異聞エズラ記 Ⅲ
あらすじ
エズラは飢えた入植者のために奔走したのち、エルサレムに帰り、仮小屋の祭りに加わる。異国の妻子を去らせよというエズラの命令に人びとは従わないばかりか、不正を持ちかけてくる者たちもいる。一方、サライは、エルサレムに向かう途中、数々の困難に遭う。
登場人物
エズラ・・・ペルシア王から派遣された律法学者にして行政長官。
ザドク・・・エズラの弟子。サライに惹かれている。
サライ・・・異形の少年。男たちを惑わし、破滅させる。
バルーフ・・ペルシアの司令長官・ガザに駐屯している。
ナーマン・・旅の途中でサライと知り合う少年。
ナエル・・・ナーマンの連れの少女。王の耳と呼ばれる密偵。
シェリフ・・キャラバンの隊長。サライに溺れ、命をおとす。
カシム・・・ベドウィンの男。盗賊の一味。
黒髪の男・・謎の人物
第四章 天の神の律法
1
ガザ市内にある、司令部の兵舎を訪ねたエズラは、応対に現れた護衛兵に「お一人ですか」と尋ねられた。何者かが、エズラの行動を逐一、報告していると感じた。
司令官のバルーフは、エズラを長く待たせた。司令官室の固い椅子に腰かけたエズラはひと晩中でも待つつもりだった。
室内が暗くなり、顔の判別がむずかしい時刻になり、「待たせた」と言ってバルーフは現われた。
エズラが口火をきる前に、「兵站のことなら、だめだ」とバルーフは吐き捨てた。「陛下もそのことは、ご存じのはずだ」
エズラは立ち上がり、「閣下に、平安が訪れますように」とあいさつの言葉を述べた。
バルーフは嘲ら笑った。「なんの用だ?」
司令官が口を開くたびに、アヘンの臭いが漂う。
「ペルシア軍の前線基地を守る兵士を統率しなくてはならん。昨今は、わが軍を侮る周辺諸国に事欠かない。敗けつつぎだからな」
現王アルタクセルクセスはダレイオス王のような気概はない。クセルクセス王のような美意識にも欠ける。しかし、世界の情勢についての分析力は祖父や父親より勝れている。人材の登用についても無作為に見えてそうではなかった。
エズラは椅子に座り直し、「お願いがございます」
この男に、ガザを任せておけば、エジプト軍が踏みこんでくることはない。と同時に、ダマスカスに駐在する総督と姻戚関係にあるバルーフは総督と手を携え、王位を簒奪する怖れが多分にある。
「お気の弱い陛下は、側近の甘言に耳を貸されるので、こまったものだ」
アルタクセルクセス王は、自らの父クセルクセスの暗殺に加担している。ギリシアに二度、敗れた先の王をペルシアの高官は許さなかった。神の加護なき王と見做されたのだ。首謀者は逃走し、アルタクセルクセス王は王を助けために負傷したと、被害者を装った。
「買わせていただきたいのです」と、エズラは唐突に言った。
バルーフは護衛官に、灯りを持ってくるように命じた。
「十人分か、二十人分か――飢えた入植者のために少量、買い入れてなんになる!」
「フェニキア人から兵の糧食を調達されていると、うかがいました」
「それがどうしたっ」
バルーフは目の下の机を叩いた。
「高値で購入されておられるとか――」
バルーフの顔色が変わった。彼が賄賂をとっていることは周知の事実だ。
「脅す気かっ」
「とんでもございません。仕入先を替えていただきたいのです。いまより安価に仕入れられます」エズラはひと呼吸おき、「司令官への謝礼は増します」と告げた。
バルーフは不快な表情になった。「安く見られたものだな」
エズラはバビロンから持参した宝石の入った皮袋を差し出した。
「これは、手付金の一部です」
この宝石で、急場しのぎに買い入れても一時の助けにしかならない。ユダヤ人の商人と両替商を動かし、ペルシア兵の糧食をエジプトから買い入れれば、このさき、一部を入植者に無料配布できる。徴収するのでなく、交易であればエジプトはむやみに、カザに侵入しないだろう。ペルシア軍は兵士の数を減らせるはずだ。
「無断でそのようなことをして……」バルーフは口ごもる。「エジプトはともかく、ギリシアとはいつ戦闘がはじまっても、おかしくない」
「陛下はいくさを望んでおられません。スパルタともアテナイとも」
バルーフはエズラの顔をまじまじと見た。「いくさはないと言うのか……」
「いま、いくさになれば、四度目の敗戦となりましょう。閣下もそれはご承知のはず――まず、兵の動員ができません。属領の知事や太守はおそらく、わが君の命令に従いません」
「王者に休息は許されない」と、髭をふるわす司令官。「陛下が即位したおり、エジプトを騒ぎを起こしたことを忘れたのか」
「たしかに――しかし、現状の兵力で、エジプト軍に応戦できましょうや。いくら精銅製の武器しか持たないと侮っても、兵士の数において太刀打ちできません」
バルーフは唸った。
「エジプトは農耕のさかんな土地柄です」エズラは言った。「小麦や大麦を買い入れれば、彼の国の不満は一時的にしろ、治まります」
「しかし、大臣どもが承知すまい」
「金のあるところに情報は集まります」エズラは言った「現在、フェニキアの交易船でキプロス島から穀物を買い入れておられるとうかがっております。たしかに交易船は大量の荷を運べます。しかし、ガザからエジプトのツォアンまでは、漁舟をつらねて海沿いに進めば五日もあれば往復できます。閣下は、糧食をユダヤ人から買うのであって、エジプトから買い入れるわけではありません。キプロス産ももとをただせば、ギリシアの隣国ローマ市の産する穀物です。いかかでございましょう?」
「しかし、同盟国のフェニキアをないがしろにできん」
「わが国の海軍は――」
エズラは、わが国という言葉を口にするとき、感情が渦巻いた。
「フェニキアに軍船のすべてを依頼いたしました。彼らは交易船の建造にはたけていますが、アテナイで建造された三段櫂船には為すすべがありませんでした。攻撃力は言うにおよばず、速度においても比較にならないと戦った者たちより仄聞いたしました。フェニキアにはこの先、紡績と染料をまかせるのが良策かと存じます。自国の建造した軍船が役立たずだと知らなかった国です」
「考えておこう」
バルーフは立ち上がり、背後のー壁面に掛けられた綴れ織りの近隣図にランプをかざした。そして、たしかにガザとエジプトは近いと言った。
司令官室を後にし、兵舎の外に出ると、小雨が振っていた。雨期がはじまろうとしている。
今夜は、士官が常宿している宿屋に泊まる予定にしていた。おおやけにできない交渉の首尾がうまくいったかどうか、エズラは考えない。気に病めばきりがないからだ。
気懸かりは別にあった。
少年を追いかけ、街路に飛び出したザドクの帰りを、エズラは殺風景な一室でひたすら待った。階下の酒宴の喧騒に苛立ち、いつのまにか、足をゆすっていた。昼間の集会を思い返すと、一層、苛立ちがつのる。
混乱のうちに集会は幕を閉じたが、参会者に、エズラの真意が伝わったとは毛筋も思えない。バビロンにおいても、両替商と呼ばれる金融業者は、異教の神の神殿前で金貸し業にいそしみ、莫大な利益を得ている。これを阻止する方法はない。老祭司の正論に反論する言葉をエズラはもたない。異国の女や子供を、わがものにするなと説教しても、彼らの耳にとどくことはない。祈りの言葉を述べれば、愛ある神に許されると心のどこかで考えているからだ。
しかし、金融業と商人の力を借りなければ、司令官の決断を促すことはできない。役得さえあれば、ペルシアの高官はどれほどの無理難題も聞き入れる。
2
「ただいま、戻りました」
「少年の――名前を聞いたのですか?」
ザドクに問いただした。
「サライという名でした」
「神に抗う者か――」と、エズラは独りごちた。「思った通りだ」
エズラは灰白色の髪色の少年をふたたび目にした瞬間、目眩すら覚えた。ターバンを剥がされた少年は象牙色の肌の愛くるしい顔を惜し気もなく晒した。
エズラの危惧を夢想だにしないザドクの目は、少年の姿に釘づけになっていた。呪われた者と呼ぶにはあまりに美しい少年の姿だった。
命を救ったゆえに、弟子を危険な目に遭わせるかもしれない。
少年が、まぼろしで見たその者であることは明白だった。少年の瞳は譬えようのない色をしている。暗闇を映す瞳は左右の色が違っているようにさえ見える。怒りに燃えると、悪鬼のごとく赤く染まるだろう。魔界から使わされた者でない限り、あのような目の色はありえない。
「あの者は、ベエル・シェバから来たのですか?」
「はっきりとは、存じません」
「後を追って行ったではありませんか」
「それは……行くアテがないようでしたので気にかかり……お気にさわりましたか?」
エズラの詰問する口調に、ザドクは唇を引き結んだ。心の内を隠そうとするその横顔を見て、エズラの悔いは増した。弟子の将来を案じただけではない。少年が真に目覚める時を怖れるのだ。時が至れば、少年は自らの力を使い、敵対する者=エズラと戦うだろう。
「あの者は、私たちに付きまとうやもしれません」
「先生、重ねて申しますが、わたしはあの者を存じません。ただ憐れで……」
「わたしたちには使命があります」エズラはザドクを諭した。「時を無駄にはできません」
叱責することが本意ではなかった。彼の行いを糾すために、関心の矛先を他にかわしたかった。悪霊につながる少年を救うことなど危険すぎる。少年は近い日々に、ザドクを苦しめる存在になる。エズラはそれを想うと不安を隠しきれなかった。
「先祖の日から今日まで、われわれは大いなる罪科を負い、不義によって、われわれの王も民も剣にかけられ、捕らえられ、掠められ、恥をこうむりました。われわれはいまも囚われの身です。しかし、神はわれわれイスラエルの民を見捨てられず、陛下の御前でいつくしみを施し、われわれを生き返らせてくださったのです。神の宮を建てさせ、その破壊を食い止めようと保護を与えてくださっておられます。このうえ、何を言うことができるでしょう。ザドク、神のみ心に逆らってはなりません」
「……はい」
翌日、エズラはザドクをともない、ベエル・シェバにむかった。
兵站用の穀物をひそかに流用し、雇い入れたキャラバンの積み荷にした。
ペルシア兵の見送りを感謝し、司令官に礼を述べた。
バルーフは今後はいつでも立ち寄ってくれと言った。エズラは苦笑した。彼が賄賂を求めたからではない。彼らが短い月日の単位でしか、物事を考えていないことに侮蔑を禁じ得なかったのである。
なぜ、エズラが、定住民の祭司を無視してまでも外国人の妻を離縁せよ、という律法を持ち出すのか、彼らは考えない。ペルシア軍と武器を持って戦えという演説を彼らは想像していたのだろうか。
ユダヤ人の一部にもそうした危険思想にかぶれた者たちがいるが、そんな短絡的な思考では流砂のように何処へともなく流されて行く民族は末長く存続できない。
栄華も衰退も一時のことである。
