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異聞エズラ記 Ⅶ
第九章 オリーブの枝の冠
あらすじ
過ぎ越しの祭りに神殿に招かれたエズラは、神殿再建の追加費用を求められるが断る。翌々日、ザドクの母・アシェラは、富裕の者やエズラをはじめエルサレムの上級祭司を集め、総司令長官トリタンタイクメスが主賓の宴を催す。その席で、サライはペルシア軍の兵士と戦い、トリタンタイクメスの目に止まる。サライは褒美を断わり、ナーマンが、エズラが主宰する「学びの家」に通えるように懇願する。エズラはこれを承諾する。ナーマンとジャミールは共に通えるようになったが、条件があった。サライは総司令長官に仕え、ジャミールは自称大祭司の側女になることだった。サライはかつての父親イサと再会する。
登場人物
サライ・・・シュメルの王族の末裔。両性具有者。
エズラ・・・行政長官であり、律法学者。
ジャミール・・監察官の密偵。
ナーマン・・エズラのもとで学ぶことを望んでいる。
トリタンタイクメス・・ペルシアの総司令長官。同性愛者。
アシェラ・・交易商人。ザドクの母。
ザドク・・・エズラの弟子。
イサ・・・・サライの父親だと名乗っていた男。
ミシア・・・サライを慕う召使。
ギバル・・・ジャミールの監視役。
カシム・・・ジャミールの仲間。
1
ニサンの月(三月頃)の十四日の夕暮れ前。エズラはメシュラムとヒレルを伴い、〝過ぎ越しの祭り〟に招かれ、神殿に赴いた。
昨年の同じ日は、バビロンを出立して間もなかった。神殿の聖所と同じ広さの幕屋を、ユーフラテス河につづく草原に建て七千人で神に祈りを捧げ、犠牲を捧げ祝った。
満月が旅の行く手を見守っていた。
モーセの率いる数十万の民がエジプトを逃れ、約束の地カナンに至るまで四○年かかった。その間も、幕屋において祭事は催された。
過ぎ越しの由来は、神がエジプト人の初子を滅ぼしたときに、ヘブライ人の初子を『過ぎ越された』ことを記念している。
エズラは、敬愛するモーセのように神に召し出された者ではない。そのことは自覚している。幻は時に見ることはあっても、神の声を耳にしたことはない。
己れの使命は何なのかと考えるつど、エズラの心は重くなる。
神殿の石段を踏み、門柱とは名ばかりの石塔を過ぎると、ペルシア兵はもとより、物売りと異国の民が入り混じり、〝異邦人の中庭〟を埋めていた。広い庭の至る所に、たいまつがともされている。空の色が赤く染まるのを、人々は待ちかねている。
ユダの民にとって、一日は夕暮れから翌日の夕暮れまでである。
〝婦人の中庭〟と〝イスラエルの中庭〟に男女が別れて夕暮れを待っていた。男性は巡礼姿の者も多く、祈りや歌で成り立っているハガターと呼ばれる「出エジプト記」を朗唱している。男子を連れた者たちは子供に語り聞かせている。
急ごしらえの石の祭壇には、刈り取ったばかりの大麦や一歳半までの傷のない山羊や羊が、供えられている。
犠牲の山羊や羊は骨が折られ、皮を剥がれ、串刺しにされて焼かれる。
二人は祭壇を背にし、ゼジバベルの建てた神殿に向かう。一歩すすむごとに、エズラは神聖な面持ちになる。〝奥の中庭〟と呼ばれる場所にたどりつく前にも、小さな庭がいくつかある。逸る気持ちと同時に重苦しい気持ちが沸き上がる。
聖所の階段に片足をのせるやいなや、祭司を束ねる役目のマルキが、どこからともなく現われた。
マルキは下級祭司を呼び、命じた。神殿横にある〝祭司の中庭〟へメシュラムとヒレルを案内するようにと。そして、エズラに向かい、「どうぞ、こちらへ」と慇懃無礼な口調で促した。
弟子になって間もないヒレルはともかく、エズラの従兄であるメシュラムは、並み居る下級祭司の中に組み入れられ、憤りが隠せなかった。誇り高い彼の怒りに燃え立つ目がエズラの目の端に映る。
上級祭司しか入れない神殿の聖所に入る。
ネブカドネザル王によって、灰塵に帰するまでの聖所の床も天井も黄金が貼られていたときく。
それがいまでは――、
エズラがバビロンから持参した十数台ある黄金の燭台に蝋燭の灯りがともるばかり。
神殿の再建は遅々として進まない。
白髪まじりの長いあごひげが目立つ上級祭司らは、エズラを目にすると、示し合わせたように眉をしかめ、咳払いをした。
壁ぎわに並べられて椅子の上席に、自称大祭司のメレモテが腰掛けている。頬がこけ、陰険な眼差しを目にすると、この男に額突く日はこないと思った。
大祭の隣に、金糸の縁取りの長衣をまとい、両股をひらいた男が陣取っていた。
「行政長官のお出ましか」
ひさしいなと総司令長官のトリタンタイクメスは言った。
「本日、閣下と拝謁する栄誉を得ましたことに感謝、申し上げます。陛下のもとに参じられた閣下に羨望を禁じ得ません」
エズラはペルシアの宮廷で行なわれる跪拝礼(きはいれい)を行なわなかった。
「宦官殿は、わたしの真正面の席らしいな」トリタンタイクメスは目を合わせない。「この部屋に入らせてもらうだけでも、礼を言わねばなるまい」
エズラは無言で、上席でも末席でもない中程の席に座った。
バビロンでは、ユダヤ人を裁くサンヘドリンの頂にいる大祭司よりも、エズラは上位の者として扱われた。
大祭司は本来、一人しかいない。ユダ王国最後の大祭司・セラヤの直系の者しか、その地位につけない決まりがある。エズラは直系であったが、宦官となったため大祭司の地位に就けなかった。
メレモテといい、ハットシといい、彼らは何者なのか?
疑いの目を向けても、彼らは気にとめない。
ペルシアの占領地である、ここエルサレムでは、エズラは行政長官とは名ばかりの一介の宦官に過ぎない。行政区をもたない行政官にはなんの権限もない。宦官は卑しい者とされ、本来なら聖所に入ることを許されていない。
昨年、四ヵ月かかり、酷暑の最中に、エルサレムに到着した当座のほうが、まだしも同胞の関心は高かった。それから七ヵ月余りが経ち、人びとの興味と関心はエズラを去り、大祭司の直系だと名乗るハットシに移っていた。
上席に座るメレモテは上目遣いに、エズラの動向を伺っている。
この場に、トリタンタイクメスとエズラが招かれたのは、上級祭司らが地方の氏族をそそのかし反乱を起こす談合をしていないことを、証しするためのようだった。
トリタンタイクメスが今夜の満月を見届けるとは思えない。
「祭事を無事に終えるように」
トリタンタイクメスは言いおき、立ち上がり、聖所の外へ。
年若いハットシは、エズラに向かい、
「シリアの知事や太守は、神殿再建の金子を、いつ用立ててくださるのでしょうか? たしかに一度は頂戴しましたが、あれしきでは、祭壇をもとの鉛に造り直すことすらできません」
「騒ぎを起こす連中が、聖都にのぼってきています」
エズラは席を立ち、一歩ふみだし、振りむいた。
上級祭司らは警戒心をあらわにした。彼らは、大祭司しか入ることが許されない幕で仕切られた至聖所に、エズラが踏みこむことをもっとも怖れていた。
穢されると思っているのだ。
「工人も農民も、争いを望んでおりません」
エズラはきびすを返した。
〝契約の箱〟の中の三つ御物はおろか、二人の天使(ケルビム)で守られた箱そのものがない至聖所に足を踏み入れたいと思ったことなどなかった。
神殿の外に出ると、ついさっきまで薄曇りだった陰欝な空模様が黒一色に染まり、中庭は雨に打たれていた。
エズラは昨年、雨の日に、自らが主催した異邦人の庭での集会を思い返していた。
苦い思いが、胸にせりあがってきた。
怒りにも似た思いが、この地の祭司らに対抗するかのごとき〝学びの家〟をエズラに作らせた。祭司らのために神殿を再建するのではない。貧しき民から収奪する祭司集団とは一線を画したい。聖なる都と呼ばれるには、神におもどりいただかなくてはならない。
2
過ぎ越しの祭りの翌々日。ニサンの月の十六日、初穂の捧げ物の祝祭日。
ユダの山の雪より白い月の夜だった。わずかに欠けた月が邸内を照らしていた。
ジャミールは身も心も緊張で凝り固まっていた。
アシェラの邸宅で、大宴会が催されると知った日から何を為すべきか考えつづけた。
着飾った男女が邸内を埋め尽くし、中庭の各所に置かれた篝火とあいまって屋敷の内も外も昼間にように明かるかった。
エルサレムの近隣に住む富裕な者たちの集いだとひと目でわかる華やぎに満ちていた。
聖都はペルシア軍の駐留によって、長い停滞期を脱しつつあった。塩の海(死海)に至る通商路の安全が確保され、交易によって財をなす者が増えるに従い、市内に移り住む者も増していた。しかし、このような大宴会を主催できるのは、アシェラをおいて他にない。
ジャミールは己れの無力を思い知らされていた。この屋敷に住んで半年たつ。短く切った黒褐色の髪はもとの長さにもどったが苛立ちはつのるばかりだった。
シリアの総督であり、総司令長官でもあるトリタンタイクメスの計らいで宿営地に出入りしていたが、無駄に日数を重ねていた。総司令長官が宿営地を留守にしたこともあり、なんの情報も得られないばかりか、学びの家には近づくこともできず、エズラの行き先すら知らないありさまだった。ザドクにいくどか尋ねたが相手にされず、返事を期待するほうが愚かといまでは悟らされた。
ナーマンには、エズラの〝学びの家〟への入学を取り計らってやると伝えたままだった。
ナバテア人の男を殺したらしいとアサンに伝え聞いてからは、虚ろな眼差しで広場を徘徊するナーマンを目にするたびに気が滅入った。
今夜、約束を果たすため、召使の一人にナーマンを紛れこませている。
粗末な衣を身につけさせたが、削げた頬に虚ろな眼差しのせいで他の召使より目立ってしまう。アシェラに見咎められないかと落ち着かなかったが、杞憂のようだった。
女主人は宴の準備で頭がいっぱいの様子だった。
後の雨の降った直後に、総司令長官トリタンタイクメスは愛玩するインド犬、数頭とともに行政長官のラビ・エズラをともなって訪れた。バビロンにおいては、王の友であるトリタンタイクメスはこのひと月あまり、〝夏の宮殿〟と呼ばれているメディアの州都・エクバタナへ向かう王の一行に加わっていた。
ペルシアの王は四つある王都を季節ごとに巡っていた。新年祭は、ダレイオス王の時代からいまも建設が続いてるペルセポリスの宮殿で執り行い、冬はアッカド人のかつての王都バビロンに赴き、夏はメディア人のかつての王都エクバタナに移り、他の季節はエラム人のかつての王都スーサに滞在するのが慣わしだった。
多民族国家のペルシア帝国は、王の威光を示し、反乱を抑止するために大行列で移動した。トリタンタイクメスは〝王の友〟の中でもっとも寵愛されているので馳せ参じなくてはならなかった。
今宵は、数日前に聖都にもどった総司令長官のための宴だった。
花々の咲き乱れる中庭につづく大広間に通されたトリタンタイクメスは、満足げな微笑を口元にうかべて周囲を見渡した。足元には、数頭のインド犬を従えている。影のようにつき従う四人の男たちは、トリタンタイクメスの〝血盟の友〟だった。警護兵士ではない。トリタンタイクメスの屋敷に住まい、ともに食し、何事かあったときは彼のために命をなげだす覚悟でいる。
「閣下!」
この地に住むレビ人祭司を束ねるマルキが犬の頭の間を縫い、上体を屈めて、彼の手に唇をあてがうペルシア式の謁見の作法、プロスキュネンスと呼ばれる跪拝礼で敬意を表そうとすると、堅苦しい儀礼はいらないと総司令長官は手を振って辞退した。
マルキが安堵の表情を見せると、感嘆のどよめきがさざなみのようにひろがった。
アシェラはジャミールを従えて、トリタンタイクメスの前に進み出た。
「わたしどもの屋敷にわざわざ足をお運びくださり、感激で目眩すら覚えます」
ジャミールは、クジャラート州のガンダーラに住む貴族がまとう、きらびやかな光沢の薄絹の衣裳をまとい、純白のターバンをしていた。アシェラがこの夜のために、東アジアへの道(現シルクロード)を支配するソグド人から買い求めたものだ。
