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【短編小説】恋の降る夜

 海鳴りの聞こえる、内浦湾の防波堤をのぞむゆるやかな下り坂を左に折れると、一面の雪景色が鉛色の町並みを白く変えていた。

 朋子は、病院に近いお寺の前の平坦な道をわざと避けて歩いた。
 春から夏にかけては、雑草の生い茂る空き地だが、冬になると、毛足の長い純白の絨毯を敷きつめたようになる。

 底の深い靴で踏みしめると、きしきしと鳴って、思いがけないことがはじまる予感に胸が震えた。
 朋子は空き地を出ると、人通りのまばらな通りから路地に入って行った。
 なんの痕跡ものこっていない。人の気配もない。
 チェーンタイヤが雪道をこする耳障りな音もここまでは届かない。
 老いた朋子はおぼつかない足取りで、片時も忘れたことのない男の面影を心のうちで愛でた。

   ☆☆☆ 

「おはようございます」
 雇ったばかりのみっちゃんは頭も下げずに挨拶する。
 注意をしようと思ったが、朋子は頭からかぶった肩掛けをとると、
「表の電気がついてないわ」
 と言った。
「はーい」
 間延びした返事がかえってきた。近ごろの若い娘はこれだから、と朋子は溜息をついた。
「はーい、じゃなくて、はいでしょ」
 朋子が叱ると、みっちゃんは、足首の折れそうな踵の高いサンダルをぱたぱた鳴らしながら出ていった。
「静かに歩いてね」
 朋子は穏やかに言ったが、みっちゃんはふくれっ面を隠さなかった。朋子は波立つ心をなだめるように、ゆっくりとカウンターを拭いた。

 その時、扉が開いた。

 見かけない男が肩に雪を積もらせてに立っていた。この季節に、薄手のジャンパーをはおっただけでマフラーもしていない。
「ええかな?」
 と言いつつ、男は扉の中に半身を入れた。暖房を入れたばかりの時間に入ってくる一見(いちげん)の客はそう多くない。
 朋子は小さくうなずいた。
 大柄な男は素っ気ない応対に戸惑いの表情を見せながら、笑いのにじんだ口元を骨っぽい手がおおった。

 朋子は、「どうぞ」とカウンターにおしぼりをおいた。男はほっとした表情を見せて入ってきた。それから、十分も過ぎたころに、みっちゃんはもどってきた。

「何してたの」
 朋子の声は少しとがっていた。
「知ってるヒトをちらっと見かけたから……」
「こちらに、おビール、おねがいね」
「はい。はい」
「返事は一度でいいわ」
 朋子は小言を口にしながら小鉢に惣菜を盛る。
「寒いなあ、北海道は」
 男はそう言うと、喉を鳴らしてビールをのんだ。みっちゃんはそれを見て、真っ赤な口紅の口でけらけら笑った。何がおかしいのだろうか。朋子はみっちゃんの意味のない笑い声に眉をしかめた。

「一杯どう?」
 男は朋子にビールをすすめた。
「ありがとうございます」
 男は朋子の差し出したグラスにビールを注ぐと、店内をぐるりと
見渡し、壁に張った品書きに目を止めた。
「〝たらちり〟を、もらおかな」
 男の関西訛りに気付いた朋子は、それとなくたずねた。
「ご出張ですか?」
 男はにっと笑った。笑うと、目尻の皺が耳までたれて、顎のながい、いかつい顔立ちをやわらかく見せた。
「ちがいますの?」
 朋子は小声できいた。
 男は浅黒い首をふり、札幌の雪祭りを見に来た帰りだと答えた。
 みっちゃんがそばから、
「雪祭りははじめて?」
 男はきこえなかったのか、
「――ここはながいの?」
 と話の矛先を朋子にむける。
「五年になるかしら」
 使用人だった朋子が店を任されて二年になる。そのことを朋子が話すと、
「たいしたもんや。俺も、店の一軒も任されてみたいな」
 嫌味に聞こえなかった。
「たいへんなんですよ、なにかと――」
 若い娘を使わないと、商売がなりたたない。それには忍耐がいると朋子は言いたかったのだが、なだれ込むような足音にさえぎられた。

 酒気をおびた四、五人の馴染み客が折り重なるように入ってきた。
 湿った重い空気を連れてきた客の群れはボックス席に陣取ると、みっちゃんは「わっ」と声をあげ、手をうって、そっちへ行った。
 春菊の緑が匂いたつ、豆腐とタラの泳ぐ小ぶりの鉄鍋を、朋子はカウンターに出した。
「よかったですか?」
「――何が?」
「雪祭り」
「まあまあやったな。なんせ、独りやから」

