ボーイ・ミーツ・ボーイ (4/8)
4 見張り番の魂よ。夜はゼロで、昼は燃えると、こっそり白状しよう。 ランボー詩集より
真夏のグランドに立つと、頭のてっぺんが太陽に炒られて、脳ミソが煮えたぎる。筋トレをやって、全速力で100㍍を数回走ると、水分を補給しないと立っていられない。
空は、紺と青とのグラデーション。
ペットボトル片手に、いつまでも棒立ちでいると、コーチがやってきて嫌味を言う。
「おまえなー、ヤル気がないんやったら、帰れ。下級生に負けとるやないか」
同じグランドで練習しているケサマルまでが駆け足でやってきて、テキトーにマジメにやれと言う。
サッカー部は、団体競技なので、コーチの締めつけが陸上部よりキツイはずなだが、自分のことは棚上げらしい。
「よかったな、あれ以来、なんも言うてけェへん」
「何が?」
「ケーサツ」
ひと月以上も前の話を、いまさら持ち出すケサマルの真意が計りかねた。
「犯人が見つかったわけやないのに、なんでかなァ。ナンチャンは気にならへンのか」
逆光になるので、ケサマルの表情が読めない。
「サボッてて、ええンか?」
サッカーのコーチは生徒をいたぶることを日課にしている。
ケサマルは長い足をもてあますように、屈伸運動をすると、
「おれは要領がエエからな」とケサマル。
自宅謹慎をくらって以来、コーチがいても堂々とサボッているおれを、要領がわるいと言っているのか、別の意味があるのか……。
「きのう、フォーメンションの説明を長々やったあとでな、練習試合のメンバーを、コーチが発表したんや。で、おれは自主練や」
「外されたんか?」
ケサマルは足が速い。ボールさばきも悪くない。なぜ……?
「お互い、競技そのものに飽きがきたンやな」
ケサマルはそう言ってちょっと笑い、短く刈りこんだ髪の頭を左右にふった。ゴキッ、ゴキッと骨が鳴った。
「首すじ、痛めてるンか? しょうもないことに力を使いすぎるからや」
何げに言ったつもりだったが、ケサマルは深くうなずいた。
「プロになるわけやないし、いつまでも、ボール蹴っててもしゃあないしな」
「退学になるぞ」
「ナンチャンとおれ、どっちが先やろな」
体育専攻のおれたちは勉強に飽きても、トレーニングに飽きられない。学費が免除されているからだ。1人いた同学年のライバルは、去年のうちに学校をやめてしまった。今頃、何してんだろ。
ケサマルはおれの肩を、こぶしで軽く打った。
「ヒトの心配するより、自分の心配したほうがエエぞ。あれは難儀やぞ」
「あれ……?」
校舎に通じる石段に足を向けた。ちょっと前まで、体育科No.1のイケメン、ケサマルに対して、クラスメート以上の感情――あこがれに近いくすぶった思いを抱いていたはずなのに、ふと気づくと、保田や遠藤や木村に対する感情と似たり寄ったりになっていた。サラブレッドが駄馬になったわけじゃなし……。
何かがあって結果がある。
アナログの頭脳では原因を究明するなんて芸当は当初からむりだ。
おれの心の中で、凝り固まっていた何かが溶けてなくなった気がする。それが何だったのか、いまもわからない。
果てしなくつづく青ざむ空に向かって、おれは両手を伸ばした。
いまいる場所から逃げ出したいと強く思った。
食堂の前にある自販機の前で、缶コーヒーを飲んでいると、図書室にいるはずのジュンが通りかかった。見方によっては冷淡にも見える、ぱっちりおメメはいつも通りだが、中心に輝く瞳孔が発光している。
困った時に見せる、下唇をちょっと突き出した甘えた表情で、
「ミークン、知ってる?」
小首をかしげ、じっとおれを見つめる。ああ、やっぱりな、とおれは思う。1度きまった留学をそうやすやすと取り止めるはずがない。心のどこかで期待したおれが、みじめだった。
これ見よがしに空缶を握りつぶし、眉間にしわをきざむ。
「あんな――たいへんやねん」とジュン。
「練習の途中なんや。コーチに見つかったら、あと、なん回、走らされかわからん。さっさと言え」
