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ザッツ・ライフ【続編】


あらすじ
    
 アサミは医院の受付のバイトをするため、面接を受ける。古びた建物の医院に尻ごみするが、勤めることに。院長は無愛想な爺サン。上品な奥サン。それに二人の同僚。何をやってもヘマをするアサミに院長はクビを言い渡す。怒った父のミノルはアサミを伴い、医院に向かう。           


1 面接

 2時の約束だった。ベルを鳴らすと、すりガラスの小窓のついた両開きのドアごしに現われた老人は、「なんや」と詰問口調。
 頭のてっぺんがツルツルの禿げで、耳上にのこった髪は真っ白だった。
 ひと目で気圧されたアサミは、「面接に……来たのですが……」としどろもどろに言った。
「あがって、待っとれ」
 老人は聞き取りにくい早口だった。「あが、まっ、れ」にしか聞こえない
 石畳の広い玄関でスニーカーを脱ぎかけると、パチリと音がして頭上の灯りが消えた。
 アレレ、と顔をあげると、「診察室」と書かれたプレートのあるドアがバタンと音を立てて閉まり、どこのだれとも知れない老人はたちまちいなくなった。
 木造二階建のその医院は窓がない。薄暗いなんてものじゃない。北向きの待合室にある新聞の字がかすんで読めないのだ。
 消毒薬のにおいに黴(かび)の臭いが混じり、通りから一歩、中に入ると、異世界の様相を呈している。ミュージックビデオで見た、廃墟の病院に毒薬がまかれる場面を思い出した。

 ほんまに病院なんやろか……。
 
 パイプの脚の長椅子に腰掛けて待っていると、足元からしんしんと冷えてくる。暖房のスイッチも切れているらしい。いっそこのまま帰ろうかと思っていた矢先に、身なりは質素だがとても品のいい小柄な婦人が姿を見せた。

 アサミが立ち上がると、婦人のほうで、
「よく、お越しくださいました」
 と言って、これ以上は頭が下げられないといった風情で深々と頭を下げる。
 アサミは面食らった。40半ばの父とトシが変わらないように見える女性から、こんなていねいな扱いをうけた経験がなかったからだ。
 どう対応していいか、わからない。とりあえず、履歴書を差し出した。
 アサミには、職歴といえるものは何もない。父のミノルはウチで働けと言うが、10人ほどいるオジサンばかりの職場で半日、座っていると煙草の煙で黄色くなる。

 奥サンは長い間、履歴書を見つめていたが、ためらいがちに、
「お父さまはどんなお仕事を――?」
「神戸港に入ってくる船に電話を付けたり、外したりしています」
「電話……?」
 船舶は港外にいるときは無線機を使用するが、岸壁に着岸すると、家庭用と同じカタチの黒電話を設置すると説明した。
「めずらしいお仕事ですね」
「通信会社の下請けです」
 神戸、大阪、名古屋、横浜、東京の5都市にしかない職種だった。
「そこで、お手伝いされていたのですか?」
「いいえ」
 去年の夏休みに数日、手伝ったが、船舶の出入港時の時刻を代理店や警備員に頻繁に電話で確かめなくてはならない。外国人が電話に出ることもあって、話せるわけがない。
「ウチのことは、どなたから……」
 又従兄弟(またいとこ)のヨメの名を出すと、ああと婦人は声をもらし、
「このお近くにお住まいの方ですね。ときどき、子供さんが熱を出されたときに来られています。ここに勤めていただきたくて、ちょっとお話したことがありましたの。それで……」
 婦人はうつ向きかげんに、
「お母さまのお名前がありませんね?」
「父と2人暮らしです」
 父の再婚相手が自ら命を絶って、ひと月半しか経っていない。
 黙っていると、
「ごめんなさいね。つまらないことをお尋ねして……」

 婦人は山の手で生まれたようだ。去年まで通っていた隣の市の高校にもそれらしき生徒が幾人もいた。男子はどうだったか知らないが、女子は関西弁を話すグループと話さないグループに別れていた。
 アサミは小中校のときとかわらず、どのグループにも属さなかった。入れてもらえなかったいったほうが当たっている。

「いまいる方たちのお手伝いをしてくださるだけでけっこうなんです。主人が言いますには、指し図以外のことをするお方が一番、困るそうなんです」

 話を聞くうちに、診察室とのつづき部屋が準備室と呼ばれていることや、さらに奥に自宅があることの他に、最初に現われた感じのわるい爺サンがここの院長で、目の前の馬鹿ていねいな婦人が奥サンだとわかった。親子に見間違えそうな夫婦だった。

 その晩、父のミノルに話すと、「そうか」とうなずき、炊きたてのゴハンを茶わんにつぎ、その上に塩鮭をのせると、ポットの湯を急須に注ぎながら、梅干しを口に放りこむ。
「どこのアホが紹介したんや」
 隣りの区に住む又従兄弟のヨメのトミコが話をもってきたと言うと、
「自分が行ったらええんじゃ。アホンダラがッ」

 港で働くミノルは言葉づかいが荒い。ヤクザと変わらない。

「金がいるんか。小遣い、やったとこやろ。なんに使うんや」
 メシもろくに食わんとからにと、ミノルは口の中でブツブツ言う。
「食べとうデ」
「おれは、塩ジャケとラッキョがあったらええんや」
「お父ちゃんに似たから、あたしも偏食やねん」
 アサミは行きつけの和食屋で朝昼兼用の食事をし、夜はカップ麺を食べる。必要な買物は、又従兄弟のヨメがしている。
「特別に、一万くらいやったら、やらんこともない」
「アパート、借りて、独りで住みたい」
 ミノルは目を見開き、茶わんから顔をあげ、
「幽霊でも見たんか?」
「服や着物や化粧品やら……さわりたない……においがイヤヤ」
 嫁入り道具の箪笥、鏡台、食器など家中に、首を吊った元継母の痕跡が残っている。
「誰かに頼め」
「やってくれるヒトなんておらん」
 元継母の実妹が持ち帰るはずだったが、年が明け、四十九日が過ぎても一向にやってこない。
「お父ちゃんの新しい女のヒトは、どやのん?」
「あれな、しつこいから、別れた」
「半年と、もたへんのやなぁ」
「家におったらええ」
「あたしは、この家におるのがイヤヤゆーてるねン!」
 自分でなんとかするとアサミはタンカをきったものの、一人暮らしをする自信はなかった。1日、数時間、週4日、働いていくらもらえるのかもよくわからない。どのくらい用意すれば、アパートのひと部屋が借りられるかも――。

