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玉ねぎボーイ【短篇小説】

              

 エリはタテのものをヨコにしない。見終えたDVDは、ところかまわず投げ捨てる、カップラーメンの汁は捨てず、飲みさしのコップはそのまま―ー。

 親のしつけがなっていないと思った矢先に母親がやってきた。
 スレンダーで小柄な娘とは似ても似つかぬポーク型のオバサンで、毛玉のよったセーターの胸を大威張りではって、ショット・ガンを乱射する速さでまくし立てる。
「嫁入り前のムスメですよ。それがどこの馬のホネともわからん学生と、あやしい仲やとでも隣近所の噂になったらどないなりますのん」
「……」
 狼狽し、口もきけない幸洋(ゆきひろ)に、
「親として世間に顔向けできひん」
 それだけやない、この先、貰い手がなくなると、母親はややソッ歯の歯をむき、目をむく。

 弱肉強食・非人情・唯我独尊のこの世界に世間なんぞあるかッと、幸洋の喉仏に罵声がせりあがったとたん、

「こうなったかぎりは出るとこへ出て、責任をとってもらわんことには――未成年やと知ってて手ぇ出したんやったら大問題やわ」
 と、母親は、すごんだ。
「……」
「警察に相談したほうがええのやろか……おお事にしとうないし」と、世間をハスに見る目つきで思案顔の母親。肝心の家出娘はどこ吹く風。ヘラヘラ笑っている。「にしても、娘が傷もんにされたんやから、相応の責任はとってらわんことにはーー」

 こっちの話を聞けーッ、ナニもしてない、家出娘が勝手に居座ってるだけやろッ、と抗弁したいが声にならない。

「親御さんはどこらに住んではりますのん」
「……」
 個人情報を告げる理由がない。
「コトが大きにならんうちに、治まるべきとこへ治めるのが大人の知恵いうもんやワ。聞いてるのン? しらっとした顔してからに」

 幸洋は憤怒のあまり、耳から怒りの熱風が吹き出そうになる。

「やめてよ」と、背中から鼻にかかった声。
 九死に一生と、幸洋はほっと安堵の胸を撫で下ろした。
 ところが、窮地を救うはずのジャンヌ・ダルクは、黒目がちの瞳を見開いて、
「妊娠しただけやないの」
 と言ったからたまらない。幸洋は腰が抜けたかと思った。
「こっ、こっ、こっ……」
「なんやの、このヒト、ニワトリみたいなこというて」と母親。
「こっ、こっ、こっ……」
 ここへ来て二日とたっていない、と幸洋は言いたいのだが、失語症のケのある幸洋は言葉が舌の先からスムーズに流れ出ない。
「恥ずかしがらんかてよろし」と、母親は万事心得顔に、「スルことしといて」
 してない! 両手を床について母親の立っている玄関に這って行ったが、言い返すタイミングがどうしてもつかめない。
「ほらほら、顔色がかわった」
 黙秘権を行使する幸洋に母親はたたみかけた。
「色に出にけりやワ」

 ムハァッと、丸太ン棒でみぞおちをひと突きされたような重苦しい吐息を幸洋は吐いた。ドアの外へはみ出そうな図体の母親が戸口を塞いでいるのだ。足蹴りの一つもくらわせなければ逃げるに逃げられない。しかし、それではあまりにアンフェア。重量級とはいえ、たかが中年女一人、ケガでもされてはあとあと面倒だと、幸洋は膝をついた姿勢で半回転。窓ぎわの壁にもたれて、頭のうしろでひとくくりした髪の毛先をいじっている家出娘のそばににじり寄り、

「た、た、たったのむから……ほ、ほ、ほ、ほんとのことを言うてくれッ」
 神仏を信仰しているわけではないが、このさいシャカでもイエスでもアラーでもなんでもかまわない。南無三! と幸洋はコーベをたれた。が、頼みの綱の美少女のお告げは、
「レイプされたなんてゆーてへん」

 なんのウラミがあって……。帰る家がないと所在なげにつぶやいた孤独な少女に心を動かされ、無料で宿を提供した幸洋こそいいツラの皮。幸洋は肩で息をすると、リングの外に逃れたレスラーのように、エリのまわりを巡り、

「レ、レ、レイプやなんて、いいいつ、そそそ……」
「着替えもってきたげたよ」
 いつのまにか玄関から部屋にあがりこんだ母親は、荷物の入った紙袋を二つも運び込み、
「いつまで、ここにいてる気なん? どうせ、学校は行かへんのやろ」
「どうせ、いらん子やもん」
 と、エリはそっぽをむいたが、母親は眉に縦じわを刻んで幸洋を見おろし、
「親御さんにはあたしから、あんじょう言うたげる。こういうことは、まず、お母さんから――」
「……」

 幸洋はトドさんの出っ腹を見上げるばかり。セックスという言葉を耳にしただけで目が血走るオフクロになんと言って説明すればいいのか。夕べひと晩、泊めた女の子が翌日には妊娠しただなんて……。

「お父さんにはそのあとゆっくり――」
 幸洋は動悸の激しい胸をおさえて、仁王立ちの母親を見上げる。
「おっ、おっ、おっおやじは去年、亡くなりました」
「あ。そ。うちと似たりよったりやな。メンド臭のうてよろしやん」
 母親はうなずきつつ、女親一人を相手にするなら細かい話は後回しのほうがええなと独りごち、「そらそうと、火の気がないねんなァ」と言うが早いか、幸洋を押しのけ、ワンルームの室内をシラミつぶしに見回った。
「妊娠中は冷えるとようない。帰りがけに冷暖房兼用のクーラー、頼んどこか?」
「アリガト」と、エリ。
「きっちりねぎったげる」と母親。「配達は四、五日先になるけどな」
「かっ、かっ、かっ……」
 勝手な真似はさせないと、幸洋は口を開きかけたが、母親は寸暇も待ってくれない。
「月賦にしてもらう? どうするの? ウンともスンともよういわんのン?」

 幸洋はクゥクゥと喉を鳴らし、ズボンの膝をつかんだ。新手のツツモタセなのだ、これは、きっと。

「こっ、こっ、ここに五万ある。こっ、こっ、これで帰ってくれ」
 気管につまった声を、幸洋はやっと思いで絞りだし、机の抽斗から今月分の食費代を取り出し、エリに差し出した。