大帝国をつくりあげたペルシア帝国でさえもそう長くはないと、エズラは予測している。それは予言などではない。近隣諸国の興亡を見れば当然、考えられる結論である。個人を離れて民族という単位で物事を考えれば、国家の歴史も人の一生になぞらえられる。若く希望に満ちた時を過ぎると、身も心も衰えはじめ早晩老いがやってくる。そしてある時を境に、完全な死に向かって突き進む。
イスラエルの民は神の叡知と業に導かれることによって、近い将来に訪れる艱難を常に見越し、民族にとっての死、すなわち滅亡の歴史を耐え続けてきた。しかし、とエズラは思う。あの少年は違う……。真昼のめくるめく太陽を頂いた地平線の彼方からやってきた彼は深紅の衣に全身を飾られて、戦うことが運命づけられている。
空気や水や光とひとしい存在である神を知らないゆえに、鬼神となれるのだ。しかし、邪悪な者たちに崇められる日が訪れるだろう。
3
少年二人と少女の三人の一行はガザを後にすると、交易路を北上した。晴れ間と黒い雲が交互に空をおおった。
左手に見える大海は、静かな波音を立てていた。青い海面は太陽に照らされて白いきらめきを放っている。
雨期のはじまりをつげる湿気をふくんだ風が海から漂ってくる。
都市の外に住む小作人は、畑のすき返しに余念がないようだった。
彼らは終生、城壁に囲まれた都市には定住できない。都市の住民は、地主と貴族、その使用人、商人と鍛冶職人に限られる。広場を埋める人間のほとんどは、門が閉じられる前に、城外へと散っていく。行商人やナエルのように歌い踊る者たちも、その中の一人だ。
サライは未知の世界に、心が弾んだ。
肥沃な弦月地帯の一角をなすパレスチナ西部だったが、牧羊者の引き連れている羊や山羊が草木を食い荒らすせいで荒地が広がっている。山羊の蹄は鍬より強く、草木の根を腐らせてしまう。
日没前、燃えるような突風に見舞われたサライとナーマンとナエルは、止むことのない砂嵐に身が引き千切られるような目にあった。ナエル一人、ラバに乗っている。サライとナーマンは徒歩だった。
凹地に隠れていたらしい数人の男たちに群がり出た。
あっという間に、取り囲まれた。サライとナーマンは暗黙の了解で前後に別れ、ナエルを守ろうとした。
サライと同じようにターバンで顔をおおった彼らは、砂漠のハゲタカと呼ばれるベドゥインだった。
彼らは、サライたちを生け捕りにするつもりのようだ。じりじりと囲みの輪を詰めてくる。
武器をもたない三人に、逃げ道にない。
頭目とおぼしき一人が、ナエルを指差し、「女だ」と言った。そして、「あとの二人は、抗うなら殺していい」と嗤いながらつけ足した。
部下の一人が幅広の長剣をかざし、サライに斬りかかった。
サライは身をひるがしたが、つまずき、横倒しに倒れた。刃が胸を刺す寸前、サライの足が伸び、相手の胸を蹴りあげた。虚をつかれたベドウィンは前のめりになった。サライは反射的にベドウィンの剣を相手の首筋に押しつけた。
血が吹き出した。
ベドウィンは猛り狂い、サライのターバンをむしりとった。
長い槍が音を立てて飛んできた。ベドウィンの胸を刺し貫いた。短い呻き声を発し、男は仰向けに倒れた。
ベドウィンらの囲みが解けた。
漆黒の馬に騎乗した黒髪の男が、ゆっくりと近づいてくる。
男の肩に、金色の目の鷹が乗っていた。
頭目は奇声をあげ、黒髪の男に接近した。
黒髪の男はナエルを一瞥し、鷹の足をくくった革紐をほどき、「さっさと逃げろ」と短く言った。
三人は振り返らず、駈けた。足の遅いラバは置き去りにした。
砂塵を固めたような地面にいばらやあざみが点在する光景に行き着いた。小麦畑の端に蔓延るこれらの植物は農夫に厭われ、邪悪な者の譬えにしばしば使われる。
「邪悪な者の道には、いばらと罠があると神は言うんだ」ナーマンは言った。「おれたちは邪悪な者になんのかな。生まれたときに、割礼(ユダヤ人の男子は性器に傷をつける)を受けてないからな」
雨の少ない地域にも繁茂するタマリスクの林に囲まれた泥れんがの家々が肩を寄せ合う村落が視野に入った。男の身なりをしたナエルは、あたりの様子をうかがう。
「あいつには、犬の鼻と、うさぎの耳があるんだ」ナーマンは掠れた声でサライに囁いた。「危ないのは、おまえのほうかもな」
農夫が物陰から現われた。
「一夜でいい」とナーマンは言った。
喉の渇きを訴えることはたやすいが、そのことで危険にさらされたくないと、ナーマンはあらかじめサライとナエルに告げた。
警戒心のつよい部族の農夫は、ターバンで顔を隠したサライの風体をあやしんだ。詰問するように、農夫は言った。
「どっからきた?」
「おれらはラビ・エズラの弟子だ」
農夫はうさん臭い顔つきでナーマンを見た。
「井戸はおやじのものだが、掘ったのはおれだ。水がほしけりゃ、おれにたのみな」
「いくらだ」
「宿代と込みで、一人、一○シュケル」
この時代、水争いが激しく、だれが井戸を掘ったか、その井戸はだれのものかはもっとも重要なことであった。ナーマンはサライにサンダルを脱ぐように言った。サライはサンダルを脱いで手渡した。
農夫は舌打ちした。
「こんなもんで、足りるわけがねぇだろ」
「明日、払う」
「あしたまで、履き物を預かるしかねぇな」
農夫はナーマンとナエルにも履き物を脱ぐように命じ、小屋を指差し、姿を消した。
中に入ると、羊と山羊のいる囲いの奥に麦わらが積み上げてあった。サライは誰もいないことを確かめると、ターバンをとった。カサカサと音がし、わらの中からむくむくと起き上がる男がいた。
「旅の者同士、仲良くしようや」
男は気安く話しかけてきた。灰色の髪には目もくれないかわりに、他人の懐をのぞきこむような目つきをしていた。ただし、鼻の先が丸くて、愛敬があった。
「おれは見ての通り、善人だ。心配にはおよばねぇ。羊のようにおとなしいぜ」
男は旅商人であることを告げると、黄色い歯をむいて笑った。
「カシムだ。おまえたちの名は?」
「……」
「ケチな餓鬼じゃねぇか。おかしなご面相だけのことはあるぜ」
カシムはごろりと横になった。それから、手持ちの皮袋から乾燥したナツメヤシの実を取り出し、短いひげにおおわれた口にほおばった。ベドウィンだとナーマンは耳打ちした。噛む時、ペチャペチャと舌を鳴らし、耳障りだった。地方によっては、半遊牧民のユダヤ人と遊牧民のアラブ人とは混在して暮らしていたが、サライにとって彼らは馴染みのない存在だった。
「――眠れやしねぇ」
突然、囲いの向こうから声がした。驚いたサライが立ち上がるのと、髭をぼうぼうと生やした大男の顔が柵の上につき出た。
「静かにしろ」野太い声だ。
頭を丸くおおう白いターバンの形からひと目でアラビア人とわかる。アラビア人は時おりサライの住む村を訪れ、粗悪な布地を売りつけていたので見分けがついた。カシムはもみ手をすると、アラビア人に話しかけた。
「これは、これは、おえらいお方だ」
「黙れっ。こそ泥め」
ナーマンがサライに耳打ちした。アラビア人は商人になる者も少なくなく、計算高いことで知られている。しかし、集団で行動することのおおい彼らがなぜ単独でいるのか。おかしいと。
「くわばら、くらばら」カシムは首をすくめ、わら床の中に身を沈めた。
油断のならない二人の同宿者につけこまれないようにしろと、ナーマンに忠告されても、サライは何をどうすればいいのか見当もつかない。胸の鼓動が早くなる。
天井に小さな明かり取りしかない小屋は夜が更けると、闇が支配した。
サライはわら床のかすかな物音にも聞き耳を立てる一方で、アラブ人のいびきに安堵した。ガザを発った時以来、歩き通しだったので睡魔が全身を浸し、いつしか目を閉じていた。
「てめえ。なにをしやがる!」罵声が静寂を破った。
天窓から月明かりが差し込み、暗がりであっても、高いびきだったはずのアラビア人が起き上がり、カシムの喉首を両手で締め上げているさまが見える。
「お、お助けを……」
カシムは哀れな声を出し、アラビア人の両腕にすがりついていた。
「このぬすっと野郎!」
「あんたの神に誓って、わしじゃねぇ……いなくなったガキどもが……」
サライは隣を見た。ナーマンがいない。少し離れた場所にいたはずのナエルも姿が見えない。
「こいつが、悲しがるもんで、慰めてやろうかと……」
「小僧の背中と、おれさまの荷をまちがえたんだとおっ」
大柄なアラビア人はカシムを軽々と持ち上げ、わら床に叩きつけた。
カシムは悲鳴をあげた。「ひぃーっ」
アラビア人は大きな身体を折り曲げると、カシムをわしづかみにし、首をへし折ろうとした。とっさに、サライは身を起こし、小屋の戸口にむかった。アラビア人はあっという間にサライの前に立ちはだかった。カシムはわらの中に隠れてしまった。
「おいらはかんけーない!」
必死の形相で訴えたが、アラビア人は承知しない。ビュンビュンと手綱をふりまわし、逃げようとするサライの足元のわらを舞い上がらせる。
家畜がおびえて騒ぎ出す。アラビア人は手綱の先を輪にし、抗うサライの首にからませた。
「く、苦しいっ」
サライは罠にかかった小動物のように暴れる。アラビア人は笑いながら手綱を引っ張る。
わら床の中から他人事のように眺めていたカシムは、サライが息を詰まらせると、芝居がかった仕草でアラビア人の前に身を投げ出した。
「助けてやってくだせぇ」
「おめぇら、グルだな」
アラビア人は手綱を手元に引いたまま、カシムの股間を踏みつけた。
「後生だ……だんな。お助けを」
カシムは身をよじる。
「イヒヒヒ」
アラビア人は薄気味の悪い声で笑った。
カシムがもがき苦しむさまを、たのしんでいるかのようだ。サライは腰帯の中に隠した青い石をつかみだし、アラビア人の足元に投げつけた。カライからもらった皮袋の中にあった青い石は音もなく闇の中に落ちた。
アラビア人は素早く拾い上げた。
「騙されるのは好かねぇ」
アラビア人は青い石を天窓からもれてくる月の光にかざし、前歯で噛んだ。
「こがね色の細かい点がはいっているなぁ……こいつ目の色と似ている……藍色にも紫色にも見える……ラピスラズリじゃねぇことはたしかだ。まさかなぁ……」
小屋の外から声がした。
「おめぇら、ソドムの二の舞だぞ」
天の火で焼きつくされたという都市の名を家畜小屋の持ち主は口走った。アラビア人はふんと鼻をならしたが、サライは見逃さなかった。筋骨隆々たる野獣のようなアラビア人の表情に一瞬だが、子供のような表情が見えたのだ。
「そっちこそ、塩の柱になれ……」
アラビア人は声のした方角にむかって、ののしったが、カシムは宥めるように言った。「いくらラクダに塩が入り用でも、柱にされちゃあ、元も子もねぇですぜ」
「うううっ」と唸るアラビア人は、腰にくくりつけた皮袋を差し出した。「酒だ、一杯やってくれ」
