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南ユダ王国の滅亡(3/9)

あらすじ
 時計の針はわずかずつ動く。ルーシーは神殿にいる少年ダニエルを救わなくてはならない。それが使命だと言って、ミカエルを一刻も早く聖都に向かうように急かす。神に愛されているダニエルには予知能力があり、バビロニア王国の滅びを告げるのだと。ミカエルはまかやしだと言ってとりあわない。

9 神の復讐

 なんどハレルヤを叫ばされたことか。ここが夢の世界ではなく、世間で言うところのあの世だとすると、これだけ神さまを賛美したわけだから天国に近づいてもいいはずなのに、凸凹の黒い砂利道は途切れない。赤い太陽は、かなたの山々に沈みそうで沈まない。木製の車輪のせいで、歩くほうが速い。小粒の砂が目や鼻を襲う。口の中まで入ってくる。余ったタオルをマスク代わりにする。

「なんで木の車輪ねん」

と小声で愚痴ると、

耳聡いルーシーは、

【シュメル時代には、車輪は画期的な発明だったのです。牛にひかせることで、戦車にも荷車にもなりましたからね】

「ほんなら、牛を出してよ」

【さっきのラクダように牛まで殺す気ですか。わたしだって、いつ、酷いめにあうか……。あなたは、友誼を誓った友への敬愛が足りない】

「ちゃうやん! ハゲタカのおっちゃんもラクダも殺す気なんて、かけらもないのに、ああなってしもただけやないの」

 ルーシーはグゥワンと短く吠えると、

【のど飴と合唱のおかげで、地上での言語能力が正常に機能するようになりました。そこで――グゥア~ア~ア~】

 ユダ王国の滅亡にいたる過程を、ガブリエル大天使の名代を自称するルーシーは物語りはじめた。

【紀元前1280年頃からはじめましょう】

「いま1995年やから、何年前になるん?」

【約3300年前です】

「その頃、日本は――?」

【1万年とも2万年とも言われる縄文時代から弥生時代への移行期でした】

「原始人の生活をしてたんや」

【人口は約30万。文字もあり、平和に豊かに暮らしていました。やがて、いくたの民族が、彼ら自身の宗教と習慣を携えて海に隔てられた列島に渡ってきました。古代の大航海時代とも言えますが、ユーラシア大陸では日常茶飯事であった弱肉強食時代の幕開けでもありました】

 山頂にそそり立つエルサレムが視界を圧倒する。聖都を見上げる位置には、刺のような突起物が散見できる。距離があるので、人間の姿は見えない。

「針山みたいなんは、なんやのん?」

 ルーシーの体温は急上昇する。

【My God! Good God! O God!】

 背中に電気毛布が密着しているようだ。

【『神は火をもって、またつるぎをもって、すべての人に裁きを行なわれる』と、イザヤは記しています。66章16節です。神はやはり、不実なユダの民をお許しにならない】

「なんで裁くのん。それで神サンと言えるんか?」

【神は、新バビロニア帝国を興したバビロニア人の王の手を借りて、偶像信仰に堕するユダ王国の王と民にネカマ、すなわち復讐しておられるのです】

 バビロニア軍は土塁の塔を築き、総攻撃に備えている。3カ月前に、土塁はできていたという。

「神サンが人間に復讐するやなんて、そこらの人間といっしょやないの。神サンには慈悲や憐れみの心があるって、教会の神父さんはお説教でひつこくゆーてるで」

【わたしたちの使命は、第1にエホヤキン王とダニエルさまのお命を救い、無事にバビロニアに送り届けること。第2に闇の世界から送りこまれた敵、魔女の秦野亜利寿。穢れし者に罠を仕掛け、これをしとめて、SLBZ=サタンランド・ブラック・ゾーン、通称、魔界。聖書的には地獄に送り返すことです】

「使命が増えてないか?」

 フッフッフッと鼻息が聞こえる。

【過去の小事に捉われてなんとするのです! 愚かで哀れな魂の持ち主どもを、あるべき場所にもどしてやるのですワン。魔界に所属する悪魔軍団とその手先と戦うために、いまこそ意識と認識と感情と記憶を総動員する時なのでぇーすぅ。なおかつ――】

 いまにも壊れそうな音がする自転車を停めた。

「そや、リュックにバカチョンカメラが入ってるワン。目が覚めたらなんも覚えてないと思うけど、記念に映しとこ」

 おんぶラックをほどき、ギャンギャン吠えるルーシーを地面に投げ落とす。

「BGMはサイモン&ガーファンクルか、カーペンターズにしてか。ボン・ジョヴィも捨てがたいなぁ」

【どうしてあなたは最重要事項を真剣に聞こうとしないのです! 自らに課した使命を忘却したのですかーっ】

「大昔のエルサレムに行ってきたゆーて、砂漠の写真を爺サンに見せたらどーゆーやろな。びっくりするやろか?」

【夢だと思うことはやめたのですかーっ!】

「医者の爺サンに、ホラ話は通用せんかもな。それに、もう死んでるし……2度と説教が聞かれへんねんな」

 唐突に、涙腺が崩壊しそうになる。

 胸が張り裂けるのではなく、頭ミソがしぼんだような気分に陥る。もとの自分にもどれない気がしてならない。万引きしたり、小銭を盗んだり、予備校をさぼったり……。このトシで、あの頃はよかったと回想する状況になるなんて、なんの因果か。

「なんもかんも神サンが悪いんや。地震が起きなかったら――ハゲタカが追っ掛けてこなかったら――アンタとさえ、契約せんかったらこんなことにならんかったのに――フツーの女子高生にもどってフツーに――ムリか。いっそ神サンをこの世界から消したい」

【弓月美伽廻留!! 神に選ばれし者として恥を知りなさい! あなたにとって何気ない言葉であっても、神の耳を穢すことになるのですよ。このさい、命を正しく使うために身にしみついた涜神の習慣を是正しなくてはなりません】

 グゥワングゥワンワン! ワニ口のよだれが飛沫になって飛ぶ。

「おでこのあざに、油をたらしてもろてないから、選ばれたことにならへんのとちゃうのん。こうゆー場合、どうなるんよ。ビンボー籤に当たったからビンボーになって当然と言われて諦めるべか、それとも不当やとゆーて喚き散らして何がなんでも、拒むべきなんか、それが問題やとしたら……」

 ふとオタク頭をよぎる。

「『ハムレット』に似た台詞があったなぁ。『生か、死か、それが疑問だ。どちらが男らしい生き方か、じっと身を伏せ、不法な運命の矢弾を堪え忍ぶのと、それとも剣をとって、押しよせる苦難に立ち向かい、とどめを刺すまであとに引かぬのと』。