2 初日

 翌週の月曜日。電車に乗ったときから憂欝だった。仕事は簡単らしいが、できるのだろうか? 
 隣のN駅の交差点を下り、高架沿いに徒歩10分、下町と山の手のちょうど真ん中あたりに医院はあった。
 診察の開始が8時30分。8時に来るように言われていた。
 早めに着いたアサミは、一緒に働くことになる他の2人を待った。
 見るとはなしに診察室をながめた。
 
 建物の外観も古いが中身も負けてはいなかった。 
 ほどなく他の2人がやってきた。どちらも40代の主婦だった。
「よろしくお願いします」とあいさつをすると、「すぐにやめないでね」と言われる。
 声に実感がこもっていた。
 白衣に着替える診察室の奥の準備室は、壁がはげ落ちている。
 見回す。
 必要な物と不要のものとが渾然一体となっている。
 ツマミのないヤカン、使わなくなった薬瓶、セピア色に変色した医学書、ブリキの流し台、骨の折れた傘など、用済みの品々が至る所にうずたかく積まれていた。
 アサミの頭には、医者イコール金持ちの思いこみがあったので、廃品回収業者の倉庫かと思えるような室内のありさまにたじろいた。

 靴下が汚れる気がしたが、手始めにハタキをかけるように言われる。
 先輩の2人はモップとバケツを手にする。
 古いストッキングをくくりつけた竹の棒を手渡される。
「これで……?」
 2人は笑いだし、診察室は私たちがやるので待合室を適当にハタけばいいと言う。

 幼い頃から家事とは縁がなかった。掃除・洗濯はミノルがした。元継母が来てからは自分の下着だけは洗っていたが、雨が降っても、乾しっ放しのことがしょっ中。いずれ乾くと思っていた。
 元継母が2階のベランダにシーツを乾しても、階下から怒鳴り声が聞こえるまで放置した。あの日、なんで、洗濯物を取り入れようとしたのか。そのせいで、従兄と元継母の不倫現場を目撃してしまった。歯車はそこから狂ったのか。もとから狂っていたのか。

 不倫をする人の気持ちがワカラン。

 アサミは、待合室の至る所をハタいた。古いナイロンストッキングは、風景画の額縁や柱の傷や壁紙のはがれた箇所に触れたとたん、静電気が起きてひっかかる。引っ張ると、額はずれるし、柱の傷や壁紙はさらにひどくなる。

 観葉植物をハタくと埃が舞い、咳き込んだ。

 診察室のドアを開け放ち、昨日の爺サンが出てきた。
 目頭に目ヤニのついたハゲ頭を突き出し、「掃除――誰が――じゃ!」
「埃が残ってますかぁ?」
 モップをかけている2人のうちの1人がおっとりと答える。
「目が見えんのかーッ」
「メガネを買いかえんと――」
 もう1人は鼻にかかったメガネを外し、レンズに息を吹きかける。
 爺サンは、ウググゥと口の中で唸りながら、準備室の奥へと消えた。
「毎朝の日課やから、気にせんでいいからね」
 おっとりサンは、乱ぐい歯を見せる。
「気にしてたら、気がヘンになるから、目ヤニだらけの年寄りの犬が吠えてると思たら、なんてことない」
 面長のメガネさんは言うけれど、築年数の古い我が家の廊下と同色の床板は、埃が落ちていても見えないはずだ。
 爺サンは千里眼かもしれんと思っていると、患者が押しかけてきた。待合室はたちまち人であふれた。みな、使いふるした薬袋を受付の窓口にならべる。診察券の代わりらしい。

 こんな小汚い医院にかかる患者が大勢いることにびっくりした。

「ええぞぉ」と爺サンが言うと、高齢女性の患者は這いつくばるようにして、ゆるゆると診察室へ入る。
「どこが、わるいんじゃッ」
「頭が痛いんですぅ」と、患者。
「誰でも、頭は痛い。熱はあるんか?」
「ありませんけど、こめかみがキリキリしますねん」
「どもないのに、くんなーッ。病気になってからこい! 月千円の初診料ですむからゆーて、しょうもないことで、わしの手をわずらわすなーッ」
 爺サンは常人ではなかった。激情型人間と言っていいのか、わずかのことでも、立腹すると止まらなくなる気質のようだ。
 驚くことに、怒鳴るときは、言語が明瞭になる。
 ウググゥ、ウググゥと唸りながら、カルテに何やら書きこむと、おっとりさんが受け取り、メガネさんに渡す。
「つ――」と爺サン。つぎと言ったらしい
 患者が入れ替わる。
 メガネさんはカルテを見て、舛状の棚から錠剤を取り出し、くしゃくしゃの薬袋に入れる。
 朝イチの高齢女性患者は、その薬袋を押し戴いて帰る。
「クスリ、出るんですか?」
 アサミは納得がいかない。
「まあね」とおっとりさん。「高齢者は、月一度、初診料の千円を払うと、あとは何回きても無料なんよ。ちょっと前は、その千円もいらんかったんよ」
「ほんまですか!?」
「戦争を経験してきはったからねぇ、優遇されてるの」

 見るもの聞くものが、未知との遭遇というか、信じられない光景というか……。
 順番を無視して、診察を受ける人、ちよっとのあいだでも待たせると黙って帰ってしまう人、診察の終わる間際にやってきて点滴をしてくれという人、そして何より、聞こえているのか、いないのか、わからない沢山の人たち。

「午後3時からはじめて、8時間おきに飲んでください」
 とメガネさんが言って渡しても、患者さんによっては診察室にもどり、「センセ。夜中の3時に起きて飲むのはえらいですワ」と、直訴する人がいる。
 薬の数が合わないと言う人は数えきれないほどいた。そのたびに爺サンは、阿修羅のごとく怒り狂った。
「ちゃんと説明せんかッ。どういう言い方しとるんじゃ。患者にわかるようにいえーッ」
「言いました」と、メガネさんが仏頂面で返しても、
「聞こえとらんのやから、耳元で言わんかーッ」
 メガネさんは喉がおかしくなると咳き込みながら、高齢患者の耳のすぐそばで、
「社会保険のォ医療費がァ、今月からァ、月はじめの2度にかぎってェ、高くなりましたからァ、息子さんにそう伝えてくださいッ」 
 と大声で言っても、
「へぇへ、連休のお休みは土曜日からでんな」
 という返事が返ってくる。
「声が小さいンじゃ!」
 そう言う爺サンの声がもっとも聞き取りにくい。大声なので、本来なら聞き取りやすいはずなのだが、滑舌がわるい。
「声がーーじゃ」にしか聞こえない。
 老いさらばえた奇怪な動物が吠えているようだった。