アラビア人は、一気に飲み干した。
「もう寝やしょう。目をつぶりゃ、わら床もサルタン(王)の寝台だぁな」
カシムはニッと笑うと、腰をかがめ、麦わらをかき集めはじめた。サライはほっとしながらも納得できない面持ちでカシムの動作を見ていた。鼻歌まじりのカシムはサライの表情には目もくれない。寝床をつくると、手真似で、一緒に寝ようと言う。なんでこんなやつと、と思いつつもナーマンやナエルがもどってくるかもしれないと思い、一人で出て行くわけにもいかない。
サライは背を向け、体を丸めた。
何かがサライの鼻先に触れた。目を開けると、カシムの小さい目がわらの中でまばたきをしている。逃げようと小声で言う。アラビア人の様子を窺うと、こんどこそ高いびきだった。カシムはアラビア人の側ににじり寄り、懐へ手を忍び込ませた。
小屋の外には朝もやが垂れこめていた。
純白のもやがサライを包み込んだ。
「あっしにはお前さんが天の使わした、ご使者だとひと目でわかりやした」
「……」
「ご使者が裏切られ、襲われるのが世の常。このさいだ。あっしがひとつ、世渡りのこつをお教えしやしょう。ところで、あの、アラビア野郎は人買いですぜ。お気をつけなさって」
カシムは貧相な身体を縮めると、青い石を懐から取り出した。
「ものは相談でやすがねぇ。道案内とお身の回りのお世話をさせていただきやす。そのかわりといってはなんでやすが、お心づくしを少々……ものはためし、ということもありやすぜ」
サライは青い石を取り返した。皮袋に入っていた銅貨はとっくに使い果していた。この青い石は、カライの思い出にとっておいたものだ。小指の先ほどの大きさだった。
「ようがす」
カシムは手をひっこめると、足音も荒く家畜小屋に引き返した。
東の地平がわずかに明るくなる。
サライは小屋の持ち主を探した。この青い石で何がどれだけ買えるのか、わからない。とりあえず、挽いた大麦をわけてもらうつもりだった。
昨夜、水を売りつけようとした農夫が姿を見せた。サライはあなどられないように、しっかりした口調で大麦の値段をたずねた。農夫はサライを上から下までじっと見て、言った。
「銀二シュケルで、大麦一エファ(22㍑)だな。それに宿賃とで銀三シュケル」
「これしかない……」青い石を差し出した。「サンダルを返してもらいたい」
「サンダル、なんのことだ? おまえの連れが昨夜のうちに、自分たちの宿賃をはらったついでに、持っていったぜ」
農夫は平然と言った。
「訴えてもいいぜ。ラビ・エズラの弟子に、嘘はつけねぇもんな」
農夫はにんまり笑うと、青い石を手の中でころがし、「こんな石ころは銅貨一枚にもならない」と言った。
裸足のサライは懐を押さえ、立往生した。そこへ、見事な毛並みの栗毛の馬を引き連れたカシムがもどってきた。
「払いはこいつですませてくれ。水と干し肉も、たっぷりたのむぜ」
「面倒はごめんだ」農夫は冷たく言った。
「しょうがねぇな」
カシムはさも落胆したように、
「いい毛並みなんだがなぁ。おれたちが連れて逃げたって言やあ、あいつにはわかりっこねぇ」
「口車に乗らねぇぞ」農夫は口をとがらせた。
カシムは衣のそでで、馬の毛並みを整えると、
「大麦一エファがいつから、銀二シュケルになったんだよ。あいつを起こして、たずねてもいいんだぜ。泥棒の村だと知ったら、何をするかわからねぇぜ。暴れだすととまらねぇ野郎だからな」
「脅しか?」
「とんでもねぇ。頼んでるんだ」
カシムは大きく首を横にすると、もみ手をした。農夫の前に歩み寄り、馬の手綱をちらつかせた。
「水と塩と大麦と……そうさな。サンダルも返しやってくれ」
命乞いをした昨夜とはうってかわり、自信たっぷりのカシムは宿賃を払わず、青い石を取り返し、食糧を手に入れた。
二人はそそくさと村を後にした。
「馬は、アラビア人から盗んだのか」
サライが問うと、カシムはまなじりを上げ、天の思召しだと言った。そして、青い石をサライに持たせると、大事にしろと言った。「おまえの守り神だ」と。
カシムはふどう畑に建っている掘っ立て小屋に近づくと、中に入り、ラバを連れて出てきた。ナエルの連れていたラバだった。
驚くサライに、「金を払って、見張り番の男に預けておいた」と言う。
「おまえは、おいらたちを襲ったベドウィンの仲間なのか?!」
「いまは仲間じやねぇ。おかしらが、黒髪の男に殺られたからな。みな、散り散りに逃げた。悪いか?」
サライは二の句がつげなかった。
しばらくの間といっても、半日ほどだが、楽に旅ができた。カシムは炎天下に木陰を見つけ、ラバに積んだ敷物を手早く広げ、午睡のための寝床をしつらえた。サライが身を横たえると、カシムは小さい目を細めて笑い、食事の支度にかかった。
塩をまぜた大麦の粉をつかみとると、それを皮袋の水でこねはじめた。
「ほれ、ごらんの通りだ」
カシムは家畜の糞の乾いたものを別の革袋から取り出し、集めたいばらの上に乗せて火をつけた。火が付いたところで、大きな丸いかたまりにのぼした大麦を火の中に投げ込んだ。その上に熱い灰をかけ、しばらくそのままにしておいた。取り出してひっくり返し、またその上に熱い灰をかけた。こうすると、旨いパンができるという。
「火は焚かないほうが……」
サライはアラビア人の追跡を怖れたが、カシムは頓着しない。
「熱いうちに食うといい」
カシムはパンを割ると、乾燥したラクダの肉と一緒にサライに分け与えた。肉は硬く、パンは焼け焦げていた。けっして美味ではなかったが、空腹感は充たされた。
「さ。横になりな。あっしがついてりゃあ、こわいものなしだ」
カシムはサライが眠るまで両手で風を送ってくれた。気づくと、カシムの言いなりになっていた。しかし、午睡から目覚めると、カシムは消えていた。
青い石は盗まれていなかった。「おまえの守り神だ」と言ったカシムの言葉がよみがえった。
しかし、馬に乗り、後を追ってきたアラビア人に危うく命を獲られるところだった。頭に巻かれた白いターバンは血しぶきで染まり、顔面と両手は、どす黒い血にまみれていた。サライは思わず、おのれの手を見た。同じだと思った。血で汚れた手は永遠にもとにもどらない。
アラビア人は村人を殺めたのだろう。ナーマンとナエルは男の凶暴性に怖れをなして、逃げ出したのだ。
おいらを怖れたのかもしれないとサライは気づいた。
「小僧、おれの瑠璃をどこへやった!」
アラビア人はわめき立てた。
青い石は瑠璃という名前なのか?!
「白黒はっきりつけるまでは、ひきさがらねぇぞ。覚悟はいいか。セム人(黄色人種)の奴隷め」
青い石の行方は知らないと言い張ったが、発作が起きたようにわめく男には通じない。同じ遊牧民であっても、ずる賢いベドウィン族と直情怪行のアラビア人とでは気質がまるでちがう。
「女みてぇな面をしやがって、このダッシン様をたぶらかそうたって、そうは問屋がおろさねぇからな」
男は鋤のような手でサライを捕らえた。あらがう間もなく、縄で縛り上げられた。カシム同様、ダッシンは灰色の髪に恐れを抱くこともなく、目の色を不思議がることもなかった。だが、塩の柱になることを怖れているのは一目瞭然だった。サライの衣服を剥ごうとしないばかりか、太陽の下では目を合わすことすらしない。カライから聞いた、ソドムの町の住人のように滅ぼされてはかなわないと思っているのだ。
「おめぇは、たぶん高い峰にある都・コタンの者だ」
ダッシンは髭もじゃの顔を上から下へ撫ぜおろすと、腕組みをした。
「コタン……?」
サライはダッシンの言葉を反芻した。兄のカライが告げたことを思い返した。奴隷女が、サライを産み落としたということしか聞いていない。青い石の話も聞かなかった。
「コタンへ行くと、おいらと同じようなのが、うじゃうじゃいるのか?」
「おれの聞いた話だと、天に届く山があるそうだ。だれでも行けるわけじゃねぇ。山の斜面には銀や黄金や瑠璃が埋まっているそうだ」
ダッシンはサライを縛った縄の先を馬の鞍にくくりつけると、自分一人で乗った。
「慈悲深いおれ様のこった。命だけは助けてやるぜ」
4
サライは一木一草もない砂塵の道を徒歩で引き立てられることになった。有り難いことに、カシムはサンダルを置いて行ってくれた。
サライは運命を受け入れた。カライを殺めたときに、こうなることは定められていたのだ。ナーマンやナエルに裏切られるとは、思っていなかったが、自分がカライの命を奪うことも思ってもみない出来事だった。
ふたたび荒野を目にすると、自分がいかに小さな存在か思い知らされる。頭上には禿鷹が旋回し、不吉な影をおとしている。太陽が天の頂きと水平線との中間に位置すると、雲を払い落とした光の渦が圧倒的な熱気で地上を席巻した。いつものように喉の渇きが思考のすべてとなる。前を行くダッシンと馬が陽炎となって揺れる。
なぜか、憎しみがわかない。不思議な言葉も口をついて出ない。絶望も、怨念もない。あるのは引きずられる身体だけだ。どうしてだろう、と思った。『啓示を打ち砕く戦士』その言葉は怒りをともなって、体の深部からやってくる。いまのサライには、はげしい感情がなかった。
「天の思召しだ!」ダッシンはカシムと同じ言葉を叫んだ。「そら、オアシスだっ」
砂漠は不思議な場所で、砂の海を知り尽くした者には点在するオアシスを見つけだすことは容易であるらしい。砂漠を緑地のように往来する彼らは、蜃気楼をオアシスに変えるようにさえ思える。彼方に見える、ほこりをかぶった白っぽい椰子林が、サライの意識を目覚めさせた。
「せいぜい愛想をふりまくんだ」
ダッシンはくせなのだろう、髭を震わし、
「おれ様のように信心深い野郎ばかりじゃねぇぞ」
と言った。
この男は太陽が世界から消え失せてもユダヤの神を信じない、と思った。オアシスにたどり着くと、人と家畜の鳴き声がサライを取り巻いた。半死半生の思いで歩いてきたが、命の声を耳にすると、サライの身内に生への強い意志がわきあがった。
人垣があり、その中にカシムがいた。ダッシンが恫喝するまえに、背中をまるめてすり寄ってきた。
「いまか、いまかとお待ちしてやした」
ダッシンはカシムのえり首をつかんだ。
「盗人めっ。おれの瑠璃を返せ」
「とんでもねぇ……濡れ衣ですぜ」
「死にてぇのかっ」
カシムはあごを突き出し、下着と腰帯だけに自分からなった。
ダッシンは破顔した。
「食い物をもってこい」
「へい」
「おまえのラバは、おれの見えるところへ置いて行けよ」
カシムはサライを見ると、
「せっかく逃がしてやったのに、なんでまた」
「馬のことをしゃべってもいいのか。裏切り者め!」
「なんのこった。夢でも見たんじゃねぇのか」
カシムはぺっと唾を吐き捨て、人垣をくぐり抜けて行った。
「こっちへこい」
