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南ユダ王国の滅亡 (1/9)

あらすじ
 1995年1月17日。高校一年生のミカエルは、捨て子だったため、九歳のとき、病院を経営する弓月家の養女になる。幼い頃よりオタク気質であったため、養父母に馴染めなかった。ミカエルには盗癖があり、同じクラスの美少女、秦野アリスのもち古代の石を盗む。怠惰なこともあり、養父母に叱責されたミカエルは家出を試みるが、養父の父親が戦時中にユダヤ人のラビから譲り受けたという螺子のない時計をもらう。


 1つの石が人手によらずに切り出されて、黄金の像の鉄と粘土との足を撃ち、これを砕きました。こうして鉄と、粘土と、精銅と、銀と、金とはみな共に砕けて、夏の打ち場のもみがらのようになり、風に吹き払われて、あとかたもなくなりました。ところがその像を撃った石は、大きな山となって全地に満ちました。
 ダニエル書2章34~35節

   1 秦野亜利寿 

 数Ⅰの授業中に事件は起きた。眠気を誘う暖房のせいで爆睡していたわたしの脳天に衝撃が走ったのだ。教師の鉄拳制裁だと勘違いした。

 教師は教壇にいた。周囲の忍び笑いを耳にし、前の席の秦野の仕業だと知った。こんなタチの悪い悪戯にも、メガネデブの男性教師は見て見ぬふり。

 アーリア系人種とのクウォーターだと噂される、秦野亜利寿の大人びた容姿に年がいもなくイカレてんのかとムカついた。

 秦野亜利寿の表の顔は美少女優等生。裏の顔は反乱分子をひきいる白蛇女。

 彼女の人でなしの振る舞いと心ない暴言の被害にクラスの大半の女子が遭っている。

 ノートに落書きしたり、体操着や教科書を隠したり、弁当箱の中身を空にしたりするのはご愛敬。ターゲットとなった本人がもっとも気にしている弱点を悪意のない顔と声でさらりと言ってのけるのだ。

 噂では、中等部の頃から転校に追いこまれた生徒は数しれないとか。だが、だれ1人、反撃しない。ダース・ベイダーが転生したようなガタイのいい女とその取り巻きがガードしているせいだ。

 県代表の柔道部の猛者で長身・外股・筋骨女は体育科に在席しているにもかかわらず、普通科の教室にしばしばやってきて、秦野の悪意のこめられたいたずらに文句を言わせないようサーチライトのような眼光でまわりを威嚇している。

 去年の4月に入学早々、柔道部の猛者の手下としか見えない軍団と同じクラスになったわたしは初日から警戒を怠らなかった。

 帝国軍女子部隊に手出しされないようにできるだけ目立たないようにしていた。

 ところが今頃になって、なんの前ぶれもなく、脳天を一発、ぶん殴られたのだ。瞬間、ミスったにちがいないと思った。耳障りないびきでもかいたのかと。

 昼休み――、

 秦野は、上体をくねらせながら後ろ向きになり、

 あいさつがわりの口癖である「あっらぁ!」をまず発し、

「ねぇ、ねぇ、しゃべらないだけじゃないのねぇ、悲鳴もあげないのねぇ」

 秦野は性格と似ても似つかない語尾のゆるい話し方をする。

 わたしはプラスチックの弁当箱のふたをとる。

 タクアンの臭いで、追い払えるとふんだのだが、

「もらわれっ子だからぁ、がまんしちゃうくせがぁ、ついちゃったのかなぁ~」

 たしかに玄米ゴハンに塩ぬきしたタクアンふたきれ、それにモヤシとチンゲン菜の煮びたしの簡素な弁当を見れば、わざわざ説明しなくても養子の悲惨な生活が察っせられるだろうに、

「アリィねぇ、かわいそうな人ってぇ、見るの、好きぃ。だからぁ、かわりに泣いてあげるぅ」

 一人称で自らを語るとき、秦野亜利寿は、アリィと自称する。わたしの弓月美伽廻留といい勝負の画数の多い名前だが、わたしと同レベルのIQかと思いきや、この女は、クラスのだれも解けない数学の問題をなんなく解いてみせる。

 「うふふふふ……」

 秦野の含み笑いが聞こえる。

「ハタノとぉ、ユズキのぉ苗字ってぇ、遠い親戚らしいわぁ」

 んなわけねぇだろ、クソが!

 口の中で毒づきながら、前髪を引っ張るわたしの目の下で、秦野は見覚えのある本をチラつかせた。

 いつのまにか、山岸涼子の『日出処の天子』が机の中から抜き取られていた。

「マンガって、タテに見るのかぁ、ヨコに見るのかぁ、迷うのぉ。それにぃ、どの絵の人がぁ、お話してるのかもぉわかんないしぃ。アリィ、退屈なのぉ~」

 秦野は三つ編みの頭を支える、白く長い首をゆらゆらと左右にふり、狙いさだめたように緑色の瞳を一点に集中させる。

 見つめられると、背筋に寒気がはしる。

 緑色の瞳が赤みを帯びてくるのだ。

 この女は、白蛇の生まれ変わりにちがいない。

「授業中に居眠りすればぁ、頭の中がぁ、ヘンになってぇ、マンガが読めるようになるってことなのぉ~?」

 オタク脳のわたしからすれば、カオスとは縁のない白蛇女の頭の構造が正直うらやましい。自分ではどうにもならない迷路のような脳ミソに生まれつくと、ファンタジーの囚われびとになるからだ。「校内にマンガを持ちこむ子なんていないわよねぇ~ねぇ~。聞こえてるぅ?」

 透きとおる緑色の瞳、微笑むと両端のあがるベビーピンクのくちびる、白壁のような肌色に形のいい細い鼻。悪魔の手先としか思えない白蛇女には人心をあやつるカリスマ性がある。

「トーゼン、みーんなも持ってきてないわよねぇ。マ・ン・ガ」

「ポケベルとマンガは持ちこみ禁止だ」

 昼休みにはかならずやってくる、172㌢の外股筋骨女がさっそく口出しする。

 秦野の白く広いおでこが、目の前にきた。

「ゴミ箱にぃ、捨ててもいいわよねぇ~。それともぉ、センセイにぃ、届けてもいいのかなぁ~」

「学食へ行こうよ」

 長身・外股・筋骨女が秦野の肩に手をかけ急かす。

「食券を買うのに時間がかかるからさ」

「校則をきっちりぃ、教えてあげるべきだとぉ、アリィは思うのぉ」

 チラ見をしては、ひそひそ内緒話の得意な女子の1人が秦野に加勢した。

「わたしたちは中等部からいっしょだけど、彼女は高等部からだから、お行儀がわかってないのよ」

「体育科のぉ、新入生、初瀬セラーファみた~い。ねぇ、思うでしょぉ?」

 秦野が、190㌢はあるように見える初瀬に敵愾心があることをはじめて知った。

 秦野の用心棒、長身・外股・筋骨女と同じ体育科の初瀬は黒人と日本人とのハーフで黒豹のように美しい。

 わたしはうつむき、箸をとる。

 体育科は全寮制で授業料は免除されている。

 普通科のわたしは彼女が走る姿を見かけるたびに、体型といい、高貴な顔立ちといい、この世にこれほど完全な固体が存在するのかと畏敬の念をおぼえる。

 机の周囲で突然、

「キモオタ、キモオタ、キモオタ……」

 の大合唱が沸き起こった。

 イジメの定番すぎて、腹も立たない。

 長外筋は口尻をあげた。

「あっらぁ。どうしようかなぁ、バラしちゃおうかなぁ」

 秦野は勿体ぶった言い方をやめない。

「お守りだって言われて、おじいちゃまからいただいた石をねぇ、アリィは、シルクの小袋に入れてもってたのぉ。わが家に代々つたわるスゴ~イ石なのよぉ。あっらぁ! お目めが動いたぁ~」

 動揺すると目玉が動く癖がある。

「なくしたことを、おじいちゃまに知られたら、困っちゃうのぉ。聞こえてるぅ~? 聞こえてないのかもぉ~」

 真夏でも長袖ブラウスを着用している秦野の肌は、異様に白い。

「いくら黙っててもぉ、アリィにはぁ、ウソとホントの見分けがつくのぉ。テキとミカタの区別もつくのよねぇ」

 秦野は、長外筋を一瞥し、細く長い指で、わたしの百均の箸箱をなぞりながら、

「こっそり悪いことをしたいからぁ、ひとりぼっちでいるのよねぇ~。ちがう? あたりぃ~?」

 いつも軍団に囲まれて学食で召しあがる、おこづかいたっぷりの白蛇女の目には教室の机で、唯一の彩りのたくあんをくわえている孤独な少女の姿が、よほど哀れでめずらしく映るのだろう。

「アリィねぇ、思うのぉ~。お友達と仲良くできない人はぁ、学校にきちゃいけないってぇ~」

「そーよ、そーよ。〝アオガエル〟なんだもん」

「アオガエルゥ、アオガエルゥ」

 外野のザコどもが口々に言った。

 とうとう連中は、仲間うちでのわたしの呼び名を口にした。

 じかに言いたくてたまらなかったのだろう。

 中には、

「人間に嫌われる爬虫類は、ひとりぼっちがいいのよ」

 と言うやつまでいた。

 好きで孤高の至福を愉しんでいるわけじゃない。死ぬも生きるもいっしょだと友情の契りを結べる相手がいたら、こんな学校からとっくの昔にトンズラしている。それを説明する親切心もないし、言い訳する理由も見つからない。

 白蛇女はゆっくりとまばたきをし、

「ねぇ、ねぇ、アオガエルちゃん。石はぁどこぉ?」

 我慢の限界だった。

「うっせえ! 知らねぇよ」

 怒りにまかせて、胸のうちの声を口走ってしまった。

「じゃあさぁ、担任に言いつけちゃうしかないわねぇ~」

「言いつけろよ。ただし、ヤられるまえに、ヤってやる」

 緑色の瞳が全開になる。

「ナニナニィ? 何をするのぉ、ゆってぇ~ゆってぇ~ヤられた~い」

「罠を仕掛けて、しとめてやる」

「いますぐしとめてみてぇ~」

 緑の瞳を睨みつけてやる。

「ずぅっと前から気がついてたんだけどぉ、弓月の目ってぇ、出目で白目がおおいよねぇ。こわ~い」

 この三白眼と額の青いあざのせいで、幼い頃から〝アオガエル〟とののしられてひさしい。鼻梁が低く、目と目の間が離れているせいもある。しかし、なぜ、彼らがそのあだ名を知っているのか?

「アリィがぁ、罠にかかって、パタッと死ぬのかしら~ん。どぉなるの~? のたうちまわって死ぬのぉ? アリィだったらぁ、もっとぉ、らくぅに死なせてあげるのにぃ」

 白蛇女はわたしをいたぶって愉しんでいるのだ。

「ねぇねぇ、毒を盛るのってぇどお? アリィにも手伝わせてぇ。なんならぁ、サバイバルナイフで胸をひと突きするのもいいかもぉ~。ナイフを貸したげようかぁ?」

 毒と聞いて一瞬、息が止まる。

 なぜ、秦野はそれを……。

 秦野は顔を近よせ、耳を貸せとささやく。

「ウチでもぉ、ソトでもぉ、ずぅーとひとりぼっちってぇ、メトのお外でぇ、オペラのチケットが買えなくて困ってる人みたいなのぉ~? 物欲しげにぃ、そこら中を、うろつくのよぉ」

 オペラ?

 デブの男と女が抱きあって歌うあれか?

 最悪のイメージ。

 BL好きのオタク脳の美的な妄想が起動する。『パタリロ』のバンコランとマライヒのうつくしいラブシーンを――。

「ちぃちゃい頃にぃ、おじいちゃまとぉ、ニューヨークのメトロポリタン劇場に行ってたのぉ。だからぁ、アリィね、短刀で胸を突くところしか覚えてないんだけどぉ、『蝶々夫人』のアリアはぁ、ちょっとだけ歌えるのよぉ~」

「アリィのアリアか、だじゃれかよ」

 うそぶくと、秦野は、眉間にひと筋、しわというより亀裂をつくり、

「ピンスポを浴びたいわけじゃないのよぉ、1点もとれないラブ・ゲームなんてつまらないものぉ。ゲームをスタートさせる、ずぅっ~と前から何もかも諦めたような素ぶりなんてぇ、そんなのぉ、負けを認めない卑怯者のすることよぉ。アリィが、アンタだったらぁ、さっさと死んじゃう」

 もしかすると、テニス部員の秦野は、オタク文化に浸っている孤独女子に喝を入れるつもりでわざと煽っているのか? 

 今日にかぎって、どうしてからんでくるのか?