考えんとこ。あほらしなる。運命の矢弾に当たってたまるかゆーねん。アタシは耐えしのんだりせぇへんで。そうや。二枚舌の神サンにトドメを刺さされる前に写真、写真や」

 聖なる都エルサレムをバックに自転車をパチリ。タオルの砂よけを外して、自分に向けてハイチーズ。

【不謹慎だと思わないのですかーっ、かっ、かっ】

 ルーシーは大口を開けすぎて、あごが外れそうになる。

【前頭葉に問題があるのか、CPUに瑕疵があるのか。ウーッウーッワッウッ……】

「CPUのお菓子ってどこにあるん? 食べてみたいワン」

【神の手によって、天使の脳内のシナプスには中央処理演算装置=central processing unitが付与されている。ウーッウーッウワッーッ、魂に不具合があるせいで、機能不全のbrain machine interfaceのゴボテンとなったとしか考えらない。そうと知らされていれば……ウゥー】

「受験に関係のないことしか記憶できひん頭に生まれついた理由がやっとわかったわ。手くせは悪いけど、アンタみたいにツルツル嘘が思いつかへんからや」

【今後は、粗悪で反抗的な脳に理解しやすいように言葉を選ばなくてはならない。人工知能、ええわぁ、いやAIの主たる部分は記憶、制御、演算、意識の4つの装置で構成されているはず――緻密な脳に砂塵は大敵。ゴボテンの脳は気候を考慮して造られているのか。ウゥーッウゥーッ。本来なら天使長の意識は前人未到、破格の機能を有しているはず。ウゥーッウゥーッ。不完全なるが故に予測できない】

「神サンが指名する相手を間違えているんやって。ドラフト会議で1位指名されても活躍するとはかぎらへんのといっしょなんや」

【あなたは天界の裁判所で戦力外通告になったのですが、神のお慈悲で残留が決まったのです】

「神サンて、慈悲やとゆーて、人間を苦しめてないか?」

 ルーシーは片耳をピクつかせる。

【デバイスに欠陥があるのか……デバッグすべきなのか……しかし、ここでエネルギーを使いすぎるとあとあとぉウグッ……のどと鼻の具合がよくない……ジィーズゥ】

「デバイスてなんよ」

【素子。ウグッグゥ……ジィーズゥ】

「デバッグは?」

【組みあがったプログラムを天界の第800世代コンピュータ〝神曲〟にかけて誤りを見つけだし、修正する機能――ジィーズゥ】

「ダンテの『神曲』がコンピュータの名前なん? 嘘八百ゆー諺にちなんでるんやなぁ。神サンにもユーモアがあるあるワン」

 砂埃のせいだと言って、ジィーズゥジィーとルーシーはダース・ベイダーとそっくりの呼吸音をもらす。

「アンタ、ついさっき第10世代コンピュータって言わなかったか? 800と10ではちがいすぎるやろ」

【イエスさまは『幼子のごとくあれ』とおっしゃられています。多少、パラダイム・シフトに瑕疵のあるゴボテンであっても、このさい、聡明なわたしの神経伝達物質のいくらかをあなたに放出するしかないと思っています。それにしても酷すぎる。ジィーズゥー、のど飴を1つ】

 こいつが口達者でなかったらのど飴のかわりに脳天に2、3発、ゲンコツを見舞っているところだが、ここは、犬と人間との格の違いを見せつけるためにも余裕のある対応をすべきなのだ。

 のど飴をやり、「ルーシーは『101匹』に出てくる、たれ耳のポインターより、ターバンから突き出してる耳の形がキマってるもんな。黒目には赤毛の耳がぴったりやし」

 ルーシーは両耳をまっすぐに立てると、のど飴を舌の先で転がしながら、

【ポートレイトのことですが――ズズゥ】とよだれをくる音が合間に入る。

【わたしの場合は――ズズゥ、どちらかというと真正面からより、右斜め前からシャッターを押してもらったほうが美形に映るのです。ズッスズゥ】

 嘘は見破るのに、おだてに弱いタイプらしい。言われた通り、右斜め前からパチリ。ルーシーはよだれを飲みこみつつ、

【先に言っておきますが、話の腰を折らないでください】

 のど飴をガリッと噛み砕き、ワ~ウォッフォンと尊大な鳴き声で威嚇し、

【紀元前1280年。ユダヤ人の先祖ヘブライ人は、モーセに導かれて、エジプトを脱出し――】

 耳をピンとたてる。

「観た観た『十戒』のビデオ。紅海がパカっと割れて、ユダヤ人が逃げたあと、エジプト軍が追いかけるやつ。エジプト人の兵士が全員溺れ死ぬのって、ナットクいかへん。逃げる側が善人の集団で、追う側が悪人の集団やなんて、そんなはずない」

 ルーシーは吊り目になり、

【エジプトのファラオが、苦役に苦しむヘブライ人を去らせなかったので、神はエジプト人を海に投げこまれたのです。『出エジプト記』の15章10節に、「あなたが息を吹かれると、海は彼らをおおい、彼らは鉛のように、大水の中に沈んだ」とあります。創造主であられる天の神は唯一のお方であり、永遠に宇宙を統治されるのです】

「当時の紅海は、潮干狩ができるくらいに浅瀬やったんや。ヘブライ人が渡ったあと、エジプト人は満ち潮で渡られへんかったとか――それを誇張して溺れ死んだことにしたんとちゃうのん?」

【Quiet,please.まず先に申し上げておきます。聖書の記述に一言半句の誤りもありません。大いなる神からの霊感を受けて記された書物ですので、欲深い人間がよくやる虚偽記載などもっての他。ウグゥ、ウグゥ……忍耐の限界に近づいている】

「アンタゆーたやん。ダニエル書の書き出しのユダの王さんの名前も、治世の第3年もおかしいって。エホヤキムやなしに、エホヤキンの第2年やって」 

 ルーシーの目が泳ぐ。

「アンタにも弱点があるねんな」

【聞けーっ! モーセに率いられた60万のヘブライ人は40年間、荒野をさすらったのちに、紀元前1000年頃、ダビデ王によってパレスチナを統一し、息子のソロモン王のもとで繁栄したーっ。しかし、政治的な判断で、異教の神を信仰する幾人もの妻を王宮に入れたためにソロモン王の死後、後継者争いが起き、紀元前922年、北のイスラエル王国と南のユダ王国は分裂に至る!】

「爺サンがゆーてたで、ソロモン王はセーマン印で悪魔を呼び出して、巨万の富を得たかもしれんて――もしかすると安倍清明は、魔法陣を知ってて、セーマン印と同じ五芒星の形の桔梗紋印で魔よけの呪符を考えついのかもな」