 読唇術で、聞き取らなくてはならない。

 12時30分に午前中の診察が終わる。点滴の患者が終わるのを待つと、午後1時に。アサミの近所の医院より、診察時間が前後30分長いので合わせると1時間多い。
 アサミとメガネさんは帰るが、おっとりさんは3時からはじまる午後の診察があるので居残る。7時30分まで勤めるのだという。 
 メガネさんとおっとりさんの2人は、木曜日と土曜日をのぞいて、交互に午後の診察時間が終了するまで働く。
 看護婦の資格がないので、アサミ同様に時間給のアルバイトだ。

 帰り道――メガネさんと駅までいっしょに歩く。
「時間給がヨソより、2百円高いねんよ」とメガネさん。「午後の診察時間までの待ち時間もつけてもろてるし……夏と冬には金一封がでるし……」
「保険とかないんですか」
「バイトやから」
「でも、看護婦さんとおんなじ仕事にみえるのに……注射をしてないだけで……」
 注射は奥サンの役目だ。
「資格をとろうかと、考えたこともあるけど、子供にお金がかかるから……そうもいかへんのよ……あんなセンセでも辛抱せんとしょうない……奥サンが気ィつかってくれはるからね」

 家に帰ると、いないはずの又従兄弟のヨメのトミコがいた。
 化粧が濃い。唇がタラコに見える。
 不快な気分になる。
 彼女の仕事は、朝の2時間で終わっているはずだ。
 又従兄弟が、ミノルの会社で働いていることもあり、元継母がノイローゼになって以後は、家事の手伝いにきている。
「アサミちゃんはええわねぇ。気ままに暮らせて」
「トミコさんも、好き勝手してるって、聞いたけどなァ」
「あたしが、どんな思いで毎日、暮らしてるか、あんたには、わからへんわよッ」

 言いたい放題、したい放題に暮らしているように、人目には映るらしい。そのせいで、アサミは親戚中の鼻つまみものだった。

 事務所に電話をかけた。ミノルは不在だという。もしやと思うと、うっとおしい気分になる。

3 2日目

 翌朝、無数の継ぎ跡がある、白衣の腕まわりのゴムがゆるんでいたので引き抜いた。
 ゆるんだゴムを捨てようとすると、奥サンはとてもおだやかに、「とっておきましょうね。いつか役に立つかもしれませんからね」と言った。
 慈母観音のような表情だった。
 輪ゴムで袖口を止める。ハタキをかける前に、待合室の照明を点けようとすると、奥サンは、
「患者さんが来られてから点けましょうね」

 なんでやねん!

 埃が飛んでも見えんやろと、アサミは昨日より一層、待合室だけにとどまらず受付の細長い小部屋までハタきまわった。
 50音順に並んだカルテの棚も埃が積もっていた。
 おっとりさんとメガネさんは適当に手抜きをしているのだろう。
 アサミにモップで床をふけと言わない。バケツの水ですすいだモップをきちんと絞れないと思ったようだ。

 きのうもトミコに、「手だけきれいやねぇ」と言われる。
 顔が悪いという意味だったらしいが、指が細い上にカルシュウム不足のせいで骨がフニャフニャなのだ。「あたしなんて、二軒分の家事でボロボロやわ」と睨まれた。

 自分から手伝うと言ったくせに、女はこれやから好かん。

 尿を摂った紙コップにリトマス試験紙とそっくりの細長い紙を入れる作業をおっとりさんに習っていると、
「ア――ッ!」
 爺サンが何を怒鳴っているのか、皆目、わからない。
「暖房、暖房」とメガネさんが私にささやく。
 ボケッと突っ立っていると、
「ナニ、しとんじゃ!」
 待合室にある箪笥ほどの大きさの暖房機のスイッチを切れと言っているらしい。
 待合室をのぞいても、どこを開けて、押せばいいかわからない。
 おっとりさんが紙コップを片づけて出てくる前に、診察室からハゲ頭が出てきた。
「役にたたんやっちゃ!」
 見てわからんのかーッと叱られる。

 クソジジィ、おまえがやれと怒鳴り返したい。

 受付の小部屋にもどると、おっとりさんか眉をしかめて言う。ほんの少しでも、暖めすぎたりすると、先生は罵声を張り上げるのだそうだ。
「温度計とにらめっこして、スイッチを入れたり消したりせぇへんと怒鳴られるねんよ」
 メガネさんはおっとりさんの話にうんうんとうなずく。
「待合室の照明もやけど――」とおっとりさんはつづける。「患者さんのいない時は、かならず消さんと叱られる」
「先生からのじきじきのお達しやねんよ」とメガネさん。
 面接に来た日に、電気が消されたのはアサミが患者でなかったからである。
 なんでそこまで節約せんなんねんと正直思った。ミノルのよく言う必要経費やろ。
 
 12時30分まで、ボーッと突っ立っていた。

 壁の半面に取り付けられた小さく区切られた棚には、錠剤や茶色白の小瓶が所狭しと並んでいる。もちろん、日本語の名前などない。
 おっとりさんとメガネさんはコマネズミのように立ち働く。
 薬を小鉢ですり潰し、紙コップにとった尿を検査をし、血液検査で採取した小さな試験管を1日に1度やってくる業者に渡し、患者1人ひとりの治療費を手のひらサイズの電卓で計算している。
 アサミはミノルの事務所にある仏壇ほどの大きさのパソコンはもちろんのこと、電卓も使えない。
 指に力がないこともあるが、何度やってもキーを押しまちがうのだ。

 やめるつもりで帰り支度していると、奥サンが足音を忍ばせてそばにきた。

「奥へいらっしゃい」と言う。ついていくと、物置同然の準備室のドアを開け、廊下を奥へ進んだ。
 玉砂利を敷き詰めた和風の坪庭に面した洋風の応接室だった。
「お掛けになって」
 つる草模様のソファに座ると、イギリスの映画で見るお茶セットが出された。この家のインテリアはどこかちぐはぐだった。
「一日の勤勉は、つぎの日の勤勉となります。一日の怠惰は、つぎの日の怠惰となり、勤勉を困難なものにします」

 じゃかましい!
 