 入学して10カ月、1度も話したことはないのに。

 長身・外股・筋骨女がここぞとばかりに、

「弓月病院の養女に迎えられんだから、灰かぶりブスかもな」

 彼らは、わたしが養女であることも知っている。

「灰かぶりブスってぇ、魔女に毒リンゴを食べさせられるお姫さまのことなのぉ~? あたりぃ? はずれぇ?」

「毒リンゴを食べるのは白雪姫。ボクが言ってるのはシンデレラ。まぁ、どっちも似たなもんだけどさ」

 長外筋は、自らをボクと称する。 

「シンデレラってぇ、お話のはじめに、みっともないお洋服でぇ、出てくるよねぇ~?」

 長外筋は、うんうんとうれしげにうなずく。

「アリィの勘だとぉ、この子はぉ、毒リンゴを食べさせられるほうだと、思うのよねぇ。も、ち、ろ、ん、助けてくれる小人は1人もいないのぉ」

 孤独な白雪姫としては箸を手にしたまま、冷めたハンバーグのように身を固くして、2人のやりとりに耳を澄ました。

「アリィだったらぁ、ど~んな境遇になってもぉ、お姫さまドレスでなきゃ、我慢できないわぁ。だってぇ、生まれたときからお姫さまなんだものぉ~。おじいちゃまがぁ、氏素性が、みんなとはちがうってゆうのぉ。アオガエルとだったらぁ、天使と悪魔くらい、ちがうわ、きっとぉ。うふふふ……」

 手にしていた箸を、秦野の顔に投げつけた。

 秦野が椅子から立ち上がる前に、立ちあがり、弁当箱の中身を、彼女の頭のてっぺん――校則で決められている――三つ編みのわけ目に降り注いだ。

 長外筋の腕がさっとのび、セーラー服の衿を捉まれる。

 空の弁当箱で長外筋の横っ面を張る。

 ふいをつかれた長外筋はよろめいた。

 養護施設でトノサマガエルの異名をとっていたことを、軍団は知らなかったようだ。

「これが罠なのぉ~? アリィ、ゲンメツゥ。罠ってぇ、だれかがぁ、だれかをぉ、陥れる計略よねぇ。こんなの、つまんなーい。でもぉ、なぁーにもしないよりいいかもぉ」

 秦野は、玄米ゴハンとチンゲン菜を頭にのせたまま、不適な笑みを浮かべた。

 教室に居残っていた女子たちは笑うべきか、悲鳴をあげるべきか、迷っている気配だった。

「みんなぁ、じっとしててぇ、お、ね、が~い。アリィ、髪をぉ、洗ってくるからぁ、それから戦ってよねぇ~、どっちかがぁ、死ぬまでぇ」

 秦野が消えたとたん、取り巻きに包囲された。

「ブスのアオガエルのくせに、ボクに勝てると思ってんのかよ」

 長外筋に再度、制服の衿をつかまれる。

 上から見下ろされ、額を指差される。

「前髪で隠しててもチラチラ見えてんだよ、薄気味のわるい青あざがっ」

 わたしはわざと前髪をかきあげた。

 長外筋は、たちまち制服の衿から手を離した。

 一瞬、怯えた表情になり、

「な、なんだよ?! ペンキかなんかで描いてんのかよ」

 真正面から額の中心にある3㌢四方の青いあざを見た瞬間、たいていの人間は後ずさるか、目をそむける。

 長外筋はしどろもどろになり、

「白目の多い出目がさ、ギロギロ光っててキモいんだよ。みんなも思うだろ?」

「キモ~イ、キモオタ~、キモガエル~」とザコどものコロス。

 比類なき予言者ノストラダムスの大予言が的中する運命の日、1999年7月には、こいつらの頭上にも、火の玉が降ってくるはずだ。

「横に長いぶ厚いくちびるもさ、おぞましいんだよ」

 中学のときの悪ガキどもは、『妖怪人間ベム』のベラにそっくりだとほざいたっけ。

 伏兵のアイドル系デカパイ女子がしゃしゃり出た。

「体型は男の子みたいだけど、心はやっぱり女の子なのよね。もしかして、アリィにあこがれてたりして。それって、マジ、キモーイ。卒業式の日に告白してふられたら、女の子同士で暮らせる外国に行くつもりかもね」

 わたしと長外筋の腕が同時に伸びた。

 2つのこぶしが、顔より胸がせり出ている女子を直撃した。デカパイは真後ろにふっ飛んだ。

 黄色い声の悲鳴で、教室内は騒然となった。

「リョウさんまで、ひどーい」

 とデカパイは長外筋に訴えた。

 長外筋の怒りの一撃の理由はわからないが、わたしに限って言えば、異性が苦手だから同性を好むと勘繰られるほど腹立たしいことはない。

こっちは、人間という人間に嫌気がさしてんだよ。

 洗面所から戻ってきた秦野は濡れた髪からしずくをたらしながら、

「あっらぁ! お昼寝してるぅ。アリィも、ねむぅくなっちゃっわ~」

 とのんびり言って、デカパイ女のそばでうずくまり、

「死んでないのぉ~、つまんなーい」

 ヒトの顔さえ見れば「キモ~イ」と聞こえよがしにほざく女子軍団。

『スター・ウォーズ』の帝国軍そっくりの連中なのだ。

 立ち向かうには、銀河系に自由と正義をもたらすジュダイ騎士団のライトセーバーがなくてはならない。

 軽快なテーマ曲にのって蛍光灯のように光る剣を振り回し、

「てめぇら、ぶっ殺されたいか!」

 なぁ~んて1度でいい、タンカをきってみたい。

 放課後、デカパイ女は、なぜか、わたしひとりに暴力をふるわれたと担任教師に訴えた。後頭部をさすりつつ、わざとらしく泣いてみせたのだ。単独犯にされたあげく、父兄を呼び出すとまで担任教師に恫喝されたが、何もしていないと頑強に言い張った。

 担任教師は、帝国軍の日頃の悪業を知っていた。

 秦野の「なぁーんにも見てないのぉ~」という証言もあり、一方にのみレッドカードを出せないと判定したようだ。

 推定無罪となったが、沸騰した怒りは陰湿な行動へと、わたしを駆り立てた。

 クラブ活動で忙しい白蛇女の先回りをして、靴箱の革靴の底に強力接着剤を仕掛けておいた。罠の名に価しないイタズラだったけれど、デカパイ女の「外国」のひと言が頭を熱くし、主敵の白蛇女にひと泡ふかせてやりたくなったのだ。

 常日頃から養父に言われていた。

 医学部を卒業したあとは「国境なき医師団」に所属し、医療の遅れている発展途上国におもむき、人びとに奉仕するようにと。

 善人じゃないんだから、怠け者なんだから、人並みの容姿じゃないんだから、国境の確定している島国の日本でひっそりとオタク活動にいそしみたいのだ。

 何かを為したいという強い意志のない者にとって、時は無駄に過ぎていくものと養父は知らないらしい。

 時間はひとりぼっちのわたしをおいて、どこかに消え去ってしまうだけなのに――。

   2 イスラエルの石

 JR線と阪急阪神線と市営地下鉄の合流する三ノ宮駅構内。山が北、港が南。縦にみじかく、横にながい神戸の街中は四方をビルに囲まれると、アーハの「テイク・オン・ミー」のミュージックビデオの映像が目の前をよぎり、コミック雑誌の世界に閉じこめられた気分に陥る。

 途方にくれる女子高生1名。いつも、かわらず、たえまなく突破口をさがしているオタク脳。行く手をはばむ屏風のような山並み。六甲山の彼方にあるのは、幸せではなく住宅団地だ。

 秦野のカバンの中からパクったウォークマンを、ポケットから取り出す。

 地獄の釜で塩漬けになっているような日々の暮らしが、悪癖を誘うのだ。

 ざっくり言うと、髪が逆立つほどイラついている。

 歩きながらイヤホンを耳にし、スイッチオン。

  ゴメンね、素直じゃなくって……。

あれれれれぇ、アニソンが聞こえる。どういうことなんだろ? 

 イヤホンを外す。

 クラクションにせかされ、横断歩道を突っきり、北進する。

「加納町」と標示したプレート前を通過。舗道に面したビルの自動ドアの中へ。高校入学と同時に予備校に通いだして、はや10カ月。好天気の日にも心の風景は鉄錆色。

 非常用の出口は、永遠に見つかりそうにない。いっそ暗黒の世界にならないものか。

私服と学生服が入り乱れ、予備校のロビーを埋めている。今週末にセンター試験を控えているので受験組は気もそぞろの様子。

 高度成長期に青春を送った世代の子どもは人数が多い。

 ここに通っている学生の大半は、落後者の刻印を押されないために世間の基準値から滑りおちないように躍起になっている。あきらめの境地にいる者は、出席の登録をしたあとでフケればいい。

 思いは同じでも、現金に縁のない者は、時間をすり潰す場所を探すのにひと苦労する。

 勤労会館の市民図書室は高齢者が多くて居座る気になれない。

 寒風吹きすさぶ公園のベンチはこっちから願いさげだ。真冬と真夏は冷暖房の入った電車内に留まりつづけるか、予備校の自習室で待機するしかない。今日はごたごたがあったせいで遅れてしまい、自習室を利用することに。自ら学習する意欲のない者にとって、静まり返った自習室は拷問部屋にひとしいのだ。

 午後5時46分。この1週間、時計の針がこの時刻をさすと、五角形がつぶれたような青あざに鈍い痛みがはしる。

 早朝の同時刻にも眠りを妨げる症状が起きる。

 黴菌でも入って化膿でもしているのか。

 怒涛の溜息。

 ノストラダムスの大予言によると「1999年7月に恐怖の大魔王が空から降ってくる」らしい。

 的中すれば、地球の滅亡まで4年半。予備校の経営者は仕事熱心だから、たとえ火の玉に直撃されても新世紀の受験状況が気になり、センター試験の日程の変更を大魔王に直訴するにちがいない。

 崩壊後の世界に大学は存在するのか、しないのか?

 わたし的には、悪魔と契約し、赤い炎に包まれた地霊を呼びだし、予備校の滅亡を願い出たい。でもって荒廃した街中を、大型自動二輪車GPZ1000RX、通称Ninjaにまたがり、神戸と大阪をつなぐ湾岸道路を無免許で爆走したい。

 ファッションはストリート系できめる。上着は黒一色のレザージャケットにデニムのだぶだふパンツ、足元はプラットホームシューズできめ、黒のキャップの髪色は金髪がベスト。

 市役所もなくなってるだろうから、意味不明の名前も変更する。

 物心ついた頃から苦労した悪夢の名「淀美伽廻留」。ヨドミカエルと読む。

 13歳の誕生日に養子縁組し、弓月という苗字にかわったが、幼い頃からの〝アオガエル〟のあだ名は変わらなかった。目玉が大きいうえに額の青あざのせいだ。

 授業中、居眠りばかりするので、動きののろいヒキガエルと言われたこともある。

 あだ名を知った養母は、整形外科医にあざを消す手術してほしいと頼んだが、後天的な外傷によるものなのでレーザー光線を照射しても治らないと断られた。

 そこで養母は何を思ったのか、悪童どものいる公立中学から彼女の母校である中高一貫のミッション系女子高へ進学させた。

 学力は重んじない校風に安堵したのもつかのま、宗教も性別も貧富の差もワルクチとは無関係だった。あだ名も、アオガエルのまんまで、さらにキモオタが追加された。

  ゴメンね、素直じゃなくって……

 イヤホンを外しているのに『セーラームーン』のワンフレーズが耳の内側でリフレーンする。

 クソったれの秦野め。美少女戦士のつもりかよ。

 あと数分で、予備校の講義がはじまる。悪夢は終わらない。ヤケクソの気分で講義を受講することに――。

 絶望より強い、希望のない状態を現わす単語はないものか……。

「やればできる」と、どの講師も安易に説教する。

 受験に役立たない知識やオタク情報や妄想になんの価値も認めない講師ども。連中の教える受験テクニックに魂を売るくらいなら死んだほうがましだ。

〝一浪〟は、ひとなみと読むのだそうだ。いつまで、この生き地獄がつづくのか。始終、檄をとばし、時に笑いをとろうとする講師。IQの高さは上の下だが、努力を惜しまない私大医学部志望の男女。医者の家の子どもがほとんどだ。

 オタクとは縁のないキャラの持ち主の彼らは、学習不適確者のわたしとは別種族である。むこうが哺乳類ならこっちは両棲類。

 講義がはじまって5分もすると睡魔に襲われるオタク脳は、黒板の数字や図形は頭の中を素通りする。テキストの文章を読もうにも視覚が文字をとらえない。かわりに、入試とは無関係の雑多な思考が大脳を占拠する。

 なんでだろお。

 教室に入る前にウォークマンを早送りする。

  ゴメンね、素直じゃなくって、夢の中ならいえる……。

 なんで「ムーンライト伝説」しか入ってないんだろ。秦野はもしかして、アニオタなのか?

「あっらぁ!」

 うしろから白い指がするする伸びてきて、イヤホンを抜きとられる。

「アロンアルファを塗った罠なんだけどぉ、靴底がダメになっただけでぇ、死ななかったわよぉ~。ありふれたイタズラにぃ、アリィ、ゲンメツゥ」

 身構えるより先に、いま自分の置かれている情況を表わす単語に適しているのは、絶望より幻滅がよいと気づく。

 秦野の出現のおかげだ。

 カバンに手を入れる。

 あるはずのカッターナイフがなくなっている。

 長外筋の仕業か?

 白蛇女の頬に尖った刃先を突きつけて、恐怖のどん底に突き落としてやるつもりだったのに……。

「ムーンライト伝説」のせいで、戦闘意欲がそがれる。

 急遽、孤高のローン・ウルフ、いやアオガエルにふさわしい、あらたな武器を手に入れなくてはならない。

 カエルが昆虫を捕らえる長い舌のように迅速かつ必殺技となる道具――美少女のつぶらな瞳をめがけて、玩具の〝パチンコ〟で小石をはじき飛ばすなんてどーよ。

 たぶん、緑色の目玉から血の涙が流れる。

新たな武器を入手するために、東急ハンズに直行することに。

 とにもかくにも、白蛇女の追跡を振りきらなくては!