 西向きの窓に反射する、赤い夕日を背にうけた母親はドスの利いた声を発した。
「そんなムシのええ話が、このあたしに通用すると思てんの」

 ひよっとして、13日の金曜日――? 身の毛もよだつ母親の形相はホウキにまたがった魔女を思わせる。

「甘うに見たらあかんよ。親かがりの身やからいうて、かんにんしてもらえるとは限らへん」

 んなこと言われても……。生き肝をぬかれたていの幸洋は顔面蒼白。まな板の上の鯉とはこのことか。前方に仁王立ちのトドさん、うしろに家出娘。アリの這い出るスキもない。

 しかも、家出娘は何を思ったのか、
「わたしとお腹の子が味方やないの。しっかりしてね」
 なぐさめともつかない言葉を口にした。

 このまま手をこまねいていては大嘘が真実にとってかわると、幸洋はもつれる舌を噛み噛み、天地身命にかけてボクは子供の父親ではない、と絶叫した。

「一切合財、まかしたらええの」と母親は言った。「あたしにも覚えがあるから、言わしてもらうのやけどね、男の情が薄いと、女がかなわんの。わかる? 質流れの品物やないのやからね、流すなら流すと、留めおくなら留めおくとそれなりに考えを固めてもらわんとには話が前へすすまへん。ちゃいますか?」
「ああああ、あのあのあの……」
 どうすればいいか、五里霧中。
「もてあそぶだけでは、いくらなんでもえげつない」
 母親の口舌はとどまるところをしらない。お産の日数はごまかしもきくが、と言って幸洋をにらみ、
「結婚式の日取りのこともあるから一応、聞くけど、いま、何カ月やのん?」

 エリは顔色はおろか声も変えずに、ヤセ馬のシッポと見紛うポニーテールをひと振りし、「しらん」と言った。

 しらんはずないやろ、しらんはず。幸洋は全身の血が逆流した。居ても立ってもいられない。エリの返答いかんによっては無実が証明できたものを……。 
「彼に聞いて」と、エリは言うのだ。
 幸浩は天井を仰ぎ見た。いくらなんでも、男が泣き伏すわけにいかない。

   

 エリは立ち上がり、母親のそばに行き、
「なんでここがわかったん? 携帯おいてきたのに」
「ミヅキが、古本屋のおっちゃんから聞き出してん」

 西宮の実家からバイト先に近い、この町に引っ越した当座、文庫本を十数冊、古本屋に頼んで取り寄せた。ゼミ生全員に必要だったので、この住所に送ってもらったのだ。

「見もしらんおじさんと、一緒に住むのはごめんやわ」
「ミヅキとも話しおうたんやけど……、あのヒトな、水道局に勤めてはるんやけど、奥サンと離婚したときに、なんもかんも取られてしもて困ってるねん」
「ウソにきまってる」

 二人は何やら家族会議のもよう。あげくのはてに、持ち主の幸洋にはひと言の断りもなく、机の上に置き忘れた携帯を手に取り、どこぞへ電話。親娘のほんとうの狙いがどこにあるのか、皆目わからない。

「――そ、そう。あんたの言うた通り、ここにいてたわ。エリか?
 うん。元気にしてる。何事かあるような相手やないわ。電話、かわろか?」

 何事かあるような相手ではない。ちんまりと座っていた幸洋は母親の言った言葉を口の中でくりかえす。喜んでいいのか、嘆くべきなのか……。
 気持ちをとりなおし、母親が手土産がわりに持参した寿司に手をつける。雑誌にも紹介されている、評判の店の握り寿司。商店街からひと筋、外れた場所にあるにもかかわらず、朝から行列ができている。並ぶのが面倒で一度ものぞいたことはない。あの店の寿司をどうやって手に入れたのか?

「ここへ来る、ついでに買うてきた」と、母親は言った。「事情をゆーたら気ィようつくってくれたわ」

 事情を言う……? 古本屋といい、寿司屋といい、世間という名の隣近所の存在に驚かされる。幸洋の実家に近い西宮のショッピングモールではありえないことだった。

「顔はナミやけど、ちょっと足りひんのか?」と母親。
「気ィがあかんだけや」とエリ。

 引き続き、内輪の話かと思いきや、シンクの前でヒトの悪口。
聞こえてますよと言う根性もなく、幸洋はもくもくと食べる。

「ミヅキがあんたのこと、わがままにもほどがあるて、怒ってたわ。自分のことしか考えてないって」
「ヘンタイに説教されるようでは、わたしもおしまいやわ」
「ほん近場に手ごろなワンルームマンションがあってんな」母親は急に小声になる。「ここやとあたしも安心やわ」
 
 幸洋はハウスジャックをたくらむ親娘の会話に聞き耳を立てる。

「本気で、わたしのことなんて、心配なんかしたことないくせにィ」
 とエリは甘ったれた声で母親に言い返す。乱暴な口調とはそぐわない、この声に釣られて幸洋は部屋に泊めたのだ。
「男嫌いのあんたが、はじめてその気になったのやさかい、やいのやいのいう、ミヅキとちごうて、あたしは喜んでるねんで」

 はじめてその気になったと、たしかに聞こえた。

「ほっといてか」というエリに母親は耳打ちする。「あっちのお母さんとも早いうちに話しおうて――トモ棲みできるように――そや、それがええわ」と、母親はひとり合点に首を縦にする。

 トモ棲みとたしかに聞こえた。
 
 やはり悪質な美人局なのだ。ハウスジャックを画策しているらしい。ここで話に割って入るのと、涼しい顔つきでいるのとぢららが得策か。
 寄ってたかって悪事を画策しても、そうはいくかッと、幸洋は怒りに燃えて立ち上がったが、ああ、ワサビがきく……。
 涙とともに怒りがぶり返す。恩をアダで返され、為すスベがないとは理不尽このうえない。

