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異聞エズラ記 Ⅱ   

あらすじ

エズラは、弟子のザドクとともに、干ばつに喘ぐベエル・シェバ周辺に入植する帰還者を援助するため、ペルシア軍が駐屯している要衝地ガザに到る。エズラは八十年前にバビロンから帰還したユダヤ人の集会所で説教を行なう。一方、兄のカライを殺めたサライは自分の命を救ってくれたエズラを追い、ガザにたどりつき、偶然、ザドクに声をかけられる。集会所で、エズラの姿を目にしたサライは感激するが、エズラからは冷たい反応しか返らないばかりか、異形のものとして会衆者から排除される。老祭司ら乱入者とのいざこざもあり、サライは落胆するが一人の少年と知り合う。

登場人物

エズラ・・・のちに旧約聖書を編纂する律法学者。ペルシア王より行政長官の役職を拝命している。

サライ・・・灰白色の髪色のせいで、山地に住むユダヤ人の村人から疎まれ、兄のカライを殺め、命を救ってくれたエズラを追ってガザへ来る。

ザドク・・・エズラの弟子。
ガラル・・・金貸し。エズラを自宅の集会に招く。
老祭司・・・エズラをペルシア王の手先と見ている。
ナーマン・・・黒い巻き髪の少年。
ナエル・・・正体不明の少女。

  第三章 自由都市・ガザ    

   1

 ザドクは紺碧の大海(地中海)を目にするたびに、船に乗り、キプロス島の彼方に浮かぶ大陸へ渡る日々を夢想する。ペルシアをしのぐ強国が存在すると思うだに身も心も震える。

「大海をはじめて見ました」と、師のエズラは感嘆の声をあげた。「交易船は、キャラバンで物を運ぶより、多くの物資が運べると思いませんか」

 エズラとザドクはラクダを下り、砂丘に腰を下ろす。地平線が手で触れられるように感じる。ユダの黄土とは異なる白い砂が、サンダルの足にまとわりつく。

 ラビ・エズラに同行した長い道程を、ザドクは思い返す。達成感よりも無力感が大きい。生き埋めにされた少年が目を覚ます前に、随行員の主だった者たちに後を託して旅立ったが、交易路に面した渓谷のふもとの村落に住む半遊牧民のユダヤ人らは干ばつの窮状を訴える者ばかりだった。エズラはそのつど、なにがしかの物と金を渡し、慰め、ともに祈りを捧げた。
 師のエズラは、ペルシア軍の兵站庫から、あらたに入植する同胞への食糧援助を依頼するつもりのようだ。ザドクは若輩者ながら、母親が商人なので、エズラの思うように物事が運ばないと知っている。

 先生は、疑うことを知らない。

 ラクダを引き連れ、砂丘をくだり、浜辺に行き着く。ずらりと並んだ木組みの波止場にはさまざまな国の交易船が停泊している。ペルシアの軍船を建造したフェニキアの船はもとより、カルタゴ(フェニキアの植民市)、キプロス、メンフィス(エジプトの東端)、アテナイ(現アテネ)の交易船も停泊している。

「ガザは、フェニキアのティロス同様に、交易においても戦略においても要衝の地です」
「ここに砦はありません。なぜでしょう」
「抵抗して破壊されること避けるためです。陛下は、フェニキア人とアラム人を保護されています。彼らは要領がいい」

 高地にあるエルサレムやヘブロン、周囲を砂漠に囲まれたベエル・シェバにある陰欝さがここにはない。空の青と海の青とが一対になり、悠久の時の流れが彼方の海に沈んでいる。

 ペルシアの艦隊は、船首に精銅の突起のついたアテナイの三段櫂船(さんだんかいせん)に船腹に穴を開けられ、つぎつぎと沈没した。

 神の裁きを意味する、預言者のダニエルはギリシアを、「恐ろしい獣」と称した。

 アッシリアに服属する国は一二七を数えるが、地域によっては、地元の有力者の中に「太守」や「君」と呼ばれる支配者がいる。彼らは土地と兵士を擁し、隙あらば帝国に反旗を翻す魂胆でいる。
 ペルシアの総督や知事は徴税と治安維持の役目があるが、彼らと敢えて戦わない。有力な太守には、税を取り立てることすらしない。ギリシアやエジプトと戦火を交えるさいに、兵士を借用しなくてはならないからだ。

「多民族の暮らすガザには、部族ごとの長(おさ)はいても、君主は存在しません」ザドクは言った。「ペルシア軍が駐屯しつづけているということは、地元民を信用していないのでしょう。一個師団と言えば、一万人の兵をさします」
「たしかに、ガザの手前の草原に、おびただしい数のテントが張られていましたが、せいぜい二千人ほどの兵士だと思いますよ」
「エジプトへの牽制だとすれば、不足なのではーー」
「兵站が確保できません」とエズラは言った。
「それではーー」あとの言葉を、ザドクは飲みこんだ。頼めないと言えなかった。
「偶像崇拝に堕したこの町を、ダビデもソロモンも完全には攻略できませんでした。最後の審判の日には、神の裁きで滅びると定められています。その前に、なんとしても、司令官の心を動かしてみせます」

 かつてペリシテ(=フィリスティア)人の国であったガザはエルサレムの西南西約八○㌔に位置し、地中海との間に幅約五㌔におよぶなだらかな砂丘に隔てられている平地である。海からの風にさらされるが、温暖な気候に加えて、よく潤った地域であるせいでオリーブや果実がよく実り、穀物の産地としても知られている。
 古来より、海洋貿易に従事してきたガザはエジプトとパレスチナを結ぶ主要道路上にあり、往来するキャラバンや軍隊にとっても “関門”となっていた。通行税を課していたからだ。

 ペルシアはその一方で、商人を保護する政策をとっているので、ガザは繁栄していた。メシュラムはガザでの滞在を由とせず、一晩、泊った翌朝には、エルサレムへとって返した。「こんな町、すぐに滅びるんだ」と言い捨てて。

 異教の神を信ずるゆえに神の裁きで滅びるというのか――。

 ザドクは、メシュラムとエズラ、二人の言葉を胸のうちで反芻した。異義をさしはさまなかった。書き記された言葉――他国の滅びを信じることで、亡国の民は、復讐心を希望に変容させてきた。預言は常に的中したからだ。イスラエル王国とユダ王国を滅ぼしたバビロニアもアッシリアもペルシアによって滅んだ。ペルシアはギリシアによって滅びるのか。そしてガザも……。

 その日は近いのか?