 急ぎ足できびすを返すわたしの背に、

「わたしがぁ、月にかわってぇ、お仕置きしてあげるぅ」

 振りかえり、

「靴の仕返しに、後をつけたのかよ」

「うふふふ。ミカエルのすることはぁ、ぜぇーんぶ、お見通しなんだからぁ」

「月野うさぎのつもりかよ」

 笑わせるなと毒突くわたしに、秦野はいきなり、『リバティ・バイツ』で流れる「マイ・シャローナ」を口ずさみ、映画のワンシーンと同じ振りで踊りだした。

 そして、ふと思いついたように、

「アリィもぉ、今日からぁ、ここに通うことにしたのぉ~」

 と言い放った。

 あの退屈な映画を見たとは思えない彼女が、「マイ・シャローナ」で踊ったことにまず衝撃を受けた。

「テニス部は、どーすんだよ」

「飽きたのぉ~」

 一気に肩の力がぬける。

「向かいに、似たような予備校があるから、そっちへ行きなよ。そっちだったら、成績順に輪切りされて希望する学部の講義が受けられる」

「あっちはぁ、おバカが混ざってないってことなのねぇ~」

 この女の不愉快きわまりないところは、数学以外は指名されてもヘラヘラ笑って答えないくせに全科目偏差値の高いことだ。

「医学部受験コースの教室はどこかしら~ん? 体験入学でぇ、今日いちんち、なーんの科目でも受けられるのぉ」

 関西はおろか、日本各地のデパートに出店している、洋菓子店のひとり娘である彼女は医師になる必要などまったくない。

 わたしならビデオとマンガに囲まれて、美味なケーキをたらふく食べて生涯、妄想にふける暮らしをえらぶ。

 がんばることほどアホらしい生き方はない。長くもない人生で、やり遂げたいことなんて皆無なんだから。

 現代国語の講師が入ってきた。

 ざわついていた教室内が静かになる。

「このおじさん、名前は知らないけれど、見たことあるわ」

 秦野はテンションが低い。 

「どこで会ったのかしらん、忘れちゃった」

「大阪と神戸と京都のかけもちで、受験の神さまと言われてる」

「神さまなんていないしぃ、こんなオヤジ、ゲンメツなだけ」

 女子と並んですわるなんて、予備校に通い出してはじめての経験だった。

 並み居る男子は、秦野の三つ編みの愛らしさと光り輝く美貌に声をなくしている。

「長文を精読していては時間がたりなくなる」

 講師は声高に切り出した。

「先に設問を読み、問われている近辺の文章を読み、正解を選択する。そのさい、もっとも短い解答文ともっとも長い解答文ははぶくように」

 秦野は落書きに夢中のようだ。中心が同じ円を5つ書き、1番外の円を放射線で16分割し、2番目の円を8分割し、その中に髭や尻尾のあるオタマジャクシを複数、書き入れ、隅に小文字のカタカナを記入している。中心の円は中黒の二重丸。その円の右に波のような線が上下に伸び、左右に数字の6に似た記号が見える。

 講師の声が熱をおびる。

「ここで学ぶのはいかに効率よく解答するかであって、文学のなんたるかではない。例文に使われる過去問で、心が動かされる文章に出会うことはめったにない。というより無きにひとしい。断片的に読むのではなく、はじめからおわりまで精読すれば、きっと正解できるときみたちは思っていないか? そんな考えはきっぱり、捨てることだ。作者自身にも正解できないような設問がもうけられているからだ」

 講義が終わって、廊下に出ると、秦野はトイレに行くからしばらく待ってくれと言う。

 先に帰ると突き放した。

 他の講義が残っていたが、白蛇女と受講する気にならない。

「アリィねぇ、担任やクラスの子たちの名前、覚えられないのぉ。でもね、ミカエルの名前はいちどぉ、聞いただけで覚えられたのぉ。カタカナに変換したからかもぉ。いまみたくミカエルって呼ぶのにぃ、とーっても長くかかったけれどぉ。アリィねぇ、こう見えてぇ、シャイなのぉ」

 秦野の形のいい鼻の穴がふくらんでいる。こめかみの青い血管が、ピクついていた。

「ミカエルも、いっしょでしょ? アリィのぉ、名前しか知らないでしょ?」

「決めつけんなよ」

 初瀬セラーファがいると言うべきか。

「すぐ来るからぁ、待っててぇ。お、ね、が、い。もし、逃げたりしたら、ゲゲゲのゲェーだからね~」

 10分ほど待った。

「あっらぁ!」の声といっしょに秦野は別人になって現われた。

 三つ編みはほどかれ、胸のポケットにねじこんだ制服のリボンは、だらしなくはみ出ている、スカートは下着が見えそうな長さにたくしあげ、足元は流行のルーズソックス。こういうのをコギャルというのか……。

 どこがどうイケテルのか、ワカラン。

「ディスコにぃ、連れてったあげるぅ」

 そんなものが、この狭い街のどこにあるのかさえ知らない。興味もない。首を横に振ると、秦野は、頭をほんのすこしかしげた。そして言った。

「まぁ、いいわぁ~。そのうちにぃ、行きたくなるから、きっとぉ」

「ゼッタイにならない」

「なんでぇ、なんでぇ?」

「そっちとは、おもしろいと感じるものがまったく違う」

「おもしろいことがぁ、なぁーんにもないからぁ、遊びにぃ行くのよぉ。いまがぁ、嫌だからぁ、逃げだすのよぉ」

 予備校の外へ出ると、濃紺の大型車が路肩に停止していた。直線的な感じなのでたぶん、ドイツの車だろう。

 後部座席の窓が開き、髪を整髪料で撫でつけた赤ら顔のオジサンが頭をのぞかせた。肥っているので、ちょっと見には、やさしげに見える。というより、アホに見える。

 しかし、見た目と異なり、

「乗りなさい!」

 有無を言わせない強い口調の声を発した。

「タツノを困らせるんじゃない」

 秦野はわたしの腕を引っ張り、駆け足で車体から離れた。

「だれ?」

 たずねると、秦野は顔をそむけた。ぞっするほど白い肌の横顔に影がさす。茶褐色だと思っていた彼女の髪は風にそよぐと、街灯の下では金茶色に輝くので陰と陽の隔たりが際立つ。

「アリィのぉ、行きたいところへ、ついてきてぇ。だめぇ?」

 秦野は顔をこちらにむけ、わたしの腕をつかんだ。

「明日は模試だし、このまま帰る」

 秦野はつかんで腕を離さない。

「内緒よ。模試の解答の方法なんだけど、アリィねぇ、正解があてられるのぉ。定期試験の答えもよぉ」

 秦野は口早に言って、赤い舌先で薄いくちびるをなめた。

「ミカエルにならぁ、秘密を教えてあげてもいいわ。だってぇ、涼子センセイのファンなんでしょ? 『日出処の天子』いいよねぇ。美形の厩戸皇子さまと蘇我毛人とのラブシーン、アリィ、コーコツゥ~。萩尾望都センセイの『ポーの一族』も好きぃ」

 彼女を見つめた。

『美少女戦士セーラームーン』を好むタイプと、山岸涼子や萩尾望都のBL作品を好むタイプは気質が異なるとわたしは思っている。作者の世代も異なる。

「ぜ~んぶ、見せてあげるぅわ~」

 大型車両が舗道と交差する道路に急停止し、わたしたちの行く手を阻んだ。

 角張った帽子に制服姿の男が運転席を降りると、大股で長い車体を半周し、後部座席のドアを開けた。

 赤ら顔の小肥りのオジサンも息をきらしながら車の外に降り立った。

「わがままもいいかげんにしなさい」オジサンはくちびるを震わせて言った。「勝手な事ばかりして、パパを困らせるのが、そんなに楽しいのか。いつもの時間に迎えに行ったタツノから、おまえの行方がわからないと聞いて、どれほど心配したか。クラブ活動をしてるとばかり思っていたからね」

 このオジサンが父親? かけらも似ていない。

「ミカエルとぉ、いっしょの予備校に通いたいのぉ」

「付属の大学に進学するのに、予備校などいらん」

「だったらぁ、車にぃ、乗らなーいっ」

 秦野は形のいい眉の片方を吊りあげた。

「でもぉ、なんでぇ、ここにいるってわかったのかしらん。やっぱり、学校にスパイがいるのねぇ」

「信号が変わるまえに乗らないのなら、パパにも考えがある」

 秦野は、道路脇の有料駐車場を指さした。

「乗るからぁ、ちょっとだけ、待ってぇ~。おねがーい」

 彼女は声の調子を甘ったるい口調に変えながら車に近づき、運転席のフロントガラスを握りこぶしで叩いた。

 運転席の男は暗い眼差しで秦野を見据えた。

 自称パパは背をむけ、後部座席にもどった。

 道路脇に収まりきらない大型車が駐車場に消えると、彼女は鎌首をもたげるように細長い首をのばした。

「例の石なんだけどぉ、いま持ってるぅ?」

 緑目の瞳孔が大きくなった。

「ねぇ、ミカエル、お友達になりたいのぉ。だからぁ、大切な大切な石をわざと盗らせたのよぉ。ミカエルとだったら、あの石でびっくりするようなことができるかもぉって思ったからぁ。ミカエルにだけ、石の名前を教えてあげるわぁ。〝イスラエルの石〟ってゆーのぉ」

 白蛇女に対抗する言葉をさがす。

「友達なんて日本語、使ったことがない」

 同じように皮膚がヌルヌルしていても、白蛇女とアオガエルが仲良くなれるはずがない。両棲類と爬虫類とは属性が異なる。彼女と父親のように。

「おじいちゃまが言うにはぁ、あの石は世界を変えるっていうか、壊してしまうかもしれないくらいのパワーがあるそうよぉ。2人で試してみな~い?」 

「1人でやりなよ」

「試してみたけどぉ、1人だとぉ効き目がぁ、ないのぉ。パパに投げつけても、なぁんにも起きないのよぉーっ!」

 秦野の緑色の瞳が翳り、恐怖と憎しみの感情がかいま見えた。

「柔道部の彼女に頼みなよ。よろこんで協力してくれる」

「安曇諒子はぁ、きっとぉ、パパのスパイだからぁ、ダメぇ」

 長外筋と勝手に名前をつけていた体育科の彼女の本名を、はじめて知った。そう言えば、リョウさんとデカパイが呼んでいたっけ。

「なんでも自分の思い通りになると思ってるから、とんでもないやつに付け入られるんだよ」

 秦野はうつむきかげんに、そうかもぉとつぶやき、いきなり、

「ミカエルはぁ、自分の未来を知りたいと思わな~い?」

「どうせ、ろくでもない未来しかないんだから、知りたくない」

 秦野はガバンの中から受講中に書いていたノートを取り出し、引き破り、わたしの胸元へ突き出した。

 緑色の瞳に射すくめられ、ノートの切れ端を受け取る。

 見ると、いくつもの楕円形の中に、いまにも動きだしそうなオタマジャクシが数珠つなぎにつらなっている。

「龍が踊ると書いて、りゅうとう文字っていうのよぉ。このメモの上にぃ、ミカエルが、アリィから盗んだ石をおくとね、龍が、ミカエルの未来を教えてくれるのぉ。きっと青い龍よぉ。ミカエルのおでこにぃ、青いあざがあるのって、青い龍と関係があるしるしなのよぉ。だからぁ、ミカエルならぁ、イスラエルの石で世界をぶっ壊せると思うわけぇ」

「んなワケねぇだろ」

 バカにしてんのかと言いけて、もらったメモ書きを指差し、

「これが龍? ひげが4つあって、しっぽが3つに分かれている――おたまじゃくしじゃないのか?」 

「ミカエルとちがってぇ、アリィはほんとのぉ、ことしか言わなーい」

 緑色の目がランランと光る。

「いまから遊びにきてよぉ。ミカエルのことなら、なぁーんでも知ってるのよ。ビデオを観る場所がなくて困ってるんでしょ。近所のレンタルビデオ店のオジサンが言ってたのぉ。お店のビデオレコーダーとテレビを独り占めするんだってねぇ。アリィのお部屋で観ればいいわぁ~。ソニーのプレステもあるのよぉ」

「ゲームなんて、興味ないし――だいち、あんたのパパが許すはずないじゃん」

 秦野は首をはげしく左右にふり、

「同じ町内にある打ちっぱなしの、ほら鉄筋コンクリートの5階建ての家よぉ。とぉっても素っ気ない造りのおうちなんだけれどぉ、アリィのお部屋に直通で行けるエレベータがあってぇ、プライバシーは完璧なの。完璧すぎるのぉ。だから、だぁれにもぉ、アリィの悲劇に気づいてもらえないのぉ」

