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物語の作り方 No.12

第6回 背景をどう描くか。

1)背景とは何か?

 物語の背景とは、社会における人間の体験にかかわるものです。ここでいうところの社会とは単なる世相ではなく、人間が影響をうけ、また影響を与える「環境」そのものだと考えていただければよいかと思います。

 私たちはどのようなときに環境という言葉を使用するのでしょうか?

 主として、自分を取り巻く身のまわりの状況を言い表わす場合に用いられています。
 この環境を作り上げるものとして、第一にあげられるのが、その人の属するです。それに付随して、言語、地域(都会あるいは田舎)、気候、風土、年代、風俗、経済水準、職業、建物(街並・住居など)、食生活、家族構成、宗教、政治、道徳観、知的文化的生活、教育、娯楽、生活様式などがあげられます。
 この多様な環境を、小説の背景と言います。
 厳密に言えば、一人一人が異なる環境で生きていることになります。フィクションであれ、ノンフィクションであれ、そこに登場する人物は否応なく環境の影響を受けます。
 
 国や時代にとらわれないSF小説やファンタジー小説であっても同じです。設定が虚構であればあるほど書き手はゼロから物語の環境を作っていかなくてはなりません。「見てきたような嘘」が大前提となるのです。

 総合芸術の舞台では、役者の背景にある書き割りが環境と言えます。大道具、小道具などの書き割りが皆無で、舞台衣裳もないと、どれほど名優と呼ばれる人でも演じにくいはずです。
「朗読劇があるだろ」とおっしゃる方にはぐうの音も出ませんが――漫才、落語なども、書き割りなしで演じられています。
 そう考えると、言葉だけで、環境を伝えることのむずかしさに改めて思い至ります。環境=背景を描くことなくして、登場する人物を描いたことにならないからです。

2)物語と描写。

 ストーリーを引っ張っていく主人公を取り巻く環境、これを具体的に表現する場合、長文の描写には工夫がいります。

 なぜか。

 一気に書かれた描写を大半の読者は好みません。また、すべてを詳細に描くことは不可能だとも言われています。
 しかし、そうした常識をくつがえす長文の描写を得意とする作者もいます。文学の知識も浅く、根気のない私などは、ノーベル文学賞の受賞作であるG・ガルシア=マルケスの「百年の孤独」をいまだに読み終えることができません。改行が少なく、会話文も最小限で、環境の描写がともかく長い。どこまで読んだのかわからなくなるほどです。

 前文略――彼は、人類を襲ったあらゆる悪疫と災厄をからくも逃れてきた男だった。ペルシアの玉蜀黍疹、マレー群島の壊血病、アレクサンドリアのハンセン病、日本の脚気、マダガスカルの腺ペスト、シシリアの地震、大勢の溺死者を出したマゼラン海峡での遭難などをしのいで来たのだ。その言葉を信じるならばノストラダムスの秘法を心得ているこの不思議な人物は――以下略。

 単行本サイズの本の厚みは表紙を入れて3㌢弱。辞書に近い。一族の歴史が時にブレながらも一気呵成に語られていく。このように集中力の高い長文を綴ることは、多くの人にとって困難に思えるのは私だけでしょうか?

 この域に達するには百年かかる気がします。

「その街は海底の泥の中から浮上した」という短い情景描写ではじまる、小野不由美氏の伝奇ミステリ「東亰異聞」の読みやすいこと。読む端から頭に入ってくる、簡潔な文章に知らず知らずのうちに引き込まれます。背景の説明や描写が必要最低限に抑えられている文体のおかげだと思います。

 どこまで環境=背景を描写すればいいのか、もっとも悩むところです。長く書けばいいというものではないからです。
 若い人の文章を添削していて怒りをかうことがしばしばありました。あらゆる世代の方と言ったほうがいいかもしれまん。

書きたいように書いて何がいけないんですか?