 周辺を見て回りたいと希望するエズラに従い、波止場の背後にあるガザ市内の通用門を通りぬけ、市中にはいる。海岸に近い丘陵から眺望した景色とはまた異なる光景が眼前にひろがった。人で込み合う石畳の広場を取りかこむようにして低層の建物が立ち並び、門前ではユダヤ人と思われる年配の男たちがしきりに議論している。
       
「禊(みそぎ)の役目はレビ人祭司に限られておる」
「あの方はレビ人ではないが、神の言葉を書き表わせる」
「所詮、律法学者だ」
「いやいや行政長官なのだから、われわれを諌め、裁く権利がある」
「罪科を裁く権利は長老にある。長老はレビ人祭司に従う」
「神の子は、レビ人祭司の上に立つ」

 このありさまはエルサレムやベエル・シェバでも同じだった。ユダヤ人は何事を決定するにも神の掟の解釈をめぐっておのおのが意見をのべ、いつ果てるともない。
 彼らは、エズラとザドクのラクダを目にすると、駆け寄ってきた。

 ザドクは目を転じる。
 広場には、赤や青のフェルトの日除けが重なり合ってならび、その下では、ありとあらゆる品物が売られていた。活気に溢れている。

「水市の立つ広場とは、これのことなんですね!」と、エズラは声を弾ませた。

 物売りの声が反響し、天にもとどきそうだった。遊びに興じる子どもたちや手持ちぶさたの男たちが、買物をする人々を遠巻きにしている。容貌も肌の色もさまざまだった。異国のにおいのするエズラやザドクに目を輝かす者もいたが、身なりのいい二人連れを警戒する目の色もあった。
 体躯のわりに細く長い脚の馬を引きつれたペルシア兵が広場を横切った。馬は、ラクダとも羊とも牛ともまったく異なる体型をしている。つやつやひかる体毛は引き締まった胴体にふさわしく、頭部を支える首の線は優美で眼差しには威厳があった。なんといってもたてがみが見事だった。

「なんと美しいのでしょう……」エズラは感嘆の声をもらした。
「バビロンでは、馬はめずらしいのですか」ザドクは訝しむ。
「子供の頃から宮廷の書記室にいたので、バビロンにいても、市内を歩いたことはほどんどないのです」

 波止場を見物し、ガザの町に入った時から、エズラの言葉づかいは一変していた。少年のようになった。

「市場(バザール)では、なんでも売ってるのですね」突然、エズラは、ラクダを引いている手綱を手離した。
「先生……こちらへ」ザドクは手綱を引き取った。

 エズラは広場の真ん中でタンバリンを叩いて、踊っている少女に見惚れていた。ものめずらしいのだろう。

 頭が焦げつく暑さに負けて、ザドクは日陰に移った。目の前に石造りの建物があった。周囲の者たちの立ち話では、税として集められた穀物が貯蔵されている倉庫のようだ。今年は例年より不作なのに、ペルシア軍に、いつもと同じ量の穀物を取りあげられると嘆く声がもれ聞こえる。

 いい香りが漂ってきた。オリーブ油と香草をまぜた匂いだと人込みの中から聞こえてきた。肉を煮込んでいるらしい。ザドクはエズラに声をかけ、厩(うまや)にラクダを預けると伝えたが、エズラからは生返事しか返ってこない。師の意外な一面に、ザドクは驚くとともに呆れた。エズラのことは、出迎えた男たちに任せてラクダを預ける宿屋を探し当てた。

 手が空くと、広場を迂回し、路地に入った。

 高い建物のある広場の周辺と異なり、表面が剥げおちた壁の家並みがひしめいている。道の幅もせまく、少し先さえも見通せないほど曲がりくねっている。雨水を貯める水路だろうか、排水溝だろうか、両端に溝のある急勾配の石段を登ると石造りの建物と塔があった。建物の扉には神の叡知を象徴する七本の枝とソロモンの印である六芒星が描かれ、ユダヤ人の集まる場所だと知れた。

 今夜の集会はここかと、ザドクは見当をつけたが、違っていた。

 険悪な表情のユダヤ人らしき男たちが数人、建物の前でたむろしていた。そのうちの一人が、ザドクの前を歩く少年の襟首をつかんだ。そして塔を見上げながら、「先祖アブラハムの霊廟だ。拝礼して行け」とヘブライ語で言った。信仰心から申し出ていないことは目つきでわかった。霊廟であるという話も偽りだった。

「賽銭は、たったの1ベカだ」

 1ベカの重さの銀貨(約1.1ドル)は、畑を耕作する者の一日半の賃金にひとしい。彼らはおそらく、ザドクが少年の連れだと勘違いしたようだ。

「払えないのか」男は少年の肩をつかみ、「顔を見せろ」と言った。ターバンで頭と顔を隠した少年は口がきけないという身ぶりをした。
 男は嘲った。「ぜひ、祈っていけ。しゃべれるようになる前に目が見えなくなるかもしれんがな」
 他の男も野卑な声をあげて、からかい、「お前、まさか、エズラの弟子じゃないだろうな」と、すぐ後ろにいるザドクをさぐるような目つきで見た。

 少年は首を横にし、石段を駈けのぼった。

 ザドクは少年の後を追った。もしやという思いがよぎった。
 背中で、笑い声が聞こえる。その声から逃げると、いくつものテントが道の両側にならんでいる通りに出た。向かい合うテントが屋根になって太陽の光がさえぎられ、とても涼しい。物売りの声が飛びかっている。アラム語とヘブライ語にまじって耳にしたことのない言葉も聞こえる。

  2

 肉の焼ける臭いがした。
 この臭いが、幼い頃は苦手だった。空腹なので、いまは違う。
 ターバンで顔を隠したサライは人込みに押され、衣の裾に青い房べりのついた男たちのあとについて歩いた。
 彼らは、門のある煉瓦造りの家の手前で立ち止まった。その家の扉にも中心に一本の木があり、七本の枝が互い違いに描かれていた。

 男たちはユダヤ人で、行き先はこの家のようだった。

 門前でたたずんでいると、やさしい力で背中を押された。縞模様の額帯をし、真新しい上衣をはおっている。亜麻布のようだ。カライが祭りの日に着用していた記憶がある。思い出すと、胸がつぶれそうになる。

「ものもらいのせいで、顔が見せられない」と、サライは小声で言った。
「ここは会堂じゃない」長身の若者は言った。「遠慮はいらないよ」

 若者について門の中に入り、中庭を通って煉瓦の石段をのぼり、屋上に出た。
 葦でできた日除けが日陰をつくっていた。ひと目では数えきれないユダヤ人がひと所にひしめきあっていた。葦で編んだ敷物のある桟敷には、女性と子供がいた。

「子供は席はうしろだ」と、誰かが言った。
 サライはなんども首を横にふった。
 十二歳だと知られれば、ターバンを剥ぎ取られる。
「この少年は私の知り合いだ」若者は言った。「バルミツバ(十三歳の男子が受ける成人の儀式)をすませている」

 長身の若者は、「俺の名は、ザドクだ」とサライに囁いた。

 若者はユダヤ人によくある鼻梁の中程が突きでた鼻の形をしていたが、薄茶色の明るい瞳と刈り込まれた髭が、陽気で気取らない性格を現わしていた。

「いっしょにくればいい」ザドクと名乗る若者は最前列にむかって直進した。

 箒のような髭をたくわえた年長者の視線にも臆するふうはない。生まれながらの指導者のおもむきが全身にあふれていた。
 サライは若者のあとに従った。
 不安がないと言えば嘘になる。しかし、強要されないのであれば、なんでも見てみたかった。好奇心が抑えられないせいだと、少年自身は気づいていなかった。若者の好意を無にしたくない気持ちもあったからだ。それに、もしかすると、知らないところに行けば、カライのように、どんな文字でも読めるようになるかもしれないと思った。

