物語の作り方 No.2
2) モチーフ(題材)について
最初に、百均で、A4サイズのノートを買うことをお薦めします。
①主人公はだれか。
長文を執筆するとき、書くにあたって、まず、考えなくてはならないのは、どんな人物を主人公にするかということです。自分史の場合は、書き手本人が主人公です。小説の場合は、不特定多数のだれでもいいのですが、はじめて書く小説にかぎっては、自分自身を主人公と考えてください。
②自分しか知り得ないことは何か。
時間をかけて考えます。感動的な事件や、忘れがたい体験などが見つかれば、それがモチーフ(題材)です。
一歩、踏み出したと思ってください。
まず大見出しに「モチーフ」と書きます。つぎに、複数のモチーフ(題材)を思い浮かべると思いますが、内容の善し悪しにとらわれずに、番号をふってネタ帳のノートに「メモ」します。このとき、気恥ずかしい気持ちや、他の人に迷惑がかかるのではないかという怖れを頭の中から排除しなければなりません。
ここが一番むずかしい。
自費出版の本をいただいて、しばしば思うことは、ご本人にとって都合の悪いことが省略されている点です。
そんなことが、おまえにわかるのかと憤る方もおられると思いますが、これはどなたが読まれてもわかることだと思っています。物語がご本人にとって都合よく流れ過ぎているからです。
書き出す前に、事実をありのままに書き留めていないので、起こりがちな事象だと考えます。
自分の欠点をわざとさらけだすと露悪趣味に陥ると受け取られる方もあるかと思います。
しかし、メモの段階で、これが書けないと、他者の心に訴えかける文章表現が綴れないと私は愚考しています。
③自分史と小説の違い。
自分史であっても、作者の考える物語なのです。物語とはそもそも虚構、ウソの世界を基本(モト)にしています。実際にモデルのある、映画や小説の最初か最後に、「この物語は事実にもとづいたフィクションです」と、断りの文言が入っています。
なぜか。
事実のみをもとにして、物語ることが不可能だからです。どれほど事実に忠実であろうとしても、書き手の物の見方によって現実に起きた事柄と解離します。モデルとなった方が、作家を訴えることが稀にありますが、作者の考える事実と、当事者の考える事実との間では食い違いが生じるからです。
作家が家族関係の内幕を描いても、家族は、それを事実と受けとめない例は枚挙にいとまがありません。
名コラムニストとして名高かった山口瞳氏は、「エッセイの場合は、8割の事実に2割のウソを入れる。小説の場合は、8割のウソと2割の事実を入れる」と書き残しています。
ここでいうところのエッセイは、自分史だと思っていただいていいかと思います。
事実にこだわりすぎると、発想を枯らしてしまいかねません。
体験したことの全部を書かないと、伝わらないと考えることも書き進めなくなる原因となります。例をあげると、朝を起きて顔を洗って食事した事実があります。しかし、これを書くと、話が長くなるだけです。多くの人にとっての既存の事実は省略します。たとえ、事実であっても、必要か不必要かどうかの見極めが肝心です。
そのためにも箇条書きのメモが重要となるのです。メモをとるうちに、無意識のうちに取捨選択ができるようになります。
一方、小説という虚構の世界を描いても、そこに作者自身がかならず投影されます。主人公を架空の人物に設定した場合ても、副主人公に作者と思われる人物が配されています。
このことを頭の隅においておいてください。なぜなら、自らの原体験(題材)を虚構化(歪曲)して、はじめて物語が生まれるからです。ダイヤモンドの原石はただの石ころですが、研磨し、カットして、はじめて価値のあるものになるのと同じです。
トルストイの「アンナ・カレーニナ」を読まれた方なら、お気づきだと思いますが、恋愛によって自ら命を断つ女性主人公とは対照的に描かれる無垢な少女の夫となる人物がトルストイ自身に近い。社交界を嫌い、田舎暮らしを好む貴族だったトルストイ。少女との恋愛を文豪は至上の愛と考えましたが、晩年、トルストイは農奴を解放しようと試みます。しかし妻は抗います。貴族であること、領地を維持することに固執する妻のもとを去り、逃亡中の列車内でトルストイは逝去します。おそらく「アンナ・カレーニナ」を執筆した時点で、妻の気質には気づいていたと思われます。
で、どうしたか?
社交界になくてはならない存在、噂好きの貴族の女性の一人として描いたと想像します。恋愛はしても、遊びでなくてはならないと考える女性に。
物語として完成させるためにはアンナを追い詰める役回りの人々も必要だからです。なお、恋に命を捧げるアンナのモデルとなった人物は、当時、列車に投身自殺した女性の記事が新聞に掲載され、それに着想を得たトルストイが執筆したとされています。
④いまなお、心を揺らす出来事は何か?
いくつか考えられた題材のメモの中から、現在の自分の心境にもっとも訴えかける出来事を探します。
題材の選択によっては、自分の思いが反映されないことも起こり得るからです。
急がず、ゆっくりと考えてみてください。
このとき、子供の頃の作文や写真、長じてのちのことであれば日記や手紙、当時の新聞などを見直して記憶の手助けとします。
⑤題材を一つに絞る。
一つに絞れない方がほとんどだと思います。しかし、三十枚の自分史・小説を書くと考えた場合、モチーフ(題材)を一つに絞らなくては、話が割れてしまいます。中途半端なストーリーになります。
五十枚までの小説は短篇小説とされます。
ここで疑問に思われると想像するのですが、何百枚もの小説ならありったけのモチーフを投入していいことにならないか――と。
後の回で述べさせていただくテーマ(主題)と関連していないと、どれほど感動的な話であろうとそのエピードは物語の中で浮いてしまいます。ストーリーの流れを止めることになります。
エピソードとテーマを関連づける作業を「ピンで止める」と言います。どんな長編も、それぞれのエピソードがかならず、作者のもっとも言いたい「テーマ」とどこかで関連するように書かかれています。慣れると、なんでもない事柄ばかりなのですが、理解するには我慢と辛抱がいると思います。けっして才能の有無ではありません。
本日はここまでとします。
次回は、記憶の掘り起こしと、記憶のイメージについて述べる予定にしています。
自らのろくでもない小説を棚にあげて、えらそうなことばかり書き連ねましたが、参考程度にお目通しいただければ幸いです。
余談になりますが、はるか昔、直木賞作家の阿部牧郎先生のご自宅にお伺いしたおり、はじめて拙作が掲載された雑誌をわざわざお持ちくださり、「俺やったら、このネタで三作書ける」とおっしゃったのです。
三十代だった私は、先生のお言葉の意味を解することができませんでした。何をおっしゃっておられるのか、戸惑うばかりで、先生に何をお尋ねすべきかもわかりません。ましてや、先生のお言葉の意図するところを汲み取れるはずもありません。おそらく、先生は題材(モチーフ)を無駄に使い過ぎていることを忠告したかったのだと思います。そのとき、先生はこうもおっしゃいました。「三百枚書いて、百枚に減らすんや。ほんなら、ええ小説になる」と。不肖の弟子は、いまも、百枚を三百枚にのばしています。
これも余計なことになりますが、使用しなかった箇条書きのメモは大切にとっておきます。書き続けていれば、役に立つ日がかならずきます。そのためにも、モチーフ専用のノートが必要になるのです。