「わたくしね、お医者さんや看護婦さんが何人もいる病院の家に生まれましたのよ。ここに嫁いだとき、それはそれは驚きました。なんども実家に帰ろうと思いました。おわかりよね。でも、先生のお仕事を手伝ううちに、ここで生きる意味を考えるようになりましたのよ」
 1週間、辛抱するようにと奥サンは言った。そして、薬壜や薬のならんだ棚の絵を描いた用紙を渡してくれる。薬の名前も記入してある。素人とは思えないイラストだった。

4 3日目

 質実剛健。この医院のモットウをひと口で言いあらわせばこの言葉につきる。用紙1枚、ボールペン1本、アルコール綿ひとつぞんざいに扱えない。紙バンソウコウはなるたけ短く、薬袋は破れるまで患者にもってこさせる。まちがっても新しい薬袋を渡してはならない。カルテは書き損じた古いカルテをインク消しで消して使い、トイレットペーパーはひと巻きづつ、缶に入れて手渡され、ゴミ袋は量の多少にかかわらず1度に1枚と定められている。

 3日目ということもあってか、モップをかけるようにおっとりさんに命じられる。バケツに入れて濡らし、水気を取ろうとしただけなのに根元の柄が折れた。

 先輩2人は、しめらすだけだったにちがいない。

 メガネさんが予備の柄とこっそり交換してくれたので事なきを得たが、血圧を計るときに使うゴム管を患者の腕に巻けと言われて、高齢女性の細い腕に巻きつけて結んだとたん、ちぎれた。
「どうやったら、ちぎれるねん!」と爺サンはよく聞き取れる声で怒鳴る。「括血帯をひきちぎったもんは1人もおらん!」

 クラスで最低の握力しかなかった。
 もしかすると、握力計がまちがっていたのか?!

 右往左往するうちに、診察台のシーツカバーとスリッパとをそれぞれ再起不能にした。

「おまえなーッ」
「引っ張ったら、破れました」
「破れるはずがない!」
 スリッパまでアカンようにしてからにと、ウクグゥウググゥと爺サンは悔しげに唸る。
「爪先が破れただけですから、ガムテープを貼ったらどうでしょうか。もうダメやと思いますけど……」
「ばかたれーッ」

 ここでは未来永劫、物品は破損してはならないのだと学ぶ。

 夜ゴハンをミノルと食べる約束をしていたので、自宅に近い商店街にある洋食屋に行くと、ミノルは先に来ていた。
 とんかつ定食を注文し、黙っていると、
「つらいやろ?」と、笑いをふくんだ声で言う。
「まあまあや」
「三日坊主いうことわざがあるから、ようもって、今週いっぱいやな」
「あたしのこと、バカにしてるやろ」
「ソロバンや、学習塾や、習字やゆーて、ひとつでもつづいたもんがあるか、ないやろ。三ノ宮の英会話教室まで行ったなァ」
「ブラジルに移民したかったから習いに行ってんけど、ブラジルは英語やないゆーからやめた」
 ミノルは水をひと口飲み、のけぞって笑う。
「嘘つけ。しょうもない連中と知りおうて、夜遊びを覚えたからや」
 ミノルは、車の運転をせんかったら飲むのになぁとため息をつき、
「大学へ行かんのやったら、簿記の学校へ行け。帳簿のつけ方をなろうてこい」
「数学がいちばん嫌いやのに」
「簿記と数学は別もんや。伝票の数字をパソコンに打ちこむだけで、ややこしい計算書が一瞬でできる」
「お父ちゃんがしたらええやん」
「おれは寝る間もろくにないほど忙しい。手つどうてほしい。理屈がわかっとらんと打ち込むだけになる。おれの言うことがわかるようになるには、何年もかかるやろなぁ……」
「こう見えても、ヨソではきちんとやれてるねん」
 ミノルはアサミをじっと見つめると、
「あんなことがあって、荒れる気持ちはわかるけど、つぎのことを考えんといかんのとちがうか?」

 ミノルが真面目腐った顔つきになると、アサミは不安になる。

「神戸市の職員はアホしかおらん。コンテナバースを2つもつくって団地や病院を建ててどないする気なんや。騒音やなんやら言い出すことはわかってたことや。夜間の荷役作業を禁止して、岸壁手数料を値上げしよった。サビれて当然や。おれは親父が海軍やったから、浜の仕事が好きやが、もう神戸港はおしまいや。アメリカさんは賢い。真っ先におらんようになった。コンテナヤードはガラ空きや」
 アメリカの船会社の名をあげて、ミノルは薄っぺらいとんかつをひと口、食べただけでコーヒーを注文し、煙草を吸いはじめる。
「食べへんのに、なんで注文するん?」
「店にわるいやろ?」
 ミノルが隣の席に置いている弁当箱をひとまわりおおきくした電話機が、鳴った。ミノルはアンテナを立てると、受話器で話した。
 出航船の時間が変更になったらしい。
「この移動体電話(携帯電話)が小型化されたら、固定電話をあつかう船舶電話の仕事は確実におわる。明日か、明後日か、それはわからんが、近いうちにそうなる」
「そんなしょうもない話するために、呼び出したン?」
 ミノルは頬を引き締めると、
「ろくでもない連中とは、付き合うな」
「それは、そっちのことやろ」

 アサミは早熟な子供だった。ミノルが女たらしだったおかげで、男と女がナニをするのか、物心ついたときから知っていた。
 相手を選ばないミノルのようになれたらと、いくども思った。そのせいか、苗字も知らない遊び仲間からは、セックスをしたわけでもないのに「初物ぐい」と陰口をきかれた。
 男でも女でも、二人きりで話すと、退屈な映画を見ている気分になる。学校でもそうだった。においが鼻につくのだ。頭髪のにおい、運動靴からもれる靴下の饐えたにおい、整髪料や香水のにおい、口臭、そして腋臭……。

 元継母が自殺をほのめかすようになって以後、三ノ宮で知り合った遊び仲間と、ぐじゃぐじゃと愚にもつかないおしゃべりをし、オールナイトの映画館で3本立てを見ても心は浮き上がらなかった。
 外泊した日、ミノルには、男友達がいるように装ったが、そんな相手はいない。心配させたかっただけなのかも……。

 店の外に出ると、街の空気に、夕闇の気配が忍び入っていた。
 電飾看板やネオンが灯っても、寂れた街並は華やぐことがない。

5 2週目

 アサミは先輩の主婦2人から「壊し屋さん」のあだ名を頂戴した。
 粉薬をつくるさいに使う分包器は、壊し屋の手にかかるとたちまち原型をとどめない形になった。爺サンの年齢とかわらないその器具は頑丈だが、融通がきかなかった。故障しても、メーカーに部品がないというシロモノなのに、アサミは短いあいだに文字盤をずらし、ねじを飛ばし、スイッチを壊した。

 爺サンの怒るまいことか。

 聞くにたえないがさつな声音で、いつまでも小言を言い、唸りつづける。注射だけの患者さんに胃腸薬を渡した日には、10分間はののしられた。反論は許されなかった。過失の一端が爺サンにあったとしても(爺サンの書くカナ文字は読み辛かった)、それを指摘することは言語道断。常に絶対服従が鉄則であった。

 生まれつき不器用なアサミは、信じられないような失敗の数々を繰り返した。
「なんでまちがうねん。同じ、まちがいをするにも、道理におうたまちがいをせんかッ。いままでこんなまちがいをしたもんは、1人もおらん!」