【グゥワン】ルーシーの鼻息が荒くなる。【フェニキア、現在のレバノンです。イスラエルとは常に争っていますが、仲のよかった時代もあったのです。ダビデ王の子・ソロモン王は地中海に面した大海運国家ティルスのヒラム王と同盟を結び、海外との交易で豊かになったのです。悪魔を呼び出す魔法陣などもってのほか!】

「交易って、自分の国にある資源を売るか、なかったらどこからか資源や材料を仕入れて加工して高値で売るかしかないんとちゃうの? イスラエルって日本より小さい国やん。どうやって儲けたん? マジで知りたい。パラパラと読んだら、シバの女王たらに財宝を仰山もろたとある。ソロモンが賢いからゆーて、ただでくれるか? ただより高いもんはないゆーやん。もしかしてソロモンが脅したんとちゃうのん? 金を出さへんと滅ぼすとかゆーて」

 ギャワンギャワンとルーシーは吠えまくる。

【シドン(現サイダ)やビブロス(現シュバイル)など、ソロモン王と友好関係にあるフェニキアの都市国家がいくつもあったのです! 『箴言の書』に目を通せばわかるように、ソロモン王には〝知恵と知識と理解ある心〟を神よりたまわったので平安と豊穣の時代を築いたーっ】

「知恵と知識と理解ある心を、神サンからもろても、自分が死んだあとに国が2つに分かれることはわからんかったんや。ほんまに賢い人やったら死ぬ前になんとかしたんとちゃうか?」

【聖書を疑うのかっ!】

「事実をゆーてるねん。読めば読むほど疑問が次から次へと湧いてくるのに、なんも感じひんアンタの頭のほうが、おかしい」

【黙れーっ! ゴボテンは口を閉じよ。時代は遡り、紀元前20世紀、この頃から北方の民アムル人、のちのアラム人の国、アッシリアの歴史がはじまる。紀元前14世紀頃にはチィグリス川の上流一帯からユーフラテス川を、アッシリア人は支配するようになる。彼らは攻撃的な気質にくわえ屈強な体格の持ち主だった。鉄の戦車部隊によって最強の国家を築き、チィグリス川東岸の2つの塚を首都に定めた。この地こそ、かの有名なニネヴェである。ニネヴェ……ああ、せつないワン……アッシリアの台頭がイスラエルを分裂と滅びへと導いたが……ニネヴェのことは夢のまた夢……】

 ルーシーは、しばし両目を閉じた。思いの外、まつげが長い。

【1995年時点では対岸のモスルのほうが、都市化されていますが、2017年3月、IS=イスラミック・ステートのカリフ国家によって、かつての栄華を偲ぶ遺構さえも破壊されました。なんと愚かな所業。ああ……思い返すたびに胸がふさがる】

「2017年3月って。ちょっと訊くけど、1999年の7月に恐怖の大王が降ってくるんやないの?」

【ノストラダムスの『諸世紀』ですか。7月ではなくて、7の月と書いてあったはずですよ。イスラエルの暦では、9月の中旬から10月の中旬にあたります。ノストラダムスはユダヤ人なので、彼らの暦で予言した可能性が高い】

「アタシが訊きたいのは、予言が当たるのか、当たらへんのかやねん」

【予言者は世界中にいます。日本が海に沈むと言った高名な予言者も過去にいました。いまのところなんとか浮いていますが――そもそもユーラシア大陸から引き剥がされてできた島国なんですから――未来に何が起きても不思議ではないのです。地球そのものが、誕生したときから一瞬も休止していません。宇宙全体から考えると、地球がいつどうなっても些細な出来事。人間に地殻変動を押し止める力など端からないのです】

「それも神サンの計画なん? もしかして神サンの手帳には地球の誕生から滅亡までのスケジュール表とか書いてあるのん?」

 ルーシーは両耳をピンと立て、歯をむいて笑う。

【グッフフフ……グフッ】

 そして、右の前足をあげて呼ぶような仕草をした。顔を近づけると、最後の鼻息をわたしに吹きかけた。

【聖書にはユダヤ人の歴史とともに、人類の末路が神の言葉を預かる、あまたの預言者によって記されている。予言者と預言者とは耳で聞くと同じだが、文字は異なる。くりかえすが、神の言葉を預かる者と世俗の予言者とは似て非なるもの。まことの預言者は聖書の中にしか存在しない。ダニエルさまは、その中のおひとりである。故に、命を使ってお助けする意義があるのです】

「人類の末路を預言するやつを、なんで助けなあかんのん? 1999年に世界が滅びひんとわかったら余計に、予言や占いを信じる気にならん」

 ルーシーはターバンの頭を左右にふり、ため息をついた。

【巷の予言や占いと、神の言葉を預かる預言の区別もつかないあなたが天使長とは……。まさに世紀末ですワン。聖書が記される以前の古代の為政者は、天の神を恐れる故に、太陽と月と星々の動きを観察しつづける役目の占星術師を複数、召しかかえていたのです】

「星占いとかもあったんや! はじめて知ったわ」

【天文学だと言え!】

ルーシーは怒声を発すると、

【彼らに求められたのは、日蝕や月蝕などの蝕の予知ならびに新月が最初に見える夕刻はいつか、あらかじめ計算し割り出すことだった。古代バビロニア王国のハンムラビ王が公式の暦を導入した最初の王――ちなみにハンムラビ王は『ハンムラビ法典』を制定したことでも広く知られている――しかし、ハンムラビ王の時代より遡ること300年余、シュメルのウルナンム王が制定した『ウルナンム法典』がモトネタだよ。知的所有権などない時代だし、学問は継承されてしかるべきものなので、だれも気にしない。教科書に『ウルナンム法典』の記述がないのは残念だ。ウッー、ウッー、歴史の捏造は許せん】

「話がそれてるで」

 ルーシーは気分を切り替えるためか、大きな屁をひった。

 わたしが三白眼で睨みをきかすと、

【算盤の原型を発明したシュメル人の知識を継承したカルデア人は数学と天文学にたけていた。にもかかわらず真に精度の高い暦=太陰暦は1000年後の、アシュル・バニパル王の時代まで待たなくてはならなかった。正確な暦をつくるために当時の占星術師は観察結果を逐一、バニパル王に報告していた。それはこの時代も同じで――たとえば、火星が徐々に土星に対し、コンジャンクション=合になろうとしている場合、『火星は1日あたり、指1本分ほど動きます』とか、『まだ指5本ほどの距離があります』というように、ネブカドネザル王に書き送っていた】

