇場近くの和食の店で夕飯を食べる。海鮮丼を注文したが、これがまずい。YouTubeで日本のゴハンはおいしいとさかんに宣伝しているけれど、あれは地域限定なのではないか?
 昼のソバは、値段が安いので、我慢できる味だったけれど美味とは言いがたい。三ノ宮の阪急線山側に列をなしている、「とんかつ」
の店に先日、友人に誘われて入ったが、これまたまずい。
 夫は自宅でホカ弁。長男のチャワワはちゅーるとジャーキーを食べているのだから、それに比べれば由としなくてはと思うが、どうしてこんな中途半端なものを客に出すのか!
 しかし――私の小説そのもの。
 題材にも問題はあるが、結末を考えずに書き出すこと自体、まちがっている。

 思い起せば――、

 震災の年、1995年1月17日以降、大劇場が被災したため、2カ月余り公演不可となり、当時、大人気だった天海祐希さんの公演が中止に。
 3月半ば?に、推しのマリコちゃん(麻路さき様)の初トップお披露目公演から再開。ところが、阪急電車が全線開通していないので途中の駅でバスに乗り換えて2時間近くかかって大劇場にたどり着く。
 高校生の双子の娘を引き連れ、野越え山越え行きましたよ。
 若かったので可能だったのだと思います。
 さすがに客席は空いていました。
 このとき、大劇場のトイレは自宅と違い、水が流れたんです。もうそれだけで感激。
 しかし開演直前に余震がきて、ミラーボールが大きく揺れ、客席は騒然となりました。席を立った人も少なくありませんでしたが、私はバスの長旅に疲れ果てていて動く気になりません。
 こういう危機にさいしても、素早く対処できない。
 舞台上で出番を待っていた生徒さんもどれほど恐かったか。吊り物と呼ばれる大道具が天井からぶらさがっているわけですから、それが落下すれば確実に大怪我をします。ピアノの得意なマリコちゃんは、ピアニストの役だったので、舞台中央のグランドピアノの前から動けなかったはず。
 このときの演目は「国境のない地図」。終幕に第九の合唱があり、東西ドイツを分断していたベルリンの壁が壊されます。こちらの崩壊は、多くの人びとが望んだ歴史的異変でしたが、神戸の交通網の崩壊は、驚天動地の災害。演出家の植田先生は予知能力があるのかと思える作品でした。

 あっちもこっちも大変な年でした。

 その当時、父が営んでいた小さな会社は存続を危ぶまれていました。神戸港と大阪港に入港する船舶に固定電話を取り付ける仕事をしていたのですが、岸壁が壊れたため廃業しなければならない事態に。
 ちなみに、もし阪神淡路大震災が起きなければ、移動体電話(現在の携帯電話)の普及はもう少し先になったと思います。
 こんなふうに書くと親会社に叱られるかもしれませんが、移動体電話への移行を急いでいた通信関連の企業にとって、震災は「神風」だったのです。
 岸壁が壊れたのは神戸港だけでしたが、日本有数の親会社は、大阪港、名古屋港、東京港、横浜港の他、全国の船舶電話を廃止しました。
 廃業したあと、どうなるのか、私はなんにも考えていませんでした。タカラヅカを観に行くくらいですから生来の呑気者なのか、想像力に欠けるのか?
 おそらく後者だと思います。
 夫は、従業員の方たちに自治体から支給される休業保障手当ての手続きや、退職金の支払い、離職届、廃業手続きに忙殺されていました。
 無口な父は何も言いませんでしたが、私たち夫婦と双子の孫の行く末を案じていたと思います。
 実家の瓦がぜんぶ落ちて、風呂もトイレも壊れたので、急遽、
借りていた事務所の3階のひと部屋を借りた父は、家を建て直す間、移り住みましたが、みるみるうちに痩せていきました。
 しかし、私に用事を言いつけることはありませんでした。
 私もまた父に、何を食べているのか、1度もたずねませんでした。
 いまから思うと、先行きのことを憂慮しなくてはいけない状況なのに、マリコちゃんの晴れ姿を見たい気持ちが抑えられず、何度も観に行きました。
 自分で自分の所業が信じられません。

 父は救急車で運ばれ入院。手術をし退院後、やまいを押して、親会社の関連企業に夫が勤められるようにエライさんに頼みこみ、ゴリ押しで夫の就職先を決めました。そして、夫が携帯電話会社に職を得た1週間目に亡くなりました。
 なすべきことはすべてなしたという心境だったと思います。
 紆余曲折あっても、父らしい結末でした。
 行き当たり、ばったりの私は父が亡くなったとき、真っ先に思ったことは、専用のATMが消えてしまったことでした。
「年金がーっ、軍人恩給がーっ」と葬儀の間中、胸のうちで悲鳴をあげていました。夫ひとりのATMでは、生き抜く自信がなかったのです。
 文学の才能はなくとも、無駄遣いにかけては天賦の才があった私は、人の親としてどーよという半生を送ってきました。

 結末が考えられないのは、生き方そもそものに問題があるせいです。
 計画性が欠如している私は、何事も中途半端にしかしめくくれない。
 父はよく言っていました。「おまえは、しゃべってるだけでなんもせん。肝心なことが、口に抜けていくのや」と。
 いまもその病気は治らず、しゃべりつづけるばかりで、時間は虚しく過ぎていきます。
 せめて立ち食いソバ並みの小説を死ぬまでに書きたい。おいしくなくても飲みこめる程度の小説を――と。

 長い無駄話をお読みくださり、ありがとうございます。


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