「飛び出して行くから、どんなに心配したか」と母親。
「お金もってないねんから、遠くへ行かれへん」

 思い返してみれば、バイト帰りに古本屋に立ち寄ったのが、コトの起こり――。
 商店街の中ほどにある古本屋の前には、雑誌がうず高く積まれている。店の奥は二列になっていて、左側の通路の両側には漫画本やエンタメ小説がならび、右側の通路には中古のDVDの山。それにエロ本と成人向けのDVDが混在し片面の書棚を埋めている。向かいの壁には郷土史、歴史書、戦記、思想書など固い本がずらり。
 客のまばらな店内をのぞくと、ジーンズをはき、ひと目で男物とわかるハーフジャケットをはおった小柄な少女が目に止まった。
 ポニーテールが横顔によく似合っていた。ナヨナヨした仕草のおっちゃんと親しげな様子。話しながら、女の子は幸洋のほうをチラチラ見た。
 どういうつもりしてんだろと思った。少し、がっかりした。ここの店主は薄気味悪いのだ。商品の受け渡しのさいに、かならずといっていいほど、幸洋の手に触れてくる。
 あんなヤツと気やすく話す女の子なんて、シュミじゃないと思った。

「一緒に住むのはごめんなんやッ」
 エリの高めの声で現実に引き戻される。
「そのことは――それはそれでおいといて。ミヅキやあのヒトとも相談してんけどな」

 ミヅキやあのヒト?

「アホが寄って、何を相談するんや!」とエリ。
「会社にも試用期間てあるやろ」と母親。「あんたも、しばらくはここでは試用期間や」

 お前ら、承知せんぞ、ナめるなよと言いたいのはヤマヤマだが、我慢する。ここ一番というところで踏み外すのが幸洋の常。事なきを得るには、熟考の末に口を開かなくてはならない。

 それを見越したように母親は、目の先で幸洋を指し、
「今晩、連れといで」
「イヤヤ」

 オレの目は節穴ではない。寄ってたかって清廉潔白なオレを地獄へ引きずりこもうと、謀略を張り巡らせても、そうはいくかッ。
 いまこそと、奮起して立ちかけて、舌を咬む。
 ああ、どうしてこうなるのか……。

 夕べもそうだ。
 
 エリはお固い本の前に陣取って離れない。
 こういう場合、男ならだれだって、エロ本のある近くに行けない。しかたなく、エンタメ本が並ぶ通路に行き、彼女が買い終えたら、お気にいりの中古DVDを買おうと思っていた。
 ポニーテールは一向に動く気配がない。
 しびれをきらし、彼女のいる狭い通路へ行き、内容を確かめずに手にふれたDVDをつかんだ。
 金を払い、大急ぎで店の外へ出た。
 ポニーテールは、店の外までついてきた。思い過ごしかと、コンビに入ればそこにもついてくる。
 レジの前で鉢合わせした格好になった。驚いた幸洋は手の中のツリ銭を床にばらまいた。
「なっ、なっ、なっ、なんの用だよ……」
 エリは二つ折りに腰をかがめ、小銭を拾い集めてから、
「ごめん」
 と言った。それから、照れ臭そうに、小銭を幸洋に差し出し、
「〝トーチ・ソング・トリロジー〟買ってたから」
 と言った。口元に八重歯がのぞいて愛くるしかった。
「なっ、なっ、なっ……」
「さっさとしゃべりィよ」エリは拗ねた声で言った。

 幸洋は唖然とした。幼い頃はともかく、近ごろでは腫れ物に触わる扱いをうけることのほうがずっと多かった。バイト先の警備会社でもそれは変わらなかった。スムーズにしゃべれないことをあからさまに思い知らされることなどめったにない。それも見知らぬ女の子から――。

「わたし、気が短いねン」と言ったあと、「ごめん」とまた謝った。

 幸洋は買ったばかりの中古DVDを無言で突き出し、エリに受け取らせると、肩をすぼめて歩き出した。
 足音がついてきた。
 幸洋は先を急いだ。足音も速くなった。マンションのエントランスに入るとき、何気ないふうを装って振り向いた。エリはなぜか、ムッとした顔で立ち止まり、
「おもしろいこと、受けあう」
 と言った。
 本人のことを言っているのかと思ったがそうではなかった。DVDのことだと知ったのは、あとのことだった。
「帰る家がないねン」とポニーテールは鼻にかかった声でつぶやいた。「足がくたびれたから、ちょっとだけ、休ませてくれる?」

 エリはワンルームの玄関に入ると、スニーカーを脱ぎ捨てるが早いか、テレビの横にしつらえた幸洋のコレクションにとびついた。
「ルトガー・ハウワーの出てるDVDがほととどある」       
 ほととんどと言ったことに幸洋は感心した。一本たりないのだ。
「〝ブレード・ランナー〟も、〝ヒッチャー〟も、〝ウォンテッド〟もあるわ。それに〝サルート・オブ・ジャガー〟も」
 うれしくなった。おしゃべりの苦手な幸洋は映像の世界が好きだった。とくに、アクション物には目がなかった。幸洋はシュワルツネッガーのDVDも彼女に見せようと、物入れの戸に手をかけた。
「ほな、見よか」
 エリはそう言うと、膝のぬけたジーンズの足をテレビの前に投げ出し、幸洋に向って、「ジュースかなんかないのン」
 幸洋が首をふると、
「わたし、喉の乾くタチやねン」
 そう言われて、思い出しても腹がたつが、幸洋は夜道をローソンへ買いに走った。ビュンビュン走り飛ばして帰ってくると、「お腹も空いたわ」とカップラーメンにお湯をそそがされる始末。

 なんでやねん!