 話しながらルーシーは涙をひと筋、流した。

「ターバンがズレて、前が見えにくいやないのん?」

 直してやると、ルーシーの吊り目は赤いかげろうに染まる空の彼方を見る眼差しになった。

【ニネヴェの王立図書館には、膨大な粘土板と書字板がありました。いまも目に浮かびます。古代メソポタミアの人びとは、星座の見える夜空を、神々の命令が書かれた〝天空の書〟と見なしていたのです】

「アンタの話はコロコロ変わるうえにニネヴェにもどってくなぁ」

 ルーシーはターバンの頭をうつむけ、突然キュンキュン鳴き出した。

【名君が2代つづいた往時のニネヴェは〝王冠にきらめく宝石〟と讃えられました。太陽神シャマシュのしるし〝有翼円盤〟の浮き彫りのある壮麗な寺院、雪花石膏(アラバスター)がふんだんに使われた雪の花のように美しい王宮。巨大な獅子や雄牛の像で守られた宮殿の玄関。美しい楔形文字の刻まれた幾千万点もの粘土板と書字板を収納する世界最古の大図書館。交易に欠かせない銀行もありましたし、インフラも整っていました。山地より導水管(水道管)で水をひき、満々と水をたたえた池や花々の咲き乱れる庭園をつくり、彼らはそれら美しきものを愛した同じ心で、他の部族への残虐行為を壁画にし、これを誇りとしたのです。近代的都市に劣らぬ麗しき王都でした。いにしえのシュメルの都ウルやウルクやニップルがそうであったように、いまのバビロンがそうであるように……】

「何千年も前に、銀行や水道管があったんや」

【1000年間書き継がれたアッシリアの〝王名表〟によりますと、第113代アッシュル・バニパル王は、紀元前668年から627年の42年間、統治なさいました。閣下である王は幼き頃より文武に秀で、王になるべくしてなられたお方です。葦でてきたペンを常に2本、形態されていた王は数学者であり、文学者でもありました。閣下である王はいにしえの文献が散逸する事態を憂いて、南メソポタミアに住むあまたの学者と書簡のやりとりをして当時、現存していたシュメル人やアッカド人の書記官が記した粘土板書籍と書字板書籍を可能なかぎり収集なさったのです】

「668から627を引くと、41になる」と言うと、

【即位した年も計算にいれるので、1年多くなるのです。ダニエル書の書き出し部分の誤差も、さまざまな要因が重なって生じたのでしょう。聖書の記述ですが、読む人によっては恨み言を書きつらねているように感じるのもわかる気がします】

「アンタも恨みがましいと思てるんや」

【あなたが横からぐちゃぐちゃ言うので、どこまで話したのか、わからなくなりました】

「アッシリアのせいで、イスラエルが滅びるところまでやったと思うけどなぁ」

 ルーシーはターバンの頭をかしげながら、

【北のイスラエル王国がアッシリアに滅ぼされたあと、南のユダ王国のヨシヤ王が紀元前609年にエジプトと戦って戦死して、直後にヨシヤ王の息子のエホヤキムが敵であるエジプトのファラオの力を借りて王位についてと――それからバビロニアに脅されて服属国のあつかいを受けたエホヤキム王は、頭に血がのぼってバビロニアの王に逆らって――で、在位12年目の紀元前598年に王が殺されると、新たな王エホヤキンが王位について翌年の597年にふたたび包囲されて現在にいたり――グゥワン、えー、バビロニアのネブカドネザル王によって世に広く知られた第1回目のバビロン捕囚が終了すると――】

口の中でぶつぶつ言う。

背をかがめて、ルーシーに話しかける。

「人材派遣会社がないから、人間狩りをしたんやな」

 ルーシーは鼻を鳴らし、蔑む眼差しになった。

【バビロニアだけが、戦利品の捕虜を有効活用したわけではありません。洗濯機も掃除機もない時代ですから、家事労働をする女や子どもは生活必需品でした。鍛冶屋や石工や木工などの職人も役立ちます。戦力になる屈強な男子は兵士に、兵士の経験のない男性や老人は賦役奴隷と呼んで、いまでいうところの公共事業に従事させました。河川の浚渫や城壁などの建設です】

「いまも低賃金で働いてる人はどの国にも大勢いてる」

【いくさで勝利した国はどの国の王も支配層はもちろんのこと、民衆に利益をもたらし、崇拝されることを第一義と考えていました】

「アンタのご贔屓のバニパル王も?」

【閣下である王は、奴隷であっても才能のある人材は重用しました。わたしもその1人でした】

「ずっと犬やなかったんや。王サンの飼い犬かと思てたわ。北の王国を滅ぼした側の民やったんや」

【北王国の滅亡は、閣下である王の時代ではありません】

「なんでいちいち、王の前に『閣下である』ゆーのがつくのん」

【尊称です。わたしにとって、バニパル王は尊敬に価するお方だったからです。閣下である王は古代シュメル語とアッカド語が解読できました。バビロニアの住人がいまもカルデア人と呼ばれているのは、シュメル人が名づけた地名からきています。バビロンの名もそうです。閣下である王はシュメル人の築いた都市文明を高く評価されていました。憧れさえ抱いておられたのです。シュメル人は高度な文明を築きながら、いずれ、すべては無に帰すると考えていたようです。どんな英雄も死を免れないのだからと】

「――で、アンタはアッシリアで何をしてたん?」

【王立図書館に勤める書記官でした。図書館には、閣下である王の命令であまたの国の知識ある人々で構成されていました。集められた書籍を宗教、医療、政治、軍事、数学、歴史、文芸、契約書、手紙など分野ごとに番号を付し、図書目録を作成するのが主な仕事でした。限られた人々しか出入りできないように厳重に管理されていたのです。書字板の中には、バビロン第一王朝時代に書かれた金星観測の記録が所蔵されていました。占星術の教科書ともいうべき、天と地と神の書『エヌマ・アヌ・エンリル』です。聖書より古い文献です】

「もしかしてアンタは、天使やないんやないの?」

 ルーシーの黒目をのぞきこむと、ゴクッとのどを鳴らし、ギャワンと吠えた。そして、余計な質問はするなと言ったあと、

【閣下である王の側近には、大臣などの国をつかさどる行政官の他に10人のグループがいました。彼らは書記、腸卜僧、祈祷師、医師、歌手などです】

「歌手?」

【神々の怒りを鎮める賛美歌を詠唱する人々です】

「歌はもともと、神サンのためにあったんや。それでさっきメサイアをしつこく歌ったわけか」

【父王エサルハドンの時代からその者たちの25%は著名な名家一族で占められていました。中でも、占星術師たちの長であったナブ・ゼル・レシールは、アッシュル・バニパル王の治世下において重用されました】