 何かあれば、1人もおらんが爺サンの口癖になった。

 欝症状の人に、下剤を渡したときなど、殺されるかと思うばかりの叱られようだった。
 患者さんからも、
「下痢がとまらんで、どないなったんか思いましたワ」
 と訴えられたときは、よほど、死んでお詫びを致しますと言おうかと思った。が、待てしばし。アサミは受付係という名目で、週4日、午前8時から12時30分まで雇われたのだ。
 薬剤師ではない。なんの資格もない未成年の女子がカルテを読み薬を渡しているのだ。個人病院では経費のこともあってか、黙認されているらしいが、深く考えると、これは法律に反するのではないか。

 ミノルに愚痴ると、「万が一、労基法どおりに、おれが働くとする。会社は1日で潰れる。他の連中には、休んでもらわんならん。おれは寝てる時間以外は働いてる。そこの医者もたぶん、そうしてる。そうせんと、世の中はまわらん」
「世の中をまわすために、生きてへん。しんどいんやったら、さっさとやめたらええやン。誰もしらんしょうもない仕事やのに」
 アサミが憎まれ口をきいても、ミノルはけっして腹を立てない。
「おまえには、負ける」と言って笑う。

 ミノルの言う寝てる時間というのは、女性と遊ぶ時間も含まれているにちがいない。

6 一難去って二難   

 40代の男性の尿を、80代の女性の尿として検査に出した。その場で、正直に告白していれば、命はなかったと思う。
 5人分の尿を採ったはずなのに、4人分しかない。3人まではだれの尿か確認できたのだが、あとの2人がどうしても確かめられない。1人は、背中に刺青のある男性で聞くにきけない。もう1人は、1度採尿するとつづけて2度は出ないというお婆さんだった。
 ええい、ままよと、ひとつの尿コップから2本の試験管に移し採った。
 蛋白が下りているかどうかは、付箋紙に似た色つきの紙を浸して確かめられるが、それ以上の検査をする場合は臨床検査所に送らなくてはならない。

 検査結果は2通とも異常なしだった。同じ人のものなので、同じ結果が出るのは当たり前のことなのだが、この話をミノルにすると、
「検査に出してないほうの人に病気があったらどないなんねん」
 などと、ややこしい問題を提起した。
「2人とも、元気そうやから、だいじょうぶや」

 不安はあったが、次の日には忘れていた。

 しかし、天罰はくだる!

 次の週、診察にきたお婆さんに検査結果を書いた紙を渡すと、「わたい、出ぇへんかったから、検査してもろてません」と言ったのだ。
 奥サンがアサミをかばうつもりで、「以後、わたくしが気をつけます。まだ慣れてらっしゃらないから、大目に見てあげてください」と言ったとたん、爺サンは顔面を真っ赤にし、ナニを言っているのか、わからない言葉をわめきちらした。
 祈るように胸の前で握った奥サンの手が震えている。
「バイタ」という言葉だけが、耳に残った。
 待合室も受付も静まり返った。

 それ以後――、

「脳みそは使わんと、頭とはいえんのじゃッ」とわめくのが、爺サンの口癖にくわわった。

 わたしの脳はウニなのか?

 先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし、ということわざがあるが、K大医学部出身の爺サンは、「ワシはエライ」と信仰にちかい信念を持っている。その一方で、妻や使用人などニンゲンだと思っていないフシがありありと感じられる。
 何かあれば、いつでも、「オイ」。ヒトを呼びつけるのに「オイ」はない。それ以外の呼び方をこのジジィは知らなかった。
「オイ、カルテ。早よ、せんか。何をモタモタしとんじゃ。カルテやッ。オイ」
 全自動筆記具ではないのだ。カルテに住所・氏名を記載するのに1秒や、2秒ですむはずがない。しかし、必死で書いているあいだにも、
「オイ、検尿」
「オイ、体重」
「オイ、点滴」
「オイ、薬」
 黙れ、クソジジイとなんど言いかけたことか。しかし、固く口をつぐみ、検尿の紙コップを出し、体重計を出し、点滴をぶらさげる棒状の器具を引き出し、カルテをメガネさんに差し出す。
 立ち働いたおかげで、ダイエットにはげむことなく体重が3キロ減った。いつのまにか、全身が軽くなっていた。

「勝手な判断は必要ない」ということを教えられた。「むつかしいに考えンでええんじゃッ。ワシの言う通りに動け!」とおっしゃるのだ。
「オイ」だけでは足りずに、猜疑心の強い爺サンは診察中も、奥サンやアサミたちの言動をたえずチェックしていた。だれに何を言ったか、だれから電話がかかったかなどなど……。
 その網をかいくぐって、失敗をゴマカスのは容易ではなかった。
 貼り薬を渡し忘れたときは、奥さんが郵送してくれた。保険書を返し忘れること、お釣りをまちがえることは毎度のこと。数えあげればキリがないほど短い間にイロイロ失敗した。
 奥サンは身代わりになって叱られてくれた。 
 憔悴している様子が見てとれる。爺サンが大声を張りあげるたびに、奥サンは全身をビクッと震わす。
「先生は無駄が、お嫌いなのよ」と奥サンは自分に言い聞かせるように言った。「あるものを大切に使うことを、求めてらっしゃるの。厳しいのは、大切なお仕事だからよ」

 こまごまとウルサイのだ。
 とくに薬品の管理には厳しく、あと何錠と数えられる状態にならないと、爺サンは注文しなかった。
 在庫はほとんどなかった。同じ薬が重なって出たりすると、たちまち底をついた。にもかかわらず、不審なことがわずかでもあると爺サンは怒鳴り散らす。
 奥サンは怯えた目の色で、あるはずのない薬を捜し回る。
 薬屋さんに対する先生の態度も、尋常では考えられなかった。
 自分が目を通して、1000錠たのんでおきながら、100錠しかいらなかったと言い出して突き返すのだ。むろん、封の切ったあとのことである。
「ワシとこが、1000もいらんとわからんのかッ」
「すンません。気ィがききませんで」
 と薬屋さんは謝る。理不尽だとけっして抗弁しない。
「しょうありませんワ。泣く子とセンセには勝てません」
 とこっそりボヤくだけで、薬を引き取ってくれる病院を探す気配もない。
 奥サンはそんなとき、製薬会社の営業マンをこっそり呼んで、お金を渡している。
 理不尽な状況に耐える奥サンの気持ちが、アサミには理解できなかった。

 若い頃の爺サンは往診や休日診療をいとわなかったそうだ。奥サンの話によると、深夜でも、患者さんを診ることがたびたびあったという。
「ゆっくり眠れる日が数えるほどしかありませんでした」
 そのせいで、心臓をわるくしたと奥サンは言った。

 奥サンは心臓が悪いのか……。それで子供がいないのか。

 奥サンの父親は大きな病院を経営していたので、家族が手伝う必要はなかったそうだ。
「先生はわたくしを頼ってくださるので、それが生きがいですのよ」
 奥さんはこうも言った。
「いまも、一番叱られるのが、わたくしなの。喜ばないといけないって、いつも思っていますの。そうでしょ?」

 罵声を浴びせられることを、喜びとしなくてはならないのか……?