 屋上は、岩棚と同じくらいの広さがあった。

 太陽を背にした正面に四メートル四方の移動式のテントがあり、その前の低い台座と黄金の器と七枝をかたどった青銅製の燭台があった。日中にもかかわらず、蝋燭に火が灯されていた。少し離れた場所には犠牲にされる小羊と小山羊が数頭、つながれていた。テントは、村の大人たちの話していた幕屋(神の家)の代用のようだった。

 周囲の声に耳を傾けた。布製の円い帽子を頭にのせた男たちは立ったまま、サライの知らない言葉で話していた。サライの読めない書物の言葉なのではないか。
 女や子どもたちは男たちとは隔てられていた。人々の身なりは整っている。青い房べりの衣の上に青いひもが見える。それらは高価な布地で仕立てられているようだった。

 サライを招きいれた鳶色の瞳の若者が力のこもった声で唱えはじめた。「神に油そそがれし“その者”は、神の家をふたたび建てるためにきた!」

 その場にいる者たちの気持が高まるような声の持ち主だとサライは思った。
 テントの中から姿をあらわした“その者”は、杖を携えていた。人々はヒソプ(榊に似た植物)の枝をふって出迎えた。

「モーセの兄の祭司長、アロンが所有していたアーモンドの木の杖だ」ザドクは耳元で言った。

 背中から声が聞こえた。「契約の箱の中にあるはずのもんが、ここにあるはずねぇじゃん。ついでにマナ(荒野で四○年間放浪していた間のイスラエル人の主要な食べ物)の壷と石板(十戒が記されている)も出してくる気かよ」

 誰だろ? 振りむこうとしたとたん、ザドクに、前を向いているように言われた。なぜ、振りむいてはいけないのか。この若者も、山地に住む村の連中と同じようにサライを奴隷のように扱う気でいるのかもしれない。そうなら一時も早く立ち去らなくては――。きびすを返そうとした、そのときだった。

「ヤコブの家の者たちよ、聞きなさい。神の光のうちをともに歩みましょう」

 声を発した眼前の“彼”はこの世ではじめて目にする美しい人だった。双眸は一点を見つめてかがやき、微笑をうかべた眼差しは寄り集まった人々の信頼を勝ち得るのに充分な思慮深さを示していた。

「ヤハウェの他に神はありません」

 村で耳にしていた男たちの声とはまったく異なる。整った衣服と容姿のせいかもしれない。

 裾に鈴とざくろの実をつけた青地の衣に楕円形のターバンをかぶり、イスラエルの十二部族をあらわす、十二の異なる宝石をぬいつけた青い亜麻布の上着をまとい、金糸で縁取りをした腰帯を純白の長衣の前に長くたらしていた。

「ヤハウェはとこしえのあなたの光となり、あなたの悲しみの日が終わるからであるとイザヤは記しています(イザヤ60:10)」

 記憶を呼びさますような美しい響きの声だった。柔和な物腰が彼に侵しがたい気品を付与していた。サライは隣のザドクに“彼”の名を尋ねた。

「祭司長アロンの家系であられられる、ラビ・エズラだ」ザドクは畏敬の眼差しで答えた。
「この人が……」サライは口の中で言った。「ラビ・エズラ……」

 背中で呟く声がまた聞こえる。「こんな物知らずが、ユダヤ人の中にもいるんだよなぁ。マジ信じられねぇよ」

 長老と数人の者たちによる祈祷がおごそかな調子ではじまった。

 ザドクは小声で逐一、囁いてくれた。「いと高き者のもとにある隠れ場に住む人、全能者の影にやどる人はヤハウェに言うであろう。『わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神』(詩編91:1-2)」

 言葉も意味もわからない祈りがいつ果てるともなくつづけられる。カライの持ちかえる書き物しか目を通したことのない少年にとって、祈りの言葉は聞きなれないどころか、ほとんど耳にしたことがなかった。

 エズラはおごそかに語りかける。「聞きなさい。エレミヤからイザヤに引き継がれた預言は成就されました。イスラエルの神は流刑の地バビロンより、われわれ聖なる者たちを“約束の地”にもどされたのです。ヤハウェは、キュロス王について、『彼はわが牧者、わが目的をことごとくなし遂げる』とおっしゃられました」

 人々はこうべをたれた。聴衆の一人が、アタリヤの子のエサヤと名乗り、仔羊を台座の上にのせると鋭利な刃物を手にした。無垢な魂の悲鳴と同時におびただしい血が飛び散り、台座の下に置かれた手桶の中に流れこんだ。

 数頭の家畜の息の根を止めた男は誇らしげだった。

 サライは目をふさいだ。皮を剥がれ、血抜きをされた小羊が鉄棒で串刺しになるところを見たくなかった。食糧のとぼしい山地の暮らしのなかで、家畜の肉がサライの口に入ることはなかった。

 きのうまで育てていた生きものを殺して食べるなど、耐えられなかった。家畜たちの喜びや悲しみが手にとるようにわかるからだ。彼らは殺される前日に、このときのくることは生まれた日からわかっていたとその目でサライに語りかけた。なぜ、人々にはその声が聞こえないのだろう? そのことのほうが不思議だった。言葉を話せる人の命と、言葉を話さない動物の命にそれほどの差があるのか? こんな残酷なことを許す者が、ユダヤ人の信ずる神なのか?

 サライは幼い頃、カライが読み聞かせてくれたギルガメッシュ王の物語をふいに思い出した。

 エンキドゥは森に住み、動物たちと友達だった。
 ギルガメッシュと友になったエンキドゥはウルクの町ではじめて食べた動物の肉の味はどんなだったのか。
 彼は、友を食らったのだ。
 エンキドゥは帰るべきところをなくした。そして、名誉心にかられたギルガメッシュとともに森に住むフンババを倒した。そのとき、彼は生きたいと願う気持ちが失せたのだ。動物の肉を食らい、分身ともいうべきフンババを殺すことが、英雄と呼ばれる行いであるなら人間である必要などないと思ったにちがいない。

 サライは、唯一の友であったカライを殺めた。はじめてエンキドゥの心を理解した。砂漠で死ねばよかったのだ。

 閉じていた目を開けると、エズラが人々をかき抱くように両腕を大きくひらいて胸のあたりにあげていた。階下の台所から肉の焦げるにおいがし、それが屋上にまで這いあがってきてひろがった。
 エズラは突然、純白の上着の片袖に手をかけ引き裂いた。

「おおっ!」人々はのけぞり、感動のいりまじったおどろきの声をあげた。

 エズラのそれは怒りと悲しみをあらわすユダヤ人の慣わしの挙動であった。村人も事あるごとに、激した表情で同じ動作を繰り返していたが、異なる点があった。村の男たちはこの場にいる聴衆と同じように顔面に感情をあらわに見せていたが、髭のないラビ・エズラの表情には変化は見られない。