「ほら、あの、こわいヤツが、いてるみたいや。なんでやろ?」
「なんの話や」
「金髪やったと思うねんけど、ちがうかったか?」
「ラチあかん。おれ、もう行くワ」
「ミークン!」
ジュンはおれのトレーニングシャツを引っ張った。その瞬間、体から力が抜けてしまう。
「ぼくの話を、ちゃんと聞いてくれたことないねんからッ」
「聞き飽きるくらい、聞いてる」
おれは汗で重くなった首のタオルをジュンに手渡すと、
「更衣室に干しといてくれ。たのむワ」
くるりと後ろをむいた。
食堂のドアが開いた。おれより頭ひとつ大きい男が出てきた。間をおかずに、おれの腕にジュンがすがりついた。
「ミークン……」
ジュンの怯えがおれの腕に伝わる。センター街で、ブチのめしたはずの金髪野郎が、松ぼっくりみたいなヘアスタイルになって目の前にいるのだから、ジュンでなくたってびっくりする。
ジュンの言う通り、金色の髪が黒くなっているのでひと目ではわかりにくい。
しかし背丈といい、頑強な体型といい、ヤツにまちがいない。
相手はゆっくりと歩み寄ると、重々しい声で言った。
「こないだはどうも」
おれはできるだけ平静を装い、
「おんなじ、学校やったんか?」
「いえ、先輩と同じ学校に行けるようにオヤジに頼みました」
「せんぱいって……」
「もちろん。南川さんのことです」
おれの名前をどうして知っているのだろう。怪訝な顔つきでいると、やつは両手を太ももにおき、深々と頭をさげた。
「1年下の蓼科真也といいます。よろしくお願いします」
それから、いきなり、自分をマサと呼んでほしいと言う。
「なんでも、言いつけてやってください。おれ、南川さんに一生ついて行く気ィでいてますンで」
転校までする、新手の殴り込みかも……?
「ミークン。行こ。練習に遅れる」
ジュンはマサを無視して、おれの手を握りしめた。
「うン……」
相手の企みを図りかねて、背中を見せることをためらっていると、マサは何を思ってか、ジュンにむかって手をのばした。
おれとジュンが同時に身構えると、
「そのタオル、南川先輩のですか? おれが洗って、干しときます」 ジュンはいままで見せたことのない恐い顔つきになった。きりりと眉をあげ、目尻をこめかみに吊っている。
撫で肩を、ハンガーにして、
「いいねん。ぼくがするからッ」
「なんでもないっスから」
マサはひょいとタオルをかすめとると、その場からいなくなった。こんなことって、あるのかなァ。おれはアラビアのサルタンにでもなったような気分になった。
(照れてまうやんケ)
同じクラスのビタミンがこっちを盗み見している。あいつは近ごろ、全学年の体育科を合わせた中で、もっとも勢力のあるグループ――バスケ部の補欠メンバーを中心にしたコワモテの一員になっている。連中はわけもなく、おれたちを敵対視している。
(これで形勢逆転やな)
おれは鼻歌まじりで、グランドへ戻った。
(頭の格好が気にいらんけど、しょうないか)
マサが、切りそろえた前髪にしているのは、剃り落とした眉を隠すためなのだろう。
次の日を待たず、体育科専用のレストルーム――トイレでは、マサの話で持ちきりになった。なんたって、喧嘩をした相手なんだし、皆の関心のマトになってあたりまえ。どこで調べてきたのか、物知りの保田が言うには、マサは甲子園に何度も出場したことのある某高校野球部から転校してきたという。
「特待生で入学したのに、タバコを吸った吸わないで上級生ともめて、退部したらしいよ。でさ、金髪に染めて悪いヤツらとつるんでたんだけど、退学になる寸前に、うちへ転校したんだと」
1人用の狭いトイレでタバコを回し喫みしているおれと保田と遠藤にとって、それは理不尽きわまりない話に思える。保田など、マサに対して、もうそれだけで好感もったようだ。
「先輩なんて、自分が言われてイヤなことしか言わんもんな」
便器にまたがった遠藤は、吐き出した煙を手で消しながら、
「友達に恵まれんかったんや。エエ友達がいてたら、やめへんぞ」