 奥サンの瞳の奥には、陽炎をおいかけているような茫洋とした輝きがときおり、見えるのはなぜか……?

 アサミはミノルが再婚したときから、目に映る景色に見切りをつけたいと思うようになっていた。反面、襟首をつかんではなさないような情熱に拘束されたいと心のどこかで願っていた。

 奥サンも同じことを願っているのではないのか。

7 老臭

 爺サンは、女性に触れることを人生の薬味と考えている様子だった。通りすがりのふりをして、おっとりさんやメガネさんの背中に自分の出っ腹を押しつけたり、うなじや肩をいきなり揉むのだ。
 アサミは臭いでジジィの所在を察知し、居場所を変えた。
 爺サンは体臭がきつかった。歯槽膿漏とアンモニアを合わせて2で割ったような病的な臭いがただよい、鼻腔から脳まで不快にした。
 たおやかな香りの漂う奥さんは気づいていないのか、それとも、アサミのように息を止めて接近しているのか、臭気を苦にしている気配はなかった。
 お触りをけっして許す気のないアサミが接近してくる先生を睨みつけると、突然、好々爺の表情になり、
「人が見とるところで、堂々と触るのはセクハラやないねんで」
 などと言う。

 診てもらう患者さんたちはあの臭いにすら信頼感を寄せているのかもしれなかった。それとも、鼻詰まりの患者さんが多数をしめているのか……。

 ちょっと色っぽい女性患者がくると、「元気か」などといって、抱きついた。抱きつかれたほうはエライ迷惑だと思うが、なぜか、またやってくる。不思議でしかたがない。
 アサミなら、2度とこない。
 色っぽい患者と、引退した同業者にはある程度の礼節を心がけている爺サンは、見るからに年寄り臭い人は気に染まない。偏見かもしれないが、先生は、そうした人たちに言を左右して恥じないところがあった。

 ある高齢女性は腰の低い、ていねいな物言いの人なのだが、爺サンは冷淡で通していた。それがある日、何を思ったのか、
「あんた、毎日、こんと治らんよ」
 と言った。腰痛にくるしむ高齢女性はレーザー光線の温熱治療を受けながら、顔を輝かせた。
「毎日、来さしていただいてよろしんですか、センセ」
「来たらええがな」
「ほんまですか、センセ。ほんまに来てええんですね!」
 彼女はこれまで週に一度の割合で来院していたらしい。
「おいで」
「よろしゅうお願い致します」
 と白髪頭を何度も下げて帰っていった。
 翌くる日、彼女は喜びいさんでやってきたが、爺サンは別人になっていた。
「なんしにきてん? 昨日、クスリは出したやろ。忘れたんか?」
 彼女はひどい仕打ちだと怒るわけでもなく、まるで、自分の失態でもあるかのように心苦しい表情を浮かべただけだった。

 なんでヨソの病院にかからへんねん!

 アサミは苛立つが、彼女はいつものように、
「ありがとうございます」
 と二つ折りになって、礼を述べると帰って行った。そして、次の日からはまた週に一度のペースに戻った。
 患者には小さい丸椅子に座らせ、自分は背もたれのついた特大の肘掛椅子にふんぞりかえっている医者は、こんなふうに不当な扱いを受けながら礼を述べたことがあるだろうか。
 おベンキョウができて、社会的地位の高い職業に就くということはオールマイティを手にすることになるのか。ヒトのことはいえない。アサミだって、そうなりたいと心のどこかで思っているのにそうなれないから、生きていることに絶望したのではないのか。しかし、ナットクがいかない。
 医者だという理由だけで、何を言っても何をしてもいいはずがない。
「ゆーたやろが。わからんことは勝手にするなッ。いちいち聞け」
 で、おたずねすると、
「なんべんいうたら、わかるんじゃ! 感度の悪い女は、1人で足り取るッ!」

 感度が悪いという言葉にひっかかる。意味不明である。
 ふと気づいた。爺サンは、心臓を患っている奥サンには、触れないのではないかと。
 労わっているのか?
 首を横に振る。
 バイタとはもしかすると、売女のことなのか?

8 事件発生

 次の日、爺サンの様子がいつにもまして険悪であった。過ちを犯すまえから腹を立てられてはかなわないと警戒していると、奥サンがそっと耳打ちした。
「先生は、ある事件で怒ってられるのです」
 あまたの失敗がウニ頭にうかんだ。あれか、これかと考えて、勝手な憶測をめぐらしていると、
「医師会の集まりで、若い先生と衝突なさったんです」
 と言う。
 詳しく聞くと、麻雀をしていて、喧嘩になったのだそうだ。
 しょうもない、と思っていると、
「先生がほんのちょっとまちがいなさったのを、若い先生が見咎められたそうなの」
 要するに、若い先生は、爺サンのフリテンを見逃さなかったようだ。賭事ならそれは当然のことだと思うが、爺サンはこれぐらいええやないかと、先へ進もうとしたらしい。ところが、若い先生は、麻雀を誤魔化すようなことを平気でするなら、不正請求もしてるんだろ、と言ったという。
「うちの先生はそういうことは絶対になさったことがないので、それはそれは激怒されて――」
 で、爺サンはあろうことか、若い先生の勤める病院に押しかけたが、敵もさるもの、
「一般論としていったまでです」
 と言い抜けて、謝る気配を微塵も見せなかったという。
「今後、医師会に出入りさせん」
 と爺サンが脅迫すると、
「けっこうですよ。はじめから入る気はありませんでしたから」
 と言い返したらしい。怒り心頭の爺サンは再度、若い先生を呼び出したところ、
「なんじゃい!」
 クソジジィと、ヤクザのようにすごまれたという。それからというもの、先生は、知り合いの医者という医者に電話をかけまくり、事の顛末を事細かに報告した。というよりも、若い先生を孤立させるための包囲網を着々とつくった。