ダッシンは縄つきのサライを人前に突き出した。いまから、何をはじめるのか、わからなかったが、自分の運命がアラビア人の手の内にあることだけははっきりしていた。ダッシンは群れ集った男たちを舐めるように見回すと、声を張り上げた。
「セム人の奴隷だ。旅のみやげになるぞ」
喧騒が一段と増した。やはり、灰白色の髪がもの珍しいようだった。男たちの中から、裸にしろという声があがった。
「売り物だ。ただでは見せられねぇ」
値をつける声が乱れとんだ。
「大麦八ホメル(約1.8㍑)と銀七○シュケル」
人垣の中にいた鋭い目つきの男が値をつけた。
キャラバンを組織して交易路を渡り歩く彼ら――エドム人は、シルクロードを行くソグド人と対をなし、商いにおける二大勢力の一翼をになっていた。
ターバンを頭から首につなげてまいたシェリフ(隊長)は、家畜を見る目で少年を値踏みした。サライが頭をそらすと、ダッシンが怒鳴った。
「じっとしてろ!」
シェリフは灰色の髪に手をやると、
「染めているのか?」
「とんでもねぇ」
ダッシンは灰色の髪を数本、引き抜くと、シェリフに投げつけた。シェリフは眉を少し動かした。ダッシンは気圧されたように後ずさった。
「おまえ、ナバテア人か……」
ユダヤ人から「邪悪の領地」と呼ばれる、台地の険しい断崖の山岳地に位置するエドムは、北はモアブ(ヨルダン川東岸)の境界から南はアカバ湾に面するエラトまで約一六○㌔にわたってのびている。エドム人の居住地は敵の侵入を防ぐため、隘路であったが、エジプト、アラビア、シリア及びメソポタミア一帯から多くの荷物が狭い交易路を運ばれた。通過するラクダやロバやキャラバンから通行税を徴収し、エドムの民は富んでいた。
砂漠を棲み家とし、路なき路を往来するナバテア人が、次第にエドムの地に移住するようになっていた。
いつしか、ヨルダンのアカバ湾からシリアのダマスコ、現在のダマスカスに至る交易路を支配するようになった。
彼らは武力こそ持たなかったが、各地の権力者と巧妙に結びつき、利益を得ていた。同じ砂漠の民であっても、目先の利益に固執する遊牧民とエドムの地に住む民の違いは歴然としていた。
「いくさには、むかんな」
「けっこう、暴れるぜ」
「子供を産めるようにも見えんし」
「あっ、あたりまえだっ。小僧に子供が産めるはずがねぇ」
「せいぜい、羊の番だな」
シェリフは粘り強く交渉した。他の男たちは気勢を削がれたのか、値をつける者がいなくなった。短気なダッシンは相手の駆け引きに勝てなかった。異形であることを盾に高値で売ろうとしたのだが、シェリフはそれ故に通常の値はつけられないと言うのだ。彼はサライの欠陥を述べ立てた。そのために、他の男たちも、男女の区別のつかない少年を欲しがらなくなった。
「よし、いいだろ」
ダッシンは銀貨三枚でサライを売った。しかし、サライを引き渡した直後にカシムに馬を盗まれ、逃げられたことを知ったダッシンは髪をかきむしり、両腕を振り回して悔しがった。
「おれの奴隷にするから、返してくれ。クソ野郎め、返せっ。どろぼう」
「出発だ!」
低いが、押しの強いシェリフの声が、ダッシンの罵声を打ち消した。縄でくくられたまま、サライはラクダに乗せられた。次から次へと様変わる運命に感覚が麻痺したのか、恐れも不安もなくなっていた。どうにかなると思っていた。強靭になったのか、あるいは諦めを身につけたのか。自らを顧みると、答えは複数あった。
砂漠の朝の風はすでに熱風だったが、乾いていた。黄灰色の光が砂漠にのびていた。
キャラバンの一行はオアシスを離れると、起伏の多いユダの山地を尾根づたいに移動した。いつのまにか、大海に沿った交易路を西にそれていた。骨で固めたような石灰岩の荒涼とした景色の中にも、家畜の足跡のついた山道の両脇には低木の茂みがつづき、下草が乾いた音をたてた。
囚われの身ではあるが、食料も水も不自由はなかった。一行の歩調は、重い荷を背負ったラクダを数十頭余り擁しているため、ゆっくりとしたものだった。脚を痛めるラクダは少なかったが、しばしば小休止になった。
隊列が乱れることがあっても、シェリフは声を荒げなかったが、皆、シェリフを恐れていた。彼は足音を殺して歩き、だれとも言葉を交わさなかった。名前すら知らないようだった。みな、彼を「シェリフ」と呼んだ。
積み荷の一部を盗もうとした部下がいると、シェリフは即座に斬り殺した。サライはシェリフと目を合わせないようにしたが、不審な一行の行き先がどこなのか知るために聞き耳を立てた。行き先はおろか、積み荷の中身が何なのか、だれも知らない様子だった。
キャラバンはラクダ用の塩と飲み水を充分に確保しているらしく、ペルシア軍の部隊が駐屯するベツレヘムで積み荷の半分をおろすと、休まず次の目的地に向かった。
どこに向かっているのか。
彼らは一応に無口で、ペルシア兵にからかわれても石のように反応しなかった。目立たないように移動することで、摩擦を避けている気配だった。しかし、ギロの町に入った頃から、部下の男たちの間に気のゆるみが感じられた。赤いちぢれた髪の男がシェリフの目を盗んで話しかけてきた。
「食いたいものはないか」
彼もまた灰白色の髪を怖れないばかりか、珍しがりさえしなかった。
「おいらのような目や髪を、いままでに見たことがあるのか」
「バビロンへ行けば、いろんなのがいるさ。おれだって見ろよ。緋色さ」
「バビロン……?」
「行ってみたいか。天の星のように輝く塔が見えるぞ」
サライは胸のうちで言葉を反芻した。もどかしい思いがつのる。なぜ、心が波立つのだろう。何か得体の知れない者がサライを呼んでいた。
第五章 苦しみの炉
1
ギロの町で一泊したあと、キャラバンはワジ(乾いた川)を渡り、ヨルダン渓谷を眼下に見る険しい山道を西へたどった。エルサレムに向かうものと思っていたサライはあわてた。エルサレムに行けさえすれば、どうにかなると心のどこかで思っていたのだ。キャラバンを利用する魂胆さえあった。
サライは赤毛の男に囁いた。
「どこかへ行こう」
「ほんとうかっ」
男は監視の目を盗み、茂みの中にサライを引き入れた。見つかれば、男の命はない。シェリフはサライに接することを男たちに禁じていた。おおいかぶさってくる男の胸板と自分の胸の間に、縄で結ばれた両手を置いた。
「解いてくれ」
「だめだ」
男はサライをうつぶせにした。サライは従ったが、男が身動きするつど、下草が音を立てる。男はサライの頭を両手に抱いた。男の求めに応じて、男の下肢に顔を近寄せた。
欲望の鼓動が聞こえる。サライは自由のきかない手をねじり、男の懐から短刀を抜き取った。
男はサライの腕をつかむと、
「おれを殺るつもりか」
「縄を解いてくれ」
男はしばらく考えていたが、短刀を取り返し、縄を切った。
「おまえのためなら、なんでもしてやる」
男は短刀を懐にもどすと、こんどは、赤毛の頭を少年の下肢にずらした。
「見せてくれ……」
男の手が衣の中に触れた刹那、サライは全身に力を込めて、足元にのしかかる男を跳ねのけた。
ふいをつかれた男は仰向けに倒れた。
サライは素早く起き上がると、男の胸元に屈みこんだ。男の目をかすめて拾った縄を男の首に回し、締め上げた。男は幼児のような声をあげ、口のはしから、だらだらと唾液を流した。サライは手をゆるめなかった。男はがくんと下肢を震わし、意識を失った。
サライは男のかぶり物をはぎ取り、自分の頭から首につなげて巻いた。短刀も男のものをもらった。
「――たいしたものだ」
シェリフが茂みの中から立ち上がった。
「おれの目に狂いはなかった」
ゆっくりとサライに近づいてきた。
「おまえのような手だれをおれは長年、探し求めていたのだ。神のように美しく、邪悪な者をな」
「自分を守っただけだ」
この身を欲する者は何人であっても、死と暴力に価した。
「そうかな。おまえは他人に依存しなければ生きていけない。しかし、無残にあやつることも同時に愉しんでいる」
気を失った赤毛の男は白い光を浴びて横たわっている。その向こうに、曲がりくねった小道が見え隠れした。
月の明るい夜だった。
「こいつは命を獲られるかもしれんとわかっていて、おまえを抱こうとしたんだ。こいつが哀れだと思う気持ちがないのか」
「……」
「おれは、この男のようなわけにはいかんぞ」
シェリフはサライの手首をつかむと、圧倒的な強さの力で引き寄せた。
「男という男が、おまえに惑わされると思ったら、大間違いだ」
鞭よりも鋭い平手が顔を見舞った。
「おまえを導く男が、おまえには必要なんだ」
左右の頬を往復する男の手の動きは見事だった。一分の乱れもない。シェリフはサライの唇から血がしたたると、指でその血をぬぐい、自らの唇にあてがった。
「おまえ、ネフィリムの子か?」
「ちがうっ!」
シェリフはねじ伏せるようにサライを押し倒すと、両手でサライの顔を押さえた。
「おれは決して、おまえの美しさに血迷ったりしない。相手の心をとろかす瞳の色も、一度触れると忘れられなくなる唇も、おれを血迷わせたりしない」
サライは両腕をだらりと頭の上に投げ出した。無防備な餌食は男の本能を減退させることを少年は本能で知っていた。シェリフは身をかがめると、サライの衣服を押さえて、おのれの命を危険にさらす物を体のどこかに所持していないかどうか、丹念に調べはじめた。下肢を繋げるまえに、命の保証を得たい様子だった。
サライは口元に微笑を浮かべると、足を開いた。シェリフは詮索するように眉を釣り上げた。それから、暗やみにくっきりと浮き上がる白い顔を凝視した。
「悪魔め……」
シェリフはサライの顔を前に向けさせると、一方の手で喉首を押さえた。サライはうすいまぶたの目を固く閉じると、苦悶の表情を見せた。
「この小さな頭で、策略を巡らせているんだな」
他者の目に気づいた時からこうなることは予測できた。この場をどうやって切り抜けるか、懸命に考えた。短刀は手もと近くにあった。
「おれの気に入るようにやれば、ずっと売らずにおいてやる。おまえの抗いなど、おれには何程のこともない」
少年の手の先に、短刀の柄が転がっていることをシェリフは知らない。サライは男の手を誘うように身をよじった。シェリフはサライの顔から手を離すと、少年のうなじに唇を寄せた。サライはゆっくりと手を動かした。シェリフは顔を上げなかった。だが――
「同じ手は二度、使えない」
男の手は鎖のようにサライの手首をとらえて放さない。
「さあ、どうする?」
シェリフは顔を近寄せた。サライは唾を吐きかけた。男は冷徹な眼差しで、少年を見つめると、押さえている手を放した。
「やってみるがいい。おれは素手だ」
シェリフはサライを引き起こすと、短刀を拾いあげ、その手に持たせた。まともにぶっかって、勝てる相手ではない。案の定、切り掛かるサライを、男はなんなく打ち据えた。
「もうおしまいか」