「そうかァ……?」
おれが白けた目を彼らに向けると、保田が言った。
「オタクには、ジュンもいるしサ」
こんな時、女の子だったら、ウッソオと言うはずだ。おれは懐疑的な人間じゃないけど、ジュンがおれにとって最良の友だとはどうしたって思えない。
いまだって、留学するとか、しないとかぐだぐだ言って、おれのヤワな神経を撹乱しているのだから――。
(なんやねん、あいつはおれの)
子供の頃から、イジメられっ子のあいつが原因で数えきれないほど喧嘩をしてきた。あれって、友情だったんだろうか。おれは自分自身とジュンに腹が立った。
あくる日、午後の休憩時間。
マサは体育科の教室にその巨体を現した。その手には、おれのタオルをきちんとたたんで、ビニール袋に入れて、持っていた。
「南川さんッ」
マサは直立不動の姿勢でおれを呼んだ。
(なんかなー)
邪険にするのも大人げないし、かといって、にっこり笑う間柄でもないし。
「練習は何時に終わりますかッ」
「そんなもん、わからん」
「わかりました。待ちます」
まわりにいた連中は、おおっと声をあげた。
ジュンひとり、気色ばんだ。
黒目がちの瞳をめいっぱい見開いて、マサにではなくおれに言った。
「うれしそうだね」
「だれが?」
ジュンは全員でやるストレッチ体操用のジャージィをおれに投げつけると、
「もう、いらんからっ」
「もろても、サイズが合わん」
投げ返すと、横から、ケサマルがつかみ取った。
「おれがもろとく」
ビックリマーク付きで皆がのけぞった。
「Sサイズやぞ。いや、Sでは大きすぎる。子供用や」
言わなくていいことを言ってしまうのが、おれの悪いクセ。
ジュンは一旦、赤くなった顔をこんどは青くした。怒り狂うと、プリンセス王子のこめかみは破裂寸前になるのだ。
戸口から声がした。
「ジュン」
バラくんの登場だった。
マサの存在に一瞬たじろいだが、じゃがいもを選り分けるように皆をかき分け、ジュンのそばへ歩み寄ると、彼は低い声で言った。
「いじめられなかった?」
「ヒト聞きわるいこと、言うなや、ボケ」
ケサマルはバラくんの肩を小突いた。
遠藤がケサマルをのぞきこんだ。
「どないしたんや。おまえ、熱でもあるんか」
バラくんこと、三輪は上品で端正な顔を獰猛な顔に変化させると、鼻先で笑った。バラがアジサイになったようだった。
「おもろすぎるやろ」とおれはつぶやいた。
ケサマルの思いがけない行動に保田も、遠藤も、木村も、おれをふくめてコトのなりゆきに仰天していた。
ケサマルの心に何が書かれているのか、知りたいと思った時期もあったけれど、そうだったのか……。
しかし、なぜ、いまなのか?
「ジュンは体育科なんやッ。これがないと、ストレッチに参加できんようになる!」
ケサマルは三輪に詰め寄った。
「そんなもの、いらないよ。ジュンには並はずれた知能があるんだ。邪魔しちゃいけないと思わないのかい」
三輪は自分たちを特別の人材だと思っているようだ。
緊迫した空気が流れた
「先輩、洗濯物はありませんか。練習が終わるまでに洗っておきます」
マサはもしかすると、無神経なタイプなのかもしれない。
「そうなのか……」
三輪はうなづくと、マサをしげしげと見上げ、おれに向き直り、
「ぼくたちを引き裂くために、フランケンシュタインにわざとやらせたんだね?」
「フランケンシュタイン!!!」
当人をのぞいて、一斉に言った。
「そんな妨害にめげるような、ぼくたちじゃない。校長に直談判したっていいんだからサ」
ぼくたち……。おれは胸のうちで、三輪の言葉を反芻した。
「おれらは知り合いやないで」
と、遠藤はマサを指差し、バラくんの殺気立つ感情をなだめるように、
「だいち、南川は、そんな回りくどいことするヤツやない」
「頭も、まわんないしサ」と保田が掩護射撃。
その時、山が動くように、カバのような肩がせり出した。
「じゃかましいンじゃッ! ドアホ!」
マサの咆哮は、彼が何者であるのかを皆に知らしめた。
遠藤でさえ一瞬、身震いした。