 毎朝のように、受付のダイヤル式電話器をわしづかみにし、「弁護士にも相談した、いざとなりゃ、名誉毀損で訴える腹積りや」と、口角アワをとばして滑舌よく怒鳴る。
 相手が診察中であろうと、会議中であろうとおかまいなしなのだ。居留守を使われても、ピンとこないのか、
「なんの会議や? いつごろ終わるねん? だれとだれが出る会議や?」
 たまにヒマな医者がいて、話に耳を傾けようものなら、
「アイツは問題児らしいな。ワシの義理の弟と同期になるんやが、頭がおかしいいうので有名らしい。ナニナニ、そういうことは言わんほうがええてか? うん、そうか。しかしコトが起きてからでは遅いからな、医師会で取り上げよと思うとる。文書にして、提出するつもりや。ナニ? ふむ、ふむ。口外はしてない。あんたの耳にだけ、ちょこっと、入れとこう思てな。アイツは、いずれ問題を起こすヤカラやで――昔、アイツに似た男が、薬屋の営業マンにおったんや。ふむふむ。ろくでもないヤツやった。ヤクザそっくりの物言いでな。そやそや、そいつや。二枚目を鼻にかけやがって――そこら中の看護婦だけやない――思い出すだけで、胸が焦げるんや」

 長電話は女の特権のように言われているが、男もするのだとわかった。
 これは、ストレス解消に一番効くらしい。
 が、先生の怒りは容易に溶けなかった。こういう執念深さがあればこそ、若年の頃、おベンキョウができたのだろうか。アサミもふくめて、学力に優れなかった者には言うにいえないコンプレックスが終生あると言っていい。
 スネに傷もつ身という言葉があるが、アタマがわるかったという思いはそれに似ていて、心の澱となって消えることがない。
 爺サンにはそれがない。自信満々。おれの前をあいさつなしに横切るやつは容赦しない、といったヤクザ顔負けの態度には辟易するが、羨ましいとも思う。
 他人がどう思おうと、おれこそはこの宇宙における帝王なのだと君臨するのだ。なんたって、人の命を預かる医者なんだから、すべての欠点を補ってあまりある。1人や2人を誹謗中傷しても、一生のうちに何人も救える。アサミに救えるのは捨て猫くらいなものだ。

「もう、およろしいのでは……」
 奥サンが横から言うと、爺サンは、「おまえは……おまえは……そいつの味方をすんのか……」と押し殺した声で言ったとたん、受話器で奥サンの頭を殴った。
 奥サンは受付の狭い床に倒れこんだ。

9 逆襲

 怒鳴られてばかりいることに唯々諾々と従っていてはいけない、と思いはするが、一旦、先生が怒り出すと手がつけられない。
 まさに罵詈雑言。そのうえ犯人探しが待っていた。
 だれかがマズルと、先生はその人間を見つけ出すまで追求の手をゆるめることがなかった。
「このカルテに保険番号を書いたンはだれやッ」
 2ヵ月遅れでもどってくる、用紙を1枚1枚記憶することなど不可能だった。
「わかりません」
 とおっとりさんが答えると、
「なんでわからんのやーッ」
「申し訳ありません」
 とおっとりさん頭をさげる。ところが、先生は許してくれない。
「だれがやった!」を繰り返す。
 2ヵ月前には、アサミはいなかったので、残る2人のうちのどちらかであることは明白だったが、記憶にないものをどうしようもない。
 奥サンは、バイト3人を慰める。大学病院では、インターン生は徹底的にしごかれるのだと。
「看護婦は辞めるとき、いつも言うとったな。おかげで一人前にしていただきました言うてなァ」
 爺サンは過去をなつかしんで言った。

 何事もなかったように振る舞っているが、奥サンの頭には、コブができているにちがいない。
 アサミはムシの居所がわるかった。分包器の調子もわるかった。ボロの白衣も床もそこら中、粉だらけだった。奥サンは這いつくばって床を拭く。
 その姿を目にすると、怒りがフツフツと湧いてくる
 コトの起こりは簡単だった。例によって、薬が足りなくなったのだ。50錠ほどしか、残っていない薬が、一度に80錠ほど要った。いつも1週間分しか持ってかえらない人が、つごうで2週間分くださいと言ったためにそうなったのだ。
「なんでないんやッ」
 なんーーいーーやに聞こえる。
「ノートには、10日も前から書いてました」
 おっとりさんの声は震えている。
「それでは早すぎるンじゃ。今日この患者がくることはわかってたやろッ」
「……忘れてました」
「薬の点検ひとつまともにできんのかーッ」
「すいません」
 おっとりさんは平身低頭のてい。
 ギリギリまで補充しないのだから、不測の事態が生じて当然至極なのだが、先生はそうは受け取らない。おっとりさんのせいにする。
 意味不明の小言を言い続ける。腐った林檎のように食えない爺サンだと思った。
「なんでクスリがないんやッ。どういう仕事させとんじゃーッ」
 爺サンは奥さんを罵声を浴びせる。奥サンはうずくまり、両耳をふさぐ。
 アサミは分包器のスイッチをオフにすると、塩の柱になってもいい気持ちで振り向いた。
 ゆっくりと、受付から診察室に行き、納得できないとまず言った。
「なんでやッ」
 爺サンは立ち上がった。爺サンはアサミより背が低い。
「すべて先生が管理してます。奥サンやわたしたちに任されている範囲のことは限られてます」
 足りなくなった薬品名をノートに記入するのはおっとりさんの役目だが、実際に注文をするのは先生なのだ。
 それを指摘すると、
「だ、だまれーッ! わ、わ、わしが、ど、どんだけ、し、ししししんぼうしてるか……」
「あんたはなァ、しつこいんや! 気にいらんのやったら、なんもかんも自分でしたらええんやッ」
 バカタレとアサミは言った。辞める気でいた。ここまで言えば、「おまえなんか、辞めてしまえッ」という罵声が返ってくるものと覚悟していたからだ。
 ところが――、
「きちんと、やっとるならそれでええ」
 と爺サンは小さく言った。それだけ言ってあとは何も言わない。
 椅子の背に全身を預けると、風船がしぼんだようにしずかになった。
 肩すかしをくうとはこのことだった。ののしることしか能がないと思っていた相手が下手に出たのだ。
 傲慢なタイプの男性ほど強気に出られるとかえって弱気になるのかもしれない。

 奥サンは、声をあげて泣き伏した。

 アサミはその晩、奥さんに電話をした。辞める潮時がきたと思った。
 奥さんはアサミのような役立たずを必死で止めてくれたが、アサミの気持ちは変わらなかった。以前とはうってかわって、心身ともに元気になっていた。もう大丈夫だった。ヤケになって、死にたい病にかかる心配はなかった。
「先生に向かって、えらそうな口をきいて、申し訳ありませんでした」
「いいえッ、あなたは少しも悪くないンですよ。ただ、先生は、気が立っておられただけなんです」
「ひとつだけ、聞いていいですか?」
「ええ、なんでも聞いてください」
「どうして、言いなりになってるんですか?」
 あんなヤツに、という言葉ははぶいて言った。
「わたくしはね、困っている患者さんを診てさしあげるこのお仕事が有り難いんです」
 それしかできることがないと、奥さんはつぶやいた。
「お願い、もう一度、いらして。あなたがいるとたのしくなるの」

 次の日、おっとりさんがトイレに行き、メガネさんが準備室に用があったため、おっとりさんが用意していた薬を、手渡すハメになった。自分では、言われた通りにしたつもりでいた。
 ところが――、
 白い小瓶の痔の塗り薬を高血圧の患者さんに渡し、痔の治療の人に高血圧の飲み薬を渡した。
 アサミは何を思ったのか、痔の塗り薬を水で薄めて飲むようにつけ足したのだ。きれいな小瓶だったので、飲み薬だと勘違いしたのだ。

10 おったまげ!