シェリフのこぶしの固さは兄のカライとは比べものにならない。しかし、兄と違い、感情を制御しているさまが、その目の色でわかる。冴えた月のように冷たく静かだった。
「どうだ。もう一度、やってみるか」
サライは上体を傾けながら、短刀を投げた。肩の力をぬき、手首だけを返した。相手も同じ要領で、手首を返し、脇腹に向かってきた凶器を茂みの間に払い落とした。
「観念するんだな」
不思議な声は聞こえない。動揺し、うろたえる少年がそこにいるだけだ。声は喉に貼りついて出ない。シェリフはサライを抱えあげると、枯草のしとねにゆっくりと寝かせた。それから、添い寝をするように少年の傍らにその身を横たえた。
「おまえは男の餌食になるために生まれたんだ」
「しゃべりすぎなんだよっ」
「おまえの横柄な口がいつまでもつかな」
シェリフはサライに下肢を重ねると、体重をかけた。少年の持つ、果肉のような性器と並んでもう一つの神秘が隠されていることを男は探し当てた。兄もだが、サライを弄んだ男は果肉と触角に固く閉ざされた性器を押し開くことができなかった。少年の体に耽溺するあまり、自らの快楽に酔い痴れてしまうのだ。
「おれの父祖は、イスラエルの民のシメオン人だった。いつのまにか、エドム人ともナバテア人とも呼ばれるようになった」シェリフは言った。「割礼の傷はあっても、律法からは自由になった。おまえにも、おのれが何者なのか、おまえ自身に知らしてやる」
シェリフは少年の足を高くかかげると、別の生き物のような猛り狂う分身を、内蔵された性器に沈めた。サライはけっして声を立てなかった。耐えることが残された唯一の矜持に思えたからだ。男はそのものと一体化すると、くぐもった声で言った。
「……おれを苦しみの炉で、溶かしてくれ……」
2
エズラとザドクは、テスリの月の十日(十月の初旬)の〝贖いの日〟に合わせて、エルサレムに戻っていた。
「ご相談があります。家から妻を出せても、子供とは別れがたいと言う者たちが後をたちません。早朝にも、祭司バジルライから律法に関する見直しの要請がありました。かつて、エジプトの食糧管理者だったヨセフも、エジプト人の女を娶っているのではないかと……」
ザドクは口ごもりながら言った。
「祭司のつかさたるものが何を言う。律法は常にそれ自体が神聖なものなのだ」
メシュラムが口を差し挟む。
エズラは、おもむろに口を開いた。
「あなたの苦しい気持ちはよくわかります。人々のあなたへの陳情もそのことが第一であることも承知しています。だが、いま、仮に、人々の諸事情を受け入れ、律法をないがしろにしても、人々の暮らしが善くなるとは思えません。律法は変更したり、廃止したりできない故に律法なのです。そのことはいずれ、時が教えてくれることでしょう。わたしたちイスラエルの民はいかなる事情があろうと、苦しみを心の糧として、神との絆を保ち続けなくてはなりません。そのために――血筋を守らなくてはならないのです」
エズラは言葉を切り、一年の節目となる豊穣を感謝する祭りの日を祝うために、神殿の中庭に集まってくる家族連れの人びとを見つめる。本来なら男子に限られていたが、昨今では、妻子を伴ってくるようになったようだ。
レビ人祭司がラッパを吹き鳴らす。
ふと、何かが欠けていると思う。自らの発した言葉を二人の弟子は聞き入っている。神の掟と言葉の力を信じなければここにこうしていない。それはわかりすぎるほどわかっている。しかし、この虚しさはどこからやってくるのだろう。
「国土を持たない、占領民のわれわれは、ともすると力のある他の民族に呑みこまれてしまいます。それを避けるためにも、一日も早く神殿を再興し、皆の心の寄りどころを定めなくてはなりません。そうすれば、人々は自らの行く末を自覚します。そして、神は、契約を取り交わしたイスラエルの民をお忘れにならず、お救いくださるのだと確信できるのです」
「戦いましょう。祭司党と市民党、それに若い兄弟団らが加われば――この地のペルシア軍など追い出せます」
新たに加わった弟子のヒレルは声高に言った。
エズラは首を振り、
「私はイスラエルの民を扇動するために、聖なる地を訪れたわけではありません。律法の正しい理解を求め、霊的生活を高めるためです。でなければ、ペルシア人に、われわれが法的共同体であると認知されません」
ヒレルは押し黙った。
ザドクは哀願するような眼差しになった。
「お話をうかがうつど、み教えの正しさは骨身に沁みます。それでもやはり、人びとには日々の生活があります。たとえば、清潔のための取り決めなど、農民や牧羊者には不可能です。同じように、他の民族が多く居住する町でそこに住む者たちに雑婚を戒める律法は酷です。この世に、イスラエルの民のみが存在しているわけではないからです」
「おまえ、もしかして、バアルの化身のような少年のことで、先生に逆らっているんじゃないだろうな」
メシュラムは嘲笑したが、ザドクは彼に顔を向けなかった。
「祭りに関する律法についても、収穫と関連してあった昔からのものを、教団の一方的な方針で取り止めさせ、新たに制定することに疑問を感じます。どうしても納得できません」
エズラにはザドクの心中が痛いほどわかった。律法を持たずとも、日々の暮らしに支障はない。あったほうが面倒なのだ。
「われわれが、われわれであり続けるために律法が不可欠なのです。それ故に、神は種々の戒めを定められたのです」
エズラは譲らなかった。
「わたしたちの神は、真に、そのように願っていられるのでしょうか」
ザドクの問い、エズラは答えた。
「たとえそれが禍の預言であっても、預言は成就されたのです。神のご意志はわれわれには計り知れません。ただ、固く信ずることだけがわれわれに課せられた使命です」
「ご意志はわれわれを孤立させるものに思えます」
エズラはザドクの抗弁をはじめて耳にした。そのことがエズラには災いの予兆のように思えた。疑問を呈する者の中には心優しい人びともあまたいる。それは異邦人の中にもいる。魔の者の中にさえ……。
崩れかけた神殿に太陽が射した。
エズラは自らを連綿とつづく鎖の輪の一つだと感じている。神は預言者と言われる人物の口を通して、人々に啓示を与える。預言者とは神の言葉を人々に伝えるとともに、後に来る人々のために書き記す役目を担っている。自らはメシアでも預言者でもない、とエズラは思っている。なぜなら、まぼろしは見ても、神の啓示を受けたことなど一度もないからだ。預言者の残した言葉を丹念に収集し、それらを系統立てて述べ伝えているに過ぎない。
「為さねばならないことを為すまでは気を弛めることは許されません。陛下も待ち望んでおられます。神殿が再興されることを……」
「わたしは陛下にお目にかかったことがありませんので、お心の寛容なことより他は何も存じあげないのですが、陛下はさらなる再興のための期限を定めておられるのでしょうか」
「そのようなお方ではありません」
エズラはザドクの危惧を否定したが、若い王がいつ心を変えるか、予断を許さない周囲の状況だった。セシバベルが帰還したさいも、キュロス王からダレイオス王に王位が移ったがために、川向うの行政長官の横やりが入り、修復作業は中断を余儀なくされた過去の歴史がある。
すべての土地に境界があるように、いかなる権力にも法の規制がある。王の置かれている状況がいまより悪化しないように神に祈るほかない。しかし、それを口にすれば弟子たちは動揺する。王の庇護の元にある自身の立場さえ確たるものではない。
そう考えると、信念が揺らぎそうになる。無力感に苛まれる。エズラは精神を強く保つために、笑顔を見せつつ歯を食いしばる。そういう困難を容易に解決できると感じるようでなければ、多くの時間を費やし、莫大な財貨を注ぎ込み、バビロンからつき従ってくれた同胞に対しても、これ以上の重荷を強いられなくなる。
「神の律法は完全で、魂を連れ戻す。神の諭しは信頼でき、経験のない者を賢くする」
エズラは短い聖句を誦えた。誰が残した言葉か、定かではない。ダビデだと言う者もいる。ソロモンだと言う者も……。多くの名もない書き手がいたのだろう。
「神はヨブに言われています。『わたしが地の基を置いた時、あなたはどこにいたのか。わたしに告げよ。もしあなたがたしかに悟りを知っているのなら』と(ヨブ37:4)」
「先生、わたしが間違っておりました。今後は先生のお言葉を、神のみ言葉と信じてまいります」
ザドクは凛とした声で言った。少年のことはもう頭にない、と言っているように聞こえる。
エズラは風のない中庭を見やった。闇を伴った雲が神殿の屋根にたれこめている。ザドクは思い違いをしている。いまの言葉はわたしの心の言葉ではない。そう言うべきなのだ。たったいま、この場で……。だが、言えない。ヤハウェを心のより所とする人びとのうねりはざわめきを伴い、森閑として、人の生存そのものを拒んでいるようにさえ見える神殿の中庭を埋める。言葉のない、ここにこそ神の存在があるように思える。
ああ、神よ。
エズラは心のうちで、自由な民でないことを嘆いた。ゲール(外国人居留者)や流れ者がその手に収めるのは、広大な大地だ。彼らは風にのって未知の世界へと旅立つ。もしも、この身からすべてのくびきを捨て去ることができるなら……。
幼い頃、王宮の城壁の向こう側にあるものを見たいと思い続けた。しかし、いまのエズラは神殿の向こう側にある世界を知りたいと思わない。あれほど強くあった身を焦がすような未知への憧れはいつ、どこへ消えたのか。なぜ使命の他は、何も感じなくなったのか。文字さえいらないと思う思いはどこへ、失われたのか。
エズラは果てしない空の彼方へと心と目を奪われた。
その夜、エズラは悪夢にうなされた。得体の知れない幻影が逃げても逃げても追ってくる。やっと目覚めたと思った瞬間、得体の知れない者は灰色の髪の少年と入れ替わるのだった。
宮廷の宦官から、
「おまえはダニエルの後釜だから毒を盛られないよう気をつけろ」
と耳打ちされたが、その時と似ていた。のがれようとしても、のがれられない。それを人は宿命と言うが、エズラには宿命以上の拷問に感じられた。夢の中で、ひたすら神に祈った。
「ヤハウェよ、憐れみたまえ……」
寝床から起き上がると、隣の部屋に休んでいるザドクやヒレルに気づかれないように灯りを燈した。物心のつくか、つかない頃から、両親と引き離され、バビロンの王宮で育てられたエズラは眠れない夜があると、巻き物を手にした。
無性に話相手が欲しかった。
両親と他のユダヤ人は居留地で暮らしていた。召し抱えられたとは名ばかりで、自らが人質であると知ったのはずっとあとのことだった。なぜ、自分一人、性器を切られ、痛みに耐えながら隔離されているのか。問いただそうにも誰も身の回りにいないのだ。幼いエズラは文字を通して自分自身と対話するしかなかった。