「南川さんに向かって、何ぬかすんじゃッ。ワシが先輩に惚れて、転校してきたんじゃ! 文句あるンやったら、ワシに言え。ドスでも、チャカでももってこいや」
マサではなく、フランンケンと呼ぶことにしたおれは、ラッシュアワーの駅員のように、フランケンをヒトの輪の中から押し出し、
「黙って帰れ」
と命じた。
しかし、フランケンは意固地だった。先輩の屈辱を晴らすまでは、帰りませんと言う。おれが実験室で製造したわけじゃないから、思い通りに動かない。
「女か男か見分けのつかん、ピカチュウみたいなチビのせいで、根性なしのフヌケに、いちゃもんつけられてる先輩を、見るのがくやしいんですワ」
(ああ、もー、うっとおしい)
意固地なのはジュンも同じで、体育実習の予定表を破るついでに、おれの机の中の物を引っ張りだし、かわりに自分の教科書をつめ込もうとしたのだ。意味不明のこの暴挙を止めようとしたが、ジュンはきかない。
「きみのせいで、ジュンの美しい心が歪んでしまったじゃないか」
と三輪は責めるが、
「おれの知ったことか」
おまえら2人の問題やろと言うと、ジュンはハラハラと涙を流し、おれの机に泣き伏した。
「とうとう泣かしてもた」
と木村が言った。
アホらしい一日が終わって帰宅すると、真打ち登場。
校長がやってきた。話はきかなくたって、わかっている。
おれには、ジュンのアメリカ行きを邪魔するなと言い、オトンとオカンには、息子さんを説得してくれと言うのだ。
「あちらの大学にも話を通してありますので、いまさら、三輪くん1人を行かせるわけにはいかないのです」
おれが引き止めているわけじゃありませんと言っても、校長は信じない。
「きみが、菅谷くんと一緒に行けない残念な気持ちはよくわかるが、ここはきみの広い心で、菅谷くんを行かせてあげなさい」
両親はひたすら恐縮し、頭を下げるばかりか、濡れ衣だと校長につっかかるおれに、早めに帰宅していたオトンは平手打ちで応じたのだ。
「殺したろかッ、クソオヤジ!」と口がすべる。
おかげて、夕食は抜き。アネキがこっそり、おむすびを運んでくれたが、あんたがわるいとお説教される。
「お父さん、地方の子会社へ出向させられるねんデ。単身赴任になるらしいわ」
その晩、アネキから借りたクリストファー・クロスのCDを聞きながら、眠った。「BEST・YOU・CAN・DO」と彼は歌うけれど、おれにできる最善のことってなんなんだろう。
次の日、そのまた次の日もジュンは学校を休んだ。
翌週の月曜日になっても、ジュンは登校しなかった。
おれは放課後、グランドを1周すると、なんだかもう、背後霊に取りつかれている気分がして走れない。
なんでこうなるのか。
2人ともがまだほんのガキだった頃、子犬がじゃれるみたいに遊んで、それでもう充分だった。ややこしい感情や、世間や大人の事情がおれたちの間に入りこむ余地なんて微塵もなかった。大人の年齢に近づくほどに不自由になり、勝手気侭な自分自身と決別しなくてはならない。
サイアクだが、落ち込むガラじゃない。
その日、おれはジュンの家に出かけた。一緒に行くというフランケンをなんとか巻いて、ジュンの家の前に立った。
門構えを見ただけで、気が滅入ってしまう。
子供の頃は気にしなかった。
ジュンの家が金持ちであろうが、なかろうが、おれにとってはプラスもマイナスもなかった。いく晩も泊まって、平気だった。しかし、いつの頃からか、抵抗を感じるようになった。
ジュンの頭の良さも気にかかった。そのジュンがおれを追って、同じ高校に入学したことも、やつの両親に、おれが無理強いしていると思われるのじゃないかと気にかかった。
インターホンを押すと、うちのオカンとは種族が違う声がした。
ジュンのお母さんだった。いつもはお手伝いさんなのだが、モニターカメラでおれだとわかったのだろう。
玄関に招き入れられると、いきなり、おばさんが抱きついてきた。
「お顔を見せてくれて、どんなにうれしいか……」