「金持ちの家に生まれた子どもに悲劇なんてないんだよ」

「ミカエルんちだって――」

「捨て子を養子にしたのと、ほんとうの子どもとはちがうんだよ。そんなこともわからないのかよ」

 父親が秦野の背後に迫った。

「何をぐずぐずしてるんだ!」

「アリィにかまわないでーっ」

 秦野は両ひざを抱えて、その場にうずくまった。何があっても動かないつもりのようだ。父親は頭をひざに密着させた秦野の乱れた髪に触れた。

「触らないでっ」彼女は顔をふせたまま怒鳴った。

 赤ら顔の父親は顔をさらに赤くした。

「お願い、ミカエル。アリィといっしょに来てぇ」

 女王さま気取りの秦野からは想像もつかない言葉だった。

 わたしの知る彼女は何者も怖れない強者だった。その彼女が孤立無援のわたしに助けを求めている。

 巧妙な芝居を親子で演じているのかもしれないと思う一方で、親子のかもしだす険悪な空気からそんなはずはないと思いつつも、

「ニューヨークへ連れてってくれる爺サンに、なんとかしてもらいなよ」

 と言い捨てた。

 自分でも、なんていやな性格だと思いつつ素直になれなかった。脳天の一発がどうしても許せなかったのだ。

 赤ら顔の男は秦野を抱きかかえるようにして立たせた。そして、うすら笑いをうかべると、骨がなくなったような秦野に言った。

「会長と会ったのはいつだ? 4年前だったかな? おまえが孫だったことも忘れたようだな」

 そして、トドメを刺すように、「大好きだったママといっしょだな。どこかに消えたんだ」

 秦野は手足をばたつかせて、赤ら顔のぶ厚い手からのがれようとした。

 男からアルコールの臭いがした。酔っ払っているようだ。

 なぜ、石を与えた彼女の祖父はそばにいないのか……。

 わたしは右腕をのばし、秦野の手に触れようとした。

 男は、わたしとは目を合わさずに、「うちの娘は矯正が必要なんだ。嘘ばかりついて、人の心を弄ぶのが趣味なんだよ」

 運転手らしい男が近づいてきた。

「旦那さま。この場所に駐車できません」と声をかけた。

 わたしは手を引っ込めた。

 運転手の帽子の下にのぞく上目遣いの目がわたしを牽制した。どこを見ているのか、何を考えているのかわからない目つきだ。押しつぶされたような鼻も傷のある上唇からも男が危険な存在であることは見てとれた。

 父親は秦野に、「帰ったら閉じこめる」と言ったかと思うと、視線をそらしながら言った。

「今後、亜利寿とかかわるようなことがあれば、きみのウチにも苦情を言わなくちゃならなくなる。そもそもきみのような、どこの馬の骨かわからない生徒を入学させたこと自体が、問題なんだ。きみの保護者がどれほどの寄付金を支払ったか知らないが、きみのせいで学校の評判がわるくなる」

 父親はたたみかけた。「誘ったりしないでくれ」

「友達じゃないのに、誘うわけがない」わたしは言い返した。

 秦野は、血管が透けて見える薄いまぶたを引き上げ、わたしにむかって言った。

「知ってるぅ? 男性はぁ、嘘をつくときぃ、目をそらすけどぉ、女性は相手の目を見るんだってぇ。ミカエルはぁ、アリィの目を見ないでぇ、いま言ったよねぇ」 

「アンタとは友達じゃない」

「ウォークマンだけどぉ、あげるわ。な~んでも盗っちゃう悪い癖は直さなくちゃね。キモオタのアオガエル」

「やはり理事長に報告するしかないな。生徒指導の牧師にも話しておこう」

 わたしは後ずさりながら、「牧師の説教なんて、クソなんだよ」

 捨てゼリフを吐き、きびすを返した。

「なんて下品なんだ――だから言っただろ?」

 父親の声が追い打ちをかけた。

「ああいう育ちのわるい子とは、かかわっちゃいけないんだ。アリィにふさわしい友達は、会長が許可した子だけだ」

「おじいさまはいないじゃないの! どうやって許可をとるのよぉ。パパだってぇ、おじいさまのお許しがなければ何ひとつできないくせに。毎日、家にいて、アリィを監視するのがお仕事なんでしょ」

 思わず、振りむく。

 秦野は必死の形相で父親に歯向かった。

「毎日、毎日、聖書を読まされて、お祈りをさせられて、もうごめんよっ。わたしはわたしのしたいように――」

「うるさい!」

 父親は秦野の頬を平手打ちにした。

「死んだって、あんたの思い通りにならないわっ。あんたが嫌でママはいなくなったのよっ」

「ママはおまえのことを嫌っていたんだ」

「そうよ。ママはわたしのことを見たくなかったのよぉ。ちっともママに似てないし、ヘンな顔だからよーっ」

 秦野は泣き叫ぶと、呆然と突っ立っているわたしにむかってカッターナイフを投げつけた。

 黄色いナイフは乾いた音を立てて足元に転がった。

「マヌケのアオガエル、盗むくせに盗まれても気がつかないんだから大馬鹿者よ。せっかく名前で呼んであげたのに、大嫌いよっ」

 秦野は、粘り気のある話し方しかしないと思っていたが、ちがったようだ。

 カッターナイフを拾い、振り向かずに走った。

 繁華街が近くなる。どぎついネオンが眩しい。南にくだるにつれ、強い光にかわっていく。凍った風が意固地な額をたたく。

 青黒い夜のはじまりを跳ね返すように原色のネオンがまたたいていた。

「ミカエル!」

 秦野の呼ぶ声が聞こえた気がした。

「待ってよ、ミカエル……」

 神戸の繁華街は網の目の中心だ。ここから海へも山へも埋立地へも街中のあらゆる場所に移動できる。けれど、どこにも行けない、永遠に待機中の者もいる。

 だれかが、制限をかけている気がしてならない。

 偏差値上位の白蛇女は一時的に弱者を装って、ひねくれ者のオタク人間をいたぶる魂胆なのだ。敵の術中にはまってなるものか……。石ころひとつで興味をひけると思っているのだ。

 耳の奥で秦野の泣き叫ぶ声が聞こえる。

「待ってよ、ミカエル。お願いだから、ひとりにしないでよ」

 なぜか、涙が、こぼれる。ぬぐってもぬぐっても溢れてくる。

   3 怨敵調伏術

 本屋で立ち読みをする。マンガはビニールで封印されているが雑誌は読める。

『Hanako』で最新のファッションをチェック。ついでに五島勉の『ユダヤ深層予言』に目を通す。

 小見出しに1999年に大破局、2017年に新世界とある。世紀末に世界は終わらないのか? 

 言い出した本人が自論を変えていいのか?

 レジを通さずに、店を出る。万引き成功。いつもの半分もうれしくない。

 繁華街を徘徊する。行きたい場所などない。なけなしの小遣いでコンビニでおにぎりを買う。

 JR線を利用して家路につく。

 夜道を歩きながらおにぎりを頬張る。

 帰宅すると9時近い。

 広い敷地は土塀で囲まれている。外観は和風の屋敷と庭。閉ざされた門扉の横の通用門に取り付けられたインターホンを押す。自動で通用門が開く。

 この家の鍵は渡されていない。門の中に入ると敷石の小道を行き、格子戸の玄関に到着。ここも鍵がかかっている。

「おかりなさい」

 住み込みのお手伝いさんが鍵を開け、出迎えてくれる。

 家の中に入ると、飴色の廊下を足音を立てずにダイニングルームへ直行。

 この家では、音を立てないようにとくりかえし言われる。ドアの開けしめも要注意。椅子を引くときも引きずるなどもってのほか。食器の触れ合う音にも気を使わなくてはならない。

 立ち居振る舞いが、人柄を表わすからだそうだ。

 何もかもがうっとおしい。

 我慢して言いなりになったところで、肝心のこぼうびはない。

 食卓にあるのはサワラの味噌焼きに豆腐の味噌汁。それに無糖のヨーグルト。トンカツやエビフライなどの揚げ物が食卓にのぼることはない。

「ごゆっくり召し上がってください、残さずに」

 お手伝いのコマさんが姿を消すと、手をつけずに、ゴミ箱にそっと捨てる。

 見つからないようにサワラはバラし、味噌汁は具と汁に分けて捨てる。

 ヨーグルトはふたを開けた痕跡がないかどうか、たしかめてから食べる。 

 夕食後、庭の茶室を改造した小屋で、秦野のカバンから、ウォークマンといっしょにくすねた石を、制服の内ポケットから小袋ごと取り出す。

 中に入っていた石は、親指の先ほどの大きさで道端に転がっている石ころとかわりない。、手で触れると、粘り気のある質感があり、見た目以上の重みがある。

 ところどころ、濃い緑色に光っている。

「この石、パチンコで、飛ばせるじゃん」

 手渡された図表の上に、ごたいそうな名前〝イスラエルの石〟をのせる。

 大小の龍が組み合わさって文字を形づくっている。くねくねした龍が2頭、十文字に交わると「セ」を表す。よく見ると、カタカナに似た形に並んだ龍もいれば、まったく異なるものもある。

 イスラエルの石とやらは、扇状のマスの中を「セ・イ・ヤ・コ・ワ・レ・ル」と勝手に動いた。目の錯覚なのか、それとも中学生の頃から、車田正美の『星闘士聖矢』に入れこみすぎたせいで頭が自爆し、セイヤコワレルと読めたのか……?

 秦野は自分でも試したのだろうか……?

 もう1度、試そうとしたとき侵入者が出現。

「まぁ、なんてことでしょう。薄気味悪い絵文字のようなものはなんなんです。邪悪な行いをしてはなりません!」

 養母の婆サンは化粧気のない黄ばんだ顔をしかめ、龍踊文字の書かれた紙を丸めてゴミ箱に捨てた。

 とっさに拾おうとすると、わたしの手を叩き、

「勉強に疲れたら、魂の救いとなる聖書を手に取りなさい」

 そそけた髪を黒ぐろと染めた婆サンは、まばらな前髪に手をやりながら、

「多くの先の者はあとになり、あとの者は先になる」

 と聖句をたれる。

 模試の順位も「後か先か」にこだわる婆サンの敬愛するイエスさまは、偏差値など目もくれないだろうに毎夜、

「神さまはすべてをお見通しです」

 などと小言を言いにやってくる。さすがに足音は立てないが、キンキン声は礼儀に反しないようだ。

 夕べも『週刊少年サンデー』をこっそり読んでいると、「くだらない雑誌を買って読むなら、おこづかいはあげません」と叱られた。

 婆サンに、椎名高志の『GS美神』のおもしろさはわからない。

 魔界の反逆者アシュタロスの勇姿に心動かされる日は未来永劫、老いた彼女にはやってこない。なぜなら、魔界の反逆者と婆サンのかしずく神とは犬猿の仲だからだ。

 もしかすると、いや、もしかしなくても、秦野の家でも似たような問答がくりかえされているのかもしれない。

 秦野が聖書で禁じられている〝まじない〟の遊びにこだわるのはそのせいか。

 なで肩で猫背気味の婆サンは首をのばし、シミとシワだらけの顔につくり笑いを浮かべながら、

「あと3カ月で2年生になるのですからね。死ぬ気になって励むのですよ。この世のすべては『狭き門より力を尽くして入れ』ですからね」

 かわいそうな身の上の子どもを引き取って育てれば、婆サン自身が狭き門から天国へ召されると期待しているのだ。

「唯一のお方、神さまの御言葉に、いかなる誤りもありません」

 婆サンは余計なひと言をつけくわえて母屋に引きあげた。神への偽りのない信仰があれば、マンガと縁がきれて勉強ぎらいが改善されると彼女は信じて疑わない。

 秦野の父親もおそらく唯一のお方の正義しか認めないのだろう。

 床板を踏み鳴らす。

 かすかな息づかいが聞こえる。

 耳を澄ます。ドアの外にだれかいる。たぶん、お手伝いさんのコマさんだ。

 覗き見趣味のある彼女がわたしの動向を逐一、婆サンに報告しているのだろう。

 秦野も監視される生活を強いられているようだ。まさか、似たような境遇だったとは……。

「てめぇらこそ、地獄行きなんだよ!」

 コマさんに聞こえるようにわざと声に出して言った。

 なんで、クソ婆ァのいないところでしか言えないんだろ。秦野には思っていることが言えたのに――。

 養われているという負い目が、口を封じるのだ。

 忍び足が遠ざかる。

 歩き方ひとつとっても、二重顎でたれ目のコマさんは、使い分けているようだ。

 笑顔を絶やさず、養父母に忠誠を誓っているとしか思えない行動をとる一方で、何事か画策している気配が濃厚なのだ。

 クリスチャンではないと聞いたときから、さらに怪しいと思うようになった。

 仮にもクリスチャンなら神の裁きを恐れるが、信仰をもたない彼女に、地獄行きだとののしっても相手は微塵も怖れないだろう。

 彼女をへこます方法はないものかと思案する。

 予言や呪術のたぐいが大好きなわたしは、「怨敵調伏術」を試してみようと思いつく。

 あほらしいことほど、ワクワクするのはなぜだろお。

 陰陽師の安倍清明のライバル、蘆矢道満が、藤原顕光に依頼されて藤原道長を呪咀し、呪物をつくって埋めた代物だ。

 婆サンやコマさんは道長に比べれば小者すぎるが、ウップン晴らしにはなる。

 ペン皿の底に、油性のラッションペンの赤で、好みの文字「呪」と書き入れ、個別懇談会の申し込み用紙で蓋をし、ティッシュでこよりをつくり、赤く染めて、十文字にからめて結んで出来あがり。 

 グッジョブ!