後年、大祭司の子孫だという父親と再会した時、
「いずれ、おまえはイスラエルの民の誇りとなる」
と言われたが、その頃はまだ実感がなかった。当時父は、親という立場ではなく、学問の師としてエズラに接した。エズラが哀しいと感じることさえ、父は許さなかった。どうすれば、王の寵愛に応えられるか。そのことが、父と子の絆よりも優先された。
エズラは遠い目をすると、いつも目を通す巻き物を荷物の中から取り出した。旅の途中とも言える状況なので、手元における巻き物は限られている。手放せない巻き物は少なくないが、この書は自らを慰めるさいにもっとも役立った。
これを記したダニエルはエズラと同じ、ペルシア帝国の捕囚であり、官吏であった。紀元前五三六年頃、ダニエルはこの書の中で世界の滅びを預言した。エズラは繰り返し読むうちに、なぜ、彼がそうした恐ろしい預言にこだわったのか、理解できるようになった。彼、ダニエルはペルシアに先立つ、バビロニア帝国の隆盛と衰亡を目のあたりに見た。そして、最強の支配者と思われた帝国も不滅ではないことを知った。当時、世界第一の都市であったバビロンがたった一夜で滅びたのである。彼はその時、『メネ・メネ・テケ
ル・ウパン』という謎の言葉で、バビロンの滅亡を預言した。その後、彼は、メディア人の王ダリウスに仕え、百歳近くまで生きたと言われているが、彼の中では無常感とともに未来への希望が常に同居したにちがいない。彼は未来を予見することで、神の実在を確信したにちがいない。
エズラは一度も、会いまみえることのなかった偉大な先人の言葉を噛みしめる。「さてわたしは、自分で聞いたが、理解することができなかった。それでわたしは言った」。
「我がヤハウェよ、これらの事の最終部分はどのようになるのですか」。すると彼はさらにこう言った。「行け。ダニエルよ。これらの言葉は終わりの時まで秘められ、封印しておかれるからである。多くの者が身を清め、白くし、練り清められる。そして、邪悪な者はかならず邪悪に振る舞い、邪悪な者は一人として理解しないであろう。しかし、洞察力のある者は理解する」(ダニエル12:4)』
自らは洞察力のある者なのか。自問自答する。預言者ダニエルは王族の後裔であり、幼年の頃よりエルサレムの神殿に仕える身であった。エズラは大祭司直系の子孫として生を受け、ペルシアの高官にも劣らぬ地位を得た。ともに幼少の時から民族の意志を体現し、鼓舞する宿命を負っていた。エズラはそのことに対して堪え難く感じる時がある。ダニエルは自らの宿命を呪ったことは一度もなかったのだろうか。神は彼に言う。『終わりまであなたの道を行け』と。
自らの道を行くということはただ一人で生きるということなのか。弟子たちだけが、苦難を供にする相手である。あの少年は魔力で、その弟子を奪おうとしている。許せない。エズラは祈ることも忘れ、闇に目を懲らした。
ザドクが忍び足で入ってきた。
「――先生、お眠りになれないのですか。ぶどう酒でもお持ち致しましょうか」
「心配には及びません」
エズラは目を伏せると、
「あの少年のことですが、気にかかるのです」
ザドクは広い背中を屈めると、エズラの言葉をよく聞こうとして身を寄せてきた。
「あなたは彼を受け入れてはなりません」
「受け入れてはおりません。家に帰るように諭しただけです」
「あの者に、帰る家はないはずです。だから、困るのです」
ザドクは怪訝な表情をした。
「お体の具合が悪いのではありませんか」
「ザドク、話したいことがあります。近い日にこの世は滅びます。神が全地を裁かれのです」
「先生……」
「あなたも、預言者だと称するやからから聞き及んでいると思いますが、それは真実なのです。わたしは彼らの言葉を多くは否定してきました。いま重要なのは滅びの時を知ることではなく、国を失ったわたしたちがいかに生き延びるかということです」
「そのことと、少年とどんな関わりが……」
「生まれがどうあろうと、あの少年はユダヤびとになることは決してありません。われわれがイスラエルの民であるように、あの者はあの者が属する世界の者でしかありえないのです」
「先生のお言葉が、わたしには理解できかねるのですが」
「あなたは写字生となる身です。イスラエルの民の誇りとならねばなりません。心して人と接してください。いずれ、その日がくれば、あなたは民のつかさとならねばなりません」
「わたしはそのような大役を仰せつかる能力も意志もありません。ただ、学問が好きなだけで先生のおそば近くにお使えさせていただています。それに、将来は母の仕事を引き継がなくてはならないでしょう」
「ザドク、人は自らの人生を選択できないのです」
エズラはザドクに対してではなく自らに向かって話していた。
眠れぬ一夜を過ごした翌朝、エズラはシカニヤという名のレビ人の訪問を受けた。祭司職にあるレビ人は、イスラエル十二部族に属さない。しかし、祭司職につかない者もいる。シカニヤもその一人であった。ガザの地で、老祭司が口した者の名と同じだと気づいた。シカニヤに惑わされていると老祭司は言った。
3
「私はエルサレム近郊で農園を所有している者でございますが、彼の地で異邦の女を妻に娶った故に先生の聖地でのご説話に際しては出向きませんでした。しかし、そのことで深く心を痛めております。ラビ・エズラ。どうか、私のつまらぬ繰り言をお聞き願えますか」
男は身分のある者らしく身なりはもとより、振る舞いも言葉遣いも礼儀正しかった。
「私にどうせよ、と……」エズラは話の先を促した。
「私は確かに罪を犯しました。このことについてはいっさい弁明致しません。神の裁きを受ける覚悟でございます。しかし、今尚、望みを捨てておりません」
男は身をかがめて話していたが、ゆっくりと顔を上げると人好きのする笑顔を見せた。それは真摯な口調を損なうものではなかった。
「いかがでございましょう。罪を犯した私どもが契約をし直すというのは」
「話の論旨がよくわかりませんが……」
「私はこう見えても、北エルサレムに在住する土地所有者を組織しております。その者たちの多くはかつての王族であり、貴族でございます。それら皆一様に、ペルシアの王のご寵愛を一身に受けておられるあなた様を敬愛致しており、ひと目お目にかかりたいと念じております。しかし、あなた様がバビロンからお連れになった教団の面々はそれを許しません。私どもが異邦の女と婚姻を結んでいるということを理由にして、私どもを固く拒んでおります。律法を盾に遠ざけると言ってもよいかもしれません。無論、あなた様も同じお心であることは十二分に存じております」
「それでは何も申し上げることは……」
きびすを返すエズラの背にシカニヤはすがった。
「お待ちください。私はあなた様からじかに裁きを受けたいと申しているのです。こうしてお目にかかって見て、あなた様が噂以上のお方だということがはっきりわかりました。感情をうちに秘め、おそらく激昂されることはないでしょう。どこの誰ともさだかでない、私がお人払いをお願いしても即座にお聞き入れくださいました。もしも、私が刺客であったなら、お命はなかったことでございましょう」
「そんなことは、あなたの瞳を見れば危険かどうかわかります。買い被らないでください。私は神の僕(しもべ)に過ぎないのですから」
「あなた様なら貧しい者や不平分子だけでなく、私どもの組織も従うでしょう。このイスラエルには信頼にたる人物はなかなかおりません。とくに占領地に住む人間は自分以外の誰かを信ずることは至難の業です。謀略や裏切りは日常茶飯事です。誰が敵で味方かさえ、さだかではありません。敵の敵が味方ということさえもあります。とはいえ、わたしどもはバビロンから帰還した面々の横暴なやり口に少なからず敵意を抱いています。あなた様にふさわしくない者たちだと思っております。そんな悲しげな顔をなさらないでください。彼らのように、民衆を恫喝するだけでは事は為せません。いまもっとも必要な事は共に手を携え、われわれの支配者、ペルシアと事を構えないように心を砕くことだと私は考えております」
シカニヤは言葉を継いだ。
「先般より、各地に雨後の竹の子のごとく現われる神の子や預言者と称する者どもこそ、イスラエルの民にとっての真の敵、危険きわまりない存在だとお思いになりませんか。彼らはこの世の終わりはもとより、ペルシア帝国の滅亡さえ預言します。為政者の圧政を嘆きます。あなた様がバビロンより帰還されて後、その傾向は日を追ってひどくなっております。それは敢えて言わないでおきましょう。ただし、これだけは申し上げます。あなた様が教化のためとおっしゃってエルサレムを離れられたひと月余りの間、ペルシア人の総督が不穏な動きを見せております」
エズラはシカニヤという男を改めて眺めた。利にさとい眼差しと押しの強さには油断できないものがあるが、物腰は落ち着いていて決して度を越さない理性が見える。
「話はわかりました。具体的にはどういった形式の裁きを望んでいますか」
「まず第一に、あなた様が、いま現在行なっておられます犠牲を捧げる行いを神殿でのみ行い、他の場所と人には禁ずるのです」
「しかし、各地の祭司は……」
「あなた様をのぞいた祭司やつかさが行なえるのは律法を教えることであって、教師としての役目です。しかし、神と向き合い許しを乞える、贖いの儀式が可能なのはあなた様だけ……これで、祭司党は大人しくなります」
「私はもともと神の言葉を研究する写字生です。その私に、どうしろと……既得権を取り上げることは出来かねます」
「私は罪を捨てるとお約束致します。妻と子を、別のところへ移しましょう。そののちに、あなた様にはそのお力で犠牲を捧げ、罪深き者どもを神に代わって許していただきたいのです。この身を削って神殿の再建に邁進いたす所存です。いかがでございましょうか」
「金銭で罪を許せと……」
「お耳を汚すような願い事ではございますが、あなた様をおいて悪魔の使者とも言うべき者どもをこの地より一掃できる賢者はおりません。おそらく、バビロンにおられる現王アルタシャスタ様もそのようにお考えのことと存じあげます。神殿の再興とは表向きの事情。本心はわれわれユダヤ人の財力を消耗させることと存じます。武力において帝国に反することが叶わぬ以上、それも致し方のないことだと諦めております。ただ、私どもがもっとも恐れるのは政治的混乱と無益な戦闘です。私ども市民党とあなた様の率いる教団が戦えば、それこそ敵の思う壷。いっさいを失うことは明白です。われわれがユダヤ人としてこの世に存続し続けるには、祭司党も含めて知恵が要ります。己れをも欺く知恵が――部族長に従う兄弟団は、ペルシアの偵察部隊をなんども襲っています。ご存じでございますか、彼らは本気です」