 おかげで異性と二人きりでいるという緊張感はすぐに無くした。
 映画の内容も内容だし――。ゲイの映画だったのだ。見るもおぞましい出目金のおっさんが登場し、〝ドン・サバティーニ〟でたのしませてくれたマシュウ・ブロデリィク扮する男性モデルと、な、な、なんと、結婚するのだ。で、マシュウのプロポーズの言葉が、
「コウノトリがじき荷物をとどけにくる。両親が必要だろ?」
 おっさんと若者のカップルが、結婚を機に施設からゲイの子供を養子にむかえるという、仰天ラブ・ストーリィなのだ。男性モデルが凶弾に倒れる悲劇は付け足しであるが……。
「ロマンチィックやわあ。思わへん?」
 見おわった後、エリは絶賛する。
「トシはくうてる、声はきちゃない、顔はまずいと、三拍子そろうたおっちゃんやのに、ハンサム・ボーイに言い寄られてもウソに見えへんとこがスゴイ。感激せえへん? 恋愛映画はこれでないとおもしろないわ」
 コメディ仕立てにはなってはいるが、男と男のキスシーンをモロに見る羽目になろうとは……。
「しらんと借りたん?」と、エリは小馬鹿にした顔つきで、「あらすじ、読まへんの?」

 正直に言えば、古本屋に足を踏み入れたときから彼女の存在が気にかかっていた。173㌢の幸洋より20㌢くらい小さいポニーテールは頼りなげで、心なしか寂しげに見えた。華奢なので、男の庇護を求めているタイプだと勘違いした。
 説明のつかない衝動に突き動かされ、彼女が一度手にとったDVDを通りすがりに選んだ。
 なぜだろ? 
 あの手この手で女の子に近づくほどあつかましくないし、さし迫った必要を感じていたわけでもない。たんなる気まぐれだったのか、自分でもよくわからない。

 マンションの入り口で立ち止まったとき、エントランスの自動ドアに、街灯の灯りが沁み入るように、物思いに沈むポニーテールの影が映りこんでいた。

 髪をほどいた彼女の上に、自転車のサドルに跨がるように跨がってみたいとほんの一瞬、頭をかすめた。

  

 それが、どうして、こうなるのか。甘い汁を一滴たりとも吸ったわけでもないのに、母親に踏みこまれ、膝詰め談判のむごい目に遭うとは! 
 妊娠しているなどと見えすいた嘘を言いちらし、幸洋を窮地に陥れる。いまさら、話をむし返すつもりはないが、髪の毛が逆立つ。
 実地に試すまでもなく、もわっとピンクに匂わないエリは十中八九バージンにちがいない。
 明け方近く、うたた寝をはじめたエリを気遣った幸洋が毛布を投げて寄越すと、エリは腕まくらの格好で投げ返し、
「いっこも寒ない」
 と言った。ははーんと思った。幸洋はゆっくりと四肢を伸ばし、半身を起こした。やさしく肩を抱き止せ、ほそい顎を上向かせ、むじゃきなオデコを腕の中にそっと抱きとめる見通しだった。
 息を殺して、そろりと近づくと、
「セックスなんて、ダサイ」
 エリは頭を起こし突然、言った。一歩あやまると、乱暴されかねないと疑ったのか、黒い瞳に警戒の色がはっきりと見えた。
 幸洋は膝をすすめた。OKのサインがない場合は、やにわにねじ伏せる。抵抗するようならビンタを一発。大方はこれでケリがつく。生意気な女ほど強い男にひれ伏すものだと、拳法部の先輩におそわった。
「妥協したないねん」
 まじめな話と言って、エリは上体を起こした。暗がりであっても、瞳は黒曜石のように輝いている。「ホンモノのマットウな男の子と恋愛したいねン。ハンパなタイプはお断りしてる」
「ぼっ、ぼっ、ぼくを舐めてるのか!」
「舐めてる」
 間髪を入れずに肯定されると、失語症を上塗りされたようで言葉そのものを忘れた。
「夜ふかしは体にわるい」
 とかるくいなされ、敷きマットに寝ていた幸洋は、部屋の隅にゴロンと寝転がった。せめて「カッコ」だけでもつけたかった。火の気のない部屋の床は、氷上に横たわるように心身を冷却した。
「ごめん。ほかに……行くとこがないねン」
 エリは眠りに入る前に言った。めそめそ泣かれるよりは百倍もよかったけれど、声を殺した彼女のつぶやきは幸洋の本能を金縛りにするのに充分すぎた。

 で――なにがどうなったのか、理解が追いつかないまま、身の証しを立てるためだと自分自身に言い聞かせ、エリの家に出かけることに。
 晩ゴハンを一緒にというトドさんのすすめによるものではけっしてなかった。

 初秋の夜空に星くずが散らばる頃、植木鉢のならぶ路地に着いた。幸洋の住むワンルームマンションとは、商店街をはさんで背中合わせの近さだった。
 後期の授業がはじまる前に移ってきた。
 引っ越して日も浅い幸洋は付近の地理にうとく、波立つセイタカアワダチソウの茂る空き地と隣接する、木造の二階家を目にするのははじめてだった。
 ふいに潮の香りがした。神戸の下町はときおりこの匂いに包まれる。風向きしだいで、海とじかに向き合う気分になる。

 エリは幸洋に笑いかけると、ささくれだった戸口に手をかけた。

「いつまで待たせる気やのん!」
 玄関に入ったとたん、母親の尖った声が奥から飛んできた。
 エリは、履き古した男物の靴を見ながら、
「まだ、いてるねんなァ、キショイおじさんは」
 奥から母親が出てきた。
「その言いようはなんやのん」
 胸をふくらみを強調したセーターにタイトなスカート姿。急に若返っている。化粧映えするのか、世にいう美魔女か! トドさんに見えたのは、素顔にゆるゆるの普段着のせいだったのだ。
「得体のしれんヒトで、ガマンできるヒトはええなァ」
 エリは言い捨てると、幸洋の腕をとり、上がり框とひと続きの座敷にあがった。優柔不断だと思ったが、ついていくしかない。

 グツグツ煮えたぎる鉄なべが、仏壇の正面に陣取っていた。

 きのうとはうってかわった態度と装いに豹変した母親は、のっけからエリの外泊を叱りつける。
「若い男のヒトの、それも独り暮らしのウチに泊まっても、反省の色が微塵もないとは何事です!」
 隣に座る、苦みばしった中年男性に流し目をおくり、
「多野さんにも、どれだけご心配していただいたか。電話を、なんどもかけてきてくれはったんよ」
「ヨソのヒトに干渉されたない」
 エリがうそぶくと、
「後ろ指さされるようなマネは金輪際、せんといてね!」と美魔女は言った。ついでに、幸洋をじっと見つめて、「きのうはあまりのことで、お名前をうかがうのを忘れてました。お詫びします」
 思わず、
「しっ、しっ、清水幸洋です」
「ご迷惑をおかけしました。この子、学校が嫌いでほとんど行ってないんです。いつもは家で本を読むか、DVDを見てるんですけどね。突然、飛び出して――捜し出すのにたいへんでした。でも、いいお方と巡り会えたようで、ひと安心です。しつけがなってないわがままな子ですけど、今後とも、よろしくお願いしますね」