「招きに感謝する」
筒型の帽子をかぶり、金で刺繍のほどこされた絹の長衣をまとったトリタンタイクメスはその口調と装いのごとく明朗で闊達だった。
「旅の疲れもふきとぶ」
広い額に大きな鼻、丸い大きな目にぶ厚い唇。ペルシア人の王族によく見られる風貌をしている。
「どうぞこちらへ」
アシェラは総司令長官の手をとらんばかりに大広間の中央に招き入れ、天蓋つきの黄金の脚の椅子をすすめた。
トリタンタイクメスは深々と腰かけた。やや遅れて入ってきたエズラは黒衣をまとい、司令官の友のさらに後ろに立った。先にやってきていた、神の子と噂されるハットシは着飾り、他の来客と並んで控えていた。
ジャミールは目を懲らす。
メレモテは、十二の宝石を縫い付けた大祭司の職服をまとっている。エズラはバビロンの大祭司の許しを得て職服を携えてきているはず。トリタンタイクメスはそれを知っている。
「この地にも大祭司がいるのか?」彼は言った。「酷暑のバビロンにいる大祭司は高齢であるが、健在であるぞ」
メレモテは、眉一つ動かさなかった。傍ら控えるマルキやハットシも同じだった。
「たしか、行政長官は、かつてバビロニアの王に殺された大祭司の子孫であったな?」
「仰せの通りにございます」エズラは短く答えた。
トリタンタイクメスは苦笑した。
「王の友は七人いる。大祭司が二人いてもよいか」
その場にいる富裕な者たちは息を潜めている。
「はじめて目にするな」トリタンタイクメスはジャミールに目を止めた。「スーサの婦人部屋(ハーレム)に、そなたほど美しい者はおらぬ」
彼は重ねて、物売りではなかったのかと訊いた。
「当家に仕える召使でございます」
「女だったのか?」
ジャミールが女と知ったとたん、興味が失せたようだ。貴族階級の者は下々の者がどういう身なりに変じようと利害にかかわらないかぎり、関知しない。
アシェラは重ねて謝意を述べた。
「ご尊顔を拝することは、この上ない喜びでございます」
ジャミールは低頭し、ガラス製の青い盃を手にするトリタンタイクメスにブドウ酒をそそいだ。
総司令長官は盃に見入った。犬が吠えたてる。トリタンタイクメスはインド犬の毛のない頭をひと撫でし、ぶどう酒を舐めさせた。犬の無事を目で確かめ、飲み干した。
「このバビロンは素晴らしい」
当時、ガラス容器は、バビロンと呼ばれていた。しかし、ガラス製品そのものは紀元前四○世紀からあり、原料の石英に上薬をかけて高温で熱し、貴重なトルコ石やラピスラズリの輝きを人工的に作り出していた。ちなみに紀元前十四世紀には、ヒッタイト王国に隣接するメソポタミア北部にミタンニ王国があり、ガラス容器生産の中心地として栄えていた。
「エクバタナでの晩餐会を思い出す」
「お世辞が過ぎますわ。陛下の食卓には毎日、一万七千人の高官が招かれるそうでございますね。一度の食事に銀四○○タラントン(約264万㌦)が支出されると聞き及びました」
流布される話の万分の一だと、ジャミールは思っている。
「わたしは有り難くも、陛下と昼食をともにするという栄誉をたまわっている」
「陛下はご一族の方とだけ、食されるそうでございますね」
トリタンタイクメスは眉をひらき、精悍な顔立ちに濁りのない微笑をうかべた。
「陛下は大勢での会食を好まれない」
またもや感嘆の溜息が招待客の中からもれ聞こえる。
アシェラはこの時を待っていたように、トリタンタイクメスに告げた。
「お食事の前に、余興をご覧いただこうと準備致しております」
「それは、楽しみだな」
大広間の一隅に座す楽士たちによる演奏がはじまった。
ハープや竪琴やリュート(笛の一種)などの楽器がかき鳴らされる。
ジャミールは人目につかないように屋敷の中庭に出て行った。
厩舎の前に設けられたテントの中に入ると、十数人の踊り子たちが待機していた。その中にサライもいた。ジャミールとお揃いの衣裳をまとい、ふた振りの両刃のつるぎを手にしている。ジャミールは無言でひと振りを受け取った。舞踏用の軽い造りになっているが、それでも重みが手に伝わる。
「教えた通りにやりなさいよ。間違えたら、あんただけじゃなく、あたしの恥になるんだからね」
「わかっているよ」
「あんたは呑気すぎるのよ。あたしひとりがイラついてもどうにもなんないんだけど……」
二、三度、通し稽古をしただけなので気懸かりでならなかった。それにもまして、サライの側から離れない、白人奴隷の少女ミシアが目障りだった。
「奥様が呼んでるわよ」と嘘をつく。
少女は、青あざみのような瞳を見開き、金色の髪をなびかせて走り去った。
大きな扇を両手にもった、胸当てと腰布だけの踊り子たちが中庭から大広間へとなだれこんでいった。
招待客の歓声が聞こえる。
駝鳥の羽で作られた扇からは花の香りの香料が漂う。
客たちの目は、長い手足で優雅に舞い踊る美女たちに惹き寄せられているはずだ。頃合を見計らって、ジャミールとサライが登場する趣向になっている。
「行くわよ」
踊り子たちが円形になり、扇を重ねていく、その中心に向かって二人は走りこみ、身をひそめた。花びらがひらくように扇が広げられる。
扇の花の中から、総司令長官の前に二人は躍り出た。
「おおっ!」トリタンタイクメスは歓声をあげる。
後頭部の中程で銀色の髪を黒い紐でしばり、両刃のつるぎを手にしたサライに、護衛の兵士らは警戒心をあらわにしたが、総司令長官は笑顔で応じた。月の化身のような気高さとハヤブサの酷薄さを兼ね備えた容姿の少年に興味を惹かれたようだった。
踊り子たちが、香りを残して姿を消すと、音楽がやんだ。
サライとジャミールはやわらかい身のこなしで剣舞を舞った。つるぎが空をきるたびにどよめきが起こった。掛け声をかけ、幅広のつるぎを頭上に放り投げ、交叉するように相手にむかって宙返りし、放物線を描いて落下してきたつるぎの柄をつかむと、ゆっくりと跪いた。
拍手と歓声が広間をうめた。
アシェラは誇らしげに微笑した。
「お気に召しましたでしょうか」
ジャミールは怖れた。女主人は美少年を好む総司令長官に、サライを差し出す魂胆だと知った。
「褒美をとらせるので、あの者らを近くに――」
二人は総督の前に進み出ると、つるぎを後ろ手にもち片膝をついて頭を低めた。
総督はまず、サライの名を尋ねた。
答えると、
「なんなりと、望みのものを申してみよ。インド犬をとらすことはできぬが――」
「身に余るお言葉に感謝いたします」
ジャミールが答えた。
「わたしの前で、儀礼にのっとった挨拶はいらぬ」
「お心のみ有り難く頂戴いたします」
さらにジャミールが答えると、
「お話は別室で――」
アシェラはとりなすように言葉を添えた。
3
警護兵らと尻尾をふってはしゃぐ犬らを御供に従えたトリタンタイクメスは、大理石や象牙などの高価な調度品で飾られた客間に移った。
祭司の長のマルキ、それに自称大祭司のメレモテ、預言者のハットシ、行政長官のエズラがあとにつづいた。
女主人は、ジャミールとサライを引き連れてつき従った。
乳白色に輝く大理石のテーブルにはすでに料理が並べられていた。食事をする時に寝そべる長椅子が宴卓に沿っていくつも置かれていた。
大広間にも料理が運ばれているのだろう、喧騒が中庭を隔てた客間まで伝わってくる。
トリタンタイクメスが宴席につくと、給仕係が銀の大皿を目の前に差し出し、帝国の象徴である有翼円盤を象った銀製の蓋を開けた。
彼は破顔した。
「アラビアの駝鳥ではないか!」
「お好きとお聞きしましたので」
「焼き具合の色といい、ハーブの香りといい、文句のつけようがない。そう思わないか、行政長官」
トリタンタイクメスは末席についたエズラに話しかけた。
「有り難くご相伴させていただきます」
謝辞を述べながらも、エズラは手近の料理にさえ手をつけようとしなかった。
「もったいないお言葉を頂戴し、この者たちも――」
女主人が言い終わらないうちに、忍び寄るように入ってきた人物がいた。遠く離れていても男の眼光は一瞬でその場の雰囲気を凍りつかせる力があった。男の後ろにユダヤ人の少年が従っていた。見覚えがあった。大祭司の屋敷で見かけた少年だった。ジャミールは直感した。ずる賢い表情の少年は、大祭司とこの男との連絡係なのだ。
「総司令長官におかれましては、定めのない時までご健勝であられますように」
男は身を低め、トリタンタイクメスの手に自らの唇を当てた。それからエズラに向き直り、
「貴君とは、長官の執務室でいつも会っているので、あらためて挨拶するのもよそよそしいな。王の食卓にはお互い、招かれないが」
エズラは無言だった。端正な表情が曇ることはない。
トリタンタイクメスは、アシェラに向き直り、
「秘書官のシルタンだ」
男の名を告げて紹介した。シルタンは挨拶がわりに瞬きをした。
「存じあげております。宰相のご子息であられるとうかがっております」
アシェラは身を低めた。
「秘書官の一族は、偉大なるダレイオス大王の七人の同志のうちでも、もっとも力のあったオタネスの子孫にあたる」
トリタンタイクメスはそう言うと、駝鳥の肉に舌鼓を打ちながら、
「これで、エルサレムの統治にあたる主要な者たちがそろったな」
案ずることは何もないと満足気だ。
犬たちは涎を垂らし、ご相伴に預かりたいと吠える。総司令長官は惜し気もなく駝鳥の肉を投げてやる。飼い主に似たのか、犬たちも健啖家だった。どの皿の料理も競って食べつくした。
トリタンタイクメスは彼らの食欲に賛辞の言葉を惜しまなかった。
「おまえたちの食する姿ほど、わたしの心を慰めるものはない」
アシェラは、ご満悦のトリタンタイクメスの傍らにはサライを、大祭司と称するメレモテの隣にはジャミールを侍らせ、家令に目配せをした。
ナーマンが連れてこられた。
密かに、エズラに引き合わせるつもりでいたジャミールは、自分でも顔色が変わるのがわかった。万事休すだと唇を噛んだ。総司令長官の犬以下とされる奴隷の身分の者――しかも人目にさらされた異国の風貌の者を、エズラが弟子として受け入れるはずはないと思った。
アシェラはナーマンに献酌官の役目をさせた。
なんて抜け目のない女主人なんだろう。ナーマンとサライを見比べれば、サライがトリタンタイクメスの目にかなうと知った上で、ナーマンを呼び入れたのだ! これで、ナーマンが帝国内の書記官になる道は断たれた。
多忙のせいで、ジャミールの勝手な行いをアシェラが見過ごしたと思っていたが、そうではなかった。ペルシア人の貴族は美形の少年を好む。
ナーマンの出現は、アシェラには好都合だったのだ。
トリタンタイクメスは、ナーマンを一瞥し、「剣呑な目つきをしているな」ひと言言った。
メレモテは先日の横柄な態度とは打って変わり、濁った細い声で何やかやとジャミールに話しかける。
「あのような芸当ができるのであれば、はじめに明かしてくれていれば、扱いもちがったのだぞ」
メレモテからは、捧げ物の脂身の臭いがした。
トリタンタイクメスはペルシアの酒、ヤシの実から造られたアラックをナーマンに注がせながら、サライに望みを申してみよと急かした。
サライは答えない。
盃を重ねるごとにトリタンタイクメスの活気は増す。
アシェラはにこやかに見ている。
ほろ酔い加減に見える秘書官のシルタンが口を開いた。
「閣下にお願いの儀がございます。剣舞を披露した者らの願い事につきましては是非、わたしめに権限をお譲りくださいますように」
トリタンタイクメスは犬たちと家鴨の雛を頬張っているところだった。
「次期宰相との呼び声が高い、貴君にまかせよう。わたしに異存はない」
秘書官は茶褐色の濃いひげでおおわれた口元を歪め、モレアテに視線を泳がせ、かすかに嗤った。
背筋が凍った。彼らは何かを企んでいる。
何を?! サライとあたしの死か?