「われわれは罪科のうちに神の御前にいます。贖罪が求められているのです。異国で捕囚の身となった者、父祖の地で生き残った者と立場はさまざまですが、誰もが、神の家に詣でて許しをこわなくてはなりません。しかし現在の神の家は、ソロモン王の建てた時代の神の家には遠くおよびません。なぜでしょう? 神は言われます。『よこしまな者に平安はない』と」

 他国に滅ぼされたのではない、神の掟にそむいたゆえに国が滅んだとエズラは言う。そして、つけ加えた。「神の掟に背きつづけるゆえにタク人をはじめ異国の者たちが父祖の地イスラエルに侵入してくるのです」

 人々の頭上に言葉の圧力がかかる。

「何よりも異国の妻を娶った者たちに神は怒っておられます。これらの妻たちと、これらの女から生まれた者たちは一人残らず、われわれのもとから、ただちに去らしなさい」

 戸惑いの空気が流れた。サライの他にも神の意にそわない者はいたようだった。長老頭と思われる、長い顎髭の老人がたどたどしい言葉づかいで訴えた。

「バビロンからラビ・エズラとごいっしょにもどった者たちはともかく、先にセシバザルと帰還したわしらや、サマリアからガザへ移り住んだ者たちは、周辺の部族の者とも結婚しています」

 エズラは黙って聞いていたが、おもむろに口をひらいた。「系譜に載った者たち以外と婚姻してはなりません。われわれイスラエルの民と大いなる神との契約です。いかなる事情があろうと、ヤハウェに服さなくてはならないのです。わたしたちユダ部族とベニヤミン部族とは神の忠実なるしもべなのです」

 地元の長老頭は血に濡れた台座の前ににじり寄る。「なにぶん年月が経っております。この地に暮らしていく以上、長くこの地に暮らす部族の者ともある程度は混じりあわんことには暮らしていけません。先に帰還したエラムの子孫、エヒエルの子のシカニヤの訴えを聞き届けられてそのようにおっしゃられるのだと思いますが……あの者と、わしらとはあいいれん」

 老人の訴えにも、エズラは表情を変えない。

「シカニヤは、地方に住む者たちの実情を存じておりません。この町でわしたちは外国人居留者なのです。あまたの民が……ペリシテ人をはじめ、アモリ人にアマレク人、ケニ人やヒッタイト人、それにエドム人がいます」

 これを聞いたエズラは青いターバンを手にとり、またもや引き裂いた。そして、短く刈りこんだ褐色の頭髪をつかみ、草をむしるように引き抜いた。桟敷の女たちは悲鳴をあげ、男たちが目を見張ると、さらに髪を引き抜いた。広い額に血がしたたり落ちた。

「この手にある巻き物はモーセの記した五書です。過去と未来をつなぐ唯一無二の聖典なのです」

 エズラは羊の皮で作られた巻き物を両手で開くと、今度はヘブライ語で朗読した。長身の若者が一章ごとに別の言語(アラム語)に訳した。この場にいるほとんどの者は北イスラエル王国が滅んださいに、ユダ王国に逃れず、この地へ逃れた者たちの子孫のようだった。この地の言葉しか話せないらしい。

「わたしたちは約束の地を失いましたが、各地に散った"離散の民"は今も神に選ばれし唯一の民なのです。エジプトからモーセに率いられて脱出し、乳と蜜の流れる約束の地カナンに侵入したときから八○○年を越える時が流れています」エズラはやや声を高くした。「しかし、いかなる苦難に見舞われようと、十二の部族は約束の地にもどるという希望を失ってはならないのです。この世界の中心であるエルサレムに滅びがないように、栄光の日まで、神はわたしたちを見捨てることはありません」

 力に満ちた言葉に感動した男たちは先を競ってエズラの前にひれ伏し、その手に口づけ、自らの額にあてた。エズラの額を流れる血を目にした女たちは奇声を発し、涙を流し、体を前後にゆさぶりながら神の名を繰り返し、口にした。

「ヤハウェこそ、まことの神! アーメン、アーメン」

 神の御名である、ヤハウェを讃える声が屋上の天空にこだました。

「わたしはあなたに向かって目をあげました。ああ、天に住んでおられる方よ。心弱い民に御言葉を!」
 エズラが掌を上に向けて両腕をのばして唱えると、人々も同じ仕草をして目を宙に据えた。
「背信者の数は多く、ヤハウェにむかって罪を犯しています。罪の代価を支払わなくてはなりません」
 会衆は神の名を唱えた。「ヤハウェこそ、まことの神! アーメン、アーメン」
 くすしき栄光が失われるに至った過去の過ちを思い起こせと、エズラはせつせつと説く。
「ダビデ王によってイスラエルは一つの国となりました。しかし、ダビデ王の子のソロモン王が異国の女に迷い、フェニキアのアシュタルト(豊穣女神、神々の母と言われ、盾と棍棒で武装し、乗馬姿で表現される)に帰依して神殿まで建立したために王の死後、内紛が起こり、栄華を誇ったわれわれの祖国は北王国のイスラエルの十部族と南王国のユダとベニヤミンの二部族に分裂してしまったのです」
 彼の目に強い光が宿る。
「救いをもたらさず、破滅をもたらす像に祈る者は無知です。カナン人の信ずるバアルや、広く信仰されているイシュタルを崇める背教の者たちがいまも、多数を数えます。人がその手で生ける神をつくることができるでしょうか? そういうものは神ではありません。わたしたちは石像の前にひれ伏してはなりません」
 エズラは、父祖の苦難の歴史をつい昨日のことのように語る。 
「アッシリアによって北の王国は滅び、メディア人の住む山岳地に散り散りに強制移住させられた十部族はいまだにようとして行方が知れません」

 人類がはじめて行なった民族浄化政策だと言われている。

「そののち、アッシリアは、ペルシアにあるタク川のほとりに居住する五部族を北王国のサマリアに入植させました。彼らはそれぞれの神を持ち込み、これを拝したのです。ところがペストが蔓延し、死に至る者たちが続出しました」

 エズラは表情を固くした。

「いと高き神の怒りをかった人々は捕虜にした祭司を送り帰してくれるようにとアッシリアの王に懇願しました。王がレビ人祭司を送ると、疫病は治まりました。タクからきた人々は自らの神を廃し、われわれの神の掟を守り、熱心に奉仕するようになったのです。今では、彼らはバアルを拝しながらヨセフの子孫であると自ら名乗るようになりました」

 人々の間から嘆きと怒りの声がもれた。タク人と呼ばれる人々が、イスラエルの民と同族だと称することに対して憤っているようだった。(のちに彼らタク人は不信仰の代名詞として、サマリアびとと呼ばれるようになる)