「ジュンは病気ですか?」
「ええ、まあ」
おばさんは涙ぐんだ。
ジュンの家と遠ざかった一番の理由は、おばさんの過剰なやさしさが原因だった。おばさんはどんな場合にも、ジュンの希望を叶えようとするあまり、世間で、後ろ指さされるようなことも厭わなかった。ジュンがおれにしがみついて眠ることさえ、黙って見過ごした。
おばさんはおれの手をぎゅっと握り、お願いねと言った。
「三輪は来てないンすか……」
「ジュンには、ミークンしかいないの」
2人で、そおっと、ジュンの部屋をのぞくと、バーンと枕が飛んできた。
「くるなッ」
ジュンの尖った声をきいただけで、おばさんはうろたえ、涙をこぼした。親子そろって、泣き虫だった。
「どうしたの……ジュンちゃん。ママとお話して」
おれは扉を思い切り、叩いた。
「開けるぞォ!」
怒鳴ると、中から、悲鳴が聞こえた。
「どうしたの、ジュンちゃん。どこか痛いの」
おばさんはヤモリのように、扉にしがみついている。
おれは接着剤でくっついたようなおばさんを扉からはがすと、部屋の中に入った。
茶褐色のマホガニーの机が、窓際を占領している。右に本棚、左にベッド。塵一つなく片付けられている。
ベッドの上にいたジュンはパジャマのままだ。おれが目を合わすと、声を放って泣き出した。
「ジュン、何をスネてるねん。みんな心配してるぞ」
「ミークンなんて、大嫌いッ」
「女の子みたいなこと、言うな」
「どうせ、ぼくなんか……」
「ジュンちゃん」
おばさんは泣き崩れるジュンの背中におおいかぶさると、おろおろした声で訴えかけた。
「ジュンちゃんのためだったら、ママはなんでもするから、ぜんぶお話してちょうだい。どこが苦しいの」
あほらしくて、声も出ない。
こんなバカ親子に付き合っていられない。
「今日は、これで帰ります」
おれが言ったとたん、ジュンは身を起こし、ついでにおばさんを突き放した。
「治ったんか」
と言うと、ジュンはおれをにらみつけ、
「なんで、こんなヤツを部屋に入れるのッ」
顔はおれに向いているが、言葉はおばさんに向かっていた。
「きのうからずっと待ってたのでしょ、ミークンのこと」
「ママは、出て行ってッ」
ジュンはドアを指差した。
「そうね。わかったわ」
おばさんは涙をふきながら部屋を出て行った。
2人きりになると、ジュンはまたベッドに泣き伏した。情けないやっちゃ。いっぺんでエエからおれも女の子みたいにビィビィ泣いてみたい。
「留学のことやったら、もう、行くことに決めたンやろ」
「誰が止めても、行くねんからッ」
「いっぺんでも、行くな、言うたか?」
「バカッ、ミークンのバカッ」
ジュンはうつぶせになると、またもや、ビィビィヒィヒィ泣きはじめた。百万年生きたよりも疲れた。ジュンがおれに何を言わせたいのか、いくら鈍感なおれでもわかる。
「おれ、もう、帰るワ」
「ぼくがどうなっても、ええのッ」
ジュンは枕元に手をのばすと、目覚まし時計をつかんだ。
「投げるな。壊れるぞ」
「壊れるのは、ぼくの心や」
「おまえなー、ええかげんにせェよ。おれが黙って聞いてると思てエエ気になるなよ」
「ミークンには友達がいっぱい、いてる。ぼくはひとりぼっちや」
三輪はどうなんじゃ、と言いたかったが、そうなると、痴話喧嘩みたいになるので、もうお手上げだった。
「みんな、友達やないか」
「ちがう! あんな怪物、友達とちがう」
ジュンはわめきながら、目覚まし時計をおれにむかって投げつけた。かわしてもよかったが、おれは手で、受けとめた。
金属製の安物の目覚まし時計は、おれがジュンの誕生日にプレゼントしたものだった。
「気がすんだか」
ジュンはベッドから降りると、立っているおれの前にきた。ジュンから湿った臭いがした。
「ミークン、手に血が、ゴメン、痛かった?」
「たいしたことない」
ジュンの瞳は濡れて、おれひとりを映していた。おれの瞳もジュンだけを映していた。
「ミークン……」
「なんや」