 みっちゃんがそばに来た。
「カラオケ」
 とひと言いい、カセットテープをデッキにセットした。後ろでは、みっちゃん、みっちゃんと呼ぶ声。混じり合うコップのかち合う音。製鉄所に勤める男たちは不景気だと愚痴りつつ夜毎、飲み屋街につどう。
「歌う?」
 みっちゃんは男にすり寄った。
 男は首を振り、
「たらちりもええ味してるけど、さっきのわけぎ膾、木の芽が入って旨かったわ」
 と付きだしの味を誉めた。
 朋子は目で笑い返した。
「切れ長の、ええ目してんな」
 下心があるような、ないような微妙な頃合の台詞を男は口にした。
 みっちゃんは頬をこわばらせる。若い女は無視されることに慣れていない。
 フンと鼻を鳴らし、男に背を向けた。
 男は押し黙ったが、口をつぐんでいても朋子に話しかけているような雰囲気があった。

 朋子は「赤い酒」という銘柄の酒をワイングラスになみなみとそそぎ、男の前に出した。

「着色してるんか?」
「いいえ、もとからの色なの」
「もとからの色なんか……。色っぽいな」

 薄赤い液体に媚態が映った気がした朋子は、頬が赤らむのを感じた。

 男が帰ったあと、みっちゃんは聞こえよがしに言った。
「関西の男はきらい!」

 次の夜――。

 男はまたやってきた。よほど暇を持て余しているのだろう。週刊誌と新聞を束にして抱えている。
「地球岬のほうへでも行ってみられては?」
「独りではおもしろない」
「わがままなのね」
「皆にそう言われる。言葉づかいのせいやな。自分でも気にいらんのやけどな、しょうない。あっちでの暮らしが長いからなぁ」
 男はぐるりを見回し、暇そうやなとつぶやいた。
「そうなの……みっちゃんが休みをとるといつもこうなの」
 おばさんだけじゃあね、と朋子はつけ加えた。

「寿司でもどうや?」
 と男は誘った。しばらく思案した。すぐに誘いにのるのも軽い女に見られるようで気がさした。
「北海道の寿司を食べてみたいから」
 と男は言い足した。
 朋子はうつむいて、うなずいた。

 半時後、小雪のちらつく中、中央町の大通りに向かった。
 顔見知りの店はどうかとためらったが、お得意さんにお返しがしたかった。
 店主は大喜びしてくれた。
 男と二人、テーブルをはさんで寿司をつまんだ。男は舌鼓を打ちながら、関西の女は信用がおけないという話をしきりにした。
「――どうも、嘘がおおいように思えてな。心を許せるのは北の女や。情がちがう」
 朋子は黙ってきいていた。男は女のことでつらい目に合ったことがあるのだろうか。
 それとも――、
 ふと、以前、付きあっていた男のことを思い出した。
 冷たい女だ、と言われた。そのくせ、自分は若い女に心変わりして、朋子を泣かせた……。

「あら、ママさん」
 みっちゃんが背中から声をかけてきた。
「へえ」
 と彼女はうなずきながら、朋子と男をジロジロ見た。
 朋子は、口早に言った。
「帰るところなのよ」
 じゃあね、と席を立った。男は勘定をすませると、あわててついてきた。

 除雪車の通ったあとの凍った舗道に出た。
「名前をきこうと思うても、切っ掛けがつかめんで困ってしもた」
 男は白い息を吐きながら言った。
「名前なんて、どうでもいいわ」
 朋子は男の腕に腕をからめた。男は長い顎を突き出すと、目を大きく見開いた。
「うれしいな」
 と、肩を寄せてきた。
 青みをおびてきらきら光る雪が男の赤らんだ顔にかかる。
「遠くへ行きたいの。寒いのに飽きたわ」
「温泉町がええな」

 指先に肌のぬくもりを感じる。近ごろにないことだった。
 ずっと男を遠ざけてきた。相手が客であっても、馴々しい態度を示されると、神経を逆撫でされる気がして邪険な態度をとった。

「うちへ来ない?」
「うちって……家へか!」
 男は立ち止まり、腕をといた。動揺が声と顔に現われた。
「なんでや」
 と、後ずさった。

 朋子は舗道に飛び出すと、タクシーを止めた。足がもつれたような男を押し込む格好で乗った。

 見慣れた製鉄所の煙突が赤みががったネオンに映えて黄金の塔に見える。  子供の頃、昼夜を問わず煙突から赤い煙がもうもうと立ち上っていた。高台に立つと 繁華街をとり囲むように製鉄所の社宅が建ち並び、活気に溢れた街並みを眺められた。