「通行証の名前のナブ・アッヘ・ナイードは、ナブなんたらの子孫なん?」

 ルーシーはわたしの問いには答えず、3人の兄弟からなるナブ家の一族は、アッシリアの時代には250年以上もつづく知的名家だったという。そして一族はアッシリアが滅びたのち、バビロニアの王族にも仕えていると言った。20世紀の現代まで続いていると。

「ナブなんたらの一族は、なんでアタシのことを知ってるん?」

 ルーシーは答えたくないと、聞こえないふりをする。

【彼らの王への助言は、天体観測の原型ともいえる『エヌマ・アヌ・エンリル』をもとにしています】

「通行証の金星と月がどうのこうのというのが、予言なん?」

【現代に生きる人々は占星術を非科学的なものと考えますが、いにしえの人びとは人間を非力だと知っていたからこそ、不動の太陽を別格のものとして、月や星の動きに神の啓示を見たのです。古代の諸国の王は、占星術師の予測をまつりごとの参考にしていました。穀物の種蒔きの時期を知る上でも重要だったのです】

「予言やなしに予測?」

【星の位置を見ずとも、時代の趨勢を読み取ることは可能です。現代の経済学者の未来予測はしよっ中、はずれますが】

「ユダヤ人は星占いはせんかったん?」

【ユダ王国の王は、上級祭司の推奨する予見者=ローエの意見に耳を傾けました。予見者は、神のご意志を伝える人物だと考えられていたからです。民もまた困り事があると、賢明な助言を求めて彼らに相談したのです】

「予見者?」

【ローエとは異なり、まぼろしを見たと言い、口から泡をふいて卒倒したりするナーヴィーと呼ばれる預言者は王族や富者や上級祭司から疎まれただけでなく、民衆からも煙たがられました。ローエが体制派とするなら、ナーヴィーは反体制派と言っていいでしょう。額に刺青をし、マントのようなボロ布を肩にかけ、裸同然の格好で門前に立ち、激しい口調で災いを告げるナーヴィー=預言者は人々に嫌悪と恐怖を呼び起こしました】

「アタシの青あざやけど、ナーヴィーの刺青と似てるかも」

 ルーシーは鼻の先で嗤い、

【禍(災い)の預言者と呼ばれるエレミヤはアッシリアが滅ぶことを預言すると同時に、ユダ王国の滅びも預言したのです。あなたにそのような能力はありません】

「アッシリアの占星術師は、ニネヴェがどうなるか予測できなかったん?」

【閣下の死後、わずか15年でニネヴェは滅びました。エレミヤのいう『荒廃と大いなる滅亡』です。新バビロニアとメディアの同盟軍は掠奪と暴虐のかぎりをつくし、都に火を放ったのです。ニネヴェは焦土と化しましたが、熱に強い粘土板書籍は残りました。粘土の円筒に刻まれていた歴史書も――】

「もしかして、アンタが書いたん?」

【ほんの数行ですが、身に余る職務であったと思っています】

「アッシリアの書記官やったのに、なんで――」

言いかけて、口を閉じた。

【犬に転生したのかと言いたのですね? なんと思われようとかまいません。宿命だと諦めていますから】

「アンタがまじめになると、不安になるわ」

【砂に埋もれたニネヴェが発見されるのは大英帝国が登場する18世紀になってからです。しかし、19世紀初頭、考古学の知識のない人たちが発掘作業に当たったため、木製の書字板の多くは空気に触れたとたん、粉々になってしまいました。楔形文字の解読に至っては19世紀後半まで待たなくてはなりませんでした。シュメル、アッカド、ヒッタイト、アッシリア、これにバビロニアを含めると古代オリエント文明の記録文書の総数は、数十万点にのぼります。すべての粘土版書籍が解読されるのはいつになるのか――わたしはかつて陛下に……いえ、なんでもありません――時は巻き戻せない」

 ルーシーは両目を固く閉じた。

【歴代のファラオが収集した羊皮紙に記された粘土版書籍の写本は、エジプトのアレキサンドリアの大図書館に収納されていたのですが、これも偏狭な一神教を信仰する者たちによって焼き捨てられました。現存していれば、歴史は変わっていたかもしれません。いえ、何も変わらないでしょう。力を正義と考える遊牧民の末裔であるインド・ヨーロッパ語族の興したペルシア帝国の時代から現在に至るまで、アジア系とアフリカ系からなるセム・ハム語族は一時期をのぞいて、歴史の表舞台に立つことはありませんでした。主として西洋文明の観点からのみ古代の文献は解読されてきました。たとえば大洪水を記した文献を読み解くと、聖書の記述に誤りはなかったというふうにです。ヘブライ人が歴史に登場する以前に、多岐にわたる文献が存在したのです。洪水の伝説も各地に残っています。神話に関して言えば、エジプトが先でした。ギリシア神話はそののちです】

「もしかして聖書に疑問をもってるのん?」

【メソポタミアの占星術師たちによる組織だった天文学上の詳細な記録があったからこそ、紀元前5世紀の古代ギリシアにおいて数学にもとづく天文学が起こったのです。わたしは悔しいのです。悲しいのです。学者によっては、医学に関しては、メソポタミアには真の分析に進んでいく能力に欠けていただの、芸術に関しても価値のあるものは少数であり、金銭の収支を記した膨大な記録は読むに価しないだのと……。他国の兵士の数にはじまって、自国の戦車や戦馬の数、穀物の生産高、労働条件などは戦力や生活水準を知る上で重要な資料になります。当時も、帝国の未来を予測することは可能でした。閣下たる王はエラム(現イラク)へ外征の途に上ったのち、兵士の動員を疎まれるようになられたのです。名君の誉れ高い閣下の存命中はともかく、死後は国防がなおざりになり、メディアの定石を無視した戦術への対応を怠たりました】

「どんな?」

【弓兵が主力の歩兵を従えた鉄製の二輪戦車には、馬の手綱をとる兵士に加えて2人の射手が同乗し進軍していました。アッシリアはこの戦法で他国を圧倒したのですが、命知らずのメディアの騎馬兵団は一気呵成に敵方の歩兵を蹴散らし、二輪戦車の背後にまわりこみ、馬の手綱を持つ者や射手を斬り殺す戦法を用いたのです】