 書きたいように人物も背景も書く。「趣味なんだから」とよく言われました。基本的にはそれでいいのですが、たった一人の読者であっても不親切になる。その一人が、私のように偏屈ババァということもあるからです。
 仮に、「誰かに読んでもらうつもりはない!」と思い定めていても、落ち着いて読み返したときに無駄だと感じる箇所――あるいは何かが足りてないと思う箇所がかならずあるはずです。
 この違和感をもつ、もたないで物語における背景の描き方は確実に変わってくるのではないかと個人的に考えています。

 近年、新型ウィルスの感染症への危惧から生活環境を清潔にたもつことをほとんどの人が心がけています。水、空気などを清浄にたもつための自然環境の保全。持続可能な社会環境の整備という時事用語もしばしば目にします。「環境」という二文字にもっとも直結してる言葉は、「問題意識」ではないでしょうか。

3)描写の種類

 おおまかに言って、描写は五種類に分けられると思っています。 自然描写、情景描写、心理描写、人物描写、行動描写です。

自然描写とは、人類の生命の起源とされる海にはじまり、陸地における山や湖や河、動物や鳥や虫や木々や草花など太古から存在する自然環境をさします。人類が文字を綴るようになって約7千年たちます。歴史はシュメール(現在のイラク南部)からはじまるという言葉をご存じの方もすくなくないと思います。

 われらの都市には、すべてのものが輝くように上がってきた。
 潮は満ちてきた、
 エン・リルの潮は満ちてきた、
 潮は満ちてきた、
 大潮が、恐れを呼び起こしながら、きらきらと輝いた、
 エン・リルの潮、ティグリスの潮が淡水をもたらした……

 ここで謳われる「われらの都市」とは世界最古の都市文明を築いたニップル市(現代名ヌファル)をさします。ちなみにエン・リルとはシュメール古来の神の名であり、ニップル市の守護神でした。この詩文は、遊牧民の侵入と侵略によってメソポタミアの都市国家群が衰退したのちの時代に書かれた作品の一部です。
 詩人は安寧に暮らせた黄金時代を偲んで記したのでしょう。
 彼らは楔形文字を発明し、巨大な神殿を建てました。数学や天文学もさかんで60進法をはじめ、太陽系の全惑星を粘土板に刻みました。芥子の花からアヘンをつくり、医療に使っていました。
 1年を12ヵ月と定めましたのも彼らです。現代と比して遜色ない職種があり、交易によって栄えました。印鑑を輸出し、ビールを飲み、ゲーム盤で遊んでいました。
  
 遥か昔から、多くの文学作品で自然が描写されるとき、書き手あるいは主人公の心理が仮託されています。日本における短歌や俳句がもっともわかりやすい具体例だと思います。

  天の原 ふりさけみれば 
  春日なる 三笠の山に いでし月かも

 小倉百人一首の中から安倍仲麿の一句を選びました。船守(ふなのかみ)の子息であった仲麿は十六歳で遣唐留学生として渡航し、かの地で没しました。望郷の思いはさぞやと感じさせられる句です。

 つぎに取り上げる作品はイギリスの作家、シャーロッテ・ブロンテの「ジェーン・エア」です。家庭教師のジェーンがお屋敷の主人と婚約したのちの不安な思いを自然描写で表した文章です。

 私は果樹園に行った。終日、南からはげしく強い風が吹いていたが、雨は少しも降らなかった。風は私の背中にはげしく吹きつけ、私を先へ先へと追いやってゆく。夜になるにつれて、風はますます速さを増し、うなり声は深く大きく、樹木は一方になびいたままだった。他の方法にねじれることもなかった。一時間に一度だって、枝をもとの通りにつき戻すことはない。梢の頂きは北の方へまげられたままだった。――雲ははてからはてへ、層をなして、急流のように流れてゆく。七月の日には青空はまるで見えなかった。
 シャーロット・ブロンテ「ジェーン・エイア

 妹のエミリ・ブロンテの「嵐が丘」の自然描写も読み応えがあります。荒涼とした風景が、主人公の復讐心を余すところなく表現しています。牧師の子として生まれた三人のきょうだいは、苦難の人生を余儀なくされます。家庭教師の経験のある姉のシャーロットは名声を得るまで生き永らえましたが、エミリとその兄は貧しいまま早生しています。