 満足のいく出来栄えだった。

 すり足で渡り廊下を歩く。

 闇の茂みからこちらをのぞき見る視線に気づく。吊り目の赤犬だ。雄なのに名前はルーシー。改造小屋の横にドッグハウスがあるので、お隣りさんということになる。

 コマさんが世話係なので、わたしとは顔見知り程度の間柄である。

 1日1回の散歩と1回のエサの時間以外はひたすら寝ている。この家にきてひと月もたたないせいか、ドッグハウスに視線を向けると尖った耳をピンと立てて突きでたワニ口で吠える。

 養父母やコマさんにはけっして吠えない。尻尾をたれ、クフックフックフッと鼻声で鳴いてみせる。

「けっして危害を加えません」とでもいうように。

 差別主義者の犬らしい。体長は1㍍ほどで、赤みががった茶色の毛なみは艶がなく、ひたいの毛はまばらだ。尻尾の先だけ、ふさふさした毛におおわれているのが、ただひとつの美点か。

 冷蔵庫からパクったスライスチーズを1枚、投げてやる。

 ルーシーはドッグハウスからのそのそと出てきたが、疑り深い眼差しでこっちを見つめる。しかたなくチーズを手にとり、ワニ口のそばに差し出すと、ようやく口を開けた。

 好みではないのかと思っていると、ハフッハフッと息をする間に食べた。そしてジロリとこっちの様子をうかがう。

 大急ぎで庭におり、ドッグハウスの前にある空きスペースを植木用のシャベルで掘り返し、呪物を埋めた。

 ウーッとルーシーがわたしを威嚇する。

 もう1枚よこせと言っているのか!?

 ルーシーはギャンギャンと吠える。

 犬の鳴き声に気づいたコマさんが急ぎ足でやってきた。

 ルーシーは風呂上がりのコマさんを見ると、尻尾をふり、埋めた呪物を掘り返したのだ。

 コマさんは素足で庭に走りおり、これを発見。

 ルーシーはおのれの手柄を近所中に拡散するようにウォーンと雄叫びをあげた。

 一瞬、犬鍋にしてやろうかと思った。

 コマさんは呪物を拾いあげ、

「なんてことを、なんてことを……」

 くりかえし言い、汚れた足のまま廊下に駆けあがった。

「コマさんのために、つくったんだ」

 言い放つと、彼女は、「奥様、奥様」とわめきながら足音も荒く養父母のいる居間にむかった。

 本来のコマさんは、忍び足ではない。

「まずったかも」と独りごちる。

 呪物には、それを書くのにもっともふさわしい時間帯があると書いてあった。

〝子の刻〟午後11時から翌日の午前1時でなくてはならなかったのだ。

 さっそく、呼び出しがかかる。

 改造小屋の住人であるアオガエルは、養い親に会うためには、屋根と床と柱はあっても壁のない渡り廊下を通って、暑い日も寒い日も雨風の日も母屋と呼ばれる無用にひろい和洋折衷の邸宅に出向かなくてはならない。

 人体にたとえるなら、わたしは盲腸にあたる部分に住んでいる。大腸を住みかとする養父母にとって、トイレだ、食事だ、風呂だと、そのつど渡り廊下を行き来する盲腸は化膿しないかぎり、彼らの健康をおびやかすことはない。

 歩きながら、自らの運命を呪う。

 無用にただっ広い居間のソファに座らされる。

 向かいのソファには、メタルフレームの色つきの丸眼鏡をかけた和服姿の爺サンと、なぜか前髪を丸めてピンで留めた婆サンが並んで座っている。

 紺色のパジャマにガウンをはおった婆サンは、髪の毛が少ないことを気にしてか、髪のお手入れを怠らない。

 やればやるほど萎びた顔が余計に貧相に見える。

 一方の爺サンは背筋がのび、銀髪がフサフサと波打っているが、痩せぎすなので年齢より老けて見える。

 銀髪の小言がはじまる。

「不完全なわたしたちを呪う負の感情を、とやかくいっているのではない。呪術に類することに手を染めることは悪魔の誘惑に負けることであり、神のもっとも忌み嫌われることである」

 こうべをたれて、悪魔の誘惑をじっと待つ。

 終末予言に夢中のオタク脳にとっての正義は、神に忌み嫌われることばかりだ。唯一、行きたい国と場所は、世界最終戦争があると予言されているイスラエルのメギドだけれど、聖書はノーサンキュ。

「神の子どもは義を行いつづけますが、悪魔の子どもは初めから罪を犯すのです」

 なんど聞いただろう。婆サンは同じ言葉をくりかえして飽きない。

「あなたの願う良い事柄を行ないなさい。義を願う能力を生み出すのは、あなたのうちに宿っている神の御心だと信じなさい」

 わたしの願う良い行いとはオタク活動しかない。

 耳の内側で、ピンク・フロイドの「アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール」が聞こえる。目の前にいるこいつらは、わたしの自由を奪う鋼の壁なんだ。

 非力な盲腸は、老いた大腸に訴える。

「良い事柄を行なうと誓いますから、予備校をやめさせてください」

 爺サンは、色つきの丸眼鏡の真ん中を骨張った指で押しながら、

「記憶の形成にかかわる海馬はともかく、側座核は活発に活動しているようだな」

 爺サンは尖った鼻の先をうごめかし、見当違いことしか言わない。

「とくに問題はない」

 アホンダラ、クソジジィと面とむかって声にだして言えたら、どんなにせいせいするか、胸のつかえが下りるか……。

「脳幹の上部に存在する、神経細胞の集団である側座核は食事や男女の適切ならざる関係による快感や、過度の嗜癖に重要な役割を果たすと考えられる一方で、この部位の働きが強い者ほど嘘をつきやすい」

 せめて一矢報いたいと思い、

「適切ならざる関係というのは、どういう関係なのでしょう?」

「ドーパミン3Dの受容体の発現は、側核座にもっとも顕著である」

「セックスのことですか」

「まぁ、まぁ、なんてことを!」

 婆サンは、細く薄い眉を逆立てたが、額にしわが増えただけだった。

 爺サンに比べれば、不退転の信念があって信仰しているようには見えない婆サンにとって、信仰はアクセサリーのようなものにちがいない。教会で賛美歌を歌うときの恍惚とした横顔がそれを物語っている。

「遺伝子が、犬などの気質に関連すると考えられる」

 爺サンはそう言って、眼窩のくぼんだ鋭い眼光で三白眼をのぞきこむ。

「わたしの遺伝子は、犬の遺伝子と同じだということなのでしょうか? どちらかというと猫のほうが好みなんですけれど」

「正しい習慣こそが、道徳的なるものへの究極の規範となる。その思いに欠けるから、わかりきった嘘や、はしたない言葉が平気で口にできるのだ。バブル崩壊後の日本の現状を――しいては、冷戦終結後の一見、平和に感じられるが内実は混沌とした世界情勢をかんがみれば、いくら呑気なおまえにもわかるはずだ。環境問題といい、世界は確実に終わりにむかっている。そんなこともわからないなら犬猫にひとしい」

 このままでは早晩、人体に不要の盲腸は怒りで化膿して破裂すると反論したいのだけれど、ソファでふんぞり返っている和服姿の〝大腸〟にどう説明すれば理解してもらえるのか、どう訴えれば意思の疎通がはかれるのか、両棲類並みの脳細胞にはわからない。

 わかっていることと言えば、

「バブルが崩壊したのは、わたしのせいではありませんし、世界が終わるのは、神さまのせいなのでは……」

「なんという不謹慎な!」

 婆サンの怒りはすさまじい。

「物事を真摯にとらえれば、そのような恐ろしい文言は口にできないはずです」

 婆サンは唸って、天井を仰ぎ見ると、

「あなたがこの家に来た日から、神さまに祈りつづけました。けれど、あなたはまるで悪魔の申し子のようです!」

 おまえらは偽善者なんだよと口の中で呪咀する。

 くちびるを引き結び、テーブルの角を睨んでいると、爺サンは、養子の欝屈した目つきを見て、暗黒の魂の存在にあらためて気づいたのか、

「精神物理学でいうなら、われわれは感覚に作用される疑似空間に存在している。目に見えないものは存在しないと思いこんでいるせいだ。光線やウィルスがいい例だが、神もまた同じなのだ」

 72歳になる爺サンは、偏差値30以下の養女に自らが果たせなかった夢を託している。爺サンの祖父は、孫が宣教師になることを反対した。医者の家系に1人息子として生まれた爺サンの父親は弁護士になり、病院の後継者になることを拒んだ。爺サンのそのまた爺サンはなんとしても孫を医師にしたかったらしい。

 爺サンに選択の余地がなかった。おのれの過去に思い入れがあって、養女のわたしに選択の自由を与えないのだ。

「神が実在するように、悪魔は偏在する」

 爺サンの声はいつにも増して重々しい。

 神や悪魔やらがこの世界を支配しているのなら、途方にくれる人間を生かすなり殺すなり、さっさとなんとかしてくれと言いたい。

「ほとんどの者は、悪魔の誘惑に勝てない」

 爺サンは貧乏くじをひいたと心のどこかで悔やんでいるのだ。そんな思いが高じて、過去の夢を実現してくれそうな養子を貰いうけたにちがいない。選んだ相手がちがってんだろが!

「人間の体も心も弱い。油断すると、一瞬で闇に墜ちる」

「とっくに闇に落ちてます」

「おまえの言うとおりなら、頭はいいはずだ。闇の世界に住む者は高度な知能を有している」

「脳ミソが腐っているんです」

「腐敗していれば、生存していない」

 血のつながらない養女の脳ミソのレベルを、CTスキャンに映して見るがいい。受験に必要な内容を記憶する箇所に問題があることは、模擬テストの点数を見ればわかるはずだ。自然環境ではなく脳内環境を調べてくれと本気で迫ったが、診るまでもないと優秀な脳ミソを有する爺サンは歯牙にもかけない。

「大脳辺縁系に異常は認められない」

「何をしでかすかわからない自分が、こわいんです。学校では毎日のように、クラスの女の子たちからイジメられて……アオガエルと言われて……。クラスの中に、蛇のように陰険な子がいるんです。だから、その子を呪ってやろうと……つい」

 うつむき、うっうっと嗚咽をもらす。あんたらを呪ったのではないという迫真の演技だったが、爺サンと婆サンには通じなかったようだ。

 爺サンはそげた頬のあごをひと撫でし、

「カエルは魚類から進化した両棲類なので、爬虫類に分類される蛇を恐れる傾向にある」 

 と言った。そして、つけ足した。

「4億年前から存在する爬虫類の脳にも恐怖心は存在する。人類の罪を考えれば、扁桃体による恐怖心が作用して理性的に行動することは、だれにとっても困難だ。だから決断には感情脳が関わっている」

 爺サンはひょっとして、牧師の言うように、すべての命を神が創造したと考えていないのか?

「あなたのほうから、話しかけないから仲良くしてもらえないのよ」

 疎外された経験のない婆サンには、残酷な現実がわからない。

「わたしたちに対してもだけれど、どうして心を開こうとしないの?」

 同じ言語を使っても、互いを分かり合えないとなぜ認めない。

 爺サンはふむふむとうなずき、

「悪口を言いたい者には言わせておきなさい。昨今の若者に見られる意識レベルの低下は、感性反応の異常によるところが大である。嘆かわしい」

「アオガエルは、白蛇に勝てないってことですか?」

 爺サンの耳にアオガエルの訴えはとどかない。

 爺サンは腕組みをし、額にかかる銀髪をかきあげた。

「〝狭き門〟から入ることはむずかしい。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。ここで言う狭き門とは、形而上学的な意味合いにおける、神へ至る門をさすのだ」

 粘着質の皮膚の両棲類なら、狭い門をするりと通過するとでも思っているのか……。ついでに白蛇女もくぐりぬけるとは思わないのか。

「あのう……」

「なんだ」

「近所の白蛇、いえ、秦野さんちのことなんですけれど……何か、知ってますか?」

「ヨソさまの、何が知りたいの?」

 婆サンはそう言って眉間に深い縦皺を刻み、

「知って何かしでかすつもりなのね」

「同じクラスの秦野亜利寿さんは、実子ですか?」

 爺サンは腕組みをほどき、

「くわしくは知らん」

「父親は婿養子だと耳にしましたよ」

 婆サンの声がいつになく弾んでいる。

「コマさんから聞いたのだけれど、もともとは1人娘のお宅だったそうよ。1度離婚されたあと、ご養子さんを迎えたんですって」

「お爺さんが、いるんですよね? 日本人ですか?」

 わたしの問いに、婆サンは、

「面識はないけれど、日本人のはずよ。外国で悠悠自適の暮らしをしてらっしゃるそうよ。羨ましいわ。そうそう、おかあさまはもちろん日本人なのよ。再婚されたお婿さんもね。娘さんがハーフのお顔立ちなのはふしぎよね。ご近所でも噂になったことがあるわ。血の繋がりがないらしいわ」

 秦野の瞳が緑なのは、だれに似たのだろう。

 学校のみんなは、彼女の母親が外国人だと思いこんでいる。

「クラスメートの秦野さんは、おじいさんに4年間も会ってないそうです。おかあさんにも会っていないと言ってました」

「ご自分のお仕事がお忙しいらしいわ。なんでも大学で経済学を学んだとかで、ニューヨークと日本を頻繁に行き来しているらっしゃるそうよ。そういえば、お2人ともお見かけしたことがないわ。コマさんの話だと、とっつきにくい感じだけれど、おきれいな方だそうよ。ねぇ、あなた」