 自分の命を救ってくれたラビ・エズラが、サライがベニヤミン族ではなく、異国の奴隷女の子だと知れば、山地の住人と同じように忌み嫌うのではないか……。

「われわれイスラエルの民の苦難はそれにとどまりませんでした。アッシリアが滅んだのちも、バビロニアの侵攻に遇い、われわれの父祖は鎖につながれ、バビロンに連れ去られました」
 エズラの瞳の色は悲哀に満ちていたが、その声は嘆きを帯びることがない。
「預言者ナホムはアッシリアで書士となり、かの国の滅亡を預言し、その名の通り、同胞を慰めました。預言者エレミヤはユダの王や民にバビロニアの侵攻を宣べ伝え、降伏するようにすすめましたが、王はエジプトの助力を頼みにし、エレミヤの言葉を聞き入れませんでした。エレミヤは愚かな王と民を嘆きました。『それは彼らが小さい者から大きい者まで、みな不正な利をむさぼり、また預言者から祭司にいたるまで、みな偽りを行なっているからだ(エレミヤ6:13)』と述べました」

 ゼデキヤ王の治世の第十一年、ネブカドネザル王麾下の軍隊によって南のユダ王国の都エルサレムは陥落した。その後、ネブカドネザル王の命令を受けたバビロニア軍の将軍が、三日間にわたって神殿と王宮の財物を運びだし、聖都を焼き払った。

「ネブザラダン将軍は貧しい者や投降者たちをユダの国に残し、生き残った貴族のゲダリヤを知事に任命しました。バビロニア軍が撤退したと知ると、逃亡していたイスラエルの民はもどってきましたが、敵にくみしたと見られたゲダリヤは粛正され、敗戦を予告したエレミヤは反乱軍によってエジプトに連れ去られました」

 人びと聞き入っていた。

「これら一連の不幸なで来事は神のご意志によるものです。神はご自身の目的を進められるために、他の国々を用いて、罪人であるわれわれを懲らしめられたのです。しかし、苦しみの終わる日には十の部族が東の果ての島からもどってくるとイザヤは預言しています。ヤハウェはいかなる時も、約束をたがえることはありません」
 エズラの口調は注意深くなった。
「わたしは有り難くも、ペルシアの王アルタクセルクセス陛下のご聖恩を得て、イスラエルの行政長官という職務を拝命しました。わたしが幼い頃より、エルサレムの神殿修復に思いを馳せてきたことをヤハウェがご存じだったからです」

 端正な顔に微笑が広がる。理由はわからないけれど、サライの胸に安堵感が広がる。成年期に達したユダヤ人の男たちは誰もが髭を生やしている。遊牧民も同じだ。なめらかな頬の成人男子を、サライははじめて目にした。若者であっても苦しみを表わすために髭を整えず、伸ばし放題にしている者もいた。

「何もかも、戯言だ!」           

 その場にいる者たちが一斉に振り返った。胸の下まで白髪まじりの髭を生やした黒衣の老人が両目を血走らせて立っていた。老人の後ろには、ついさっきサライにからんだ男たちが控えていた。老人はレビ人の祭司だと名乗り、ヘブライ語でののしった。

「律法学者か、行政長官だかしらんが、大祭司も、レビ人祭司も、エルサレムを治める五人のつかさ(ユダヤ人の役人)も、余所者のあんたに従わぬ」
「彼らの職務とわたしの職務は異なるものと理解しています」
「バビロンでぬくぬく暮らしていたあんたに何がわかる。わしらの父祖はセシバザルとともに捕囚の地バビロンから帰還し、ユダの荒地に住んだ。旱魃の年には草という草は枯れつくし、餓死するしかない。雨が降れば降ったで何日もやまない。しかたなく、異国の民が支配するこの地へ移ってきたんだ。神はとっくの昔にわしらを見捨てている」
「わたしはあなたと同じ、バビロンに囚われた民の子孫です。奴隷として囚われたわたしたちの父祖は、都に居住することは許されず、城外の荒地に住まわされました。しかし、多くの苦難を乗りこえて、今ここに、あなたとわたしがともにいるということは神が約束を果たされたという証しになりませんか」
「証しなどどこにある? ぺてん師め! ペルシア兵の取り立てる穀物が供出できず兵士や奴隷になった帰還者も大勢いる。それだけじゃない。バビロンに帰った者さえ数知れない」
 エズラは懐から羊皮の書状を取りだし、読み上げた。「諸王の王たるアルタクセルクセス(B.C465~424/423年在位)。天の神の律法の写字生である、祭司エズラに送る。今、わたしは命を下す――(エズラ7:12)」

 その中で王は、シリア州を含む河むこうの州のすべての総督に、神殿再建にかかる費用を負担するようにと命じていた。また、エズラとその随行員には税を課してはならないともしたためてある。

「お前は、モーセが祭司となるべき者として定めたレビ人じゃない! 犠牲を屠る役目もレビ人に限られておるが、お前たちは神殿前で聖別されていない家畜を勝手に屠ったのだ」
「帰還者の中にレビ人はいます。こうした思い違いもあることを踏まえて、王は命じておられる。『あなたの神の律法および王の律法を守らない者をきびしくその罪を定めて、あるいは死刑に、あるいは追放に、あるいは財産没収に、あるいは投獄に処せよ』と―― (エズラ7:26)」
「お前なんぞにこの地の会堂は使わせん」
 老祭司に付き従う男たちも声を荒げた。
「王をそそのかし、百獣の長にでもなったつもりかっ」
「俺たちは騙されねぇぞ」
「大祭司しか、まとえない衣をなんで身につけているんだ!」
 エズラは、大祭司から頂いたと、乱入者の一人一人に語りかける。クセルクセス王からアルタクセルクセス王に王位が移ったことで、事態は一変したのだと。
「あなた方はイザヤの預言を忘れたのですか。全知全能の神の御業を信じないのですか? 御業によるセシバザルの偉業を忘れたのですか」
 乱入者までその一瞬間、聞き手に回った。
「キュロス王は宗主国であったメディアから覇権を奪いとったのちに、イザヤの書物に目を通し、預言の正しさに瞠目したのです。各国の捕囚を祖国に帰国させ、彼らがそれぞれの国の神々に復帰するのを許したのです。なぜでしょうか。ヤハウェがキュロス王の心に働きかけたからに他なりません」

 キュロス王の治世・第二十年、セシバザルと共に四万二三六○人のユダ部族とベニヤミンの部族がイスラエルに帰還した。イザヤの預言通り、第一神殿の破壊から約七○年後のことだった。ダレイオス王の治世・第六年(紀元前518年)、神殿は修復されたと記されているが、かつての第一神殿とは比べようもなかった。

「セシバザルの修復再建から六○年近くを経た今(紀元前457年)、神の住まう家の荒廃は目をおおうばかりです。神殿の障壁はおろか、エルサレムにはいまだ都を守る城壁さえもありません」エズラは言った。「平和の君であるソロモン王が建立されたありし日の姿に一刻も早くもどすために、神の家となる建物のすべてを補修再建し、至聖所と呼ぶにふさわしい建物を建て、そこにおいて焼燔の捧げものを供えなくてはなりません。そうして、はじめ約束の地シオンがわれわれにもどり、失われた十部族をイスラエルの地(サマリア地方)に呼びもどすことが可能になるのです」