 もう一作、三島由紀夫が弱冠十六歳のときの作品「花ざかりの森」の自然描写を取りあげておきます。早熟な少年の焦燥感がよく表現されています。

 物見のほかはこれといって使い道のない五坪ほどの草がいちめんに生いしげいる高台に立つと、わたしはいつも静かなうつけた心地といっしょに、来し方へ燃えるような郷愁をおぼえた。この真下の町をふところに抱いている山脈にむかって、おしせまっている湾(いりうみ)が、ここから一目で見えた。(中略)夜など、灯をいっぱいつけた指貫(ゆびぬき)ほどな船が、けんめいに沖をめざしていた。

情景描写について。
 そもそも自然描写と情景描写を分類することからして、おかしい、まちがっているとお考えになる方も少なくないと思います。そうですよね。海や山に代表される自然のありさまは当然、情景描写に含まれます。それを、手前勝手に二つに分けているのですから、首をかしげる方がいてあたりまえです。
 ですが、どうしても、分けたい。
 情景描写と言わずに、身辺の風景と状況を描く文章と言えば、おわかりいただけるのではないかと思います。普遍性のつよい自然と、時代によって変化する人工物の相違を意識することで、物語の方向性がより鮮明になるのではないかと考えた結果、二つに分けたほうがよいという結論に至った次第です。

 この通りを東へ向かって、左手の、とある角から二軒目のところで家並みが途切れて、そこに路地の入口がある。ちょうどそこのところに、うす気味悪い建物が一棟、往来に向かって破風を突き出している。それは二階建で、一階に戸口が一つあるだけ、二階もうす汚れた壁で、窓は一つもなかった。
 スティーブンソン「ジキル博士とハイド氏

 本作では19世紀のロンドンの街並の情景が目に見えるように書かれています。一人の人間の中に二つの異なる性格があることを二重人格と悪い意味で使われますが、表裏一体の人がいたら会ってみたいものです。作者自身も隠された別の人格の存在を感じていたのだと思います。
 当時のロンドンでは、アヘンの使用は違法ではありませんでした。ちなみにシャーロック・ホームズは常用しています。
 作者のスティーブンソンはこのアヘンを、医師のジキル氏がつくりだした未知の薬物とすることで、獣のような姿のハイド氏を創りだしたのでしょう。都会ならではの小説だと思います。人工物の背景に人工的につくられた薬品。現代小説の多くが大都会、あるいはそれに準ずる場所を舞台にしています。

 余談になりますが、宝塚歌劇団の生徒のなかで、東京都出身者は本拠地のある宝塚市を「村」と呼んでいます。人工物が多い地域と自然豊かな環境の地域とでは、そこに暮らす人間の感覚も違ってくるように思います。視界に入る造形物が異なっているからではないでしょうか。

 西に窓のある三畳ばかりの松尾の部屋は、そこから入りこんでくる橙色の光線を吸いこんだ穴ぐら、という感じがした。たったいま西陽が射しているにもかかわらず、どこか澱んだ空気の感触は、その部屋が一日のうちの夕刻のほんのわずかな時間をのぞいては、陽の入らない状態にあることを想像させた。
 高樹のぶ子「光抱く友よ

 部屋の澱んだ空気は、男性の性格の一面を表しています。

心理描写について。
 ごく簡略に説明すれば、人間の行動の原動力は巧妙に隠されてると言われています。したがって、いかに心理を描くかではなく、何を隠すかが重要になってきます。

 フランツ・カフカの「変身」では、社会や父親との隔絶がカフカの分身である主人公を毒虫に変身させています。夢野久作もまた父親との関係に苦悩し、「ドグラ・マグラ」という難解なタイトルの小説を自費出版しています。狂気に取り憑かれた男を思う存分に描くことで、父親への憎悪を文学へと昇華させたのでしょう。上下巻ある作品は会話形式をとりながら心理描写が果てしなく続きます。