秘書官の役目は、ペルシアの行政機関の長である宰相との連絡係だった。監察官が王の耳なら、秘書官は宰相の耳だった。地方に赴任した司令官や総督はどちらの耳も恐れたが、実質的な権限を掌握する立場にある宰相の耳をより警戒した。ましてや、次の宰相ともくされる者なら、実質的な権限はトリタンタイクメスに勝る。
「さてと――さきほどのように何もないなどと申すなよ」
わたしは気が短いと、秘書官は言った。
ジャミールは秘書官の前に跪いた。
「お言葉に甘え、申し上げます」
ジャミールは思い切って言った。
「できますことなら、わたくしと友の願いを、お聞き届けくださいますように」
「なんなりと申してみよ」
ジャミールは決心が揺らいだ。秘書官の声があまりに冷淡だったからだ。酔っていないとわかる。
隣のサライが口を開いた。
「わたしどもにかわって、願いの儀のある者がここに控えております」
ジャミールは、あっと小さく叫んだ。
「だれだ?」
アシェラの顔を見なくても眉をひそめているとわかる。自分から言い出すべきだったと思う反面、難を逃れた気がした。サライは秘書官の許しを得て立ち上がり、酒を注いでいるナーマンの手を止めさせて自分たちの隣に連れてきた。
大勢の賓客の前に立たされたナーマンは突然のことにどう対応していいのか、見当もつかない様子だった。
ジャミールはナーマンの衣の裾を引っ張って、跪かせると、
「ラビ・エズラの〝学びの家〟に、この者を入学させていただきたく存じます。叶うことなら、わたくしもともにと念じております」
「女のそなたと、この者とがか? 行政長官の弟子になって、どうしたいのだ?」
秘書官は尋ねた。
「ううっ」ナーマンは唸った。
ジャミールは目を上げることさえ躊躇われた。
トリタンタイクメスはオリックス(牛の仲間)の肉を食する手をとめ、
「サライ、そなた自身は行政長官のもとで学びたくないのか」
「わたしには、すでに師と仰ぐ方がおります」
「行政長官より見識のある者が、この地にもいるとは、これは驚きでございますな」
秘書官の声は嘲笑を含んでいた。
レビ人祭司の中から、嗤い声が聞こえた。
「用件はわかりました」エズラは静かに言った。
ジャミールは思わず顔を上げた。エズラは正面をむいたまま、次の言葉を発しない。それは、黙れという否定の意味なのか、すべて承知したという肯定の意味なのか、判断がつきかねた。
「さてと――神殿で働くレビ人は、二四の組に組織されている。そのすべての権限は、レビ人の大祭司、モレアテ殿にある」
秘書官は少しの澱みもなく言った。
「よく存じてらっしゃる」
メレモテは誇らしげに口をはさむ。
秘書官は目で頷き、
「有為の青少年のためにある、学びの家への入学に関してならば、宮殿跡の陛下の金庫(かなぐら)から多額の黄金が流用されていると聞き及んでいる。であるからして、われわれペルシア人にも入学に適する少年や少女を選ぶ権限が多少なりともある。ペルシアには、女の書記官や伝令官があまたいる」
「ご配慮のほどお願い申し上げます」
平伏した姿勢のまま、サライは懇願した。
隣のナーマンは相変わらず、唸っている。
「ユダヤ人でない者たちを、学ばせてよいものかどうか。この三人のどの顔を見ても、異国の者の容貌をしている。いかがしたものか……むろん、メレモテ殿は反対であろうな」
秘書官はわざとらしく言いよどんだ。
大祭司は尖った鼻をうごめかした。
「申すまでもございません。むろん、他部族との婚姻を戒める、行政長官の意にも反することでございましょう。ましてや女など論外」
サライは、総司令長官に向き直った。
「恐れながら、トリタンタイクメス閣下に申し上げます」
「申してみよ」
トリタンタイクメスの目はカモシカの薫製肉に注がれていたが、サライの声には即座に反応した。
「先のギリシアとの大戦において、閣下は敵軍から脱走したアルカディア人からギリシャ人が戦いのさなかであるにもかかわらず、弓や馬の競技をしていると耳にし、賞品が何かとお尋ねになられたと伺いました」
トリタンタイクメスはかぶりついていた肉を吐き出した。
「少年のそなたが、そのような昔のことを存じておるのか!」
ジャミールはサライの成長を誇らしく思った。
「賞品が、オリーブの枝の冠だけだとお知りになって、非常に感銘を受けたことも合わせて伺っております」
トリタンタイクメスは、テーブルから身を乗り出した。
「先代のクセルクセス王には臆病者とのそしりを受けたが、今もその時の思いは変わらぬ」
かつての歴戦の勇士の顔にもどった総司令長官はふくよかな頬を紅潮させて語る。
「プラタイアにおいて戦死したマルドニオスの死を惜しむからだ。生涯の友であった彼は全軍の指揮官として立派に戦ったが、無念にもスパルタ兵の手にかかった。気迫において、ペルシア軍の指揮官がギリシア軍の将兵に劣っていたとは断じて思わぬ。しかし、金品ではなく、名誉のために戦う兵士ほど強き者はないことも疑いようのない事実なのだ」
トリタンタイクメスはそう言うとしばし絶句し、はらはらと涙をこぼした。
「マルドニオスほどの勇者に今生では二度とふたたび、会いまみえることはないであろう」
客間は一瞬、水を打ったように静まった。
サライは沈黙をやぶり、
「素性や身分にかかわらず学びたいから学ぶ。そして得た知識を己れと民の誇りのために生かす。神を崇めるためにも信ずるにたる証しを学ぶ者――これを排除すべきではないと存じます」
「知識もまた名誉のためにあると申すか!」
トリタンタイクメスはひときわ大きな声で言った。
「サライ、そちの言葉に偽りはないか」
「この者の知識は――」サライはナーマンを見やり、「ユダの民に引けをとりません。彼らの書物について、なんなりとお尋ねくださいますように」
その声にほんの少しの乱れもなかった。
ジャミールの額に脂汗がにじんだ。
秘書官は酔いにまかせた口ぶりで言った。
「わたしはユダヤ人の書物に詳しくないので、その役目は大祭司にまかせよう。行政長官は反対のようなのでな」
「そう申されましても、この屋敷の奴隷が、わたしの質問に答えられるとは思えませんが……」
メレモテはブドウ酒に酔い、赤トカゲのような顔色になっている。
「どうぞ、お尋ねくださいますように」
サライは引き下がらなかった。
メレモテは空咳を一つし、
「民数記のどこでもいいから暗唱しなさい」
いかにも思いつきで言ったという顔つきであった。
ジャミールは祈るような気持ちで、ナーマンを見た。
唸り声はやんでいた。強張った表情に余裕が生じていた。
彼は、おもむろに口をひらいた。
「契約の箱の進むときモーセは言った。『ヤハウェよ、立ち上がってください。あなたの敵は打ち散らされ、あなたを憎む者どもは、あなたのみ前から逃げ去りますように』。またそれ(契約の箱の意)がとどまるとき、彼は言った。『ヤハウェよ、帰ってきてください、イスラエルのよろずの人に』(民数10:35-36)」
メレモテは気色ばんだ。ペルシア人の総司令長官を前にして、イスラエルの民の戦意高揚を促すような聖句はふさわしくないと思ったのだろう。
「もっと差し障りのない、そうだ! レビびとに関する箇所を――」
大祭司の声は上擦っていた。
「『あなたはレビびとを、アロンとその子たちとに与えなければならない。彼らはイスラエルの人々のうちから、全くアロンに与えられたものである。あなたはアロンとその子たちとを立てて、祭司の職を守らなければならない。ほかの人で近づくものは殺されるであろう』(民数3:9-10)」
メレモテをはじめ、ハットシ、マルキの顔がひとしく歪んだ。年齢はまちまちであるのに、レビ人たちの目は憎悪のひと色に染まった。ナーマンの発した聖句が、レビ人だけに与えられた特権を批判していると聞こえたからだ。
トリタンタイクメスは破顔した。
「その者の反骨精神に免じて、大祭司への非礼を許そう」
ナーマンははじめて深く低頭した。
「閣下のご温情に報いるためにも、かならず帝国の書記官となります」
トリタンタイクメスは大きく頷いた。
秘書官は大祭司の気持ちを代弁するかのように、
「エズラ殿は、〝ネティニム〟と申すイスラエル人ではない者たちを、三五家族ともなって帰国している。あの者らのように奴隷もしくは、神殿や学びの家の奉仕者であるなら認めてもよいでしょう。日頃の行政長官のわれわれへの献身を思えば、学びの家に奉仕する奴隷が一人、二人増えても邪魔にはなりますまい」
ジャミールはこのままではすまないと本能的に感じた。彼らの企みは、王からの信任の厚いエズラの失脚にあるようだった。
トリタンタイクメスの目はふたたびサライに向いた。
「そなたは、何がしたいのだ」
「剣術の道を極めたいと思っております」
「そうであろうな。容姿は似ていないが、幼少の頃より剣を交えて遊んだマルドニオスを彷彿させる……ああ、どれほど彼を愛していたことか」
「閣下、いかかでしょう? その者の機敏な立ち居振る舞いから察するに剣の腕前に自信あるようです。そこで、わが軍の守備隊長と立ち合わせてみては――」
秘書官の目も声も嗤いを含んでいた。
「それはおもしろい! ただし競技だ。殺し合うのではない。よいな」
「祝宴を血で汚すようなことは、けっして致しません」
秘書官は鹿爪らしく答えた。
「勝者には、報奨を授けよう!」
トリタンタイクメスは広間に響く声で宣言した。
4
ジャミールは心に嵐の吹くような揺らぎを感じた。
サライは寸毫の動揺も見せなかった。
「舞いの半月刀ではなく、自らのつるぎを用いてよろしいでしょうか」
トリタンタイクメスが鷹揚に頷くと、サライは控えの間にさがり、細身のつるぎを持ち出してきた。
競技は客間とひとつづきになった中庭で行うことになった。
秘書官が手をあげた。
帯刀した兵士が立ち現れた。サライの倍はありそうな背丈だった。秘書官は兵士の頬に口づけた。兵士の顔面が歓びの色に染まった。
「狭い場所だ。つるぎを交えて、優勢と見えたほうを勝ちとしよう」
トリタンタイクメスは痩身の美少年が打ちのめされる姿を見たくない口ぶりだった。
「未熟な弟に代わって、わたしが、闘います」
舞踏用の半月刀で兵士の前に飛び出しそうとしたジャミールをアシェラが叱責した。
「あなたの出る幕ではありません!」
ジャミールは、サライが敗けるとは露ほども思っていなかった、しかし、勝利すれば、ペルシア兵として連れ去られると案じたのだ。
兵士は、秘書官から、はじめよと命じられる前につるぎを抜き、刺し殺す構えを見せた。相手が少年であっても、殺傷することに躊躇いを見せない。倒せばさらなる出世がのぞめると思っているようだった。
濃いひげの顎をひくと一歩、踏み出した。
大広間の客たちにも客間のただならなぬ気配が伝わったのだろう。見物しようと、ぞろぞろと中庭に出てきた。
サライは左目の前でつるぎを構えた。対する兵士は思う以上に少年が剣術に熟達していると見てとったようだ。間合いを少しづつ詰めていった。