「バビロンに暮らす者たちの多くは土地に馴染んでいると聞いたぞ。今になって、好きこのんでもどってきたあんたらと、奴隷の身分から逃れるためにもどってきたわしらとは同じユダヤ人と言えるのか! わしらがあんたの言葉に従う理由がない。お前には、なんの権威も権限もない」
 エズラの前の台座を叩いて、老人は罵る。
「モーセの定めた祭司の職を甘く見るな。祭司のからだには、いかなる傷があってもならない(レビ21:17-21)。この意味がお前にわかるか」

 エズラは動じない。「王は並み居る重鎮たちの前で、わたしにお言葉を賜ったのです。『そなたの望みのままに』と。神はこのようにペルシアの王の心に働きかけられる御業をおもちです。故国を遠く離れたイスラエルの民の心にも神の御心はかならず伝わります」
「お前が神の子なら即刻、ペルシアの軛(くびき)をなからしめてみよ。モーセのように海を二つに分かち天から食い物をふらしてみろ。ダビデのようにつるぎを持って他国の者と戦え!」
「預言通りに約束の地が、われわれのもとにもどることを宣べ伝えるためにわたしはこの地に使わされたのです」

 ペルシアによるイスラエル占領がこの先、幾年つづくか定かでないこの時期に、侵略者の王から使わされたエズラは他国民との婚姻を戒めればダビデ王によって掌中におさめた土地がもどると、同胞に明言する。

「神は約束を違えるお方ではありません。神のしもべの子らが父祖の地にもどり、神の家を再建することはもはや定められているのです」
「お前はエルサレムに入る前に神の家への寄進と称して、エルサレムにいるレビ人の祭司を呼びつけ、途方もない財貨を与えたときく。それが、宣べ伝えることかっ」
 恥を知れと老祭司が罵倒すると、つき従っていた男たちも真似た。 
「帰還者に妻子のことで口だしさせねぇ!」
「お前らは厄介者だっ」
「この土地に根付く気なら、俺たちのように戦士になれ!」
 喚き散らす者たちの前に立ちはだかる壮年の男がいた。「黙れっ、黙れっ、黙れーっ」
 その目は異様に光り、高く尖った鼻と長く縮れたあご髭が表情を一層けわしくしていた。痩せて猫背であることも男をさらに陰気に見せた。
「暮らしに困窮する者たちのために、バビロンからの帰還したわしらは『兄弟に利息を取って貸してはならない(申命23:19)』という戒律を守り、無利子で金を貸し付けているではないか」
 髭に埋まった男は、この家のあるじだと言った。
 口を閉ざしていたザドクが、あるじに近づき、「穏やかに話しましょう、ゲラル」と呼びかけた。

 会衆は、老祭司から、あるじのゲラルに視線を移している。
「わしの客人に言い掛りつける者たちは出ていけ!」
 この声――父親だと名乗っていた男の声と似ていた。身震いが起きる。
「わしらを追いだしても、お前らのまやかしはすぐにばれるんだ。一見、律法は守られているように見える。しかし実際は違う。バビロンからの帰国者で、いまここに集まっている者は商人と金貸しだ。おまえらは、種蒔きどきに種を貧しい者に貸し、凶作のときに食い扶持も貸す。利息は月毎に百分の一(年利12%)だ。借りた金を返せない者の家、土地、ぶどう園、さらには子供まで抵当にとる。払えない者の娘を側女や召使にする。金銀で支払わなければ利息と言わぬのかっ」
 くらえっと老祭司は毒突き、隠し持っていた家畜の糞を床にまき散らした。その場にいた者たちは、ふいをつかれた羊の群れのように四方へ飛びのいた。アラム語とヘブライ語の怒号が屋上を支配し、掴み合いがはじまった。
 このまま立ち去ろうとした直後だった。黒衣の老祭司と手下の男たちの乱入で押し合い圧し合いになり、いつのまにかサライの被りものが頭の後ろへ脱げていた。
 人々の動きがに止まった。ひとくくりした灰白色の髪が、晒された。

  3

 ザドクは大声で言った。「この少年は、ベニヤミン族だ。髪の色が異なるだけだ!」
 老人と見まがう髪色を目にした者たちは口論をやめ、悪魔か死人を見たような表情になった。物乞いの白人奴隷だと言う蔑みの声があちこちから聞こえる。ユダヤ人しか許されない集会に異形の少年が紛れこんでいることに会衆の者たちは憤っていた。アラブ人と白人奴隷との混血だと言う悲鳴のような声も聞こえた。

 ヘブロンのすぐ近くにアラブという名の都市があり、そこの住人をアラブ人と呼んだのが部族名の由来だった。

 サライは砂漠を越え、死線をさまよいながらここまでやってきた。食べ物を恵んでもらうために被りもので顔をおおい、物乞いのふりをし、この家にたどりついた。
 思いがけずエズラと出会い、狂喜したのもつかの間だった。
 エズラの説教は故郷で耳にした男たちと偏狭さにおいてはなんの変わりもなかった。端麗な容姿は不快な目つきの者たちと比較にならないが、夢見たエズラの容姿は想像と違っていた。
 エズラに鎧はもっともそぐわない。サライは英雄と崇められるダビデとエズラを知らず知らずうちに重ねて見ていたことに気づいた。ユダヤ人でもない自分がなぜ、そんなことを期待したのかと落胆し、恥じた。

「髪の色が変わってるだけで、何がいけねぇんだよ!」

 サライの背後で、野次を飛ばしていた声が、怒鳴り声になって聞こえた。
 振り向くと、自分と同じくらいの年齢に見える少年がいた。赤銅色の肌に黒い巻き毛の少年は眉毛がつながった濃い顔立ちだった。
 目の前のエズラは前を向いたままだった。秀でた額に流れていた血はいつのまにか拭われている。髭のない涼しげな顔に怒りも見えなければ、他の者のように蔑みや忌み嫌う言葉も口にしない。

「血統の明らかでない者は集会所から立ち去れっ」
 ガラルの罵声に、巻き毛の少年は問い返した。
「血統――なんだよ、それ? ダビデは異国の者であっても、割礼を受けた者はイスラエルの民として受け入れてるじゃねぇか。違うのか!」
 少年は怒鳴り返し、エズラの前に進みでた。
「俺は、この目でラビ・エズラの顔を拝みたくて、はるばる旅をしてきたんだ。ほんもののメシアかどうか、たしかめたくてさ」