「戦車を運ぶ馬より、兵士1人の乗った馬のほうが、速いゆーことなん?」

 ルーシーは首を縦になんども振りながら、

【わたしは――メディアの戦馬の数が急激に増加している異変をお伝えしたかった。しかし、わたしの進言は、後継者争いで忙しい宦官の行政官によってしりぞけられました】

「前世はアッシリアの書記官やったのに、なんで、このミッションを引き受けたんよ。犬でいるより、下っ端でも天使でいるほうがええんやないのん」

【そんなことは言われなくてもわかってますよ。グゥワン】

「もしかして、天国で下手うったんやないの? ナニしでかしたん?」

【グゥウォフォン!】

ルーシーは鳴き声でアタシの問いかけをさえぎり、

【人間より高位にある、み使いたちですが、神の掟や律法に支配されています】

「アタシはキリスト教を信じてないから、支配されへん」

【神はご自分の敵対者である悪魔に対してさえ命令したり、制限を課されています】

「どんな命令や制限なん?」

【グゥウォフォン! 唯一の神は絶対的優位にあるのです】

「日本には教会や学校も仰山あるけど、ほとんどの人はアンタのゆーてる神サンや悪魔にかかわらんと生きてるで」

【聖書に出てくるエデンの園のエデンはシュメル語で楽園を意味します。風がわたり、なんの不足もない島とシュメル人の残した粘土板には記されています。〝日出る国〟ティルムンと呼ばれていました】

「へぇ、日出る国って日本のこととちゃうのん?」

【現代の歴史家によると、シュメル人の故郷はペルシア湾に浮かぶバーレーン島だとされていますが、地図を見てわかるように、シュメル人の都市のあった南メソポタミアから目と鼻の先の島を楽園と呼ぶはずがありません。楽園だと思うなら、遊牧民のアッカド人が侵入してきたときに帰ったはずです。その後も、文明のなんたるかを理解しない山岳地帯からやってきたエラム人に攻めこまれたとき、島に逃亡したはずです。シュメル人はなぜか彼らの築いたあまたの都市が徹底的に破壊されるにまかせたのです。シュメル人の詩人は記しています。『ユーフラテスとチィグリスの荒れ果てた岸辺に、雑草だけが生い茂っている。道行く人とてなく、不安げに廃墟の町にうずくまり、苦しみと死の中に住む家とてない』と。彼らには過去に同じ体験があったのでしょう】

 ルーシーは目をしばたき、涙を流し遠吠えをした。犬も号泣するのだと知って、口が開けっ放しになる。

「アンタはシュメル人やったん? たったいました話やと、アッシリア人の書記官に聞こえたけど……」

【わたしは悪あがきをくりかえしているのです。自らを黒頭人と称したシュメル人の祖先を、わたしの先祖である縄文人だと信じるからです。縄文人は渡来人に抵抗しませんでした。彼らの一部は海を渡って逃れたのでしょう】

「アンタの話、時間軸が長すぎて覚えられへんねんけど、まぁ、それはそれとして、アタシらがここにいるということは、歴史が変わることになるんやないの? 同胞が、日本にいることをヤディに教えたんは、まずいことになるかもな」

 ルーシーは鼻水をすすり、

【東にむかって逃亡しなかったイスラエル人の多くは、ユダ王国に現われたイザヤの預言を信じました】

「どんな預言?」

【イザヤ14章25節。『わたしはアッシリアびとをわが地で打ち破り、わが山々で彼を踏みにじる。こうして彼が置いたくびきはイスラエルびとから離れ、彼が負わせた重荷はイスラエルびとの肩から離れる』。ヤディの父祖はアッシリアとのいくさで武功をたてたのでしょう。賎民の身分から自由民の兵士のかしらとなったのですからね。彼の一族は、南のユダ王国が滅びたのちに、かつての北のイスラエル王国が復興すると信じているはずです】

「爺サンもゆーてたな。ユダヤ歴5708年にイスラエルが建国したとか――西暦何年やったかな」

【1948年5月14日です。2000年ほどかかりましたけれど、神はかならず約束を果たされるのです】

「神サンにとっては、うたた寝するくらいの時間なんやろな。けど、2000年先の約束って、フツー待てるか? アタシやったら2時間でもキレるで」

【ヤディは、アラム語で知らせるという意味の、ヤディアの縮約形だと思われますので仲間に報告するでしょう。東の果ての島にイスラエルの民の子孫がいると――だれも信じないでしょうが】

「眉毛は延長形やったから、気長に言いつづけるんとちゃうか。執念深い神サンを信じてるんやもんな」

【あなたの頭は、何者かにバカア、アラム語で破壊するの意味です。バカアされたのです】

「バカの延長形なん?」

【無知は、まことの友の心をしりぞけます】

 ジョークのセンスのない友のようだ。

【同じ章の24節に、『万軍の主は誓って言われる、わたしが思ったように必ず成り、わたしが定めたように必ず立つ』と】

「ちょっとズレてないか? アッシリアを『わが地』や『わが山々』で滅ぼすって言うてるんやったら、イスラエルに攻めこんできたアッシリアをめった打ちにせんと言行不一致に――」

 ルーシーはチゥルチゥルタンと舌打ちをし、

【現代によみがえったイスラエルは1948年の独立戦争にはじまって、1956年のシナイ戦役、1967年の6日間戦争、そして1973年のヨム・キップル戦争まで近隣のアラブ諸国を震撼させてますよ】

「ますます神サンが嫌いになるわ」

【神にとって、地球、いや宇宙そのものが、『わが地』なのです】

「やっぱ、神サンは宇宙人かもしれんな」

 ルーシーは一瞬、笑いを噛み殺す表情を見せたが、

【聞けーっ!】

とまたしても怒鳴り、

【紀元前724年にイスラエル王国を滅ぼしたアッシリア帝国はバビロニア人とメディア人の反乱同盟軍によって終焉は迎えたーっ。神の裁きは下ったのだーっ】

語尾をわざとらしく伸ばす。

「自分で言うててもしらけへんか? なんぼ説明してもろても、聖書の話は、こじつけが多すぎる気がするねん。新約聖書の最初に書いてる名前の行列は、神の子イエスは、ダビデ王の子孫やと言いたいわけなんやろ?

 ほんでもイエスはヨセフの実子とちゃうやん。処女から産まれても子孫になるん? 日本の天皇サンは男系男子やけど、イエスは神系男子やな。いや、女系男子になるんか」

【マリアさまは、わたしたちがいまからお目にかかるエホヤキン王の子孫にあたられます。アーメン】

ルーシーは言ったあと、眉間に皺をよせ咳払いをした。

「やっぱりな……アホメン」

【Whst’s! 話を戻します。紀元前7世紀、カルデア人の建てた帝国が新バビロニア。なぜ、新バビロニアと呼ばれるかと言えば紀元前18世紀年頃、大洪水後にシナル(シュメル)の地――ユーフラテス川とチィグリス川の沈泥が堆積してできた平野に建てられたシュメル人の都市国家を制圧したアッカド人の王国が、古代バビロニアと呼ばれていたからです。かの有名な〝バベルの塔〟は当時、権勢を誇ったニムロデ王が築いたとヨセフスの『ユダヤ古代誌』に記されています】