 幸洋はめまいがした。きのうの夜もそうだったが手もなく寝業に持ち込まれ、フォール負けしたあんばいなのだ。

「いっしょ暮らしてもいいけれど、幸洋さんのお邪魔にならないようにしなさいよ」
 わかりましたかと美魔女。
「わかってる」とエリ。
 このときを待っていたように、多野は身を乗り出し、
「若い時分には、一つや二つ、まちがいのあるもんや。エリちゃんはまだ子供や」と、口元をゆるめる。「そや、あんたからも、そのあたりの事情を言うたらええ。行き違いがあるかもしれん」

 詳しい事情を話そうと思えば思うほど、舌が上顎に張りついて離れない。脂汗しか出ない。

 と、その時、目の横の襖がスルスルと開いた。
「ひと言ご挨拶を――」
 匂うばかりの美女が両手をきちんと突いて頭をさげた。
 年の頃は、幸洋と同じ二十歳前後。ピンクベージュのセーターに白っぽいプリーツスカート。
「ミヅキです」と、名乗った。
 母親の電話の相手だと、すぐにわかった。ということは、幸洋の携帯にミヅキの携帯番号が登録されたことになる。

 ワオッ!

 幸洋は初対面の相手を寄り目になるほど見つめた。これぞ、美女! 乗ってみたい、乗られてみたい好感度NO,1。花にたとえればシラユリの精か。つややかな黒髪が白いうなじに沿って流れおち、はかなげな顔立ちを際立たせている。美魔女や美少女と似ている。たとえば、通った鼻筋は母親に、目元はエリに。しかし、一人の固体として眺めたとき、ミヅキは他の追随を許さない。この世の者ではないと言われたら信じるほどに。

 母親の顔に影がさす。
「うっとうしい顔、ださんといて」
「いじめんといて、お母さん」
 シラユリの精はつぶらな黒い瞳に涙をうかべてつぶやいた。
「あんたは、出てこんで、ええねん」

 美魔女と見違えた母親は夕べの印象に逆戻り。見た目の感じなんて、瞬時に変化していくものだと、幸洋ははじめて知った。母親は、ソッ歯の口元をとがらせる。どうしたわけか、口紅を塗りたくっているので腸詰めウインナのはらわたが裂けたよう。

「申し訳ないと思てます」
 と、シラユリの精は消えいりそう風情で言った。小指で突いても、泣き崩れそうな声音。
 ああ、たまらん! ビンビン来る。幸洋の下半身は俄然、色めきたった。
 エリはニヤリと笑い、
「やっぱりな」
 とつぶやいた。

 ミヅキはススッと座敷を横切り、母親の隣に座ると、座卓の小鉢に生卵を割りこみ、割り箸を各自に用意しながら言った。
「おじさんも、お母さんも、今晩にそなえて、たっぷり栄養つけはらんと――」
 母親は苦虫を噛みつぶした顔つきになる。
「さぁ、いただこか」
 と、多野は皆に言い聞かすように、「せっかくのご馳走が台ナシになる」と言ったあと、「なッ、ミヅキちゃん」と母親の肩ごしに声をかけた。
 母親はミヅキを睨み、
「夜のことまで、子供に世話をやいてもらいとうない。わたしのお相手はあんたらの見繕うてくる、そのへんの雑魚やないねんから」

 雑魚? もしかして、自分のことかと幸洋は胸に手をあてる。なぜか、非が自分にあるような気がしてくるからマカ不思議。
 片や、多野は長箸で肉の焼けかげんを見ながら口尻をあげ、鯛にでもなった面持ちでいる。

「雑魚のどこがいかんの」
 エリは幸洋にかわって抗議した。
 ミヅキは、エリをかるく睨み、美しい顔を横にふった。
 雑魚はそれだけで悶絶しそうになる。

 かわゆい!!

 母親は割り箸を手にとり、音を立てて割ると、
「きょうだい、そろうて、親に心配かけることしかしらんのやから」
「おやおや、リッパな親が」と、エリはせせら笑った。
「ぶっそうな時代に、何事ものうてよかった」
 多野が口をはさむ。

 湯気の向こうにいるシラユリの精は、小鉢の生卵をそっとかきまぜる。楚々とした仕草が、幸洋の目を刺激する。ついでに牛肉の焦げる匂いが胃の腑にしみる。何日ぶりの家庭の味だろう。
 鉄なべは充二分に煮立っていた。
「食べたいもんがない」
 エリはそう言いながら、ひょいと腕をのばし、チリチリに縮こまった飴色のヘットを口の中に入れた。
「そこまでになるのを、わたしがどれほど辛抱して待ったか……」と、母親は唸る。「たったひとつやから値打ちがあるねん」

 なんの話か幸洋にはわからない。飴色の糸こんにゃくが喉を滑り、あまからい味が口の中にひろがる。

「こんどいっぺん、ヘットだけでスキヤキしたらどないやろ?」と、
エリは向かいの多野に言った。「その時は、おじさんにも連絡するわ」
「おお、頼むで」と、多野は上機嫌だった。 
「胸ヤケがするやろな。オカンは、どれがホンモノがわかってないからなァ」エリは言いかぶせた。
「おれへのあてこすりか」
「黒を白とはよう言わんわ」

   

「黙りなさい!」と、ミヅキは妹のエリをたしなめた。「これから、お付き合いさせていただくお方に、なんていう口をきくの。お母さんの気持ちも考えんと」

 世事に疎い幸洋にもそれとなく、この家の事情が呑みこめた。永年、母親と娘二人の三人家族だった。その家に中年男が入りこむことになった。末娘にはありがたくない客としかうつらず、家を飛び出したという事の顛末らしい。

「エリはシットしてるのよね。いままでみたいに、わがまま放題いうて、お母さんやわたしを独り占めできひんから――それで、わざと――」
 母親はトドがふやけたような気怠い表情で、ミヅキの言葉をじっと聞いていたが、
「あんたは何を夢見てるのん。絵に描いたような男のヒトが、どこにいてると思てるのん? アホらし。中年の独り身のおじさんなんて、大差ないねん」
「食う気がせんようになった」
 多野は眉をしかめ、割り箸を投げた。手が震えている。
 エリはすかさず言った。
「そや、ミヅキ、口移ししてあげたら」
「もっぺん、言うてみ!」
 立ちかける母親の肩に手を置き、ミヅキは宥める。
「堪忍、してやって。みんな、わたしが悪いねん。気がついたら、こんなことになってしもて……」
 気まずいやりとりは果てしなくつづきそうな雰囲気だった。
「おれも大人げなかった。すぐカッとなるタチでな。煮詰まる前に食おうやないか」
 多野のとりなしで、母親は落ち着きを取りもどしたかに見えた。

 幸洋はふと気づいた。なぜ、アルコールのたぐいが、卓上にまったくないのか……?