「数年前に家が建って、引っ越してきたときから祖父も母親も見かけたことはない。コマさんが知るはずがない。どうでもいいことだ」

 爺サンは婆サンのおしゃべりを遮った。

「家には、おとうさんと亜利寿さんの2人きりなんですか?」

 さらに訊くと、

「住み込みのご夫婦がいらして、奥さんが家事いっさいを取り仕切っていて、ご主人が運転手兼雑用係みたい」

 婆サンのほうが、秦野家の内情にくわしいようだ。

「運転手はタツノという名前ですか?」

「ええ。ご夫婦とコマさんとは親しいみたいよ。あちらの奥さまのこともそれで知ったらしいわ」

 婆サンは得意気だ。

「本人と会ったわけじゃないんだろ?」

 と、爺サンは婆サンにたずねた。

「お洋服がクローゼットにとってあって、コマさんは写真を見たって――」

「いい加減にしないか!」

 爺サンは婆サンを叱った。

「噂話の好きなコマさんにはやめてもらう」

 婆サンはとたんに不機嫌になった。

「コマさんは陰日向のない、よく気のつくお手伝いさんですよ。コマさんがいてくれるから、この家もなんとか回っているんです。わたしたち夫婦は子育てに慣れていないから、コマさんがいてくれないと、この子とどう接していいのかわかりませんわ。しつけにしても、センセイはわたくしに任せっきりなんですもの」

 婆サンは夫である爺サンを、センセイと呼ぶ。

「きみは神経質だから、子育てにむいていない」

 爺サンは正しい判断をした。

「他人に頼りすぎるのも問題だ。気をつけなさい」

 爺サンが婆サンを神経質だと思っていたことにおどろく。

 ここぞとばかりに、

「コマさんの地獄耳のせいで、叱られてばかり……」

 わたしがボソッとつぶやくと、

「自分のいたらなさをコマさんのせいにするなんて、なんて子でしょう! 少しでもマットウになってもらいたくて、わたくしはどれほど努力しているか。あなたは反省することを知らない!」

 婆サンの剣幕をしずめるように、爺サンは婆サンの背中をさすりながら、わたしに向き直り、

「くだらんことに気をとられていないで、勉学に励みなさい」

 と話を打ち切ろうとしたが、婆サンは感情のコントロールを失ったのだろう。

「おでこのあざのせいで、根性がねじ曲がってるのよ。さいしょっから、反対したんです。センセイがこの子に同情さえしなければ……」

 婆サンは泣きだした。

「コマさんも言ってました。この子のせいで、しなくていい苦労をわたくしがさせられているって……。『7の70倍までも赦しなさい』とイエスさまはおっしゃいますが、わたくしにはムリです」

 爺サンは、わたしに、この部屋から出ていくように言った。

 渡り廊下を歩きながら考える。

 今後は一層、コマさんに注意を払わなくてはならない。わたしの行動を監視しているだけでなく、秦野家の内情も探っているらしい。たしかな証拠はない。

 わたしに対して、横柄な態度をただの1度もとったことはないし、嫌味を言われたこともない。

 ただ、何かしら、感じるのだ。コマさんという呼び名のお手伝いさんと顔を合わすたびに、胸騒ぎがし、言葉にならない違和感がわき起こる。

 この家にもらわれて来た日から彼女の視線が気になってしょうがなかった。心が落ち着かないのだ。苛立つのだ。

 去年の夏だった。

 買物帰りの彼女を偶然、見かけた。

 足元しか見えない男性に日傘をさしかけ、寄り添って歩いていた。わたしは気づかれないように、あとをつけた。

 男性に買物かごをもたせていたコマさんは、クスクス笑う合間に、

「もうちょっとの辛抱よ。わたしにまかせて。場所はわかったわ。あんな子、なんとでもなるわ」

 と甘ったるい声で言った。

 その日から毒を盛られる妄想にとりつかれた。不味くても弁当は、婆サンが早朝につくるので食べているが、コマさんのつくる夕食はのどをとおらなくなった。

 秦野が、2度も「毒」と言ったのは、わたしへの警告だったのではないか?

 日傘で顔が見えなかったが、あの時の男が、今日、出会った運転手なのだろう。運転手のタツノは、秦野家で働く妻がいるのに、コマさんとただならない関係にあるとしか思えない。

 コマさんの言う、「なんとでもなる子」のわたしは、心配事が多すぎて学校でも家でも心が安らぐ時間が皆無だ。

 1日でも早く、高校を卒業して自立したい。

 大学へ行く気などかけらもない。これまでも何度も家出をしようと試みた。そのつど突発的な出来事のせいで実行できなかった。たとえば、婆サンが車と接触して入院するとか、自分自身の体調が悪くなるとか、貯めていた1万5千円が体操服に着替える体育の時間に盗まれるとか……。

 何かしら思ってもみないことが起きるのだ。

 あの虎の子の金は、秦野の父親のスパイの疑いのある柔道部の長外筋に盗まれたのかもしれない。体調の異変は、コマさんの握ったおにぎりを食べたせいかもしれない。などなど悩みはつきない。

  4 肉球印VS桔梗紋印

 環境を劇的に変えるために一計を案じる。

 ドッグハウスに近寄り、

「手塚治虫の『ファースト』を読めばわかる」

 とまず高尚な知識を教え、

「悪魔は、むく犬に化けられる。おまえは赤犬だけど、わたしと契約すれば魔界の犬となって超能力を発揮し、互いのおかれているつらい境遇を変えられる」

 と言ってきかせた。

「爺サンの話によると、雑種のおまえとカエルのわたしの脳ミソのレベルは近いらしいから、マイナスとマイナスを掛け合わせればプラスに転じ、『ドラゴンボール』のスーパーサイヤ人なみの超人のパワーをもてるかもしれない」

 爺サンにルーシーと名づけられた赤犬は、こっちを見ようともしない。人間世界の上下関係を熟知しているのか?

 ドッグハウスから1歩も外に出ないルーシーは前脚に頭をのせ、持ちかけられた密約に両耳を立てて聞いていた。ちらりとむけた上目づかいの目の色に不信感が見えた。

「おまえはわたしのおかげで、殺処分されるところを命拾いしたんだ。わかってるのか?」

 去年の学期末、赤点だらけの答案用紙を見た婆サンは涙ながらに小言を言った。育てがいがないと。

 爺サンは無言でうなだれる孤独な少女を慰めたいと思ったのか、クリスマスのイブイブに、殺処分になる寸前の成犬の雑種を畜犬交換センターでもらいうけてきた。常識的に考えて、16歳の乙女の誕生日に無料のものをプレゼントするか!?

 喜ばせるつもりだったのかもしれないが、さらに落ち込んだ。

 爺サンいわく、去勢手術もすましてあり、ハイブリット問題解決方式なのだそうだ。脳波を計測すべきなのは爺サンのほうだ。雑種のことを英語でいえばハイブリットになるが、問題が解決したとは微塵も思えない。 この犬が孤独を紛らわせてくれると爺サンは言った。番犬にもなるとも。

 笑わせるな!

 爺サンの若い頃、アメリカのホームコメディ『アイ・ラブ・ルーシー・ショウ』が流行っていたという理由で、自ら命名しておきながら1週間も経たないうちに、

「この犬は、番犬にならん。癒しにもならん」

 などと平気でののしり、完全無視をきめこんだ。

 片や、婆サンはペットと聞くだけで身震いする潔癖症なので問題外。

 その結果、ルーシーは、男子なのに女子の名をつけられただけでなく、この寒空に敷物1枚のドッグハウスで眠ることになった。

 がしかし、わたしと比べればまだしも幸福度ランキングが高い。

 この家で、ただ1人、愛情を示してくれる存在だと認識しているのか、コマさんの顔を見れば尻尾を振っている。まったく警戒していない。時々、オヤツをもらっている。毒殺される心配をしてないからだろう。

 反応のないルーシーに「チッ」と舌打ちをし、与えられた改造小屋に引き返し、秦野が落書きした紙を拾い出し、ひろげて、その裏に「契約書」と黒の油性マジックで大きく書き、ドッグハウスにとってかえし、ルーシーに宣言した。

「取り決め事項はただ1つ。協力して自由を得た日には、生死をともにする生涯の友となる」

 いやがるルーシーの右前脚の肉球に赤の油性マジックを塗り、契約書に押しつけた。

 赤犬にふさわしい捺印だと満足。人間と親睦をふかめるくらいなら、側座核の類似する犬と友になるほうが何倍もいい。寝食をともにすれば、親しみもわく。

 そう思い立ったわたしは、母屋の茶の間でくつろいでいる爺サンと婆サンのもとにカエルらしく飛び跳ねていき、再度、会見を申し入れた。

「犬猫なみの知能ですので、ルーシーと生活をともにします。1日1食にし――コンビニのおにぎりとサンドイッチで結構です。飲み物をつけていただけると、うれしいのですが、多くは望みません。手間のかかる弁当はいりません」

「自分勝手なことを! お小遣いはなし、なしよっ」

 婆サンは座卓に手をつき、身を乗り出し、鬼ババァの形相でわめいた。

「勝手にすればいいのよっ」

 この言葉を待っていたわたしは、

「ルーシーと同じ立ち場とあつかいにしてください。高校を卒業するまでの2年と少し、養ってもらえれば、あとは自力でなんとかします。それまで、お2人の目につかないよう、キャンプ用のテントでルーシーと寝起きします。夜はランプを使用し、湯たんぽで寒さをしのぎ、夏は、蚊取り線香があれば充分です」

 と言ってひと息つき、

「光熱費を節約したぶん、食費に上乗せしてもらえれば――と」

 爺サンは、怒りに身悶える婆サンを別室に遠ざけると、彼の生誕以前からこの屋敷にあるという座椅子の背もたれに痩せた背中をゆだねながら、骨の形がわかる指で座卓をさし、むかい側にすわるように言った。

「おまえは、プラスチックの衣裳箱に入れられて淀川を流れていたと施設の職員から聞いた」

 そう言って腕をくみ、

「パピルスで篭がつくれんから、プラスチックになったのだろう」

「弁当箱は、コープのプラスチックなんですが」と話をそらす。 

「パピルスとはカヤツリグサの一種だ」

「苗字は淀より、蚊帳鶴のほうがよかったのでは……?」

「くるんでいたバスタオルの柄は五芒星だった。西洋魔術においてはセーマン印と呼ばれ、悪魔を召喚するための魔法陣に描かれる記号だ。俗説では、ソロモン王はセーマン印で悪魔を呼び出し、世界中の富を集めたと伝えられている」

 爺サンの顔を穴のあくほど見つめる。

 厳格な爺サンの口から、魔法陣という言葉が発せられるとは!

 これこそ幻覚ではないのか?

「わたしのバスタオルの柄は、額のあざが似た形なので、それでその柄にしたのだと思います。わたしを捨てたヒトが」

「肝心なのは、バスタオルに添えられていたメモ用紙だ。誕生日の日付と美伽廻留と書かれていたことだ。これがどういうことを示唆しているか、おまえにわかるか?」

 爺サンは、手元にあった夕刊の折り込みチラシの裏に星型の五角形をひと筆で描いた。

「陰陽師として名高い安倍清明は、五芒星印を桔梗紋印と呼び、魔除けの呪符として使った。呪物をつくったのなら、それくらいは知っているだろ?」

 頭の中で、五芒星がぐるぐる回る。清明の『とっておき99の秘話』に書いてあったので知っているが、事実とは思っていない。

「予備校では、何を選択しているんだ?」

 爺サンは話を転じた。

 下をむき、ため息といっしょに、「……政治経済です」

「視野を広げるために、どうして歴史を選ばん」

 三白眼のギョロ目のおかげで視野はいたって広いが、

「政治と経済に興味があったんです」

 ざっと調べたかぎり、社会科の受験科目のなかで、政治経済がもっとも暗記する事項が少なくてすむ。

「中学校でも、歴史の授業で少しは習っただろ?」

 過ぎ去った過去を蒸しかえすような執念深い性格じゃない。

 爺サンは色つきの丸眼鏡を外した。間近で爺サンの素顔を見たのははじめてだった。何事にも動じない底光りのする強い眼差しもだが、顔の真ん中をつらぬく鼻筋には節があった。突き出ているので、見据えられると気圧されてしまう。

 爺サンの薄いくちびるがゆっくりと開いた。

「いままで話していなかったが、おまえを養子にしたのは深いわけがある」

「若いナースに産ませた……隠し子だったとか……」

「わたしは妻1人を生涯、守って生きてきた。教会で知りあったのだからな。クリスチャンとしては当然のことだ」

 医者は金持ちと相場はきまっているのに、皺だらけで痩せぎすの婆サンとしかエッチの経験がないなんて、そんな虚しい人生に爺サンは耐えてきたのか。粗食をすれば長生きをすると信じて疑わない婆サンの献立てでは、精力が減退してもむりはない。そのせいで、余分な肉が削がれて、鷲や鷹を連想させる顔立ちになったのだ。

「モーセを知っているか」

 わたしはギョロ目を全面に押しだし、

「精力剤の名前ですか」

 爺サンは一瞬、話す気力を失ったような顔つきになった。

「主イエス・キリストは生ける神のお子だが、モーセは神によって行為へと召し出された聖者だ。それ故に、モーセは軍事的指導者であり、助言者であり、裁判官であった」

「行為へと召し出されるという意味がわかりません」

 皮肉ったつもりだったが、

「『旧約聖書』の話からはじめよう」

 爺サンは手元にあった黒い表紙の本を、わたしの目の下に置いた。学校で使われる『新約聖書』よりひとまわり小さい。

 手に取ると、ぶ厚いがさして重くはなかった。パラパラとめくる。目次も含めて、虫メガネで見るような文字が2段組の縦書きでびっしり書かれている。表紙を開くと、漢数字で一九五五年改訳とある。

 まさか、これを暗記しろというつもりはないだろうな。もし、そうなら今夜のうちにも家出を決行しなくてはならない。問題を読むことなくおわる試験を受けさせられる苦痛に耐えるつらさを、学会とやらに頻繁に出かけている爺サンにはわからない。