 四軒長屋、三階建ての鉄筋アパート、庭のあるテラスハウス――それらが櫛の歯が抜けるように空き家になり、取り壊されると、「鉄冷え」という言葉が人々の口の端にのぼるようになった。
 その頃から若い人の姿を町で見かけることがめっきり少なくなった。同じ頃、内浦湾に停泊する船も一隻、二隻と数えられるようになり、湾のたたずまいは一変した。積み荷の、鉄屑の臭いはいまも室蘭の町中に漂っているけれど……。

「泊まっていってね」
 と朋子は静かに言った。男は上着のポケットに手を入れると、煙草を取り出し、余った手で雪に湿った前髪を引っ張った。朋子が肩の雫を払ってやると、男は車内で中腰になり、
「火ィあるか」
 と言った。
 運転手に言っているのか、朋子に言っているのか……。
 朋子はかまわず、男のそで口をにぎって離さなかった。男はもう一度言った。運転手は聞こえないふうであった。朋子は行き先を告げると、タクシーは速度を増した。

 雪に濁った灰色の町の灯りが一瞬のうちに遠ざかった。

 門の前に立つと、男は朋子の目をのぞきこんだ。
「だれもいてないのか?」
「さあ」
 あいまいに笑い、いぶかる男の手を引いて、朋子は玄関へ入った。湾からの油臭い臭いが凍てついた庭を浸していた。

「浜に近いんやな」
「見晴らしだけはいいの」

 朋子は男を奥の座敷に通した。金色の仏壇と床の間と欄間の木彫りに男はしばらく見入っていた。
「めずらしい?」
 男は先祖代々の遺影を見上げて、
「かなわんな」
 ややこしいのはどうもな、とつぶやく。
 朋子は座布団を男の足元に置くと、空腹かどうかたずねた。

「寿司が口にもどってきそうや」

 男はそう言って朋子の真向いに正座すると、両手を膝においた。
「あんた独りもんなんか」
 うなずくと、照れ隠しになのか、咳払いをし、
「寝よか」
 と言った。
「寒いの?」
「ああ……」

 朋子は夜具をふた組み敷いた。その間、男は立ったり座ったりした。新聞と雑誌は寿司屋に置き忘れたらしい。
「タクシー会社に電話しなくていいの?」
「口下手やから、なんの話してええか、わからん」
 話題のために雑誌や新聞を読んでから店に入るつもりだったが面倒になり、目を通さずに入ったと、ぽつりぽつりと言う。

「嘘ばっかり」
「ほんまに独りなんか」
「嘘はつかないわ」
 男は部屋の隅に腰をおろすと、
「詳しぃに説明してくれるか?」
 と首をかしげる。朋子はかすかに笑うと、着衣のまま、夜具に身を横たえた。
「寝込みを襲われることはないやろな?」
 先に言うとくけど金はないと男は言ったあと、怯えた声でつけ足した。
「だいじょうぶなんか?」
 朋子は答えなかった。億劫だった。男は灯りを消すと、朋子の布団に入ってきた。

 骨太の手が胸に伸びてきた。
「――眠いの」
「そのつもりやなかったんか……?」
「悪いけど、急になくなったの」
 じらすつもりはなかった。

 男は仰向けになると、気にせんでええ、なんもいわんでええと言い、溜息に似た深呼吸を何度もした。強がって見せる男の様子に朋子は親しみを感じた。
 朋子は男の手をとって、そっと握りしめた。こうしているだけで、充分だった。何カ月ぶりだろう。男と一つの夜具で過ごすのは……。

「なんでやねん」
 と男は言った。
「母がね、亡くなったばかりなの。それで……」
「母ひとり子ひとりか」
「そう」
「そら、つらいな」
「お母さんは?」と朋子はききかえした。
「とうに死んだ。親父は顔もしらん」

 身の上話をするつもりはなかったのに、いつしか、朋子は話していた。子供のいない夫婦の養女となった朋子は、中学を卒業すると、地元のスーパーで働くように言われた。養父が亡くなると、養母は朋子が嫁ぐことに頑強に反対した。病気がちの養母と二人の生活費を稼ぐために、朋子は職を転々とした。
 男はじっと聞き入っていた。

「苦労したんやな」
「そうでもないの。ただね。ひとりきりだから、ときどき、人恋しくなってしまって……」
「いつもこうやって、見もしらん男を連れこむンか?」
「……」
 そう思われても仕方がなかった。朋子は男の手を離すと寝返りを打った。
 もう話すことは何もなかった。朋子は夜が明けるのをまんじりともせずに待った。
 しばらくすると、男は健やかな寝息を立てはじめた。