「ビールかなんかないんか?」多野が催促した。
「ああ、満腹、満腹」
 エリはおしげもなく立ち上がった。
 連れられて幸洋も立つ。
「まだなんも食べてないやないの。だいち、どこへ行くのん?」
 ミヅキは怪訝な顔で見上げる。
「愛の巣に帰るんやないの。ミヅキも一緒にくる? 三人でプレイする?」
 トーゼンといったおもむきで、エリは言った。
「彼に迷惑でしょ」
 ミヅキはきつく言い返した。
「ぼっ、ぼっ、ぼくは、べっ、べつに、そそそそ……」
 緊張するといつもよりつっかえた。
「それでは皆さん、次回をおたのしみに。サンキュ、メルシー、グラッツィエ」
 エリは投げキッスをした。
「承知せぇへんッ」と叫ぶやいなや、母親は席を蹴った。電光石火、ミヅキがその腰にすがりついた。
 エリは腕組みをし、八重歯を見せてニタニタ笑っている。愛らしい顔立ちなので余計に小憎らしい。
「はなしてッ。ミヅキッ」
 いきり立つ母親の震動で座卓がゆらぎ、あっという間に湯気のたつ鉄なべはコンロから滑り落ちた。
 モウモウと煙がたった。
「……どんな思いで……こんな暮らし……」
 母親は呻くように言うと、ミヅキの手を振りきり、足音荒く玄関の外へ出て行った。戸口は開けっ放し。多野は苛立ちを隠せない様子で、座布団を蹴散らし、後を追った。

「一件落着。世はすべて事もなしや」
 エリは肩と腕をまわし、背伸びをした。
 ミヅキはワッと泣き伏した。
 エリはしゃがみ、泣きじゃくるミヅキの背をさすりながら、
「アル中のおっさんなんか、さっさと別れたほうが、オカンのためになる。家に居つかれたらコトや」

 多野がアル中……? だから食卓にアルコールのたぐいがなかったのか。

「あいつは、オカンに気があるように見せかけてるだけや。ミヅキにもわかってるやろ。オカンは節操がないから、誰とでもすぐに寝たがる」
「水道局に勤めてはるおじさんが、ここへきはったら、お母さんとエリのことは任して、わたしは出て行こうと決心してたのに」
「そんなことしたら、この先、どうなるんよ。わたしもオカンも飢え死にするやろ」
「ぐうたらのあんたなんか、どこへでも行き」
 ミヅキはそう言うと、からだの向きをかえ、
「夕べからびっくりのし通しやったでしょ? オタクがええひとで助かりました。母も妹も世間知らずで、自分の言うたりしたりすることが、世間に通用すると思てるんです。堪忍してくださいね。おかしなこと言いませんでしたか?」
 幸洋は首を振った。
「夕べのうちにエリを迎えに行こうと思てたんですけど、わたしはわたしで母と揉めるし、そのうえ夜のおツトメがあって……ほんまに大丈夫でしたか?」
 幸洋はたてつづけに首を振った。

 そこに、出て行ったはずの母親がもどってきた。
「エリのおかげで何もかもぶちこわしやわ。また、逃げられてしもた」
 惜しい男でもないしと、母親は屈託がない。
「後片付け、たのむで」
 それだけ言うと、涙のあとを指先でぬぐい、ミヅキの出てきた襖の中へ消えた。
 エリは笑いのめすと、
「腹ごなしに、なんか食べに行こか?」
 と言った。
「まえから気になってたんやけど、あんたは自分ほどえらいもんはないと思てるのン」
 ミヅキは呆れ顔で言った。
「アホやとは思てない」とエリ。
「わたしは自分をアホやと思てる。あんたやお母さんに、ええようにコキつかわれて……」
 ミヅキはうつむいて下唇をかんだ。

 いじらしい!

「美形は、頭の善し悪しを思い患う必要ない」
 エリは言い切ると、ふいに思いついたように、
「久しぶりに、ボディガードに行ったげよか?」
「くるのやったら一人で来て」
 ミヅキは幸洋が同行することを渋ったが、エリは耳をかさない。
 押問答の末に、三人で出かけることになったが、座卓を見ると、鉄なべはひっくりかえったまま小皿や割り箸が散乱している。
「あしたできることは、今日せんでもええねン。チャオ・チャオ・バンビーノや」
 エリは両手をひろげた。
「そういうこと言うわけ?」
 ミヅキは二人に手伝わせて、汚れものを台所へ運ばせた。
 鍋から飛びでた牛肉は隣の犬にやると言う。
 仕事に間に合わないと、ミヅキが焦るので、三人でカップ麺をすする。

「びっくりするのはこれからが本番やからね」とエリ。
「やみつきになったらどうすんのよ」
 などと二人は言い合う。

 一瞬ごとに、あたらしい印象がわいた。幸洋の胸はいやがうえにもふくらんだ。弾んだ。一人暮らしをはじめるまでは母親の監視下におかれ、父が病死したのちは一層、母親の言うままに二十年余りを生きてきた。胸のすくようなハプニングはどこを探しても見つからなかった。それがどうだ。とうとう花も実もある、華麗な日々がはじまろうとしている。
 ランボーも、インディ・ジョーンズも、バット・マンもメじゃない。幸洋はさからいがたい未知の魅力に惹かれて、二人の後に従った。