音という音が客間から消えた。
兵士のつるぎは、ギリシアからメソポタミア一帯にかけて広く使われている両刃だった。均整がとれ、突くことに勝れている。サライのつるぎは、片刃で細長い。誰もがはじめて目にする形をしていた。
兵士は両腕を肩のあたりまであげて身構えると、空間を切断するように左手の剣を突き出した。
サライのつるぎは一瞬きらめいて、元の鞘におさまった。
試合が終わったと思う者は一人もいなかった。剣を交える前に、少年が恐れをなして降参したと思ったようだ。秘書官が拍手をしようとした刹那、兵士のつるぎが二つに切れて上半分が落下した。虚を突かれた兵士はサライに飛びかかろうとしたが、その喉首にサライのつるぎの切っ先がピタリと当てられた。
「見事だ!」
トリタンタイクメスは食卓を揺るがして誉め讃えた。犬たちは食べ足りないのか、口から涎を垂らしている。
「なんなりと、望みを申せ」
サライは、オリーブの枝の冠をいただきたいと答えた。
「そなたこそ、年少ながら名誉を重んじる真の勇士だ。そのつるぎを見せてくれ」
サライが切っ先を自らに向けて差し出すと、トリタンタイクメスは食い入るように見つめた。
「青龍の彫り物を施したつるぎの柄を見たのは、はじめてだ。なんと美しい輝きの刃であろう。魅入られるようだ。わたしに譲れと申しても断るであろうな」
「命を奪われたのちであれば、献上いたします」
「このつるぎは持っているときと動かしたときの重みがまったく違う。軽い! そうか、重心がつるぎの中心に定められているからか!」
総司令長官の興奮はひと晩中続くのではないかと思われるほどだった。
宴は、夜明けまで続いた。
トリタンタイクメスが席を立つと同時に、エズラは秘書官に一礼し、女主人の見送りを断り、玄関に送って出たジャミールに声をかけた。
「ナーマンと申す者と二人で、学びの家に来なさい」
宴の場にいなかったザドクがいつのまにか、姿を見せた。
「お待ちください」
前例のないことだと言って、ザドクは承知しなかった。
盗み聞きしていたとしか思えない。
「総司令長官の許しを得たのだ」エズラは言った。
「わたしは学びに行きます」と、ジャミールは言った。
「女ごときが何を言う。正気なのか。戯言だ」
ザドクは譲らない。
「ここは、ペルシアの占領地だ。素面ならいざ知らず、酒席での決定は覆されない慣わしを知らないのか」と、ジャミールは反駁した。
「よく知っていますね」
エズラは苦笑し、成長しましたねと言いそえた。ジャミールのみぞおちに冷たい汗が流れた。バビロンの王宮で会ったことを彼は記憶している。
それで、入学を許したのか?
5
翌日、アシェラは鈴の音のような声でザドクを戒めた。
「宴に顔も見せないなんて、なんて子なの!」
叱っているというよりも、宥めているといったほうが当たっていた。
「先生が総司令長官に跪拝礼をなさるところを見たくなかったのね。大祭司は傲慢だから、レビ人祭司の目があって致し方なく知らんぷりしてるのよ。そのかわり、秘書官にたっぷりと賄賂を使っているはずよ。頼みの綱のあなたがそんなこともわからないようじゃ、わが家も安泰ではありませんね。ねぇ、ジャミール、あなたもそう思うでしょ?」
ジャミールは黙っていた。エズラの真意を図りかねていたのだ。ナーマンとジャミールはともに住民登録の書類を所持していない。
「系譜の書類なら用意してあげます。あなたは、ザドクの従弟だと言い通せばいいし、あの者は、ユダの民とアラブ人との混血だと言えばいいわ」
そして、アシェラは助言した。
「楽器を学ばせなさい。奴隷の身分で、書記官を志すなんて恐れ多いですからね」
「本人が承知しないと思います」
エズラの時代、帝国内の書記官たちはすでに傑出したものとなっていた。聖職者として高い地位に着くにはどの国にあっても家柄が求められたが、身分の低い者たちが高位にのぼるには戦闘能力が優れているか、書記官として認められることが唯一の出世の道であった。
「エズラ様を困らせてはなりませんよ」
許可なさりたくなかったはずですからと、アシェラはジャミールをたしなめた。
「先生はどういうおつもりなのか……」
ザドクは独りごちた。
「それから――」
ジャミールと、アシェラは呼びかけた。
「大祭司から直々にお達しがあったの。あなたに神殿に仕える者になってほしいとおっしゃっておられるわ」
ジャミールは首を横にし、
「学びの家に行かなくてはなりません」
「終わったあとからでも、いいわ」
預言者のお役目だと、アシェラは言った。
「母上は何をお考えなのです! ジャミールは神の言葉はおろか律法さえ知らないのですよ。第一、レビ人でない者が足しげく神殿に出入りするなどもってのほかです」
「イスラエルの民は、あなたやラビ・エズラの考え通りに動かないわ。美しい預言者が必要なのよ」
「ジャミールが預言者になることと、エズラ先生のお考えとなんの関係があるのです」
「この世で、金銀にひとしい価値のあるものが何か、あなたは知らないのよ。情報なくして金銀は得られないわ。このままでは、農民あがりの戦士と称する、荒くれ連中が何をしでかすかわかったものじゃないわ」
「母上っ!」
「わたしたちイスラエルの貴族は、用心にも用心を重ねてあらゆる方法で情報を得なくてはならないのです。暴動でもあれば、今の暮らしなんてすぐに失ってしまいます。わたしがどのような思いをして屋敷を守っているか、あなたは何一つわかろうとしない」
エズラの帰還当時、イスラエルの民は狂喜乱舞して神殿の修復と城壁の再建を誓ったが、資金不足ということもあり、無償の労役を求められたあげくに異国の妻子を離別せよという命令は歓迎の熱気を冷まし、先に帰還していた同じ目的の者たちさえも修復工事について口にしなくなっていた。
「世の中を動しているのは、神の言葉などでなく金銀なのです。裕福な者たちは自国のいくさを好まない」
人々は救い主の出現をひたすら待ちわびていた。モーセやダビデが成し遂げた奇跡を待ち望んでいたのだ。そこへ、エズラが帰還した。ユダヤ人の誰もがエズラに奇跡を期待した。モーセがエジプトからの脱出を可能にしたような奇跡を、ダビデがペリシテ人を撃ち負かしたような奇跡を、神の子にだけに可能な大いなる奇跡をエズラに望んだのだ。しかし、エズラが真っ先に民に求めたことは他の民族との隔離であった。
「口先一つで、人の心を動かせるとお考えの行政長官を、心から敬っているユダヤ人が幾人いるかしら」
レビ人の祭司までが、カナン人の女を妻にしていた事実もあり、エズラの求めはイスラエルの民にとって重すぎる決断を強いていた。地方に住む土地所有者の中にも、エズラに対する不満や反感を抱く者が少なからずいた。そして、彼らは神殿の修復にも執拗に反対した。自由農民の彼らはサウルやダビデの時代から常に武装し、収奪者である都市生活者を脅かし続けていた。納税にひとしい、レビ人祭司への貢ぎ物を求める規定に対する不満が遠因だった。
「母上のおっしゃることやなさることは、神の意に反しています」
「神のご意志で世の中が、どうにかなるのなら、どうして頑是ない子供が物乞いになるのです。親をなくした子供に神は手を差し伸べましたか? だれもが、サライやジャミールのように生き延びられないのですよ」
「母上はなぜ、ご自分の非を認めず、善行を施しているかのような偽りをおっしゃるのです」
「あなたはわたしの庇護を受けながら、神のしもべでいるではありませんか。人は誰でも二つの顔を持っているのです。善人だと言い切れる人がいれば、その人こそ悪人です。わたしは善人ではありません」
ザドクは反論しなかった。
「ジャミールには、それ相応の務めを果たしてもらいます」
言い切るアシェラの目に監察官の青灰色の目が重なって見えた。いつまでもこのままの状態でいられないことは痛いほどわかっていた。しかし、なんとかして男たちの欲望や企みから逃げおおせたいという欲求が日毎に高まっていた。
その夜、ジャミールは、夢の中で声を聞いた。
「バビロンの娘よ。どこへ往こうと、何があろうとわたしはお前とともにある……」
身震いし、目を覚ました。胸から魂が抜けていくような恐怖で、身も心もかんじがらめになった。
6
ナーマンは厩舎の物置で眠っていた。
「学びの家に出かけるようにと、奥様がおっしゃっておられます」
青い瞳の召使の少女に言われ、寝呆け眼のナーマンは追い出されるようにして裏門の外に出た。
ジャミールが待っていた。思わず頬がゆるんだ。彼女はペルシア風の帽子をかぶり、ズボンをはき、ペルシア人の近衛兵の着る緋色のマントをはおっていた。
ナーマンはいつもの額帯をし、召使の少女の用意したユダヤ人の衣服を身につけていた。
先に行くジャミールに追いつき、
「そのマントは、出エジプト記に記されている、祭司たちの聖なる衣の〝えんじむし緋色〟なんだろ?」
「へんな名ね」
「ケルメスナラの木に宿る、昆虫の雌の卵を集めて潰してつくるらしいぜ」
ジャミールは首をすくめた。
「大祭司が、この格好で神殿にこいと言ってるらしいわ」
「総司令長官の命令だと、イスラエル人に知らしめるためだろ」
サライに代わってもらえよと、ナーマンは言った。
「偽るのは、あたし一人で充分よ」
ジャミールはナーマンの傷つく言葉をさらりと言ってのけた。
「あいつは、おまえが、どんな目にあっても平気なのか」
ナーマンはジャミールが好奇の的にされると思うだけで目眩がした。
「くそっ!! サライのやつ、ちょっとばかし、腕がたつようになったからって、宴会でもえらそうな能書きをたれやがって……」
ジャミールは眉をしかめた。
「人を殺してほしいなんて頼んで悪かったわ。あたしなりに、あんたに報いたいとずっと思ってたのよ。なかなか思うようにいかなくて……ごめんね」
いきり立っていた気持ちが、迷宮をさまよう気分に変わった。
おれほど情けねぇやつは、この世にいねぇな。
忸怩たる思いでいると、
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「なんだよ」
「あんたは、ユダヤ人の書物に詳しいから、ダニエルのことは知ってるよね?」
「偽物でも、ユダの民になるんだから、知っておかねぇとな」
「ネブカドネザル王の夢を説き明かしたのよね」
王は、途方もなく大きな像を夢に見たが、バビロンの賢人の誰一人その夢が何を暗示しているのか説き明かせなかったと、ナーマンは言った。
「像の頭は良質の金で、胸と腕は銀で、腹と股とは銅で、脚部は鉄で、足は鉄と粘土が混ざりあってできていたんだ」
「足元は、もろいってことよね」
「未来の国のありさまらしい」
「いまは銀の部分なんでしょ?」
「こんな世の中でも、昔のほうが、まだましだったわけだ。笑えるよな」
「ダニエルはこの地が滅びる日を、待ちわびていたのかな……」
「おれだって、待ちわびてるぜ。神が、青龍を刺し貫くそうだからな」
「バビロンの娘って、どういう意味?」