 われわれの気持ちが朝から晩までフンダンにクラリクラリと変化し、入れ換わって行く……(中略)重大な心理の変化がひっきりなしに起るのは、そうした種々雑多な、無量無辺の暗示が、引っきりなしにわれわれの心理遺伝を支配しているからで、それを自分自身気付かないでいるのは、そうした暗示と心理遺伝の関係の千変万化が、あまりに刹那的で、微妙、深刻を極めているからだ。

 これを読むだけで、心理描写がいかに難しいかおのずと知れます。彼の文章にあるように人の気持ちはクラリクラリと変化し、それを真正面から取り上げようとすればするほど、現実感が乏しくなります。ちなみに、エンターテイメント小説の主人公は目的のために一心に突き進む性格設定がされている場合がほとんどです。
 推理小説はとくにこの傾向がつよく、主人公は強固な意志をもち、謎を説き明かし、真実を白日のもとにさらします。がしかし、犯人と思われる複数の登場人物の心理は隠されています。

 これはある意味、純文学も同じで、芥川賞受賞作・古川真人氏の「立背高泡草」は冒頭、主人公の心理描写からはじまりますが、心の動きは微妙で読み取りにくい。親族で草刈りをする作業を通して日常における非日常性を描いているのですが、作者は読者に共感さえ求めていないように感じます。

 聖書とシェイクスピアのつぎに読まれていると言われるアガサ・クリスティー作品はミステリー小説の印象が強いですが、彼女にも夢野久作と同じように心のうちを書き綴ったと思われる数編の作品があります。その一作「春にして君を離れ」。裏表紙に「揺れ動く女の心を繊細に描く傑作」と解説されています。

 自分はこれまで、きわめて充実した、忙しい生活を送ってきた。(中略)洗練された生きかた――というのだろう、こんな風に均整のとれた、秩序だった生活をしてきた者が、実りのない無為に曝された場合、戸惑いを感ずるのは当然といえよう。教養があるだけ、有能なだけ、適応しにくいのだ。

 私は、この文章を目にしたとき、思わず笑ってしまいました。彼女の本心をかいま見たような気がしたからです。アガサは夫とではなく、一人旅を好んだそうです。オリエント急行でさえ彼女は一人で乗車しています。
 この物語の主人公は旅先で困難に遭遇し家族の大切さに気づくのですが、旅が終われば忘れてしまいます。心憎い結末です。
 物語(ストーリー)を重視するのか、心理の謎を追求するのかによって心理描写をどう書くのか、定まってくるように思います。

 例えば、下記にあげる「クレーブの奥方」には自然描写は一ヶ所しかない。「変身」の場合は、どこの国の物語であるのか書かれていない。また、「蜘蛛女のキス」という作品では、地の文がほとんどなく物語が会話で構成されています。

 冷たい毅然とした態度を示しさえすればいい。こういう態度をとることによって、彼女がヌムール公を愛しているという考えを彼の心から容易に一掃することができるにちがいない。そんなことをしたら、あの人がどう思うだろう、などとくよくよすることはない。      
 ラファイエット夫人「クレーヴの奥方

 主人公の女性が、恋愛を諦めようと努力することが描写されていますが、彼女の心はヌムール公にあることを表しています。

 もの悲しい天候が彼の気分をすっかりめいらせた。もういっとき眠りこんで、ばかげたことをみんな忘れてしまえたら、どんなにいいだろうなあ、と彼は考えた。だが、そんなことは望めそうにもなかった。
 フランツ・カフカ「変身」                          

 この文章だけではわかりづらいですが、主人公は、虫に変身してしまった現実を悲しんではいません。変身することで、すべての義務から解放されるからです。

「なぜ? どこが悪いの? お腹」
「ちがう。おかしくなったのは頭の中だ」
「おかしいって? 原因は何?」
「さあ、あんたがいなくなるからじゃないかな、よくわからないけど」
 プイグ「蜘蛛女のキス」                                                                   