 縁側に面した障子が白みかけた頃――

 起きぬけの男に食事を出そうとしたが、冷蔵庫には何も用意がなかった。
 湯をわかし、熱い茶を出した。
「きょう中に札幌に戻らんと……」
 男はある下請け会社の名を言った。
「土地の人だったのね」
「長いこと関西で働いたのは、ほんまや。こっちの言葉を忘れるほどな」
 男は帰りぎわ、せめて、名前くらいはと言い、手帳のようなものを破いて、ここへあんたの住所と名前を書いくれと言う。
「必要ないわ」
 何時間か、暖かい気持ちで過ごせただけで充分だった。朋子は、長患いの母親の看病で心身ともにすり減っていた。週に一度、病人を付き添い婦に託し、自宅に帰り息抜きをする、そんな暮らしが十五年間つづいた。虚しくて、哀しくて、やりきれなくなる。なんのためにわたしは生きているのか――と。しかし、養母が亡くなると、胸の真ん中に空洞ができた。そこに製鉄所の煙をふくんだ鉛色の雪が降り積もった。

 男は背を向けたまま、
「また、会えるか?」
 とたずねた。
「元気で」
 と朋子は玄関を指さし、呼び止めたいと思う気持ちをこらえた。
 男の吸った煙草の吸い殻をビニール袋に集めると、口を固くくくった。

 次の日の深夜、電話のベルが鳴った。受話器はとらなかった。
 翌週に、手紙が届いた。

 何から書いていいか、わからないが、正直に書きます、という書き出しからはじまるその手紙に男の過去と現在が包み隠さずにしたためられていた。
 両親は早くに他界し、足の不自由な姉が十勝に嫁いでいること、高校を中退したこと、神戸の親類を頼って船会社に就職したこと、妻が浮気をし、結婚に失敗したこと……。
 写真が一枚そえられていた。
 朋子は、地球岬を背景に腕組みをして立っている男の写真を鏡台の前にかざった。

 手紙の返事を書きたいと思う夜もあったが、ペンをとると、日に日に痩せ衰えていった母の顔が目の前にちらついた。母との関わりは過ぎ去ったのだと、いくら自分に言い聞かせてもだめだった。朋子をけっして手放さなかった母の亡霊が、朋子にとりついて離れなかった。

 朋子は朝に夕に、男の写真に語りかけた。
「わたしはこの家から、どこにも行けないの」
 出かけるときは「行ってきます」と言い、帰ってきたときは「ただいま」と声をかけた。
 それだけで、凍えた手足がぬくもった。

 母の生きていた頃、結婚を申しこんできた客もいた。一つ条件があった。母を老人ホームへ入れろというものだった。
 いまはもう、制約は何もなくなっていたが、朋子の心が冷えていた。
 糸の切れた凧のように、心許ないのだ。どこの誰から生まれたのかわからない朋子にとって、物心ついたときから育った土地であっても、親しみがもてない。朋子を根付かせるものが、ここには何もないと感じる。あるのは、朋子を監視しつづける養母の視線だった。
 一人の人間の妄執がこれほど、朋子から生気を奪い去るなんて……。

 男の写真と雪の降る夜をやり過ごすうちに、亡霊に脅かされていた朋子のかじかんだ心がほんの少しずつだが、溶けていった。
 男は朋子に何も求めなかった。
 そのことが朋子の凝り固まった心をほぐした気がした。
 ほとんどの男は、独り暮らしの女を見ると、抱かれたがっていると思いこむ。それか決まった相手がいると。
 夜の商売をしていると、男たちは露骨にそれを口にした。
 朋子は辟易していた。
 みっちゃんはそんな朋子を小馬鹿にしているようすであった。
 何がおもしろくて、生きているのかと思うらしい。
「あの人、どうしてるのかな」
 とわざと声に出して言う。
 まさか写真一枚で満足しているなんて、みっちゃんは想像もしない。

 落ちてくる雪を手のひらで受けても、水滴にしかならない。濡れた手で顔をおおう。涙とまじり、朋子はつぶやく。もどってきてと。

 男がふたたび、引き戸から顔をのぞかせたとき、
「おかえりなさい」
 と言う思いがけない言葉が、朋子の口をついて出た。
 
「ええんか?」
 男はそう言って怪訝な顔をした。手紙に返事がなかったから、そう思うのだろう。
 朋子は男のために「赤い酒」を注いだ。

    ☆☆☆

 男に伴われ、本土の港町に移り住んだ。月日は走り去った。夫となった男の死後、朋子は二人がはじめて出会った場所にどうしても戻りたかった。
 海鳴りの聞こえる寂れた町には、いまも高炉の煙が立ち上っていた。

  了


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