ルーシーはつけくわえた。

【ちなみにニムロデは大洪水を生きのびたノアの曾孫にあたると言われています】

「都合がよすぎひんか?」アタシはリュックから聖書を取り出し、

「ニムロデ王のことはどこに書いてあるん?」

【歴代志上巻1章10節。聖書は歴史書でもあります。人類が神の裁きで一掃されたのちに、ニムロデ王は最初に帝国を建てた人物です。ニムロデとは、反逆するという意味です。ユーフラテス川の中州に建つ、バビロニアの王都バビロンは、その昔、シュメルの都市国家の一つでした。古代から繁栄していましたが、神は、バビロンを快く思っていませんでした。ヘブライ語では、バビロンはバベルと記述されています。バベルとは混乱を意味します。創世記の11章です。神は天にむかってそそり立つバベルの塔と町をごらんになって、人々の言葉を乱したとあります。ネブカドネザル王の建てた高い塔も高層を誇るがゆえに、バビロンの滅びは、神の定められた決定事項なのです】

「高い塔って、なんメートルくらいあんのん」

【いまのビルの高さで言うと、30階くらいでしょうか。古墳時代の出雲にも48㍍の木造建造物がありました】

「ギョギョギョッ」

わざとのけぞって見せる。

「そんな高い塔が日本にも建ってたんや」

【神はお許しにならない。グゥフン】

「神サンは、なんで高い塔が嫌いなん? ワカラン。『民はひとつで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた』と書いてある。それのどこがいかんのん?」

 神の意図がわからない。

「いまでは世界中の都市に高層ビルが建ってるから、神サンは、世界を滅ぼす決心をしたんやな。舌なめずりしながら、どの国からやっつけるか考えてる最中なんやわ。好きになれん性格やわ。アンタも心の底では、神サンのすることに不満なんやろ? 話を聞いてると、そんなふうに聞こえるでぇ。微妙やけどな」

 ルーシーはわたしの胸に飛びかかり、

【あーらーたにぃ、世界強国となった新バビロニア帝国の王ネブカドネザルは、軍の総司令官シデオンに命じてユダ王国のエルサレムを包囲し、残りの兵をエルサレム近郊の都市へ派兵し、聖都へ通じる道の各所で検問を行なっている。わかったかーっ】

「それがどないしたん?」

 ユダの南部の町ベエル・シェバはユダの山地のふもとに位置し、砂漠の外れにあるが、井戸水に恵まれているので農地もあり、牛や羊も飼える。キャラバンから〝井戸の道〟と呼ばれ、ガザやエジプトやアラビアやエルサレムに通じる道もあるという。

【バビロニア軍の傭兵部隊は南下し、ユダの民と敵対するエドム人の兵士を使って掠奪したはず。その後、エルサレムとベエル・シェバの中間点にあるヘブロンへとって返し、ヘブロンを包囲し、エルサレム陥落と同時に内通者が町の門のかんぬきを外す手筈になっているのでしょう、たぶん】

 ヘブロンはダビデがユダの王となる以前、統治した町なので高い障壁が築かれているという。

【バビロニアの王は金目のものも洗いざらいもってく腹づもりです。ユダの民もだ。わかったかーっ!】

「ギャンギャン吠えられると、肝が冷える。捨て子のせいやわ」

【Shit! 不明瞭な箇所を列挙してください】

ルーシーは息切れしたのか、

【再度、説明して差しあげます。前頭葉と外頭葉と側頭葉の改善に協力することにやぶさかではありません】

「側座核が壊れてることはわかってたけど、他にも仰山、悪いところがあったんや……」自信を喪失し、三白眼の目が虚ろになる。

 赤紫のかげろうに包まれながら、太陽は、白い城壁の西に沈んでいく。

 ルーシーはグワッグワッグワッと高笑いをし、ふいにキューンと鳴いた。

【繰り返しますが、ユダ王国は3カ月前、紀元前598年第10の月、先代の王、エホヤキム王と戦士団は処刑され、貴族や若い祭司や兵士らを差し出すことでなんとか聖都は守られました。かつて北王国のイスラエルでは20万もの人々がアッシリアに囚われたことに比べれば、ユダの王族と民の大半はエルサレムに残り、生きのびることができたのです】

 安堵したユダの指導者は今年のバビロニアへの貢納のための織物や果実や穀物などを、商人や民に供出させるにはどうすべきか、話し合っている最中にふたたび包囲されたらしい。

【ユダ王国の重鎮らは反乱分子がユダの民を扇動しているとわかっていましたが、まさか、14日からはじまった過ぎ越しの祭りの3日目、17日にバビロニア軍の大軍が再度、侵攻してくるとは、夢にも思っていなかったのです。当初は、服属国を定期的に訪れる守備隊だと思ったほどでした。町や村が襲撃され、聖都が包囲されてはじめて事の重大さに気づいたありさまでした。律法学者や祭司の一部と氏族長らの迎撃すべしと主張する派と、聖都に住む貴族や地主や商人らの降伏すべしと言って譲らない派とに国論は二分したまま篭城に至ったのです。バビロニア軍と戦って勝てないとわかっていながら、主立った者たちによる果てしない論争に現王のエホヤキンは巻き込まれ、開城を決断できずにいます】

「氏族ってなんなん?」

【祖先を同じくする血族の団体をさします。戦士の集団と言ってもいいでしょう。いくさのないときは羊や山羊を飼い、ぶどうや小麦を育てています。この時代の財産は、羊や山羊の頭数で表されたので、彼らは奴隷身分ではなく、自由農民と呼ばれる団体でした】

「負けるとわかってても戦いたい人らっていてるもんな。湾岸戦争のとき、日本は酷い目にあいたないから、多国籍軍に仰山、みかじめ料をはろたんやなぁ。ええ選択をしたんや。弱者は強者に勝てん。そやからアタシらもしょうもないことにかかわらんと、さっさと逃げて帰ろ」

 ルーシーはわたしを上目遣いに見つめると、

【誠に遺憾ながら、あなたは天使作成ソフトによって、地上に送られてきました。脳細胞がレベル1であろうと、運動の調節を行なう小脳に異常があろうと、覇気に欠けようと神の正義を行なわなくてはならないのです。You are destine to do great things】

「短気なうえに薄情な神サンのどこに正義があるのん。アンタのゆー神サンが正義の味方やったら、悪魔も正義の味方になる」

 ルーシーは後ろ足で大地に立ち、蛇がとぐろを巻くように前足を交叉し、わたしの首を絞めた。

【南王国の滅びは北王国同様、神が定められたこと。神は自ら選ばれた民を憐れまれることに飽きられたのだ。金の小牛を崇めるような連中に裁きをくだされたのだ。同じように、あなたのような不実で不出来なゴボテンをお許しになるはずがなーい!】