「堕落を意味すると思うぜ。そもそもダニエルは、人の心を読み、行いを操れるーー」
「もういいわ」
話はそこで途切れた。
ジャミールが肩にぶらさげた袋から、平たいパンを差し出したからだ。ナーマンは食べながら歩いた。
学びの家に近づくにつれ、ナーマンの足は重くなる。
ジャミールはナーマンの憂欝な気持ちを敏感に察したのか、
「からかわれても我慢してちゃんと勉強しなさいよ」
朝から昼前まで、学びの家に行き、ナーマンは昼過ぎから夜まで厩舎で働き、ジャミールは夕方まで神の家での務めがあるという。
「へんなことされねぇように気をつけろよ」
「あたしのことは、気にかけなくていいわ。長くここにいるつもりなんて、ないんだから」
「そりゃないだろ。おまえが突然、消えたら、この俺はどうなんだよ。ザドクの屋敷にも居られなくだろうが」
「そのときの身のふり方くらい、なんでも知っている頭で考えなさいよ。あたしだって、自分のことで精一杯なんだからさ。あんたに申し訳ないと思うから、いっしょに行ってあげてるのよ」
「嘘をつけ、ラビ・エズラの動静を探るためなんだろ」
ジャミールはナーマンに小さな皮袋を差し出した。
「お金もかかると思うから持ってなさいよ」
そして、短剣も返そうとする。
「いらねぇ!」
ナーマンは受け取らなかった。明日にも彼女が消えてしまうような気がしたのだ。彼女にもサライとは異なる、理解不能な一面がある。どれほど話し合っても、同じ言葉を話していないような焦りを感じるのだ。
「短剣の彫り物なんだけれど、サライとそっくりだと思わない?」
「おふくろが親父からもらったんだ。どう計算したって、あいつの生まれる前のことだ。似てるはずがねぇだろ」
「サライのお父さんということは考えられない?」
「そんなことが言いたくて、おれを屋敷に連れこんだのかよ」
三日前のことだった。
腹を空かし、神殿の広場で野宿をしていたナーマンにジャミールのほうから声をかけてきた。散々、捨ておかれたあとだったので、相手がナーマンだとわからず接っしているのではないかとさえ疑ったほどだ。
「屋敷に来て」
ジャミールはいきなり言った。
「……どういうことだよ」
「黙って言う通りにすればいいのよ」
重い腰を上げようとしないナーマンを、ジャミールは急き立ててザドクの屋敷に連れていき、厩舎で寝泊りするように言った。この家の女主人にも了解をとってあると言う。
「宴会があるの。そこで、あんたを、ラビ・エズラに会わせるわ」
「んなことができるのか! 恐ろしい女だな」
ジャミールには非難めいて聞こえたかもしれないが、ナーマンにとっては賛辞にひとしい言葉だった。どんなむずかしい聖句でもよどみなくスラスラ言えるのに、自分の気持ちを的確に伝えられる言葉を知らないことを悔やむばかりだった。
この半年、殺めたカリールの夢を何度も見た。母親の仇には違いなかったが、石を打ちつける寸前の彼の表情が目の裏から消えない。
夜毎、骸になったカリールの悪夢にうなされ、俺は本物のサタンかもしれないという欝屈した感情を抱えたままこの先、何年も生きると思うと耐えられず自ら死を選ぶことすら考えるようになっていた。
もし、ジャミールが現われなかったら、どうなっていたろう。彼女のために犯した罪だったが、見返りを求める気持ちはまったくなかった。しかし、救いの手を差し伸べてくれたときの感激はなにものにもかえがたかった。
屋敷に連れていかれ、顔と手足を洗ったあとに、召使の衣をもらい、
「どうして新しい額帯に替えないの? それでなくたってみっともないんだから」
そう言われ、思わず口をとがらせたナーマンは、
「これでも、宦官になれって言った野郎もいたんだぜ」
言い返すと、
「少しは考えてしゃべんなさいよ。宦官になってたら、屁理屈の多いあんたなんか一日と経たないうちに殺されるわよ。ペルシアの貴族にとって宦官の命なんて、駄馬以下なんだからね!」
言い負かされながら、ナーマンの胸は喜びで震えていた。
「怪しまれるから、刃物は預かっておいてくれ」
カシムから取り戻した短剣を彼女にわたした。カリールを殺めた記憶が薄れるような気がした。
さらに宴席での出来事がナーマンに衝撃をもたらした。サライの一挙手一投足が、生きることに倦んでいた心を目覚めさせたのだ。
イザヤの言葉が、からだ中に満ちた。
「見よ、火を燃やし、たいまつをともす者よ、皆、その火の炎の中を歩め(イザヤ50:11)。覚めよ、覚めよ、力を着よ。覚めて、いにしえの日、昔の代にあったようになれ(51:9)」
夜更けであるにもかかわらず、日輪を背にして立っているかのように見えるサライの俊敏な動きには一片の躊躇も感じられなかった。命を奪わなくてはならないなら容赦なく実行していたにちがいない。そして、自分のように悪夢にうなされたりしないだろうと想像できた。サライは疑念や恐怖を身の内から、ひとかけらも発しなかった。
それに比べて、大祭司や秘書官の前に出たとたん、自分の口から言葉が出るのに永遠とも思える時間を要した。
あいつが麦で、おれは藁か?
サライに敵対し得る相手は、トリタンタイクメスなどではない。ラビ・エズラしかいないとナーマンは悟らされた。
サライを凝視するエズラの目は冷静で微塵の驚きもなかった。その瞬間、
常に自らを見失わないエズラのもとで学びたいと、焦がれるように思った。
徴税官の前で罵った過去の非礼を詫びたかったが、宴の後片付けを終えると、もとの厩舎にもどされた。二頭のラバと三頭の馬がいた。
迷いそうになるほど、邸宅内は広かった。
四方に二層の建物があり、回廊でつながっていた。北側に女主人とザドクの住まいがあり、東側と西側に大広間と客間があり、南側に厩と使用人の住まいがあった。ジャミールとサライは西側の部屋にいるようだった。傭兵にしか見えない使用人の多くは用のない限り建物内に入ることは禁じられていた。
女主人はもとよりザドクやジャミールやサライと顔を合わす使用人は限られていて、新入りのナーマンなど影すら踏めないということがその夜のうちにわかった。
使用人といえども身分の差があったのだ。仕事は、馬とラバの世話だと言いつけられ、出入りも裏門からするようにと厳命された。
「おれサマを舐めんじゃねーぞぉ」
いまに目にもの見せてやると、二人の馬丁が眠る藁敷きの厩舎でぶつくさ言っていると、年配の男に叱り飛ばされた。
「おい、若造、新入りはいちばん下っ端ってことになってんだ。怪我をしたくなかったら気をつけてものを言えよ」
そのときから、ひと晩しか経っていない。
7
二人で歩くと、敷石のはがれた道も黄金色に感じる。
神殿の北にあたる、羊の門が見えた。
「くずぐずしないでよ」
「うん」
ジャミールからもらったばかりのイチジクを皮ごとかじりながらのろのろ歩いた。学びの家になんと言って入って行けばいいのかと、思案していた。一旦、剃り上げた頭髪は、今では肩にかかるくらいに伸びていた。渦巻く黒髪はともかく、褐色の肌の色は隠しようがない。自分一人ならまだしも、連れだということでジャミールもいっしょに罵られるかと思うと胸の鼓動が否応なく速くなる。
ユダの民が、余所者を嫌うのは他の部族の比ではない。
城壁の崩れた羊の門のすぐ目の前に、学びの家はあった。
ザドクの邸宅と異なり、壁は剥げ落ち、玄関の扉も窓枠も壊れていて用をなさなかった。もとはイスラエル軍の兵士が常駐する城塞だったらしいが、いまでは面影すらない。それでも、バビロンから帰国した民で構成する教団の本部もかねていたので狭い屋内は大勢の若者でひしめいていた。
右も左もわからないナーマンとジャミールは建物の中に入ると、自分たちがどこに行けばいいのかと尋ねる相手を探した。誰一人、二人に目を止め、言葉をかけてくれる者はいなかった。容姿のせいか、みな、視線を合わせない。
中庭に通じる廊下に出ると、髭を短く刈りこんだ大柄な男が立っていた。
門番らしい。疑り深い目つきが頑迷な気質を如実に現していた。噂では、この男の他に幕屋の二人の門番とレビ人祭司の二人が妻子を離別したらしい。
「なんだ、おまえらは」
名前を問いただされたあと、門番は中庭に面した部屋へ行き、戻ってくると、褐色と白の塗料を塗った部屋に連れていかれた。備え付けの戸棚があり、携帯用のキンノール(竪琴)や三角形のペサンテーリーンやネーヴェル・アーソール(弦の楽器)がいくつも並べられていた。なぜか、ラッパはなかった。場違いなところに案内されたとすぐに気づいた。ジャミールと顔を見合わせる。
かん高い声の集団が押しいるように入ってきた。
騒ぎは一瞬で静まった。
バル・ミツバの成人式を終えていない十歳前後の少年たちは、二人の闖入者を目のあたりにし、悲鳴に似た驚きの声を上げた。ナーマンもだが、ジャミールの美貌とえんじむしの緋色のマントは幼い者たちの感情を否応なく刺激したようだ。
少年たちは全身を目にして二人を見つめた。
ジャミールは唇の端で嗤い、彼らを睨んだ。
ナーマンはわざとらしい咳払いをした。
「おれはナーマン、こいつはジャミールだ。おれたちの気に障るようなことをひと言でも言ったら、ただじゃおかねぇからな」
悪あがきだとすぐにわかった。
彼らは二人を遠巻きにして、ひそひそ話をはじめた。
「黒いほうは、ザドクの屋敷の使用人なんだって」
「少し前まで、物乞いだったと聞いたよ」
「赤マントは、なんだよ?」
「大祭司のお気にいりらしい」
「預言者になるって噂されてるよ」
「レビ人じゃないのに、なんでだよ?」
「総司令長官の命令らしい」
少年たちの興味は尽きないようだった。
「うっせぇ!」
ナーマンが一喝すると、少年たちの半数は戸棚から楽器を持ち出した。そ知らぬ顔つきで弾きはじめた。
残る半数は、詩編の一節を高い声で歌った。
小面憎い態度に、
「てめぇら、ぶん殴るぞっ」
怒鳴り散らしたとたん、指導者と思われる若者が入ってきた。
彼は、ベニヤミン族のエロハムの子の祭司エリヤの子、エリアシブと名乗り、
「低い声の者は神を讃える歌には、不向きなのだが」
そう言ったあとで、
「よろしい。まず、声を出してみなさい」
若者は、ナーマンの怒声など聞こえなかったように話した。
「あーあーあー」
ジャミールの声は澄み切った空を飛ぶヒバリの啼き声のように響き渡った。
少年たちの間から歓声が上がった。
ナーマンが声を出すと皆、耳に蓋をした。エリアシブはナーマンに、適当に口を開け閉めするよう言った。
「声を出すなってことかよ?」
「そういうことになるかな」
子どもらに交じって歌う気など毛頭なかったが、そこまで言われると黙っていられない。
「おれはここに学びに来たんだ」
「この部屋では、楽士を養成している」
若者の表情は穏やかで生え揃ったばかりのように見える髭が飾り物に見えた。
「弦の楽器を一から学んでみてはどうだろう? 神は一人一人にたまものをお与えになられている。君にも一つくらいあるはずだ」