 エズラは無言だった。

 乱入者の一人が野次った。「はっきり言ってやれよ。氏素性のはっきりしない者は俺たちユダヤ人のように、神の恩寵は受けられねぇってな」
 少年は彼らの声を無視した。「ユダヤ人と異なる容姿の者は、奴隷の身分でなくとも生まれながらの罪人だとラビは説くのか。生まれる前のことを、どぉ責任をとればいいのか教えてくれよ」
「会衆に属さぬ穢れた者が、説教者に尋ねることは許されていない!」ガラルは罵倒した。
「ヘブライ語で“助け”を意味する律法学者のエズラは、預言者イザヤの言う救い主の“彼”ではないのか」
 少年が言いおわらぬうちに、ガラルは、
「万軍の神ヤハウェは、ダビデの家とエルサレムに住む者たちの上にかならず恵みをもたらすと律法書に記されている」
「お前らのありがたがるダビデもソロモンも異国の女に子どもを産ませている。ダビデの兵士の中にはアラブ人や異国の者が幾人もいたことは誰もが知っている。それだけじゃねぇ、王にもっとも近い近衛兵はケレス人やペレティ人の傭兵だった。どうして認めねぇんだ!」少年は食い下がった。「イザヤは言ってるじゃねぇか。『さあ、われわれは互いに論じよう。たとえあなたがたの罪が緋のようであっても雪のように白くなる』と(イザヤ1:18)」
「律法書や預言書と過去の物語とは異なる! 何人も律法書に反することはできない」とガラルは遮った。

 ダビデやソロモンの伝記ともいうべきサムエル記や列王記など歴史書は広く読まれていたが、律法書と呼ばれるモーセの五書とは区別されていた。詩編もふくめ、それらが一冊の書物として、エズラによって編纂されるにはあと少し時を経なければならなかった。

「会堂でダビデの歌を歌ったり、祭司が能書きをたれるときにソロモンの知恵を使ってるじゃねぇか! ついさっき、ラビ・エズラもイザヤの預言を引用したじゃねぇか」
 少年の強い問いかけにもエズラは何も答えなかった。彼は静かに目を上げ、ふたたび天にむかって両手の掌を上に向けて高く差しのべた。「怒るに遅く、愛と真実に満ちた神よ」
 呼びかけに応じるように、祭服の胸に縫いつけられた十二の宝石が輝きだした。
「託宣(レギオン)だーっ!」ガラルが絶叫した。「ラビ・エズラの“たなごころ”をお聞き届けられたのだ。ヤハウェがこの場に来ておられるのだ」

 異兆を見ようと誰もが前へ前へと押し寄せてきた。

「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな万軍の主、その栄光は全地に満つ(イザヤ6:3)」エズラの祈りに呼応するように宝石は光を増した。
「バカ言ってんじゃねぇよ」少年が呟いた、その時だった。
 桟敷から飛びでしてきた老女が、拳を固めて、若者に襲いかかってきた。「さっさと、出ておゆきよっ。アラブ人め」
 他の女たちも負けじとあとにつづく。「バアルの悪魔だ」と吐き捨てる女もいた。
 少年は怒鳴り返した。「肌の色や髪の色が異なることが、罪なのか!」
「落ち着きましょう」ザドクは女たちと少年らの間に分け入ろうとしたが、怒りをあらわにする女たちは口汚い言葉で少年を罵り、泣き叫んだ。
「こいつは、王の耳だ」ガラルが言ったとたん、傍観していた他の男たちも女たちに加勢して、サライと少年を屋上から階段下へと突き落とした。

   4

 通りにでると、サライはターバンで頭と顔を隠し、一目散に広場に向かった。途中で、守備隊の巡視兵とすれ違った。怪しまれないように歩をゆるめる。聞くともなし彼らの話し声が耳に入ってきた。

「同じユダヤ人なのに、もともとこの土地に住んでいるユダヤ人はエズラを嫌ってるようだな」
「アム・ハーアーレツとか呼ばれてる連中らしい」
「なんだよ、それ」
「戦士という意味らしい。俺たちの目から武器は隠しているようだが、何事かあれば武装して戦う気でいるらしいぜ。ああいう若いやつらが危険なんだ」
 老人に従って乱入した男たちがそうなのかと合点がいった。