 東門筋を北へ。見覚えのある異人館を横切り、タクシーのシートに頭がそりかえる坂道を直進した。
 蔦のからまる青白い館の前で車はとまった。車の外に降りると、あたりはしんと静まりかえり、自分の足音が耳につくほどだった。
 秘密めいた扉。一足ごとに幸洋の胸はとどろいた。これは冒険なのだ。ミヅキほどの女の勤める店といえば、超高級会員制クラブか何かにちがいない。
 ノックをすると、蔦の奥から声がした。
 隠れた位置にインターホンが取り付けてあるらしい。
「どうぞ」
 機械的な返事が返ってきた。ちょつと肩すかしをくった思いで幸洋はミヅキとエリを見やった。
 ミヅキはうふっと作り笑いをうかべ、エリはすかさず、
「最高のショーヘようこそ」
 と言った。

   

「そこのキミ、キミのハートをわしづかみにしてはなさない、セクシーレディの登場! 当店自慢の歌姫。ミス・プシーキャット。あわてない。あわてない。あたしだって、まだまだ捨てたもんじゃないのよ。ボクちゃん、わかってるわね。キミだけの女神が奏でる、魅惑のひととき、どうぞごゆっくりおたのしみください」

 ブラジャーにパンティ姿というなんとも形容しがたい格好の中年男が長々と前置きを言ってひっこむと、背中に羽根飾りのゆれるドレスに身を包んだミヅキが半円のステージに姿を現した。
 割れんばかりの拍手。
 客の割合は日本人が七に外国人が三。ピンクのライトが宙に舞い、スパンコールのドレスの裾が左右に開いて脚線美が顔をだすと、毛色の変わった男たちの間にどよめきが起きた。
 目が点になる。
 彼女を見知っていると思うと、誇らしいような、気恥ずかしさで恍惚となる。

 ああ、ミヅキちゃん、ぼくの女神……。

 アップテンポの曲がスローにかわった。キャンドルライトの灯るテーブル席の間をぬって、グラビアから抜けでたようなミヅキは歌う。

きみに伝えたい、この胸の叫びを伝えられるものであれば、たとえ命つきるともぼくは何もおそれない……」

「この曲は……」
 つぶやく幸洋の耳にエリがささやく。
「シャンソンの〝愛の叫び〟やと思う」

 ミヅキは二人のテーブルに回ってきた。

この世から星が消えても、苦しみに息が止まっても、神の裁きびしくとも、きみに伝えたい……」

 ミヅキが幸洋の膝に腰かける。セミの羽根のような衣装ともいえない薄物を通して彼女のお尻が太ももに密着する。
 勃起する。
 足を踏みならし、鄙猥な野次をとばす男たち。ミヅキのきゃしゃな腕が幸洋の首筋に巻かれると、羨望のまじった嬌声に取り囲まれる。斜め横の、梨色のネクタイの男など、目を三角にした。

ぼくのこの愛をつたえたい、愛するきみに、いますぐに……」

 ミヅキのハスキーボォイスを耳のすぐそばで聴かせてもらったおかげで、剥いても、剥いても、芯がないと女子から侮られる幸洋は生まれて初めて他の男から羨まれる存在に変身した。

 漏れそうになる。

 ミヅキはステージにもどると、くねくねと腰を揺らし、身につけているものを一枚ずつを剥ぎ取っていく――。
 やめてくれーっと、叫びたい。胸をおおうレースのブラジャーが剥ぎ取られる寸前に幸洋は、目を固く閉じた。
 口笛がいっせいに鳴った。
 おそるおそるまぶたを上げる。女神の胸は扁平だった。頭の中がカラーからモノクロに。下半身は茫然自失。信じられない面持ちの幸洋にエリは言った。
「マジに、そっちのシュミはないの?」
 女物の下着を着けたおっさんもだけれど、この店は男が女装をしているのだとやっと気づいた。
 そう思って見れば、クローク係もウェイトレスも喉仏が大きかった。
 夕べからの疑問が一気に氷解した。エリは幸洋をゲイだと思ったから、泊めてくれと言ったのだ。古本屋のおっさんが何をどう勘違いしたのか、同好の士だと告げたのだろう。

「どもってソンした」
 ヤロウならヤロウとひと言伝えてくれさえしたら、もう少しは赤恥をかかずにすんだのだ。のぼせあがることもなかったのだ。
 エリはカンパリソーダをひと口のむと、話相手が男だとラクに話せるのか、ときいた。
「そうなるかなァ」
「ほんなら、女の子はぜんぶ、男の子やと思たらいいねン」
「そんな、簡単なもんやない」

 ずいぶん治療にも通ったのだ。「アエオアオ」と、鏡に向って発声練習をなんど繰り返したかしれやしない。ふとしたことが原因だった。小二の夏、隣の家の女の子に、ゆきちゃんの舌みじかいのとちゃう、と言われたのが失語症となる切っ掛けだった。
「女の子とデートしたら治るわ」

 エリはいとも簡単に口走るが、幸洋に言わせると、誰が失語症のこのぼくとデートしてくれるのか!

「ミヅキは経験豊富やから、たのんだげよか?」
 相手に困って正真正銘の男に「よろしく、お願いします」と言う気になれない。
 あだやおろそかに助言してもらっては有り難迷惑なのだ。

 たしかにミヅキはサイコーのレディ。種あかしさえなければ……。

「へぇ、そうなんや」とエリが独りごちた。「意外やな……」

 つい四、五日前も、同じゼミの女子学生から「玉ネギボーイ」とからかわれたばかり。玉ネギボーイ、それは中身のない、剥いてしまえばカラッポというわけだ。だからモテない。
 幸洋にしたって、好き好んで身を清くたもっているわけではない。寡黙すぎて、「カラッポ玉ネギ」とみなされ、これと思う相手と機会に恵まれないのだ。女の子のほうでも、気のきいた会話やジョークと縁遠い幸洋をハナから無視する。

 女がいかんねん!