若者の指揮で、ダビデの詩歌を歌う半数の少年たちの声に合わせて、残りの少年たちの奏でる楽器の音色が一つに合わさっていった。
「ヤハウェよ、いつまでなのですか。とこしえにわたしをお忘れになるのですか。いつまでみ顔を隠されるのですか(詩編13:1)……」
神に顔なんてあるのかよ。あるならいっぺんでいいから拝ましてくれよと口の中で言う。
ジャミールに訴えても、働かずに時間を潰せばいいのだから我慢しろと言うにちがいない。いつになったらエズラがやってきて、森羅万象の謎を説き明かしてくれるのか……。もしこのまま何日もこの部屋に通わなくてはならないのなら総司令長官に訴え出てやるつもりだった。
8
同じ頃、サライは、つるぎを鍛え直してもらうために〝灰色の山の門〟の近くに住む鍛冶屋に出向いていた。この門は〝糞の門〟と呼ばれ、市の城壁の南東の隅にあり、テュペロンの谷との合流点の近くで盗賊と死者の棲み家だと言われているヒンノムの谷に通じていた。
谷を降りて行った。
以前はこの辺りにも陶工が多く住んでいたらしいが、今は灰土にまみれた城壁の残骸があるだけだった。物乞いの住居が密集していて悪臭を放っていた。その中の一軒から金属を叩く音が聞こえた。
入って行くと、真っ赤に焼けた刀剣を金槌で打っている男がいた。
一度は父と呼んだ相手――イサだった。
「とうとう来られましたか」
イサは手を止め、眩しげに目を細め、戸惑うサライを見あげた。
「どうして……?」
イサは素早く立ち上がった。
「あなたの母上をお助けしたその日から、この日のくることを一日千秋の思いで待ちわびていました。賭けでした。ぞんざいに扱ったことも、生き埋めにしたことも――それで死ぬようであれば、神の申し子=メス・ハッダではないと思っていました。確かな証しが欲しかったのです。あなたがメス・ハッダであるという確証が――」
「二人の子は?」
サライは、姉や妹のことが気にかかった。
「焼け死にました。この世に、あなた様の出生の秘密を知る者はもはやおりません」
「まさか……」
「わたしが、火をつけました。隠し持った永劫の火(石油)を使って」
サライは驚愕した。
「わたしは、メス・ハッダではないかもしれない。それにカライを……」
息子を殺したサライのために、自らの子や村人を焼き殺したというのか。
「お顔の色を見れば、サライ様のお気持ちは手に取るようにわかります。しかしこの先も幾度となく、あなたは、ティアマトの血を受け継ぐ者であるかどうか、運命を定める神に試されるでしょう。それが王となる者の宿命なのです」
「わたしは、そんな大それた者じゃない!」
「あなたが、お決めになることではないのです。青龍がサライ様を導くのです」
「なぜ……」
「シンドゥ様がおっしいませんでしたか。わたしもシュメル人だからです。わたしはかつて監察官の下で働く密偵でした。一片の憐れみをもたずに相手を殺せるよう、幼少より訓練されて育ちました」
「密偵だったのか……」
「もし、あの日、巫女様に会わねば、いまも王の耳と呼ばれていたでしょう。あなた様を身篭もった巫女様を連れて逃亡したあと、幼い娘と赤子を連れた寡婦に出会い、あの村に移り住んだのです」
その日、イサは、雇った数人のベドウィンを引き連れ、ウルクの赤色神殿を襲ったという。
「黄金を奪うことと神殿内にいる者すべてを殺すように命じられていました」
バビロンで育ったイサは一族の先祖がシュメル人であることは知っていたが、ウルクに王族の生き残りが匿われているとは夢にも思っていなかったそうだ。
「今になって思えば、不思議としか言いようがありません。隠れていた神殿長と巫女様を目にした瞬間、シュメル人の待ち望んだメス・バッダを彼女が産むとわかったのです。サンガと呼ばれる神殿長は巫女様の命乞いをし、いつか、墓に詣でてくれと申されて――井戸に身を投げました」
イサは涙ぐみ、
「一瞬のうちに己れに課せられた使命を理解したのです。監察官の配下となって汚い仕事に手を染めてきたのも、あなた様と巡り会うためだったのだと」
「黄金を見つけたから監察官のもとを去ったのではないのか」
サライは問いつめた。
「ユダヤ人は書物を通して、自分たちがユダヤ人であることを意識します。わたしたちシュメル人は言葉に頼ることなく、天の神の啓示をうけて、おのれが為すべきことを知らされるのです。黄金などなんの意味がありましょう。たしかに神殿長から多少の金銀は預かりました。しかし、それは監察官の望む、ソロモンの黄金とは異なります」
「わからない。おまえの娘はまだ幼かった。それをどうして殺したのだ……」
「後顧の憂いを残さぬためです」
「村人まで……」
イサはサライを見つめた。
「わたしの娘ではありません。カライの子です」
「嘘だ!」
「カライは、あなた様に殺されると知っていました。あの者の心は、あなたのもとから片時も離れられなかった。苦しんでいました」
「もしかすると、青い石は、お前が皮袋の中に……」
「死に至ると予感したカライは、わたしに願ったのです。おのれの恥辱を焼き払ってほしいと」
「……王の証しとなる青い石を、わたしはなくした」
イサは深く頷いた。
「あなたが、王となる日を黄泉の国にいるカライは待ちつづけるでしょう。青い石もかならず手元にもどってまいります」
「それなら、なぜ、酷い目にみなを遭わせたのだ」
「あなた様にどう思われようと、わたしは終生、あなたをお守りする覚悟でいます。さ、つるぎをこちらへ」
イサはそう言うと、サライの手からつるぎを受け取り、鍛え直す間、使用するようにと別のつるぎを差し出した。
「このつるぎは、シンドゥ様のものです。サライ様へ渡して欲しいとおっしゃておられます」
サライは帰途、イサの言葉を思い返した。シンドゥにはもう会えないと言っているように聞こえたのだ。シンドゥのつるぎはサライのものとほぼ同じ造りだった。
カライはイサの実の子ではないという言葉も心に重くのしかかってきた。思い当ることはただ一つ、イサとカライとは少しも似ていなかった。
9
ナーマンは歌をうたう者と楽士を養成する部屋から追い出された。
熱心でない学習態度に業をにやした指導者エリアシブは、ハットシを警護している若者らのもとに不届き者を行かせることにしたのだ。
ジャミールと離れることはつらかったが、歌や楽器を学ぶことは不向きだと初日に思い知っていたので文句は言えなかった。
去りぎわ、ジャミールに目を向けたが、彼女は、ナーマンにひと目もくれなかった。
十代後半から二○代前半の若者たちで占められている部屋に入って行くと、バアル神のようなまがまがしい顔つきの男が待ち構えていた。彼は、ナーマンがヘブロンの集会所で騒ぎを起こした若者だと人づてに聞いているはずだが、そのことは口にせず、よそ者の奴隷に聖なる言葉は不要だと吐き捨てた。
男は、エリアシブの父のエリヤだった。
噂では、異国の妻を去らせたレビ人祭司のうちの一人らしい。もう一人、同名のレビ人祭司エリヤはハリムの子だということだった。
みなは区別するために、エロハムの子のラビ・エリヤ、ハリムの子のラビ・エリヤと呼んでいる。
エロハムの子のラビ・エリヤは、将来、祭司となるレビ人の若者たちは、人びとの罪を許すための捧げ物の焼燔について熟知しなくてはならないと言った。
ナーマンが律法書の中でもっとも退屈だと感じている、モーセの五書の『レビ記』をここでは学ぶようだ。
「神殿で捧げ物として受け入れられる犠牲用の動物は頭の天辺から足の先まで念入りに調べて何ら汚点や欠陥のないものでなくてはならない。われわれの手で犠牲(いけにえ)を捧げることによって、捧げ物をした者は神のみ前で清くなり、神の祝福や導きを受けることができるのだ」
顔の半分が髭のラビ・エリヤの説教は恫喝にひとしかった。
ナーマンは口の中で反駁した。
「罪をあがなうために捧げ物をせよ、か。冗談じゃねぇぜ。てめぇらが食うためにやらせてんだろうが」
モーセの親衛隊だったレビ人は、モーセの命を受けて同族の粛正を行なった。その報奨が、千年の時を経た今も続いている。
「律法では、捧げ物の肉のどの部分が食用として祭司にわたるかを定めている(申命18:3)。また、捧げ物をするときの祭司の服も定められている(レビ5:10)。その時の下着の股引は亜麻布でなくてはならない」
「肌触りのいい綿布では、なんでいけねぇんだよ?」
ナーマンは思わず問うた。
「目上の者に対する言葉遣いも知らぬ、お前の能力では、この組に属すことは無理だ」
ラビ・エリヤに別の組に行けと言われ、喜び勇んで隣の部屋をのぞくと、いかにも利発そうな少年たちの一団が声高に律法書を暗唱していた。明らかに十三歳以下の少年たちしかいない。しかし棚には、多くの巻き物があった。
十七歳のナーマンよりやや年長らしい少年が遅れて入ってきた。暗い表情が少年を大人びて見せていたが、自分と同じ年頃なのかもしれないと思った。流行病いを患ったのだろう、顔中に、できものの痕があり、皮がめくれている。
皆が少年をエライジャと呼んだ。帰還者が連れてきた奴隷〝ネティニム〟の子だという囁き声が聞こえた。
「病がうつるから、そばに寄るな」と、互いに言い合っている。
エライジャはナーマンを目にすると、おい、黒いのと言った。
聞こえないふりをしようと思ったが、気がつけば相手に殴りかかっていた。
ふいをつかれた少年は転倒した。そこへ、狭い額のわりに鼻から下の長い若者が入って来た。
エライジャは弾かれたように立ち上がった。
「ラビ・ヒレル!」
少年たちは声をそろえて、若者に呼びかけた。エヒエルの子だというヒレルが頷くと、少年らは背もたれのない粗末な長椅子に腰かけた。
説教者の常として、ヒレルはまずはじめに神への祈りを捧げ、モーセに率いられた民がエジプトから脱出する箇所を口にした。
「つづきを――エライジャ」
暗唱するようにヒレルは指名した。
「モーセが手を海の上にさし伸べたので、ヤハウェは夜もすがら強い東風をもって海を退かせ、海を陸地とされ、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中の乾いた地を行ったが、水は彼らの右と左に、垣となった(出エジプト14:21-22)。そして……」
そこから先は暗記していないようだった。
「イスラエルの民でないからと言って、怠けることは許されない」
ヒレルはそう言い捨て、蝋を塗った板を持ち出し、自分と少年が暗唱した文章をヘブライ語とアラム語の両方で記述し、少年たちに声を出して読むように命じた。
ナーマンは従わなかった。
「読めないのか」
ヒレルはナーマンに問いただした。
ナーマンは立ち上がり、アラム語で返答した。
「読めるが、納得できない」
皆がナーマンを見上げた。
「聞いた話では、海の水には満ち引きがあって、潮が引くと渡れる箇所ができるそうだ。。モーセはそこを渡ったのだろう。シナイ半島の地形を知り尽くしていたので、奇跡が可能になったのだろう」
常日頃から感じていた疑問を口にした。