「日本語に翻訳されても、言葉の美しさは損なわれない」

 興味のある事柄しか受けつけないオタク脳が、この世に存在することが、爺サンには永久に理解できない。脳の仕組みも人それぞれなのだ。

 区別する基準がなぜ1つしかないのだろうか。

 わたしの場合、怒りが極限に達するまで心身を酷使すると、『AKIRA』のテツオのように全身が気球のようにふくらんで爆発する恐れがある。

 心を鎮めるために、ティッシュのように薄い紙の聖書をめくりつづけるが、爺サンの話を聞いているふりを装い、ときおり、手を止める。

「ヒストリーの語源はギリシア語のヒストリエ、ラテン語のヒストリアである。ヒストリアは記述を意味し、ヒストリエは調査・探求を意味する。人類が誕生して以来、多くの人々がその英知を結集して、過去の出来事や見きした出来事を調査し、探求し、記述して歴史をつくってきたのだ。聖書はその最たる書物なのだ」

 いつしか出目のまぶたが、たれてきた。

「聖書を学ぶためには英語とヘブライ語は必須だが、いまのところ、それはいいだろう」
 
 洋楽のカタカナ英語のタイトルはすぐに記憶できるが、アルファベットの横文字は頭痛を引き起こす。ながめているだけで冷や汗が腋の下ににじみ出てくる。

 拷問にひとしい責め苦を、この家にもらわれた日から耐えつづけている。

 爺サンが婆サンとしか、性体験がないという悲劇とどちらがより悲惨か、個人的に判定するしかないが、少なくとも同等か、それ以上だと思う。

「わたしはどちらかと言うと、新約聖書より旧約聖書のほうがおもしろいと思う。いつの日にか、おまえにもわたしの言葉の意味がわかる」

 午後10時過ぎからはじまった爺サンの説教は2時間かかっても終わらない。まぶたは蓋をするようにかぶさってくる。耳はすでに聞くという自律的な行為を拒んでいる。

「今夜はもう勉強をしなくていいから、明日の夜までに『創世記』を読んでおきなさい。模擬試験のあとで、つづきを話そう。神と悪魔の実在と葛藤を知れば、少しは歴史に興味もわき、勉学にいそしむ気にもなる。これは、わたしとおまえとの契約だ」

 目玉の奥がズキズキ痛む。

「日付の変わった、この時間から読めってことですか」

「論題を与えられれば、すぐにもなすべき答えの見当はつく。問題は、それをいかに曲折ある論証を通して結論に導くか、だ」

 1999年に大異変が起きなければ、100年後の学生は暗記する分量が、1世紀分ふえることになる。

 大魔王よ、どうか、地球を直撃してくださいと真剣に祈る。

 4年後、人類が滅亡からまぬがれて医学部に入学するために浪人生活を送っている身の上を想像すると憤激の涙がこぼれる。

 怒りを分かち合い、心を許せる同志は、この世界に1人もいないというのに……。

「戦争と疫病は社会、いや世界を崩壊させる」

 爺サンは真剣な眼差しで言った。

「浅はかな人間には、この世界を統治できない」

 ヒトという哺乳類を好きになれないのは、御託をならべるあんたらのせいだ。奇跡が起きるか、裏口入学でもするかして万が一にも医者になれたとしても、体温のある生きものと馴染むことをこばむ性癖の人間が人命を預かれるわけがない。

 改造小屋にもどり、叫ぶ。

「捨て子をなめんじゃねぇぞぉ!」

 1978年12月23日、寒風吹き荒ぶ淀川を漂っていたそのとき、くるまれていたバスタオルを母親のぬくもりと勘違いしたのだ。そのせいでヒトと触れ合えなくなり、人肌が厭わしいのだ。

 時代が昭和から平成になっても、この傾向はかわらない。どうして岸辺に流れつく前に、河原でゴルフの練習をしているオヤジ連中の飛ばすボールが、衣裳箱の中の赤ん坊の眉間に当たって即死しなかったのか。おのれがどこのだれかもわからない、そのときなら痛くもかゆくもなかった。この世界に存在しないほうが、いまの閉塞感より何万倍もいい。

 登下校の時間はチェックされるわ、日曜の朝は爺サンと婆サンと連れ立って教会に行かされるわ、薄味で脂肪なしのまずい弁当を食わされるわ、雇い主に忠実なコマさんに監視されるわで盗み食いもろくにできない。

 することなすこと、たとえば屁をひっても婆サンに伝わるシステムになっている気配が濃厚だ。

「あのオナラの臭いぐあいでは、便秘気味のようでございますよ。もっとお野菜が必要です」

 などと、お節介なコマさんは報告しているにちがいない。

 血のしたたるステーキが食いたい。「980円・焼き肉食べ放題」の看板を目にすると、グウゥグウゥ腹が鳴って立ちくらみがする。

 神戸でも屈指のハイソな住宅街に住んでいても実状は、菜食を強いられる肉食獣とかわらない。息も糞もつまる。しかし、無慈悲な爺サンと婆サンは自らの信念を曲げない。贅沢に慣れてはいけないと、安普請の改造小屋に無抵抗の孤児を彼らは押しこめている。

 哀れな捨て子を養子にした4年前からひとつ屋根の下に眠らず、わずかな物音に反応するのも、本音では血縁関係のない異端児を恐れているせいだ。

 日曜日の食前のお祈りのあとには、「大いなるバビロンはいずれ倒れる。優美なもの、華麗なものはかならず滅び去るときがくる。その日に備えて倹約につとめ、信仰に、そして勉学に励まなくてはならない」と爺サンは真顔で説く。

『ノストラダムスの大予言』に目を通した形跡はないのに、世界が滅びると予告する。先が長くないとわかっていながら手前勝手な信仰のせいで、養子の望むカオスの源となるアレコレを有害だと決めつける。ナニが欲しくて、ナニがいらないのか、それを決めるのはおのれ自身だ。断じて神などではなーい!

 いつの日にか、クイーンのライブに行き、「ウィ・ウィル・ロック・ユー」を歌いたい。マイケル・ジャクソンと「ビート・イット」を踊りたい。CLAMPの『東京BABYLON』全7巻をそろえたい。それと、アオガエルのイメージとはかけ離れているけれど、キュートなキティちゃんも欲しい。

 1度だけ、買ってほしいと婆サンにせがんだ。

「どこがかわいいのです。口はないし、頭が大きすぎます」

 美的感覚ゼロの婆サンには、キティは化け物に見えるらしい。

 この家にいては美味なもの、カワイイもの、カッコいいもの、80年代の洋楽、マンガ、映画、ぜんぶが、狭き門にふさわしくないという理由で排除される。

 CDはおろかラジカセすら買ってもらえない。この家の広い門から出て行くとついに決意を固める。文無しに近い懐ぐあいでは家出をしたその日からホームレスになる。

 爺サンの書斎に忍びこんだ。

 鉛筆型のフラッシュライトで照らす書斎は、リサイクルショップに持ちこんでも買い取りを拒否されるようなガラクタで埋まっていた。ただでさえ暗い、この部屋を天井にまでとどく書棚がさらに暗くしている。

 嗅いだことのない臭いが室内によどんでいる。なんの臭いだろう。中庭に面した窓は何年も開けた形跡がない。窓際に特大の机がある。

 レトロなキャメルランプの隣に顕微鏡や試験官やビーカーやフラスコが乱雑にならび、付箋のついた厚手の本が積みあがっている。部屋の中央にある円形のテーブルの上には色つきの小びんと乾燥した木の根や雑草がいくつも束ねられていた。

 机の引き出しを開け、中をさぐる。札束はおろか、金目のものも何ひとつ、見つからない。諦めかけたときに、本と本の隙間に木製の小箱がひとつ。中身を確かめず、ポケットに入れる。書斎を出たところで運わるく、トイレに起きた爺サンに見つかり、こっぴどく叱られた。

 書斎に入ることは禁じられていた。床の間のある和室に連れて行かれ、正座を強要される。

「創世記を読むどころか、盗みを働くとはいかなる料簡かっ。おまえはわたしとの契約を反古にしたのだ!」

 日頃冷静な爺サンがめずらしくは感情をあらわにした。丸眼鏡なしの白髪頭が毛羽立っている。江戸川乱歩の小説で、棺に閉じこめられた男が一夜で白髪になる話があったが、爺サンにも似たような体験があったのかも……。

「ひと晩、自省せよっ」

 怒鳴る爺サンに呼応するかのように、

「ひと晩ではたりません!」

 寝室にいたはずの婆サンが出張ってきた。

「矯正施設に入れたほうがいいのではありませんか」

 たったいまから、どこへでも送ってくれと言いたかった。

 学校に通わなくていいのなら、地獄へでも行くと思ったが、小箱を取りあげた婆サンはうすく笑い、言った。

「お里がしれるようなマネはしないでね」

 あんたたちとは遺伝子が違うんだから、両棲類はサラブレッドになれない。

 こうなったらもう何がなんでも家出するしかない。

 無為に過ごした年月の鬱積が爆発寸前だ。

「ボヘミアン・ラプソディ」の訳詞に『ママ、ぼくは人を殺した、頭に銃を突きつけて引き金を引くと、そいつは死んだ』とある。

 養父母殺しの犯人になって監獄に閉じこめられる前に、自らの手で一切合財を打ち壊すしかない。もしかすると、秦野も同じ気持ちなのか?

   5 God door 

 痺れる足を引きずり、改造小屋にもどる。

 くるぶしが真っ赤に腫れている。

 辛抱にも限界がある。このままこの家で身も心も腐っていくより、独りで生きて野たれ死ぬほうがまだましだ。

 この時に備えて、粗ゴミの日に拾った登山用のリュックに下着や歯ブラシなど身のまわりのものを手当たり次第につめこむ。

 生理用ナプキンを持っていくべきかどうか一瞬、迷う。

 わたしは未だに生理がない。爺サンも婆サンもそのことは知らない。

 この家に貰われたときから、わたしは生理があるふうに装ってきた。もしかすると、わたしは女子でも男子でもないのかもしれない。いまとなってはどうでもいいことだ。家出をするんだから、かさばるナプキンをこれ見よがしに残して行くことにした。

 足音が聞こえた。

 こういう事態をあらかじめ想定していたかのように、爺サンがやってきた。この小屋に、爺サンが足を踏み入れるのははじめてだった。

 聖書と小箱を手にした爺サンはリュックを一瞥し、「やはり、思っていたとおりだな」と言った。

 そして、「ふむ」とうなずき、狭い室内のどこに座るべきか考えている様子だった。

「なぜ、厳しくするのか、わからないだろうが、おまえには使命があるとわたしは信じている。医学を学ばせたいのは多くの人の命を救うのに必要不可欠な学問だと思うからだ。しかし、偉大なお方のお考えは、わたしごときの浅知恵で推量してはならないのかもしれない。日毎に、体力の衰えを感じるようになって、ふと気づいた。考えを改める時期がきているのかもしれん。選択させる時期が訪れているのかもしれない」

 丸眼鏡をかけていない爺サンは立ったまま、手を出すように言った。

 相変わらず、鷲の目をしている。

「盗もうとしたのではありません。手に取って見ただけです」

 爺サンはもう1度、やや強い調子で手を開いて見せるように命じた。

 罰として骨張った指と筋の入った爪で弾かれるのかと恐れたが――爺サンはわたしの目の前に座った。

 こういうのを膝詰め談判というのかもしれない。

 爺サンは小箱を開けると、小さな円型の時計を取り出し、体温の感じられない痩せた手で、わたしの手を引っ張り、手のひらにのせた。金属性なのに思いの外、重みが感じられない。

「古い機械式の懐中時計だ」

 爺サンはそう言って時計を裏返すように言った。言われた通りにすると、鈍色の蓋を指さし、開けるように言う。

 開けると、星型の模様が記されていた。

「五芒星ですか?」

 指でなぞったとたん、感電したときのような痺れた感覚が指先から腕を通って心臓にまで走った。取り落とすと、爺サンの目の色がかわった。

「手に取ってよーくみてみなさい。そこに印されているのはペンタグラムといって、逆五芒星だそうだ」

「五芒星となんの違いが?」

「五角形が文字盤と逆方向になっているのが、わかるか?」

 もう1度、触れるように言われる。

 触れると、人差し指が五芒星にくっついて離れない。

「何か塗っているんですか?」

 爺サンは険しい表情になり、「この時計は大戦前の1939年に、わたしの父がある人から譲りうけたものだ。その人物と家族はナチスドイツの迫害を逃れて、満州、いまの大連から日本を経由して、アメリカにわたった」

そして遠い目をし、

「いまでいう人権弁護士だったわたしの父は、神戸に滞在したその一家の世話をした。貧しい人たちのために無償で活動していた父のせいで、我が家の家計は年中、火の車だったが、父は借金をして彼らを手助けした。困窮している父を見て気の毒に思ったのだろう。礼にもらったのが、この懐中時計だ。小さなリングには、純銀の鎖がついていたが、日本に来る前に、食べ物に変えたそうだ。じかに話したわけではないので詳細はわからない。わたしはそのとき、大阪の医学校の学生だったので、残念なことに彼らとは会って話せなかった」