 監獄に閉じこめられた二人の男の物語です。一人はゲイで、一人は反政府主義者。戯曲に似た会話体の小説です。官憲のスパイとして送りこまれたゲイの男は、ひたすら映画の話をします。もう一人の男は、最初は無視していますが、次第に、話のつづきをせがむようになります。
 この会話は、ゲイの男の出所が決まり、そのことを同室の男が嘆いているかのように読めます。二人は性的関係をもち、ゲイの男は男に依頼され、彼の仲間に連絡をとり、官憲に殺されます。
 読みすすむうちに同室の男は、ゲイの男を愛しはじめたのかと錯覚します。本心は、どこにあるか、言葉では表現されていませんが、おそらくゲイの男の愛を利用したのではないかと思います。

 あとひとつ、心理描写には重要な役割があります。
 物語の進展とともに主人公の心理が変化しなくてはなりません。
 J・D・サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」を、例文にあげて主人公の少年の心の変化をあげておきます。

「ねぇ、先生。僕のことは心配なさらないでください」僕はそう言った。「口先だけで言ってんじゃありません。大丈夫ですよ、僕は。いま、一つの時期を通り抜けようとしているだけなんです。誰だって、いろんな時期を通り抜けて行くんじゃありませんか?」
   中略
 僕みたいにひどい嘘つきには、君も生れてから会ったことがないだろう。すごいんだ。かりに雑誌を買いに行く途中なんかでもさ、誰かに会って、どこへ行くんだってきかれるとするだろう。僕は、オペラへ行くって答えかねないんだな。
   中略
「さっき言ったの、あれ本気? もうほんとにどこへも行かないの? あとでほんとにおうちへ帰るの?」彼女はそう言った。
「そうだよ」と僕は答えた。事実、ほんとにそのつもりだったんだ。僕はフィービーに嘘はつかなかった。
   中略
 フィービーがぐるぐる回りつづけているのを見ながら、突然、とても幸福な気持ちになったんだ。本当を言うと、大声で叫びたいくらいだったな。

 青春小説の金字塔と言っても過言でない不朽の名作です。独白形式で語られる本作は、都会で育ち、裕福な家庭であるが故に寮生活を強いられる少年の心のうちが余すところなく描かれています。
 妹以外の誰にも心を許すことができない少年は心の奥底で、果てしなくつづく黄金色のライ麦畑で、愛する人につかえてもらいたいと願っているのです。

人物描写について。
 人物描写には性格を表わす表現と、容姿を表わす表現の二つがあります。下記にあげた二作を読み比べていただければ、その違いがおわかりいただけるのではないでしょうか。

 例えば、とある教師の風貌や、癖に関する笑い話に、賛同して一緒に楽しめない。その場にいないだれかの失敗について、歩調を合わせて嘲ることができない。そのような会話になった時、固いものを飲み込まされるような居心地の悪さを感じた。              
 乙一「天帝妖狐

 五位は、風采のはなはだ揚がらない男であった。第一に背が低い。それから赤鼻で、目尻が下がっている。口髭も勿論薄い。頬が、こけているから、顎が、人並はずれて、細く見える。唇は――いちいち数へ立てていれば、際限はない。わが五位の外貌はそれ程、非凡でだらしなく、出来上がっていたのである。                   
 芥川龍之介「芋粥
        
 正直に申し上げますと、人物描写のことをすっかり忘れていたのです。トシのせいにしたくありませんが、なぜか肝心なことが近頃は頭から抜け落ちてしまいます。二重人格どころか、一重でさえ不確かになりつつあります。

行動描写
  人間の行動はその性格に由来しなくてはならないと言われるの はなぜか?
 人の気質は、行いに現われるからです。

 行動描写で、最初に思い浮かぶ作家はアーネスト・ヘミングウェイです。
 はじめて彼の短篇集を読んだとき、四十代だった私の印象は、「身も蓋もない」でした。短いストーリーであっても全体に貫かれている強靭な精神力が読みとれず、当惑するばかりだったと記憶しています。

 目の上のこぶを指でさわってみた。片方の目のふちに黒あざができたくらいですんでよかった。ただ乗りの報いは、これだけなんだ。安あがりというもんだ。こぶを見たいと思った。しかし、水たまりのなかをのぞきこんでも見えなかった。暗かったし、それに、どこの町からも遠く離れていた。ズボンで手をふいて立ち上がり、土手をのぼって線路へ出た。      
 ヘミングウェイ「拳闘家