「おまえは今、なんと言った!」
「陸地より広いと聞く海が、二つに分かれるはずがねぇと言ったんだよ」
「おまえの親は、レビ人とはどういう存在なのか、話さなかったのか」
ヒレルはナーマンに問うた。
「おれは、アラブ人との混血だから、律法書をありのままに読み解くようになったんだ」
「レビ人は、神殿で奉仕する部族ゆえに土地は与えられなかった。それゆえに、十二の部族からの捧げ物で暮らすようにとモーセから定められているのだ。このような時代ゆえに組織は弱体化しているが、われわれは誇りを持って祭司としての務めを果たすゆえに幼少より学んでいる。そのわたしを屈辱するのか」
「返答に困ると、『ゆえに』を連発するのが癖なのか」
若い説教者は怒りで首まで赤くした。
「余所者のおまえは今後、説教師であるわたしに対し、口をきいてはならない」
「おれは総司令長官の許可を得てここに来てるんだ。そのおれ様に口をきくなと言えるのか」
「ここでは、説教師の言葉に意義をさしはさむことは許されない」
厳命すると言うヒレルに、ナーマンは重ねて問うた。
「神の言葉を伝える者とは、一方的に話す者のことを言うのか」
近隣の村々から上ってきたレビ人の少年たちにとって、疑問に思っていることを立ち上がって質問するナーマンは理解の範疇を越える存在だった。
エズラにつき従う弟子でもあり、説教師としては破格の若さのヒレルを、ナーマンは質問責めにした。神の意志に誤りはないのか。誤りのない神がなぜ、誤りの多い人を創ったのか。神は、神の目に正しくないと思えば、女や子どももふくめて部族全員を殺すことをなぜ許すのか。それほど悪を憎む神がなぜ、ただちにサタンを滅ぼさないのか、と。
「サタンのごとく、愛ある神に疑問を呈してはならない!」
「不可解に思うことを、神は許さないのか」
ナーマンは問うた。それが、ほんとうに神の真意なのかと。
「神のみ名をみだりに口にしてはならないように、まちがった卑俗な知識で神を推し図ってはならない」
ヒレルは信仰心のあつい男の大いなる忍耐について説いた。とがめなく、廉直で、神を恐れ、悪から離れていたその男はおびただしい羊や牛を所有し、幸福に暮らしていた。
しかしあるとき、悪魔が神に挑戦した。お前が神に仕えるのは物質的な益のためであると非難した。もし、神がそれらのものを男から奪い去ることを自分に許すなら、忠誠の道から離れることになると言うものであった。
神はこの挑戦を受け入れた。
疑うことをしらない男にさまざまの災いが降りかかった。富を失い、息子や娘たちを嵐によって殺され、自らも恐ろしい病に倒れる。皮膚は黒くなって剥がれ落ちた。一方、妻からは、神を呪って死ねとまで言われる。しかし、男は、その唇をもって罪を犯すようなことをしなかった。神を讃えつづけた。にもかかわらず、男への厳しい試練は止まない。男は死を願うようになる。神はその時、男に答えられる。
「わたしが地の基を置いたとき、あなたはどこにいたのか……」と。
男は謙虚に認めた。わたしは取るにたりない者です。わたしの手をわたしは口に当てます、と。
ヒレルはおごそかに告げた。
「信仰は義務だ。神のみ言葉を聞くものは、生きている限り、神の掟に忠実でなくてはならない。あらがう者には鉄槌がくだされるのだ!」
その言葉はナーマンの耳に虚しく聞こえた。男の物語を、彼自身の慰めにしているとしか思えなかった。エズラなら、ナーマンの疑問になんと答えるのだろう。それが知りたかった。
ヒレルの勿体ぶった説教は、巻き物にあった一節を思い出させた。
「神は一つの方法によって語られ、また二つの方法によって語られるが、人はそれを悟らないのだ。人々が熟睡するとき、または床にまどろむとき、夢あるいは夜の幻のうちで、彼は人々の耳を開き、警告をもって彼らを恐れさせる(ヨブ33:14-16)」
その夜――、
「おれはこの先、夢も夜の幻もけっして見ねぇぞ」
警告を恐れてなるものかと、ナーマンは己れに強く言い聞かせた。
忠実なしもべである者だけを愛する神を、神として認められる日がくるまで、一切の贖罪を拒む決意をした。
10
夜明け前、サライが馬に餌をやっていると、ナーマンがふらりとやってきた。サライは、学びの家に行くナーマンに代わって、馬とラバの世話をしていた。ナーマンは礼などひと言も言わない。
「なんてことないんだけどさ」
ナーマンは渦巻く髪をかきあげながら言った。
「学びの家の連中の頭は、ひょっとして良くないんじゃないのかって思うわけよ」
「ナーマンより頭のいいやつなんてめったにいないよ」
「理に合わない言葉の繰り返しによく飽きねぇと感心するよ。あいつらには心に響く言葉と退屈な言葉の区別がないらしいんだ。おれはじっと座って聞いてると言葉が口から飛び出してくるんだよ。なんでそうなるのかわからねぇ。選り好みしすぎるのかなぁ」
サライは思わず笑った。
「何がおかしんだよ」
「ジャミールは、ナーマンが立派な書記官になることを願ってると思うよ」
ナーマンは照れ笑いを見せると、
「あいつがおまえに、俺を学びの家に入れてもらえるようと頼んだんだろ?」
頼まれた覚えはないが、サライは黙ってうなずいた。
「無理しなくたっていいのにさ」
「ジャミールはいざとなったら自分を犠牲にしてしまう。それがとても心配なんだ」
ナーマンはむっとした表情になり、
「おまえさ、ごたいそうな連中の前に出ると、口のきき方もゴロッと変えて別人になるんだな。なんかこう、とってつけたようで自分が恥ずかしくならねぇか」
「恥ずかしいけど、シンドゥがそうしろってきつく言うんだ。おいら、いやわたしもそうするしかないなって近頃、思うし」
「なんでだよ。おれは、『おいら』でも、『わたし』でもなく、おれって言いたいんだ。でなきゃあ、自分の心を偽ってる気がするんだ」
「わかるよ。おいらだって『わたし』って言った瞬間、別のだれかが話してる気がするもの」
「だろ? おまえ、まんざら馬鹿じゃねぇな。いくさのことにもヤケに詳しいし」
「シンドゥに習ったことを話しただけだよ。ナーマンのように文字がスラスラ読めないし、書物を読んだわけじゃないから、なんにも知らないのと同じだよ」
ナーマンはうんうんと頷くと、
「ずっと学びたいと思ってたけど、道を間違えたような気がするんだ。おふくろの言っていたように、フェニキアあたりで修業して金細工職人にでもなってたほうがよかったのかもしれねぇな」
「どうして? ナーマンはとっても頭がいいから、もっともっと学ぶほうがいいよ。おいらは、目がよく見えないから、自分の身を守るために役立つことを習っているんだ」
「見えてなくて戦えるのか!」
「輪郭はわかるんだけれど、靄がかかっているんだ」
「今日も野っ原で剣術の稽古か」
サライは首を横にし、一昨日からシンドゥが屋敷にやって来ないので、家を捜しに出かけるつもりだと言った。
「先生の家も知らねぇのか」
「教えてもらえなかったから……」
自分の目の他に、思い悩むことのなかったサライは師と仰ぐシンドゥの身を案じてどうすべきか苦慮していた。
「俺は今からジャミールと一緒に、学びの家の連中と神殿に出かけるんだ。犠牲を捧げるんだとよ。あの掘ったて小屋みてぇなのが、幕屋(神の家)かよ。至聖所だってよ。んでさ、レビ人だけで仕切ってんだから、たまんねぇよ。契約の箱もねぇのに、あんなかに神がいるわけねぇじゃん」
ナーマンはいきなり跪くと、両手を高く上げた。
「神よ、わたしをお救いください。大水が流れ来て、わたしの首にまで達しました。わたしは足がかりもない深い泥の中に沈みました。わたしは深い水に陥り、大水がわたしの上を流れ過ぎました(詩編69:1-2)」
そして、ゆっくりと立ち上がり、やってられねぇと吐き捨てて厩舎を出て行った。
無駄話をしたのは、神殿に詣でることが嫌だったせいなのかと、サライは合点がいった。
こちらに向けというように馬の鼻が、サライの顔をくすぐる。三頭いるが、どの馬も可愛くてたまらない。ブタの毛のブラシで艶が出るまで梳いてやる。彼らの目を見れば、何を望んでいるのか、すぐにわかる。
そのとき、秘書官のシルタンの来訪で客間に呼び出された。
「こんなに朝早くになんだろう?」
客間には、アシェラも同席していた。
儀礼的な挨拶の言葉を述べると、シルタンは嗤いを含んだ声で言った。
「このたび、名誉なことに、サライは総司令長官の親衛隊の一員として、召し抱えられることにあいなった。よって、日暮れまでに、出仕するように」
アシェラは頭を低め、承知いたしましたと応じた。
「まだ剣術の道を極めておりません」
サライは承諾しなかった。
「十三歳になるそうだな。アシェラ殿より伺ったところだ」
たしかにこの半年で、サライは成長した。同じ年頃の男子と比較すればやや小柄だが、背丈はジャミールを追い越していた。
「それからジャミールのことだが、監察官の密偵であるそうだな」
サライはアシェラの顔を見た。
「偽りを申した罰として、学びの家を去って、内々に大祭司の側女にならねばならぬ」
耳にした瞬間、サライはおぞましさで常軌を逸しそうになった。女主人がジャミールの正体を知っていたこともだが、そのことを監察官と敵対すると思われる、宰相の息子のシルタンに告げたにちがいなかった。
「幕屋に近い柱廊での預言者のお役目はどうなるのでしょう」
アシェラは表情を変えずに、尋ねた。
「バビロンでは神殿に仕える巫女の多くは貴人の相手をしておる。預言者も同じだと思ってよい。今まで通りの装束で務めを果たせばよい」
エズラは帰還後、巫女と称する娼婦らを神殿から一掃しようとした。祭司職のレビ人のすべてに求めたが、彼らは為政者でない自分たちにその権限はないと言って譲らず放置されたままだ。
「大祭司一人を慰めればいいのだ。はしため風情の女が大勢の男の相手をしなくともよいのは、ひと重にアシェラ殿のおかげだと、本人も感謝するであろう」
秘書官は事もなげに言った。
宴の夜、大祭司がジャミールを見つめる眼差しを、サライは思い浮べた。
「断れば、おまえとナーマンとジャミールの三人の命は保障しない」
シルタンは平然と言った。すぐそばにいるアシェラは黙して語らない。彼女は、自分たちが屋敷にやってきた日から、あれこれ使い道を考えていたのだろう。アシェラの裏切りとも言える行為に対して、サライは憤りを覚えたが――、
「武具を整えたのちに出仕いたします」
かならずと、サライはつけ加えた。
シルタンは、閣下がお喜びになるだろうと言って、アシェラの差し出すいくらかの賄賂を受け取り立ち去った。
「なんて名誉なことかしら。早速、お祝いしましょう。あなたは、お肉を食べないから、めずらしい果物とお野菜でご馳走するわ」
サライは気にかかることをたずねた。
「昨夜からミシアの姿が見えませんが、病に倒れたのでしょうか」
「元気にしていると思いますよ。連れて行かれた先はわかりませんが」
「売ったのですか」