 幸洋はだんだん腹が立ってきた。
 
 ミヅキは歌の合間に、幸洋の頬に頬を寄せると、「スキ」とささやいた。
 からかわれたのだと気づいた瞬間、全身の血が沸騰する。
「ええ傾向やないの?」
 エリはテーブルに頬づえをついて言った。
「意味がわからん」
 わかるように言ってくれと幸洋が言うと、エリは片目をつぶって見せる。
「なんぼでもフツーにしゃべれるやん。ミヅキさまさまやな」

 興奮さめやらない男たちの波に押され店の外に出ると、夜更けの舗道に虫の音が聞こえた。三ノ宮界隈は中心部をすこし離れると、住宅街と重なるせいもあって人通りが途絶える。
 人声もしじまに散り、エリと二人、遠くにクラクションを聴きながらミヅキを待つ。こうしていると、さっき目にしたことがマボロシのように感じられる。
「お待たせ」
 路地奥からミヅキが出てきた。幸洋はなんといって声をかけていいか、わからない。
「お疲れサン」と、エリが言ったので真似ようと口をもごもごさせた。すると、「どうやった?」と、ミヅキのほうからきいてきた。
「きれいやった」とエリ。
「あんたにきいてない」とミヅキは幸洋にニセモノの胸を突き出して、「気持ちわるなかった?」
 返事に窮した幸洋は、普段の格好のほうがいいと答えた。
「いやあ、うれし。そんなん言うてもろたんはじめて」
 ほんまは、裸になるのん恥ずかしいの、と言って、またしても幸洋の首にしがみついた。

 と、そのとき、目の前を何かが横切った。
 幸洋は「あれ」と思った。
 暗がりをかすめた影は、手に光るものを持っている。
 次の瞬間、ミヅキは、悲鳴をあげた。
 幸洋はとっさに身構えた。ミヅキの両腕を首から振りはらい、両脇をしめて軸足を半歩ひいた。
 黒い影は、ミヅキをめがけて突進してきた。
 幸洋はミヅキを押しのけた。
 エリがとびのいた。ポニーテールが彼女の頭の上に跳ねあがる。
 幸洋はにぎり拳を固くした。
 なんとかなるやろ。
 影との距離がどんどんせばまる。

 いましかない。

 右足を胃の上で屈伸させ、左足で地面を蹴った。
 鈍色の刃が暗がりに舞う。
 空中で交叉した足を影に向って突き出した一瞬ののち、どしんとにぶい物音がした。
 幸洋は呼吸を整える。喉首と後頭部はさけて肩口を狙ったが……。
「死んだん?」エリが路上を指さした。
 もとの静けさにもどる。白目をむいて虚空を睨みつける、多野が仰向けにのびていた。
「さいしょっから、態度があやしいと思てたんや」
 ミヅキは地声で言った。それから、幸洋を振り返り、「やるやんケ」と肩をそびやかした。
「オカンには黙っとこな」とエリが言った。「自分がモテたと思いたいねんから」
 物陰から小柄な男が、そっと顔を見せた。梨色のネクタイが暗目にもはっきり見える。
「おまえなーッ。おれが襲われても、クソの役にもたたんヤツやな。それでも男かッ」とミヅキは怒鳴った。
 梨色のネクタイは、「すまん」と小声で言った。
「しょうないな」と言うやいなや、ミヅキは大股であるき、ネクタイを引っ張り引き寄せた。
 ネクタイはミヅキに抱かれると、怖かったと泣きだす。
 女の恰好の男がスーツの男の唇をむさぼる。

 サイレンが聞こえる。

 幸洋とエリは二人をおいて、駆け出した。
「どういうこと?」幸洋は走りながらきかずにいられなかった。
「ミヅキは、態度のはっきりせんカレシにイラついて、ユキヒロを当て馬につかったんやと思う。多野のことは想定外やったけど」

 幸洋は駈ける。加速度がつく。風が耳をきる。

「ユキヒロ!」とエリは大声で呼び止めた。「ミヅキのこと、本気やったんか」
 幸洋は立ち止まり、
「それがどないしてん」
「もう、ええのん?」
「おわったことや」
 ミヅキは足をゆるめずに言った。

   

 エリを送りとどけ、自分の部屋に帰りついたとき、幸洋は生まれてはじめて、せつない気持ちになった。やりきれなかった。心の置き場所がない。おわったことだと言ったものの、ミヅキのマボロシが、いまも心と体を惑わしている。
 ミヅキの踊る姿に勃起した。男だとわかったとたん、萎えた。それが、彼自身の低い声を耳にしたとき、抉られるような衝撃が身内を貫いた。どうしてなんだろ。冒険が過ぎたのだ。退屈な日々こそ、自分にはふさわしい。
 動揺する自分を、殴りたおしたい。
「スキ」とささやかれた声が耳奥から離れない。
 客向けのサービスで、だれにでも言っているとわかってもなお、心の揺らぎが止められない。

 携帯が鳴った。

 エリからだった。
『そっちへ行ってもええ?』
『うん』
『なんにもサセへんけど、それでもええのン?』
『うん』

 一日中、エリといっしょいて、彼女の心がどこにあるのか、見えなかった。天真爛漫と言えばいいのか、自分勝手と言えばいいのか、つかみどころがない。ミヅキとエリとは、まぎれもない兄妹だった。二人とも、人の心をもてあそぶ天才だと思う。

 やってきたエリは、くたびれたと言って、
「敷マットは一枚しかないから、二人でならんで寝よ」
 互いに服を着たまま、背中合わせに横になる。
 同じ姿勢がつらくて、反転すると、「セックスなんて、一生せん」とエリは背中を向けたまま言う。
 だったら、泊まりにくるなよ。口の中で愚痴る。ふってわいたチャンスにいきり立つ下半身をどうすればいいのか、教えてほしい。
 いまから風俗へでも行けというのか!

「友達、そや、親友になろ。なんでも話せるし、ずっと付き合える気がする。ユキヒロとは死ぬまで、このままでいたい」

 殺したろか!

 立ち上がり、外へ出かけようとすると、「チューくらいやったら、してあげてもええわ」

 飛びかかって、ふっくらした唇を吸った。
 このあとどうやって、服をぬがせるのか、ワカラン。
 手順のマニュアルは、エロ本には書いていない。
 エロ小説に出てくる女はなんで、すぐにヤらせるのか……。
 幸洋が切羽詰まって唸っていると、エリはさっと唇を離し、「お・し・ま・い」と言ったかと、思うと、ゲラゲラ笑いだした。
 ここ一番というところで、踏み外すいつもの癖が出たのかーー。

 ミヅキの歌声が頭の中で聞こえる。
ぼくのこの愛、いつまでも変わりはしない。この命おわる日まで輝く愛をささげよう」

  


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