 悪事がバレる日は速攻できた。

 痔の塗り薬を飲んだ患者と、痔なのに血圧降下剤を飲んだ患者の2人が不調を訴えてきたのだ。
 白い液体を飲んだ人は、「吐き気がとまらない」と言い、血圧降下剤を飲んだ人は、「立ちくらみがしてまっすぐ歩けない」と、恐い顔で言った。

 絞られるという言葉通り、アサミはギリギリと爺サンの悪口雑言に晒されたあげく、クビを宣告される。
 20日間、働いたが、無給を言い渡される。
 家に帰り、ふて寝していると、帰宅したミノルが2階まであがってきて、
「具合が悪いんか」と訊く。
 事情を話すと、ミノルは、仕事をほったらかし、院長に直談判に行くと言ってきかない。
「ええねん。ちょうど飽きてたし」
「一日でも、一時間でも、15分でも、働いたら、そのぶんは支払う義務が雇用者にはある」
「行くんやったら、勝手に行ってよ」
「そうはいかん」

 診察時間の終わった頃を見計らい、ミノルの車に乗り、医院に出向くことにーー。

 付き合いきれん。

 ミノルは腹を立てると、目がすわり、そげた頬を小刻みに動かす癖がある。
 狭い道を右に左にハンドルを切りながら運転するミノルの固い横顔を見ながら、
「喧嘩せんといてよ。お父ちゃんは、喧嘩するとき、ヤクザみたいになるから、かなわんねン」 
 アサミや自分に危害くわえそうな事態に遭遇すると、相手が誰でも一歩もミノルは引かない。
 子供の頃から、それを目にするのがイヤだった。
 雨の日だった。酔っ払いにからまれると、持っている傘で脳天を叩くことなど朝飯前なのだ。
「ええか、金のあるヤツらの思い通りになるな。ズル賢いヤツらに利用されたらあかん」
「ほんでも、あたしが失敗してんデ」
「それとこれとは問題がちがう。労働に見合う対価をはらわんとは、言わせん」

 電話もせずに訪問したが、ベルを鳴らす前に、奥サンが出てきた。暗い待合室に独りでいたようだった。

 ミノルは奥サンと顔を合わせたとたん、絶句した。
 奥サンは、「お久しぶりです」と言った。「わたくしが美大生だった頃でしたから、何年ぶりでしょう……」
「知り合いやったん?」と、アサミはミノルに訊いた。
「こんなカタチで、お目にかかることがあるとは、思ってもみませんでした」
 奥サンは、アサミが履歴書を出したときに、気づいたと言った。
「似ていらしたし……怖いもの知らずで……」
「……」
 ミノルのこんな表情を見たのは、はじめてだった。暗がりに立つ奥サンを見つめる目に懐かしさと怒りがないまぜになっている。
「わたくしはすっかり、老けてしまいましたが、ミノルさんは変わってらっしゃらない」
「ただのおっさんです」
「ここにはいろんな方が来られますから――わかります」と奥サンは言葉をきり、「アサミちゃんを見ていると……思い出します」
「こいつはわがままやから」
「ここへ、いらっしゃると思っていました」
 あのときも実家にいらしたと奥サンは言って、封筒を差し出した。
「あんたからは、受けとれん」
 アサミは2人の間に複雑な事情があるのだと察した。
「帰るぞ」
 ミノルは言ったとたん、奥サンに背を向けた。
 
 翌朝、ミノルはトミコがやってくる時間まで家にいた。

「知ってて、アサミを紹介したな!」
 怒鳴り合う声が2階のアサミの部屋まで聞こえる。
「みんな知ってることやッ」
 いまの仕事をはじめる前にミノルは製薬会社の営業マンだったらしい。そのとき、総合病院のお嬢様と知り合い、恋愛関係になったが破局した。原因は、経済格差だった。
 どうやら親戚中で、知らないのはアサミだけだったようだ。
「アサミとは、関係ないやろッ」
「あんな子、顔見るのも、ぞっとするわッ」
「さっさとやめんかい!」
「色魔ーッ」とトミコは絶叫した。「そこら中の女に言い寄ってもたらんと、あたしにまで手ぇ出すから、こんな目に遭うねん!」
「帰れーッ」
「慰謝料もらわんと承知せぇへんからねッ」

 その日のうちに、トミコは又従兄弟に、ミノルにレイプされたと告げ口した。嫌がるトミコを、ミノルがむりやり押し倒したと言ったのだ。
 又従兄弟はその日のうちに怒鳴りこんできた。
 結局、ミノルは、大金を支払い、又従兄弟は会社を辞めた。

11 世間の風

 ふたたび無為の日々がはじまった。

 中学校の同級生で有名私立大学に入った男子が近所にいた。
 偶然、駅のホームですれ違ったとき、彼は、「フーテンの寅子やな」とつぶやいた。侮辱されたなどと口が裂けても、股裂きにあっても言ってはならないとそのとき思ったが――、夜中にそいつの横顔が頭をかすめる。
 そんなときは目を覚まし、ミノルのお気にいりの吉田拓郎を聴く。

  きみの欲しいものはなんですか?

 望みはなんだろう、とアサミは思う?
 奥サンは毎日、毎日、爺サンに罵られていた。
 ちがう生き方をしたいと思わないのか?
 思っているのだ、たぶん。
 ミノルもトミコも思っている。
 どうにもならないとわかっていても何かを求めて回り道をするのだ。回って、回って、迷路に迷いこむ。
 一人暮らしがしたいのも、迷路から抜けだしたいからだ。
 なんとかしたいと誰もが思っている。爺サンさえも……。

 現金書留が送られてきた。
 
 はじめてバイト代をもらった。たった数万円のために、耐えがたい思いを味わうのかと、愕然とした。ミノルからもらう昼食代と小遣いを合わせた額とほぼかわらない。

 これが、世間の風なのか……。

 奥サンの短い手紙が入っていた。『先生が変わってしまったのは、わたしのせいです』

 簿記の学校へ通ってもいいと思えるようになった。受験用の問題集を開くだけで、悪寒がしていたアサミに起きた心の変化だった。

  了


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