ジュンは倒れるようにおれの胸に全身を預けた。折れそうな首を抱くと、ジュンはつぶやいた。
「……ぼくをどこへもやらんといて」
「おまえが離れて行くんやろ」
「だれよりもミークンが、好き」
もしかすると、この言葉を待ち続けていたのはおれのほうかもかもしれない。
「ミークンは……ぼくがどんなことをしても……許してくれるよね?」
うなずくかわりに、張りとばした。
「行けよ、アメリカに」
「こわいねん……ぼく……」
「ナニがあっても、いつまでも友達やと思てる」
おれは泣きじゃくるジュンをおいて、部屋を出た。恐怖の理由を尋ねるべきだったかもしれない。
外に出ると、フランケンが待っていた。
「おまえ、運動部には入らへんのか」
「南川さんが、入れ言いはるンやったらいつでも入りますッ」
「ふむ。そうやな。どうするかな」
「こんなん言うと、余計やと言われることはわかってますが、ジュン先輩は南川さんをダメにします。南川さんは、ほんまにエエ男です。裏表のない、そんな先輩におれは惚れてます」
「かいかぶりや」
「メンツを重んじひんヤツはオトコやない、とおれは思てます」
フランケンは、だれのことを指して言っているのだろう。
「先輩、この家の周りに、けったいなヤツらが張り込んでます。知ってましたか?」
「えッ、ホンマかッ」
「刑事に間違いない思います。おれ、最近、転校してきましたから、事情はわからへんのですが、例の殺人事件を調べてるぐらいのことはわかります」
「おまえ、普通科やったら、三輪がどうしてるか、わかるか?」
「ええ、なんとか」
「あいつ、ジュンが何日も休ンでるのに、見舞いに来てないようや」
「調べてみます。任してください」
翌日も、ジュンは学校に来なかった。宿題をやってもらえないと困っているヤツもいたが、大方はなるべくジュンの話題に触れないようにしていた。例外はビタミンだった。犯人はうちの学校の生徒だと声高に言いふらした。ケサマルが、エエ加減なこと言うなと言っても効果は薄かった。
グランドに出ると、風のせいで、砂埃がひどかった。目が開けていられない。体育館で筋トレでもやろうかと思っていると、フランケンが駈けてきた。突風をものともしないフランケンの走りに見惚れる。
「陸上でもやれるな」
と声をかけると、
「いっしょに、マラソンやりましょ」
「おれも、短距離向きやないかもしれんな」
「おれはもう、道具を使うてやるスポーツには夢が持てへんのです。この体ひとつでやれることがエエと思てます」
フランケンはそう言うと、うつむいた。
前髪が少し、短くなっている。産毛のような眉がのぞく。
「三輪のことですけど……」
「何かわかったンか?」
「ええ……」
ジュンは、フランケンが転校してきたその日の夜に、自宅で事情聴取をうけたという。
「あくまで、ウワサです」
とフランケンは前置きし、三輪はその情報をどこかで仕入れた。そのせいで、ジュンを避けるようになったという。
「校長がウチへやってきて、ジュンのアメリカ行きを、おれが邪魔してるように言われたぞ。話があわんやろ」
「学校側は、たぶんですが、ジュン先輩の留学を考え直す理由を、先輩に押しつける魂胆なんスよ。ジュン先輩の親を、それで納得させるつもりやと思います」
「疑われてたンは、おれやぞ」
「ジュン先輩が発狂した日のこと覚えてますか?」
「まぁな……」
「あの日、女の子みたいに泣くジュン先輩を、先輩が送って行きましたよね?」
「マサもいっしょに、な」
「サツが張り込んでたやないスか。あれは南川先輩やない、ジュン先輩を見張ってたんスよ」
おれの目の前に、砂の舞うグランドが広がった。
刑事の張り込みは、マサに言われなくても気づいていた。
ジュンが女子高生を殺すと、三輪は本気で思っているのか!
「こんどこそ、三輪のボケナスと決闘や」
「2人で、いてこましたりましょ」
おれはヤツの連絡先を知らない。
フランケンは、調べてきていた。
スマホで呼び出して、のこのこ出てくるだろうか?
あの気取り屋のセレブ男子ヤロウが――。