 爺サンは父親から譲りうけたときから、この懐中時計は1度も動いたことがないと言った。

「神の定めた時間を告げる時計だと聞いた」

 時計の外周には、螺子がないかわりに、半月型の突起した箇所を押すと、蓋が開いた。カバーグラス越しに文字盤が見えた。たしかに五芒星が逆さになっている。

「この時計を所持していたのは、ユダヤ人のラビだった。ラビとは信仰上の指導者のことだ。ユダヤ教では、カトリックの神父や仏教の僧侶にあたる聖職者はいない」

「お布施をもらわないってことですか」

 爺サンは苦笑した。世界に1つしかないこの時計は、スイス北部バーゼルに住む職人の手になるものだという。

「左下の小さな円は5秒刻みで丸印がついている。円周に沿い1時間毎に矢印に似だ印が刻まれている。ただし、長針と短針が重った頂点の箇所だけ、アラビア数字の12が記されている。

 ラビは言ったそうだ。12部族を表す、この時計は壊れているのではない。手を触れなくてもかならず動くときがくると、この町の名前を知って、そう思ったらしい」

「この神戸が?」

 頭をかしげると、爺サンは、

「不思議ではない。神の10の戒めを刻んだ石板の入ったアーク=契約の箱は、四国の剣山にあるという研究者もいる」

「スピルバーグの『アークレイダーズ』に出てくる、お神輿に似た金ピカの箱のことですか?」

「10の戒めを記した石板が2枚、それにアロンの杖とマナの壷が、アークの中には納められている」

「へぇ!」

 驚いて見せたが、腹の底で嗤っていた。

「現在のイラク北部の高原一帯に、アッシリアという名の軍事強国があった」

 爺サンは和服の袖からのぞく痩せた手をひざにおいた。

 その手がわずかに震えていた。

「古代世界において、初めての世界強国となったアッシリアは鉄製の二輪戦車と弓兵で周辺諸国を圧倒した」

「それが、なにか?」

 爺サンは怒りをあらわにした目になった。

「紀元前722年頃、イスラエルは2つの王国に分裂し国力を弱めた。北王国のイスラエルは南王国のユダより強国であったために南王国より先に、アッシリアのシャルマネセル5世に滅ぼされた」

「それが、なにか?」

「北王国の王族と若い男子は、アッシリアの属領だったメディア、現在のイランの山岳部に奴隷として売られた。彼らは、メディアの王都エクバタナ、現在のハマダーンで7層の城郭の建設に従事させられた」

 わたしのオタク脳には、受験とはまったく関係のない知識がまだらに詰まっている。

 物心ついた頃から、荒涼として砂漠の絵や写真に強く惹かれた。人間が苦手だからだと思っていた。

「紀元前714年頃、城郭を完成させたメディア人は宗主国のアッシリアへの朝貢をやめた。自国の守りが固まったと考えたのだ」

「朝貢って、なんですか?」

「貢ぎ物だ。穀物や馬や織物など、その国で産するものの約半分を差し出さなくてはならなかった」

「貢ぎ物をやめたらどうなるんですか?」

「アッシリアの王、サルゴン2世は怒り、ザクロス山脈中央部を突破し、エクバタナや付近の町や小王国へ攻め入り、メディア人を撃退した。のとき、奴隷だったイスラエル人の中に、アッシリアとメディアとのいくさに乗じて逃亡した者たちがいた。彼らのうちのガド族、ルベン族、くわえてヨルダン川を挟んで東にも西にも領土を有していたマナセ族が、エフライム族の王族を奉じて東へむかったと言い伝えられている」

 亡国から約70年を経て、ユーラシア大陸の草原を横断し、中国から朝鮮半島を経て、日本の九州に至ったという。

「日本の建国は紀元前660年とされている。初代天皇となった神武天皇の正式名は、カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト。尊い王を意味する。ヤマトとは、神の民という意味だ。学校では神話だと教えられるが、エフライム族のおさ(長)である実在の人物である」

「習っていませんが」

 さえぎっても爺サンはしゃべりつづける。

「九州に渡らず、朝鮮、中国にとどまった者たちもいた。西にむかったマナセ族の一部は、地中海のクリミア半島に拠点を築いた痕跡が残っている。彼らは総じて、ユダヤ人の〝失われた10部族〟と呼ばれている」

 欠伸を噛みころす。

「その後、紀元前687年頃、南のユダ王国では、預言者イザヤと彼の信奉者らが、神に忠実だったヒゼキヤ王の死後、聖櫃=聖なる櫃とも呼ばれる〝契約の箱〟を神殿から密かに運びだし、王子の1人をともない大祖アブラハムの故郷ウル、現在のイラク南部に至り、葦の船でペルシア湾を出航し、海の道を経て日本にたどり着いたという説もある。伊勢神宮の奥宮が〝いざわのみや〟と呼ばれているからだ。この神社の神紋は六芒星、つまり〝ダビデの星〟と同じだ。忘れていないな? 五芒星は、〝ソロモンの星〟だ」

「6がヒトデで、5がソロバンですね? 時計となんの関わりが?」

 直径が5㌢ほどの懐中時計を返そうとしたが、爺サンはわたしの手の中へ押し返しながら、

「ユダヤ人の先祖が日本に渡来したのは1度だけではない。西暦5世紀頃に、日本に渡来した秦氏は、ローマ帝国の弱体化にともない、東へ移住したキリスト教徒のユダヤ人だと言われている。中国では景教徒と呼ばれた彼らは、『日本書紀』によると、1万2000を越す人びとを率いて渡来したとある。この秦氏と類似する苗字は日本各地に少なからずある」

 秦野の名が頭をよぎる。

「一族は当時の先進技術だった養蚕で得た資金で山背国、現在の京都府だ、その地を本拠地とした。彼らの子孫にあたる秦河勝は、厩戸皇子こと聖徳太子の顧問のような存在だった。馬小屋で産まれたとされる聖徳太子の誕生秘話は、イエス・キリストと似ている」

 西暦607年、隋の皇帝に聖徳太子の親書が届くよう手筈を整えたのも、中央アジアの情勢に詳しい秦河勝の配慮によるものだろうと爺サンは言う。

「陰陽師の安倍清明も秦氏の子孫だと言われている。天文博士であった清明は、月や星の変化をいち早くさっして吉凶を占い、帝に奏上していた。また識神を使って草の葉を摘んで呪文をとなえ、カエルに投げつけるとカエルが死んだと言われている」

 三白眼が動く。安倍清明はカエルの天敵らしい。

「秦一族は長岡京の造営に尽力し、平安遷都にさいしても都づくりに協力している。桂川の治水施設、葛野大堰も秦氏が行なったとされる」

 爺サンの塩辛声は疲れたせいか、だみ声になる。

「イスラエルの首都エルサレムは、ヘブライ語で二重の平和を意味する。秦氏は、聖都エルサレムにちなんで、山背国の都に平安京と名づけた。祇園はシオン。シオンとはエルサレムをさす古代の言葉なのだ。八坂は、ヘブライ語と当時の共通言語であったアラム語の合わさったヤーサカ、神への信仰という意味だ」

「マサカ!」

 だじゃれに怒りだすかと思ったが、

「秦氏の子孫は、四国の剣山に秘匿されている聖櫃=契約の箱を、自らの建てた平安京に移そうとしたが、先に移住していたイスラエルの民の子孫である桓武天皇に都そのものを取り上げられた」

「五芒星と六芒星のどっちが勝ったんですか?」

「ふむ」

 爺サンは白髪頭をかしげた。

「現代のイスラエルでは、ダビデの星が重んじられている」

「ソロモンは息子なんですよね? どうして、父親のシンボルマークを使わず、あらたな星型マークにしたんですか?」

 爺サンは顔の前で骨張った手をふり、

「秦氏の家紋は十字紋だ。家紋はそれぞれいわれがあって定められている」

 と言い、わたしの問いに答えなかった。

「直系の丹波の八上城主だった波多野氏は明智光秀に滅ぼされ、秦氏と縁の深い四国の盟主である長曾我部氏は関が原の合戦後、山内一豊のもとで一族の遺臣は呻吟したが、幕末に多くの志士を世に送り出した。ケルト十字の家紋をもつ薩摩の島津氏、正親天皇より下賜された十六葉菊家紋の毛利氏しかり、渡来人だった秦氏の子孫と思われる藩主の多くは幕府に外様としてあつかわれた」

「それが、なにか?」

「我が家も一族のはしくれ、〝神の民〟の末裔だとわたしは思っている。だからだろう、父は医師だった父親に抗い、反政府活動をしたのだ。戦後は違ったが……」

 爺サンはくもった表情をかき消すように、白髪頭の顔を上から下へ撫でおろした。

「苗字の弓月は、秦氏一族のルーツであるとされる、西域を治めていた弓月王国からとられたものだ。彼らは北方の騎馬民族の侵入に生存を脅かされ、同胞のいる日本への移住を決意したものと思われる」

「そんな大昔に、通信の手段はあったんですか?」

「正倉院には、ペルシアの器や織物が保存されている。打球と呼ばれる、英国のクリケットと似たスポーツは、平安時代から貴族の遊びだった。これもペルシア帝国から伝わったものだ」

 爺サンはそう言うと、喉仏を上下して、ヘビに似た目でにらんだ。眼光が鋭いとは思っていたが、これほど底光りのする目を見たのははじめてだった。いつもは色つきの丸眼鏡をしているせいで目玉の動きがよく見えなかったせいかもしれない。

 声の調子もいつものと違い、感情が色濃く出ている。

「秦氏の創建した広隆寺の別名は太いと秦氏の秦に寺と書いて、〝うずまさでら〟と読む。この寺には仏教の教えだという『十善戒』がある。内容は、聖書の10の戒めとよく似ている。中国の景教の寺の名は、大きい秦氏の寺、だいしんじと呼ばれている。ウズマサとは、ヘブライ語で〝光の賜物〟という意味だ」

「大きな虫メガネがあれば、ウズマサはつくれるかと……」

 爺サンは食らいつきそうな両目をカッと見開き、だみ声のトーンをさらにあげた。老いたロックシンガーを連想する。

「ユダヤ歴5708年8月5日」

 爺サンの表情が輝き、尖ったあごの先から異様なエネルギーを感じる。

「西暦でいうと1948年5月14日に、2000年の時をを経て、パレスチナにユダヤ人の祖国が再建された。神の御言葉に一言一句誤りはない。神と民との契約はかならず果たされる」

 しかしと爺サンは言った。

「ここは、神戸だ」

「それが、なにか?」

「わたしの父が、神戸という漢字は英語に変換するとGod Doorと書くと説明したところ、ラビは、この町は神の戸口だと言ったそうだ」

「神は、こんな狭い町から出たり入ったりするんですか? 地鳴りがするでしょうね。東京や大阪のほうが出入りしやすいのでは……。三重県に神島がありますけど、まだしもあちらのほうが名前が近いかと……」

「神ご自身ではない。終わりの日に、神に召し出された者が出入りするのだと、わたしは思っている」

 動きもしない懐中時計をひとつくれて、何を言おうと勝手だけれど、都市伝説を押しつけないでもらいたい。爺サンの膝とわたしの膝の間に懐中時計を置く。

 返したつもりだったが、

「わたしが触れるのを避けてきた時計を、おまえが動かすのかもしれない。大天使ミカエルの名をもつのだからな」

 壊れた大昔の時計の針を動かす超能力あればとっくに家出を決行している。三白眼のギョロ目もだが、前髪でかくしきれない青あざのまがまがしい顔立ちで、呪文でも唱えれば、人気沸騰まちがいなし。妖怪専門の役者を目指してもいい。しかし現実はなんの特技も裏技もないから、ここに居るしかないんだって、どうしてわかろうとしないのか!

「広隆寺の近くに、秦氏が掘ったとされる古い井戸がある。源氏物語にも出てくる井戸で、〝いさら井〟と呼ばれている。景教の教典にこういう文字がある」

 爺サンはまたもや手元のチラシに読めない漢字を四つ『一賜楽業』と書き、

「発音すればイサラエとなる。イスラエルのことだ。いさら井はイスラエルの井戸という意味のようだ。わが家にも〝いさら井〟がある――いずれ、おまえは真実を知る――まだそのときではないが……」

 わたしが居眠りをはじめると、爺サンは旧約聖書をリュックに入れた。真夜中に家出をするとでも思ったのか、嫌がらせのつもりなのか?

 午前2時を回っている。

 足腰が丈夫なのだろう、爺サンは雑作無く立ち上がった。座った姿勢で爺サンを見上げると、思いの外、長身であることに気づく。

 威圧感がある。

 書斎で嗅いだこげ臭いにおいが爺サンからただよう。痩せた両手を握りしめると、ゆっくりとドアにむかった。

 爺サンの出ていったドアにむかって、白蛇女から盗んだイスラエルの石を玩具のバチンコで飛ばした。

 跳ね返り額を直撃した。一瞬、めまいがした。頭蓋骨が割れるような痛みが脳天に走った。

「ただの石ころなのに……白蛇女の呪いかよ」

 ベッドにもぐりこむ。昼間、パクった『ユダヤ深層予言』の副題『なぜ、ダニエルに 「終末の日」が見えたのか』が気になって寝つけない。

 旧約聖書の目次に『ダニエル書』があったからだ。

 枕元に取り付けた照明で、ページをめくる。爺サンの言う、神の戸口の話と終わりの日とは関係があるのかないのか? ダニエル書の書き出しを読む。

『ユダの王エホヤキムの治世の第3年にバビロンの王ネブカドネザルはエルサレムにきて、これを攻めこんだ……』

 睡魔は瞬時に訪れた。

#いさら井
#イスラエルの石





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稲村恵子

妄想と現実の境界があいまいな物語をつつ”りたいと思って40年、いまだ夢醒めやらぬツ”カオタです。イチ推しは、宙組のキキちゃん。宙組さんを応援しています。

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