 広場にとって返した。どうすべきか、思案していると、黒い巻き毛の少年がうつむき加減にこちらに向かって走ってくる。ユダヤ人から排斥されたことが、よほど堪えたようだった。
 サライに追いつくと、「こん畜生」と吐き捨てた。
 先を急ごうとすると、「待てよ」とユダヤ人特有の額帯をした少年は遊び仲間に声をかけるようにサライを呼び止めた。
「な……なんの用?」
「お前さ、俺が助けてやらなきゃ、袋叩きにあってたんだぞ。異国の者だとバレてないと思ってたら大まちがいだぞ」
「おいらは……」
 広場にいた数人の兵士が、二人に目を止めた。駐屯軍の兵士だ。
「おい、見ろよ」兵士らは互いに目で合図し、近づいてくると二人を取り囲んだ。中の一人がいきなり、サライのかぶっている布をむしり取ろうとした。
「所有者は誰だ?」奴隷の刺青を見せろとサライの手首をつかんだ。「ない……」
 若い兵士は舌打ちをしたが、年嵩の兵士は煽るように、
「ここは、おえらい人の慰み者の来るところじゃねぇぜ。帰って、ご主人様の尻でも舐めな」
「てめぇらの目ん中には藁でも入ってんのか。俺たちのどこが、奴隷や慰み者に見えるんだ!」
 少年は黄金に見える短剣を持ちだした。
「刺せるもんなら刺してみろよ」
 若い兵士は恫喝し、短剣を奪い取った。「なんだ、これは! やけに軽いな。ほんものの黄金じゃねぇな」
「返せよ!」
 少年は取り返そうとした。
 若い兵士は腰に帯びている剣を抜いた。抜き身の剣が、鈍色に光った。
「クソガキが、懲らしめてやる」
 若い兵士が斬りかかる前に、サライは少年の足に自分の足を引っ掛けた。助けるための窮余の一策だったが、前のめりに地面に転がった少年を見て兵士らは笑った。
 少年はサライをののしった。「何すんだよ! おふくろの形見なんだ。わかってんのか、おおバカヤロウ!」
 サライは素早い身の動きで、笑っている兵士の手から短剣を奪い返した。
 兵士は一瞬、呆気にとられた様子だったが、「素手でつかめるってことは、子どもの玩具か。斬れもしない刃物で歯向かう気だったのか」と頭を傾げた。
 年嵩の兵士が顔色を変え、「王の耳の中には子どももいるらしい」と小声で言った。
 若い兵士は怯えた表情になった。年嵩の兵士は、少年の懐から落ちた羊皮を手にすると、この通行証には監察官の印章が押してあると付け加えた。
「俺のひと言で、てめぇらの首が胴体からぶっ飛ぶからな」少年は喚いた。
「ちがっていたら、お前らをぶっ殺すぞ」年嵩の兵士が力のない声で言った。
「望むところさ」少年は負けずに言い返し、通行証を取り返した。
「その台詞、忘れるなよ」兵士らも捨て台詞を残して立ち去った。
 彼らの気配が路上から消えた瞬間、二人は同時にその場にしゃがみこんだ。サライが短剣を差し出すと、少年は礼も言わずに懐の中の鞘におさめた。
「怪我しなかったか?」
「光っているけど、錆びているとわかったから」
「護身用にもならねぇってことか」
「磨げば使えるようになると思うよ」
 カライから、磨いでる刃物とそうでない刃物の区別は教えられていた。
「おい、腹がすかないか」
「うん……」
「俺はもう、死にそうだ。なんで、ラビ・エズラは羊の肉をひと口でも食わせてから追いださねぇんだ。もったいぶりやがって……」
 エズラに会いさえすれば、その日から日々の糧を得る苦労などは消えてなくなると思っていたと、少年は悔しがる。
「あいつを、油そそがれしメシアと勘違いしてたんだ」
「メシア……?」
「お救いくださるお方のことだ。お前、律法書のことはマジになーんにも知らねぇんだな。文字は読めるのか」
「少しなら、読める」と答えると、黒い巻き毛の少年は頷いた。「ユダヤ人じゃないことはたしかだな。くやしいが、ユダヤ人ほど書物にこだわる部族はいない。ほとんどの者が読み書きできる」
「さっき、言葉がちがう人たちがいたよね?」
 商人は、アラム語を日常的に使用するからヘブライ語が苦手になると少年は答えた。
「どんな逆境におかれても、唯一無二の神ヤハウェの救いがあると、文字を学び、書物を読むことで確信がもてるようになる」
「文字が読めないと信じられないの?」
「いつか、メシアがくるとユダヤ人は信じている。イザヤは預言している。『彼にはわれわれの見るべき姿もなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった(イザヤ53:2-4)』ってな。けどなぁ、ラビ・エズラとは似てねぇだろ? あいつは、俺ほどじゃねぇけど見栄えのいい男だもんな。神の子なんかじゃねぇと思うだろ?」
 少年は自らの問いに頷くと、「食うものを、ほんとに持ってねぇのか」としつこく訊く。
「ないよ」
「あっさり言うなよ。しかし、なんで、異国の女の子どもがいけないんだ。食わしてくれれば、あいつを神の子だって信じてやるのに――」
 少年は歯軋りをした。一転して、過ぎ越しの祭りに歌われる流行り歌のように楽しげに言葉をつむぐ。「さあ、渇いている者はみな水に来たれ。金のない者も来たれ。来て買い求めて食べよ。あなたは金をださずに、ただでブドウ酒と乳とを買い求めよ(イザヤ55:1-4)」
 サライは感心して耳を傾ける。カライの語る物語とは違っている。
「わたしは、あなたがたと、とこしえの契約を立てて、ダビデに約束した変わらない確かな恵みを与える、と言ったほうが神のみ心に叶うような気分になれると思わないか」
 少年は声を上げて笑いながら、「時には、神の過分のご親切によって、代価を払わずに食わしてくれてもいいと思わないか。雷鳴ののちに朝露に揺れる芥子の花をお造りになれる神なら、こういう気分も了解してくださるはずじゃねぇか」
「言葉を、いっぱい知っているんだね」
「俺はこう見えても、並みの男じゃねぇぜぃ!」
 サライは思わず笑った。
「笑うなよ、本気で言ってんだからさ」
「ねぇ、ラビって何?」
「律法学者や祭司の名前の前につける尊称だ」
「託宣って何?」
「質問の多いガキだな。平たく言えば、神のお告げだ」
「さっき胸の宝石が光ったけど、あれのことなの?」
「あれか、あれは弟子のうちの誰かが、燭台の光を反射させたんだ。翡翠はよーく光るからな」
「なんだ、そうなのか」
「そうやすやすと奇跡が起きてたまるかってんだ」
「アム・ハーアーレツっていう戦士たちは、どうしてあの人が嫌いなの?」
「俺の住んでた町のアム・ハーアーレツも十五、六人しかいなかったが、レビ人の祭司と仲がわるかった」
「なぜ?」
「連中は、宗主国のペルシアとまともに戦いたいんだ」
「ダビデ王のように?」
「聞いてねぇようで聞いてるんだな。ラビ・エズラの言うように系譜の正しい者同士で結婚してりゃ、いつの日か、イスラエルの民の王国が復活するなんて誰が信じるんだよ。血の贖いなしに領土は帰ってこないと思うぜ」
「血の贖いって、戦うって意味なの?」
「生まれつきのバカでもねぇようだな。人間は領土の分捕り合戦がやめられねぇ生き物なんだ。自分の国が広ければ広いほど強い国だと思えるんだ」
 感心して聞き入っていると、上の方から呼びかける声がした。

      5

「おーい。おーい」エズラの弟子のザドクが石段を走って下りてきた。
「故郷に帰れ」彼の第一声にサライは返す言葉がない。ただじっと見返した。帰る故郷などどこにもないと言えばいいのだろうか。カライのいる黄泉の国が自分の行くべきところだった。
 ザドクは人懐こい笑顔を見せた。「腹が減っているのだろ?」そう言って、山羊皮でくるんだ焼き上がったばかりの仔羊の肉と粗びき粉で焼いたパンを差しだした。黒い巻き毛の少年が受け取ると、こんどは懐から取りだした金貨を一枚、サライに渡そうとした。生まれてはじめて金貨を目にしたサライはそれがどんな価値をもつものなのか、まったくわからなかった。

 弓を射る男の姿が刻印されている。

「せっかくだから、もらっとくよ」少年が横から手をのばし、金貨を受け取った。
「名はなんというのだ?」
 問いかけるザドクの瞳はふくろうの目のように明かるかった。出会った瞬間に感じた印象とかわらないことに安堵した。
「サライ」答えると、
「サライ、エズラ先生がいなければ、おまえは死んでいた」
「だから、会いに来た」と、サライは正直に答えた。
「子供二人で、荒野を越えてきたのか!」ザドクは驚いたようだ。
 少年とではなく、一人できたと伝えるべきなのか、サライは一瞬迷った。すぐにそんな必要などないと思った。
「先生はとてもやさしい方だ。おまえを生き埋めにした父親の見ているまえで、先生はおまえを助けた。そのことは忘れてはならない。今日は、それができないんだ。わかってくれ。先生には大事な使命がある」
 サライは小さく頷いた。ザドクの言葉に偽りがないとわかった。
「エルサレムへ行くなら、俺の屋敷を訪ねろ。俺の名を言えば、おふくろがなんとかしてくれる」
 ザドクはそう言って、サライの手に銀貨を数枚、握らせた。「先生と俺が、エルサレムへ戻るのは、もう少し、後になる」
 ザドクは走り去った。

「なんなんだよ、あいつ。俺は無視かよ」
 巻き毛の少年が愚痴った。そのとき、物陰から、少女が姿を見せた。
「この子、使えそうだね」
 少年の繋がった眉が、動いた。「そうだ。俺の名は、ナーマン。十四から十六の間だ。よくわからん。そっちはーー」
「あたしはナエル。十五歳。あなたの名前は、もう聞いたわ。あたしは、耳がいいから、聞き漏らさないんだ」
「サライ、おまえは、通行証を持っていない。それでエルサレムへ行きつくのは、無理だ。わかるか?」
「通行証……」
「俺たち二人が、連れて行ってやる」
「ほんと!」
「ああ、だから、さっきもらった銀貨を預けろ。メシ代にかかる」
 サライは差し出した。
 ナーマンは受け取り、重みを手のひらで確かめ、ニヤリと笑った。

 つづく


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