「ニックもの」と呼ばれる作品群は、自伝的な色合いが濃いと言われています。この短篇は、主人公のニックが放浪の旅をする道中での体験が描かれています。無賃乗車をしたニックが乗務員に殴られて列車から突きおとされ、深夜の線路に這いつくばった場面からはじまる物語はよく言えば簡潔、わるく言えば殺伐としています。主人公が目のふちにできた黒いあざを、「ただ乗りの報いはこれだけなんだ。こぶを見たい」と、水溜まりをのぞく場面の文章は、読む者の意表をつきます。
 靄が立ちこめる中――、
 腹をすかせたニックは湿地帯に敷かれた線路の前方に焚火を見つけて近づきます。そこにいたのは耳の欠けた異形の男でした。自ら頭がおかしいと言う男は誰もが知るボクサーを名乗ります。二人が言葉を交わしていると、男の相棒の黒人が包みをもってきます。黒人がハムを焼き、パンの塊をだすと、男はニックにナイフを貸すように言います。黒人は貸さないように忠告します。激高した男がニックを罵り、殴ろうとした瞬間、黒人が立ち上がり、元チャンピオンの後頭部を棍棒で殴りたおします。そして、黒人はニックにサンドイッチをわたし、立ち去るように告げます。ニックはもといた線路にたどりつき、遠くにまたたく焚火をながめる場面で終わります。

 必要最低限の情景描写と心理描写――物語の軸となるのは行動描写と会話文です。初期の長編小説「武器よさらば」や「誰がために鐘は鳴る」などと比べると別人ではないかと思うほどです。
 上記の長編二作は、若い頃に映画をさきに観たせいでラブストーリーだと思いこんでいました。観てから読む派の私は大抵、映画のほうがよかったと思ってしまいます。とくに「誰がために鐘は鳴る」は、画面一杯の美男美女のラブシーンに目を奪われ夢心地になりました。そのシーンを文字で体感したいという邪な思いから原作を読んだところ、心理描写やら情景描写が果てしなくつづき、まどろっこしいことこの上ない。ある日、突然、本人もそう思ったのではないかと愚考するわけです。

 彼と同時代の作家に「グレート・ギャッツビー」の作者フィッツジェラルドがいます。二人とも戦争によって「失われた世代」の代表のように称されましたが、作風は真逆でした。フィッツジェラルドは中編小説を得意とし、読みやすく、わかりやすい。ひとりの女性を思いつづけ、命をおとすギャッツビー。典型的なラブロマンスは大評判になります。
 闘争心の強いヘミングウェイは後年、中編小説「老人と海」を書いたのではないのか。無駄なエピソードがひとつもなく、妻が死んだ日にも漁に出る爺さんが獲物のカジキマグロと死闘を繰り広げる物語で、男のロマンと哀愁があますところなく描かれています。

 ノーベル文学賞を受賞するまでヘミングウェイは通俗小説作家とみなされていました。彼の短篇作品は、女流作家としてすでに名をなしていた英国のバァージニア・ウルフから酷評されます。「おしゃべりをやめてよ」と。しかし、皮肉なことに、現代においては、長編より短篇のほうが評価が高い。

 ヘミングウェイは第一次世界大戦に参戦し、スペインの内乱にも馳せ参じます。狩猟と闘牛を好み、酒を愛し、虚無と暴力と死をテーマにした男性的な文体でいまも多くのファンがいます。後世のハードボイルド作家の多くはヘミングウェイの文体を参考にしたのではないでしょうか。
 書くことと同じくらい、激しく生きることを愛した彼の小説で貫かれているのは、人間の行動はその性格に由来しなくてはならないということではないかと思います。彼が行動描写にこだわったゆえんです。

 長く書くべきではないと承知していますが、描写の種類について一気に書きたいという欲求に勝てませんでした。
 お目通しいただいた方に、心から感謝申し上げます。


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