エズラはシカニヤが話し終えるのを待って、ザドクとメシュラムを部屋に呼び入れた。そして、急遽、贖いの日ののちに始まり、二一日までつづく仮小屋の祭りに市民党の面々も招くように命じた。二人は驚いたが、エズラの命令を身をかがめて受け入れた。シカニヤは立ち去る前に、エズラに耳打ちした。
「私どもは誓ってあなた様をお助け致します。お心を強くして事を行なってください」
メシュラムは不服をもらした。市民党の連中はペルシアの役人に取り入り、貧しい者たちを苦しめる地主と貴族どもだと。
「かかわってはなりません!」
仮小屋の祭りを終えたら、イスラエルの全地に先生の言葉を知らしめるために、遠出をしなくてはならないとも言った。
「こんどは、ザドクにかわって私が、お供をします」
言い張るメシュラムに、エズラは、
「地の果てまでも行脚しなくてはならないことは理解しています。しかし、また旅立ってはエルサレムの人びとがわれわれを意識の外においてしまう恐れが生じます。それが心配です。聖地での布教に戻ろうと思います」
「シカニヤという者の入れ知恵でございますか」
「先生に向かって、何を言う!」
ザドクは声を荒げたが、エズラはそれを制するように、
「確かに彼の助言を入れました。それが正しいと思ったからです」
エズラはシカニヤと言葉を交わし、迷いがふっきれたような爽快感があった。気づくと、押し潰されそうな圧迫感が消えていた。彼の方策というより策略を全面的に受け入れたわけではなかった。ただ、彼と話すことによって、打開策を見いだせたような安堵感を得られたのだ。バビロンから帰還以来、自分一人で何事も為そうとし、妥協のない思考で一直線に進もうとしていた。
律法の神聖さと服従によって与えられる祝福を、人びとの心に印象づけようとした余りであった。神の掟は完全であって、魂を生き返らせる、と聖句にあるが、そのことを人びとに伝えたかった。律法を守ることで、神の栄光を知らしめたかった。しかし、思いがけず、異形の少年と出会い、信念の揺らぎを感じてしまった。
「律法は常にそれ自体が聖であって、正しくかつ善なるものです。そのことに拘泥するあまり、わたしは慈しみの心を失いかけていました」
「先生!」
ザドクの表情が一気に明るくなった。
「だからと言って、人びとが律法をないがしろにしていいと言っているのではありませんよ」
「それはわかっております」
ザドクは喜びを隠しきれないのか、早速、別室でエズラの衣服を整えはじめた。メシュラムはエズラの言動にどうしても納得できないらしく、一向に動こうとしない。
「メシュラム、あなたの立腹もわかります。しかし、考えてみてください。私たちは民を裁くために囚われの地より帰ったわけではないはずです。あのような辛い旅を経て、私たちが目にしたものは嫉み、猜疑心、偽善、離反、紛争など、ありとあらゆる悪行でした。それにも増して、人々の肉欲への飽くなき欲望は私を打ちのめしました。娼婦がもてはやさるかと思えば、神殿は男娼の巣屈。いくら他国民の妻を娶ってはならないと言っても美しい女と見ると、相手が何者であっても婚姻する。如何ともしがたい。人々は生まれながらの心の邪悪な欲情を抑制する術を持たないかのようです」
「それらを糾すために、われわれは生死を賭けて立ち返ったのです。アハワ川での誓いをお忘れですかっ」
「忘れられれば、どれほど気が楽でしょう」
エズラは思い返した。ペルシャの西に位置するアハワ川のほとりに帰還する人々を集めた日のことを――。
エズラは断食をし、神に旅の無事を祈った。現在の価格にして十二億円を越す財宝を所持しての長旅である。何事も起きずに神殿にまでたどり着く保証はどこにもない。しかも王の護衛隊をエズラは断った。神の加護と意志の力で、いかなる困難も乗り越えられることを人々に示す必要があったのだが、薄氷を踏む思いだった。
「先生の従兄弟として、言います。つまらぬ言葉で真理を除外し、心を患わせてはなりません。われわれには、われわれの信ずる神に固くつき従う使命があります」メシュラムは言った。「近隣の町や村は巡回していただきます。神の子をひと目みたいとみな、思っています」
「あなたは誤解しています。わたしは過去も今も、そして未来も神のしもべです」
4
ヨルダン川に添って北上する一本の道筋に一行はさしかかった。川ははじめ禿山の影から時折くねった流れを見せていたが、灰色の押しつぶされたような村落をいくつか通り過ぎるうちに眼下に見下ろす耕地をつき抜ける本流に姿を変えていた。
夕陽が禿山を狐色に染めている。
サライは路傍を彩るアネモネの赤い花にしばしば見惚れた。食料に不自由しない身ではあったが、シェリフは片時もサライを離さなかった。部下の男たちはもとより、赤毛の男もサライを避けた。目を合わすことすらしなかった。いかに、シェリフを恐れているのか、その一事でも知れた。彼は部下に厳格だった。しかし、サライに与えられた仕事はなかった。シェリフの性欲の捌け口になることが、務めだと言えた。彼はサライと夜を過ごすことを、仕事の一部であるかのようにふるまった。
「おまえが何を考えているのか、わかっている。だが、そうはさせない」
近ごろのシェリフは目の焦点が合っていなかった。彼を厭う気持ちに変わりはないのだが、彼がサライに触れる時に見せる夢を見るような眼差しには心を動かされてしまう。愛しているのではない。そういう感情ではないのだ。憐れむ気持ちに似ていた。
「そんな顔をするな。おまえには、人にない力が隠されている」
「おいらは慰み者じゃねぇ」
「わかっている。それはおまえを抱いた日からわかっている。しかし、もう、どうにもならないんだ」
「仕事をくれ。奴隷として買われたんだから――」
「それはできない。たとえ仕事を通じてであっても、おまえは他の男たちと交わってはいけないのだ。おまえはそういう者に生まれついてしまっているのだ」
「こんなことはもう真っ平だ」
シェリフはサライの言葉に深く息を吸い込むと、サライの背を抱いた。
「体の芯で、おれを感じてくれ」
サライが抗うと、彼はいつものようにサライの首に短刀を突きつけた。
「いまにわかる、いまに……」
「やめてくれ!」
サライは希望を失いかけていた。不思議な言葉はどこからも聞こえてこない。助けてくれる者も現われない。夜毎、剣で脅され、組み敷かれる。
「こんなことはしたくないんだが……」
サライは頭の中を空白にして、時が過ぎるのをひたすら待った。じりじりと身を焦がすような粟粒だつ感触が全身を不快にする。時折、ザドクの精悍な顔が脳裏をよぎる。なぜか、わからない。エズラの顔は忘れていた。
「サライ、おれを見てくれ……」
シェリフは視覚を通して感じる快楽を求めているようだが、サライは感覚を麻痺させることで男そのものを心から排除していた。シェリフは思い通りにならない少年に対して焦りを感じるのか、さらに執拗に愛撫を繰り返した。だが、応じる気配がまったくないと知ると、おまえの望みはなんでもきいてやると言った。
「売ってくれよ」
サライは一時でも早く事を終わらせたかった。両膝をゆるめると、相手の動きに同調した。どういうことになるのか、サライ自身でもよくわかっていなかった。強く激しい律動に身を任せるうちに、異形の性器は変化をきたした。果肉と触角の奥に隠された肉襞の有り様を、サライははじめて感じたのだ。ありかを見いだしたシェリフは欲情を排出することに没頭していた。そのことに気づきもしない。男は上体を前後にゆらすと、下腹部を震撼させた。何かが、背骨の奥に達した。サライは両手で男の背を捉えると、溶解する自ら果肉に男の性器を同化させた。
「……やめてくれ……やめないでくれ」
突き上げてくる快楽に翻弄されるのだろう、シェリフは猛り狂う全身の動きを止められないでいる。サライの目は緋色に染っていた。シェリフは喉元を上下させると、女のように悲鳴を上げた。サライは男の体を支え上げると、反転させた。
「私は、啓示を打ち砕く戦士。おまえを打ち倒す者」
男の背中を見下ろし、腹の底から声を発した。
シェリフは、カライと同じように、懇願した。
「おれは、おまえのしもべだ。なんでもする。言ってくれ」
男は魂を抜き取られたように自らの意志を失っていた。彼の性器は肉襞の奥深くに呑み込まれただけではない。分化したもう一つの性器によって、背後を抉られていた。彼は苦悶の表情とともに激しい愉悦の声をもらした。
「おれを燃やしつくしてくれ……」
次の日、シェリフは夜を待てなかった。キャラバンに小休止を取らせると、天幕の中にサライを引き入れた。部下の男たちは不服こそもらさなかったが、シェリフの行いに彼らは不平の目の色を見せた。動揺さえ感じられた。彼らにとって、我を見失ったかに見えるシェリフは大人数のキャラバンを率いる者としてふさわしくなかった。
「あいつらは従うことしか知らぬ。あいつらのようになるな」
シェリフは強気の言葉を発しながらも、昨夜、交わった相手が目の前の少年であるとどうしても信じられないのだ。あの快楽はどうやって得られたのか、定かではない。
「お願いだ、もう一度――」
彼はサライにふたたび懇願した。
「おまえはおれの言いなりになることはない。おまえの好きにすればいい。おれを、おれを、昨夜のように貫いてくれ」
シェリフはおのれの見いだした快楽に惑溺し、呼吸すら忘れそうになっている。
嵐の一時が過ぎた。
大きな手が白いうなじにからまっている。サライは眠ってしまった男の側をこっそりと離れた。シェリフはサライの傍らにあっても眠り込むようになっていた。
サライは腰に布を巻いただけの格好で、あたりに目を配った。長い隊列を組むキャラバンは蛇がどくろを捲くように荒涼たる山岳の中腹に留まっている。
囁く声がした。
「おれが囮になってやる」
赤毛の男だ。
「なぜ……」
「シェリフに一泡吹かせてやりてぇだけさ。いいから逃げな」
赤毛の男は積み荷に火を放った。
サライは岩だらけの斜面をふもとに向かって一気に駈けおりた。乾いたぶどう蔓や雑草に足をとられ、足元から石くれがころがり落ちた。ラクダの鳴き声と男たちの立ち騒ぐ声がすぐ後ろに聞こえる。サライは立ち止まり、きびすを返すと、追っ手の来る方角に向かって走った。まばらな潅木の間に間に、乱れた足音が迫る。
「どこだっ、サライ。返事をしろ!」
小岩を見つけ、シェリフの声に向かって力のかぎり押した。岩は断末魔の悲鳴を巻き込んで、谷底に吸いこまれていった。サライは両手を広げ、地面にへばりついた。追っての人影がシェリフの行方を追って消えた。
西の空が闇に覆われるまで、体を平たくしていた。数時間が一日にも思えたが、どうにか逃げおおせることができたのは天祐の一言に尽きた。