「あの子は、あなたの世話係でした。宴の日に、不要だとわかっていたはずです。だから、剣術の先生もお断わりしました」
アシェラの言葉を聞き流し、部屋にとって返すと、シンドゥのつるぎを手にし、ペルシア軍の宿営地に向かった。
トリタンタイクメスに直に会って、断るつもりだった。もし、聞き入れられないのであれば、ジャミールやナーマンとともに即刻、アシェラの屋敷から逃げ出さなくてはならない。
「シンドゥはなんとおっしゃるだろう……」
つぶやいたその時、白い衣をまとった少年たちの行列が遠目に見えた。先頭集団には、香と聖水を携えたザドクがいた。そのすぐ後ろを行く神を讃える歌を歌う聖歌隊の中にジャミールもいる。ナーマンともう一人、最後尾をとぼとぼ歩いている。彼らが、二人を穢れた者としてあつかっていることはサライにも見てとれた。
痛みを知るナーマンこそ、エズラの弟子でなくてはならない。さだめに従い、おのれの為すべきことを為せと教えたシンドゥの言葉がサライの胸中によみがえった。ジャミールとナーマンに秘書官の言葉を伝えるべきではないと思った。急いで広場を横切りながら、独りで屋敷を去る決意を固めた。
「おまえは戦士、われわれの一族、おまえに告げる。怒りを心にとめ、立ち上がれ」
幻聴ではなかった。言葉が全身に鳴り響いた。
11
夕暮れ、ジャミールは、幕屋での務めを終えると身を隠し、白い衣を脱いで、バラ水のしずくを顔にふりかけ、薄紫の花模様の衣服に同じ色のベールをかぶり、ショールを肩にかけ、神殿の広場に向かった。
カシムに会うためだった。
日中、各地からやってきたユダヤ人の巡礼やアラブ人の行商人で広場はひしめきあい、枝編みの篭を肩にかついだ女たちや皮を剥いだ家畜の肉を肩にぶらさげた男たちでごったがえしていた。売り手のナバテア人とエドム人、買い手のアラブ人とユダヤ人のあいだには珍しいの形の壜や、土器の水差しや、陶器や、酒や、香料や、羊肉や乾物が山積みされていた。
これらの品は遠い異国から運ばれてきている。
キュウリ、ナス、タマネギ、リンゴ、ブドウ、アンズ、イチジクなど色とりどりの果物や野菜も所狭しと並んでいる。いつしか、時の経つを忘れていた。腹立ちも悔しさもどこかに消え、口にしたことのない食べ物の匂いをかぎながら一つ一つ品物を手に取って眺めた。
「女のなりして、なんぞ、ええことでもあったんか」
カシムが背中に立っていた。
「あるはずないわよっ」
ジャミールは振り向きざまに怒鳴った。
「びっくりするやないか」
「だって……」
「預言者に化けて、嘘八百を並べたてるんやから難儀やろなぁ」
ジャミールは首を振る。彼女の幕屋での役目は至極、簡単だった。香を焚き、レビ人祭司と同じ衣裳を身につけ、おごそかな声で、なん通りかある決まりきった託宣の一つを思いつくままに発すればいいことになっている。聞いた側がなんとでも解釈できるような言葉の羅列だったので、すぐに覚えられた。
「嘘には慣れてるわ」
どの部族の民であれ、エルサレムに上ってくる貴族や金持ち連中は常にさらなる幸運を求めて預言者に悩みごとの相談をし、お告げを聞きたがる。そうして多額の金を寄進する。ジャミールは上級祭司の私利私欲を満足させるために日々、意味のない言葉を吐き続ける。
「麝香鹿の雄は繁殖期になると、ええ匂いがするから命をとられる。ジャミールは女や。命をとるほうや。そのことを一時も忘れたらあかんでぇ」
ジャミールの務めは別にあった。相談内容を聞き取り、アシェラに伝えることだった。彼女はそれによってフェニキアからパレスチナ一帯の動静を知り、商談に生かしていた。大祭司には金が入り、アシェラは情報を得る。
アシェラがなんの目論みもなしに、自分とサライを庇護してくれたのではないと屋敷に泊まった日からわかっていた。しかし、彼女の要求は度を越してきていた。あからさまになってきたというほうが正確かもしれない。ジャミールを着飾らせるのも、大祭司の目を惹くためだった。
昼過ぎ、神殿に使いの者がきて、今日明日にも、大祭司の屋敷に移るようにと告げられた。以前のジャミールなら黙って従っただろう。
ジャミールは広場の雑踏に目をそらした。
「フェニキアあたりに移ろうと思うの」
「蜘蛛は大風の吹く前に巣をたたむ、ゆーからな。ほんまは、わいもトンズラしたいところやけど、ギバルから連絡がきたんや」
ジャミールは頬を強ばらせ、店先からブドウの房を手にとった。
「イスラエルのあっちゃこっちゃから、戦士やゆーて地主や雇われた若いもんが鎌や斧を手にもって、エルサレムにのぼってきとるそうや」
神の子と騒がれているハットシの周りには、兵士のような若者の集団が張りついていて、日毎にその数をふやしていた。
「帰還した連中と地方の地主とは手を結べん。ペルシア人の思うツボや。総司令長官は適当にええ顔をして、どっちも潰す気ぃや」
「そうみたいね……」
頷きながら、手にしたブドウをサライに食べさせたいとジャミールは思う。
物売りから買い、カシムに指示されたギバルの待つ場所へ行こうとした、その時だった。神の怒りと信じられている雷鳴が天地を揺るがした。目をあげると、閃光が走った。またたくうちに日は陰り、頭上と言わず空一面を黒雲がおおった。刺すような大粒の雨が音をたてて降ってきた。
「とうとう降ってきたなぁ」
「砂漠のにおいが恋しいわ」
「町にいてると頭が腐ってくるなぁ」
「ショールを貸してあげるわ」
「すまんな」
二人は右と左に別れ、雨季の到来を告げる雨の中を駈けた。
12
鍛冶屋にイサの姿はなかった。
近くに住む者に問いただしても、行き先を知る者はいなかった。サライは日没近くまで、シンドゥの家を尋ね歩いた。今頃、トリタンタイクメスは出仕しないサライに苛立ち、アシェラの屋敷に使いの者を送っているだろう。来た道を戻るしかなかったが、アシェラの屋敷に帰る気はもとよりなかった。
髪も衣もずぶ濡れ若者の一群が神殿に向かっていく。斧や刃物を手にしている。
シンドゥはどんな事態になろうと、他者に動揺を見せてはならないと戒めた。困難な事態に遭遇したときほど冷静に判断し、行動しなくてはならないと。
武装した若者らが通りすぎた。サライは彼らのあとを追う。
満水の川の水を流したほどの雨が地上に降りそそぎ、石畳の街路という街路は濁流の川床となり、瓦礫を押し流した。
サライは行く手をさえぎる鉄砲水に足をとられ、なんどもころんだ。
「サライッ」
ナーマンの大きな声が聞こえた。
道を隔てたところにザドクもいる。
「こっちへ来いっ」
彼らは声をそろえて呼ぶ。
壁づたいに立ち上がったサライは二人とは反対の方角へ足をとられた。立ち上がったそのとき、思いがけずジャミールのショールが目の端を横切った。若者らと出会わなかったようだ。
安堵したのもつかのま泥水の流れに沿って小石の埋まった坂下の路地奥へとショールを頭に巻いた小男が走っていく。カシムだ。後を追って壊れた建物の中に入っていくと、人陰が見えた。誰かがしきり戸を背に立っている。
「ギバル、悪いけど、抜けさせてもらうわ」
ジャミールの声だった。
「預言者とはよく考えついたな。契約の箱のありかも知れるかもしれんな。なあ、カシム」
ベドウィンの盗賊を、斧の一撃で倒した赤毛の男。サライを砂の檻から救ってくれた男でもある。男は刃先を皮袋でおおった槍を肩にかつぎ、ショールをターバンの代わりにした小柄な男に話しかけた。肩に鷹は止まっていない。それが男の背を凡庸に見せた。
ジャミールは、「もう、お役ごめんにしてよ」と言った。
「どうして、小僧に毒をもったんだ?」
「自分のしたことなんだけれど、自分でもよくわからないの」
怒りは感じなかった。それぞれが己れの定めにしたがって生きるしかないと学んだからだ。
「ジャミール、おまえの母親は、ペルシアの高官の側女だった。側女は正妻に劣るが、一夜かぎりの娼婦と違って暮らしの面倒はみてもらえた。おまえは命も助かった。結構なことじゃないか」
「本気でゆーてるんか。ジャミールの母親も弟も正妻に殺されたんやで」
カシムは抗議するように言った。
「そろそろ決まった男のものになってもいい年頃だ。大祭司の側女になれば、宝石もうなるほど買ってもらえるさ」
「相手は自分で選ぶわ」
物陰にいるサライは、槍を自在に操るギバルの力量を値踏みした。
「おまえは、もしかして、サライとかいう小僧に気があるんじゃないだろうな」
ギバルの押し殺した声にジャミールが反駁した。
「あの子はね、あたしのせいで、目が悪くなったのよ。青い石だって、あんたに盗られたし」
「青い石は監察官の手元にある」
ギバルの口調には、一片の譲歩もなかった。
「俺たち密偵は、監察官の命令に従うことだ。それが嫌なら死ぬしかない」
「わかっているわ」
「エズラの下にいるヒレルにも取り入っておけ。やつは、大祭司に通じている。いまは、エズラにくっついてるような顔をしてるが、おそらく表向きのことだろう」
「二人を相手にしろっていうのね」
ジャミールの声は静かだった。
「大祭司のメレモテは、エズラのかき集めた金を吸い上げている。知りたいのはその使い道だ。もしも、戦士と称するやからに金がわたっているなら監察官に報せなくてはならない」
「大祭司は地位を保証してもらうために、秘書官への賄賂に使ってるという噂よ」
「ペルシアから出ていった金が、ペルシアに戻っているということか」
それだけ言うと、ギバルの気配が消えた。
「ギバルも、あーゆーしかないんや。逃げたらええがな」
カシムが小声で慰めている。
「逃げる? どうやってよ、あんただって、裏切った連中がどうなったか、よく知っているでしょ。どんなに遠くに逃げても捜し出されるわ。そして、鼻と耳を削がれ、生き埋めにされるのよ。そんな目に遇うくらいなら自分で死ぬわ」
サライは足音を忍ばせて建物の外へ出た。
いつのまにか、雨は止んでいた。
シンドゥやシサを捜す前に、やっておかなくてはならないことに気づいた。先に大祭司に会わなくてはならない。そして、総司令長官に――。
サライはメレモテの屋敷に忍びこみ、上級祭司の職服を切り裂き、ジャミールに手出しをすれば命がないと吐き捨てた。その足で物売りから干し肉を買い、トリタンタイクメスのいる駐屯地へと向かった。
天幕内で飼われているインド犬の鳴き声に耳を澄ます。
夜が更けるのを待った。
若い男を天幕に誘い入れた総司令長官のトリタンタイクメスは星空の下に出ると、護衛兵を遠ざけ、天幕を張る杭に数頭の犬を繋いだ。
サライは足音をたてずに犬に近寄り、干し肉を与えた。どの犬も
少年を怪しまない。
サライは一頭の犬を首を刎ねた。
血しぶきがあがった。
犬たちは何が起きたのか、理解できないようだった。
サライは天幕の中に入った。
「オリーブの枝の冠の返礼だ」
そう言って、血のしたたる犬の生首を、若い男の裸の尻に投げつけた。
若い男は、女のような悲鳴をあげた。
全裸のトリタンタイクメスは一瞬、目を見開いたが、乱れのない声で「受け取ったぞ」と言った。
つづく