傷ついた手足を下草でぬぐい、月の光を頼りに低地に向かって歩いた。半裸のままなので無数の傷を負っていたが痛みを感じなかった。自らの肉体が蹂躙されたことも、その同じ肉体が男の自尊心を打ち砕いたことも、何も心にとどめていない。記憶を無くしているわけではない。異形の性器に自らが繋がっていると知った瞬間のおぞましさは譬えようもない。エズラがなぜ、あれほど自分を避けたのか、そのわけを性器が明かしてくれたのだから……。
大地に曙光がさした。
「『天は神の栄光を告げ知らせ、大空はみ手の業を語り告げている。日は日に継いで言語をほしばしらせ、夜は夜に継いで知識を表し示す』詩編19:1」
カライに教わった言葉が口をついて出たが、感謝の祈りを捧げようとは思わなかった。いまこの時、何者かにすがりたいという思いを一度でも抱けば心を強く保てない気がしてならなかった。おまえは他人に依存する、と言ったシェリフの言葉が呪文のように耳元で響いた。サライは自らを鼓舞するように歩きつづけた。叶わぬ望みはないのだと。
半日が過ぎた。
ギロの町をのぞむモアブの山々がルビー色に染まると、火の海かと思える砂嵐が、荒れ果てた丘陵地帯に群生したいばらをくいつくした。砂まじりの突風はそれらを舞い上げ、小枝を短い剣にかえ、地獄の責め苦のように少年の素肌に襲いかかった。
「いいかげんにしてくれっ。殺したいなら、さっさと殺してくれよ」
サライは頭を抱え、うずくまった。追っ手を逃れるために、ふたたび人の通らぬ荒地に踏み入らねばならなかった。砂漠に劣らぬ不毛の地である。突風が止むと、灼熱の太陽は背を折り曲げた少年に容赦なく照りつける。地平線に揺らぐ人影が誰のものなのか、ここがどこなのか、どこへ向かおうとしていたのか、いっさいの記憶を失いかけていた。
大地に這った。
これでもう、楽になれる。なんども死地を脱してきたが、こんどいうこんどはサライ自身に生への気力が失せていた。神の掟は完全だと言う。いま、その完全な法のもとに不完全な肉体を託するのだ。イスラエルの神と契約を結べない少年は魂が蘇ることもない。
『あなたはわたしの他、何者をも神としてはならない』とシナイ山で語ったという神の言葉は今なお、サライの胸にあったが、失意と落胆の後に訪れた安らかな絶望は巻き物で知った数々の言葉を脳裏から奪っていった。
「カライ、もう一度、会いたい。会いてぇよ」
いまこの時、彼の心に言葉が届くなら、幾千の言葉を送るだろう。どれほど彼を思っても、心正しい彼には届かない。なぜ、人びとに化物だの悪魔だのと恐れられたのか。その意味を覚ったいま、自らに向かって呼びかける声に喚起されることはもうない。あの不思議な言葉と声は黄泉の国から送られた言葉だったのだ。汚れた者にふさわしい汚れた言葉――。もう何も届かないなら、木の葉の船のように死の国へ心も体も流れ去ればいい。偶然の出来事など、この世界には一つもないのだとサライは知った。黄泉の国の住人に向かって言った。
「おいらの命はくれてやるよ。青い石は、ただの石ころだ」
心と体の二つながらに死が忍び寄る。サライはまぶたを開けたまま、最後の瞬間を待った。頭上で乱舞していた禿鷹の群れが血の匂いを嗅ぎつけ、添い寝をするように手の届くところに舞い降りてきた。まだ骸にならないうちから獲物が這って逃げないように監視しているのだ。死肉を貪る使者に、いばらで傷ついた肉体を与えようと、片腕を差し伸べた。かしらの禿鷹は猜疑心の強い目で、サライを見ていたが、二、三度黒い頭を傾げると、小さくはばたいて腕に止まった。仲間の禿鷹は、かしらの禿鷹が獲物の虚ろな瞳をついばむのを待っている。
「残さず、食ってくれよ」
かしらの禿鷹はくちばしを上下させると、見開かれた藍色の瞳を突き刺そうとした。思わず、目を閉じていた。次の瞬間、王者のごとく天空を舞う存在がサライとかしらの禿鷹にむかって弧を描いて飛来した。禿鷹の一群は、寸毫も彼らを寄せつけない高貴な生き物の登場に居場所を失った。匂い立つ生者のはばたきが、一瞬にして彼らを追い払ったのだ。金色の瞳の王者は瀕死の少年を見守る守護神のように、サライの傍らに羽を休めると、呼びかけるように喉を鳴らした。
「おめぇはもしかして……」サライは声を絞り出した。
「――どうしたんだ」聞き覚えのある声が返ってきた。
硬質だが、心を誘う声のひびきがサライの感情を呼び覚ました。ゆっくりと顔を上げると、ベドウィンから救ってくれた黒髪の男が足元に立っていた。
「また会ったな」
男はぶ厚い外套=マントをぬぎ、それでサライを包みこんだ。
「情けない顔をするんじゃない」
「鷹は……」
後は言葉にならなかった。
「しっかりしろ。傷は浅い」
男は少年のうなじを一方の手で支えると、抱きかかえたまま馬の背にまたがった。馬はゆっくりと歩をすすめた。繰り返される波のような律動に、安堵と弛緩とが一度におとずれた。感覚のない体は宙をさまよう。いつ眠り、いつ目覚めたか、失われた時の中でまどろんでいた。風の息吹のような羽音が耳元で聞こえた。泣きたいようななつかしさに襲われる。わずかに目を開けると、満天の星が漆黒の夜空をかざっていた。唇を開こうとすると、月が翳りを帯びてサライの頭上に落ちてきた。
「――気がついたのか」
男は湿った布でサライの顔をぬぐった。
「ここは……」
「砂漠だ」
人の気配のするものはまったくなかった。サライは大きなため息をもらした。たどってきた道を逆行したように感じたのだ。
「どこへ行くつもりだったんだ」
「……エルサレム」
男は湿った布をサライの手に残し、馬にむかって腕をのばした。目隠しをされた鷹が馬の背に乗り移った。馬を止まり木にして眠るようだ。
「エルサレムに知りびとでもいるのか」
「いないけど、帰るところもない。もうどうなったってかまわねぇ」
男の同情心に訴えかけるつもりはなかったが、警戒心の失せた心は言葉を選ばなかった。自暴自棄な言葉づかいをすることによって、男の気を惹こうとしていた。
「それほど、男の慰みものになりたいのか。抱かれることに馴れてしまったんだな」男は平然と言った。「情けないやつだな」
男に心中を見抜かれたサライは赤面した。男は血のついた傷口をきれいに拭ってくれている。犯そうと思えばできたはずだが、彼はサライに対して彼の飼っている鷹のように冷静だった。
「うまくいって、ロンギマヌスの小姓だな」
「ロンギマヌス……」
「ペルシアの王のことだ。やつは右手が左手よりも長いので、そう呼ばれている」
「エルサレムに、王がいるのか?」
男はそれには答えず、サライの頭元に革袋を置いた。
「飲んでいいのかっ」
サライは上体を起こすと、皮袋の口に唇をあてがい、細い首をのけぞらせた。外套が肩からすべり落ちた。蜘蛛の糸のような灰白色の髪がからまる肩があらわになった。
「何も学ばなかったようだな」
男は目をそむけた。
「えっ!」
サライは目をしばたいた。
「エルサレムで、何をしたいのだ」
「……写字生になりない」思いつきで言った。
「くだらん」男は即座に言った。
「写字生がどういうものか、おまえはわかって言っているのか」
「誰でもなれんじゃないのか?」
「おまえの親は可能な夢と妄想との違いを教えなかったようだな」
「父親はいない……」
「おのれの非力を否応無しに思い知らされる時が、いずれ来るだろう。おまえに可能なことはその体を使って生きることなんだろうからな」
「おいらを蔑んで、おもしれぇのかっ。あんたの言う通り、なんべんも男にやられたさ。仕方ないだろ。相手が承知しねぇんだから。いっぺんだって、やらせたくてやったわけじゃない」
「だといいが……」
黒髪の男は何かを考えこむように焚火の炎を見つめていたが、荷物の中から糸の張った木の枠を取り出した。
「これをおまえにやろう。物乞いにでも化けて、この荒地を乗り越えるんだな。おまえとおまえの神にその気があれば、いつの日か、住むべき町に至る道を見いだすだろう」
「これはなんだ……?」
「知らないのか」
男はサライの隣に腰をおろすと、木枠を膝に置き、糸に指をそえた。
「竪琴というのだ」
男は得もいわれぬ美しい調べを奏でた。弦の旋律は風をわたり、荒野を越え、なつかしい兄のところまでも届きそうに思えた。汚された体が洗われるようだった。サライの頬にとめどなく涙が流れた。
「泣いてどうするだ」
「おいらはいつも、土間で暮らしてたんだ。食い物だって、だれかが投げて寄こすんだ。おいらは何もしちゃいないのに、村の連中は石を投げたり、唾を吐きかけるんだ。それだけじゃねぇ。集会場に行くことも、勝手に外へ出ることも許されないんだ」
サライは堰をきったように話した。
「おいらを産んだおふくろを買った男はおいらを男に抱かせて金を取ろうとした。それだけじゃねぇ。言いなりにならないと、殴りつけて、生き埋めにしたんだ。だから、おいらは、おいらは……」
「それは、おまえの頭が考え出した言い訳だ。おまえはいままで、修羅場を生きぬいてきた。それでいいじゃないか。何が不満なんだ。なぜ、欲望を認めない。恥ずかしいのか。もう、おまえは男なしで過ごせない体になってしまったのだ」
サライは涙をぬぐうと、
「ひでぇ言い方をすんなよ。何も知らないくせに……」
「さっき怪我の手当てをした時に、見せてもらったよ。確かに、めったに見ない体をしている。その種の男たちには垂涎ものだろう。だが、おまえが、求める相手には、どうなんだろうな」
唇が震えた。止めようとしても止まらない。
「おいらは、おいらは……」
「愚かだった頃のおれに似ている、と言いたいが――」
男はふいに立ち上がり、傍らの槍を背負い、馬を引き寄せた。
「そこに食い物も金もある。青い石は、おまえの皮袋にもどしてある」
男の瞳は何者をも拒絶する意志に満ちていた。
「写字生がどんなものか、行ってその目でたしかめてみることだな。神は苦しみの炉をもって、預言者を試みられるそうだ。おれたちは預言者ではないが似たようなもんさ」
サライは驚いて立ち上がった。男は革紐でつないだ鷹を肩に止まらせると、サライを見ないで言った。「青い石しか、おまえの頼るものはない。本物の瑠璃だ。大事にしろ」
サライは一糸まとわぬ姿で立っていた。男はサライの裸身になんの関心も払わなかった。その眼差しは透明で澄んでいた。
「待ってくれ……」
「おれがおまえを待たなくてはならないわけでもあるのか」
「一人にしないでくれ。今夜だけでも……」
「相手が違う」
おぞましい果肉に食指をのばす男を通してしか、男への対応の方法を学んでこなかったことに、この時、少年ははじめて気づいた。
「名前は――名だけでも教えてくれ」
「こいつが、おまえを見つけたのだ。礼を言うなら、アエトスに言え」
「見捨てないでくれっ、アエトス!」
返事はなかった。男の姿は闇の中に消えた。後に残った足音もしばらく聞こえたが、それも長くは続かなかった。
つづく