「く、くるしい……仮にも神サンと崇められる立場にいて、それはないって。日本の神サンはどんなに悪いことしても、許してくれる……選んだ民に復讐する神サンなんて、いらんやん」

 ルーシーは前足を解くと、首が折れたようにうなだれた。

【エホヤキン王もダニエルさまもご無事がどうか……反乱を唱える者たちは王さえ殺しかねない。至聖所におられるダニエルさまも……】

「『ダニエル書』があるんやから、無事に決まってるやないの。アホとちゃうか。アンタのゆー神サンは、自分のことを誉めたたえてる本をかならず後世に残すって。予定を変更したりせぇへんて。書いてあるやん。『神のみ名は永遠より永遠に至るまでほむべきかな』って」

 たしかにと言いつつ、ルーシーは歯がみした。ギリッギリッ。鼻の横に怒りのしわが見える。

【北のイスラエル王国はアッシリア帝国の包囲に3年間、耐えました。真北のシリアや地中海沿岸に面したフェニキアの数ある都市国家のうちの1カ国でも援軍を送ってくれないかと、どれほど待ったことでしょう。篭城は援軍がくることを想定した戦略です。過去にいざこざがあったとしても同じ祖先の南のユダ王国がアッシリアの背後を攻めて加勢してくれると虚しい期待をしたと思います】

「それな。篭城して勝つ見込みがないんやから、さっさと降伏するほうが、殺される人数が少なくてすむ」

【禍(わざわい)の預言者エレミヤは、神殿の焼失、民の補囚、ユダとエルサレムの荒廃をすでに予告しています。今回の進攻では、神殿の焼失は免れますが、神の掟にそむいた報いは受けなくてはなりません】

「つぎからつぎへと、ろくでもない預言をする連中が現われるんやなぁ。まぁ、こうやって、ぶ厚い本になってるんやから、人間の不幸が大好きな人が大勢いたゆーことやろな」

 ルーシーは4本の脚を折り、2本の前足にターバンの頭をのせて目を閉じた。ハチ公のように動かない。

「アタシに愛想がつきて、帰る気になったやろ? 早よ、神の戸口を開いてよ。ほんで帰ろ。アンタがその気になったら、いけるかもしれへん」

【グゥワ~ウォッフォン!】

ルーシーは自らを奮い立たせるように咳払いをすると、ゆっくりと目を開けた。

【くりかえしになりますが紀元前609年、世界最終戦争が起きる場所とされる陸路の要衝地メギドにおいて、ユダ王国の名君ヨシヤ王を討ったのはエジプトのファラオ(王)、ネコでした。そのネコを、バビロニアの皇太子であったネブカドネザルは、ユーフラテス川上流の西岸にあるカルケミシュ――現シリアと現トルコの国境に位置する古代都市において撃破します。このいくさによって、エジプトはシリアとパレスチナ地方への影響力を失いました。にもかかわらず、ユダ王国の先の王、エホヤキムは自らの行いが滅亡を早めるともしらず、エジプトを頼みとしてネブカドネザル王に反旗を翻したのです。聡明な現王はユダ王国を存続させようと、ラビと呼ばれる律法学者や比較的冷静な氏族の領袖の説得に努めています】

「アッシリアの書記官やったアンタは、このとき、まだ生きてたん?」

【遠い昔の出来事です。12歳で、奴隷の身分から書記官の見習いとなったわたしは15歳で書記官に昇格し、閣下たる王が亡くなるまでの7年間、お仕えしたのですが、わたしを疎んじる宦官の行政官によって図書館の門番に降格されました。王宮の塩をはむ身分を捨てようとさえこころみましたが、つねづね書字板を守ってほしいとおっしゃられた王のお心を思うと、ニネヴェの図書館から離れることはできませんでした】

 ルーシーはあふれる涙と鼻水を前脚の肉球でぬぐうと、首を左右に振り振り、ため息をもらし、

【シュメル人のしたためた物語『ギルガメッシュ叙事詩』の粘土板が欠けることなくそろっていたのです。アッカド語で編集し、アッシリア語で記されたニネヴェ語版が図書館に残されていたのですよ。神がつくったもっとも美しい人間――実在した王ギルガメッシュと、彼の分身ともいうべき友のエンキドゥの物語――ああ、価値を知らない人たちによって燃やされてしまった……】

 鼻水がたれているので、ターバンをずらして拭いてやる。

「なんでもできる、えらい神サンがいてはる天国には、ぜんぶそろってるって」

【聖書の世界観と『ギルガメッシュ叙事詩』の世界観は相容れません。ああ、こういう話のときは、胸にひびくBGMがほしいですね。香港のフェイ・ウォンの『EYES ON ME』。あなたがもといた場所にもどったとき、耳にするかもしれません……】

「フェイ・ウォンは知ってるって。『恋する惑星』に出てためっちゃかわいい女の子やろ? タイトルは忘れたけど、主題歌も歌ってたよな?」

 ルーシーは耳をへしゃげてわたしを見上げた。

【『夢中人』です。あなたを表すようなタイトルだと思いませんか?】

「アッシリアでは、何歳まで生きたん?」

【紀元前612年にニネヴェが陥落したとき、膨大な粘土板書籍とともにわたしは昇天しました。34歳でした。ウグゥグゥ、せつない。のど飴を1つ】

「供養に1つあげるけど、もしかしてのど飴中毒とちゃうか? しゃべりすぎるせいや」

【どこまで話したでしょうか?】

ルーシーはしばらく頭をかたむけていたが、前足で顔をかくと、

【ネブカドネザル王は何事も思い通りにしないと気のすまない傲慢な支配者ですが、かつてのアッシリアのティグラト・ピレセル3世王やシャルマネセル5世王の残虐性に比較すればまだしも捕虜に対して温情がありました。昨年といっても、わずか3カ月前のことですが、第1回の1度目のバビロン捕囚では、バビロニアの聖都ニップルの郊外、ケバル川のほとりに3000人余のユダヤ人を流刑に処しました。食糧も満足に与えられない約1600キロの旅の果てに、見知らぬ習慣をもつ異教の民に取り囲まれて生活することになったユダの民は聖なる都エルサレムへ帰還することを一途に願いました。どれほど嘆いたことでしょう。この中にのちの神の言葉を預かる者となる、祭司ブジの子・エゼキエルがいました。1150頁に『エゼキエル書』があります】

「何が書いてあるん?」

【ユダ王国の崩壊を歓喜した近隣諸国の荒廃を預言しています。そしてイスラエルが回復することも――それだけではありません。彼はケバル川のほとりにいたとき、天が開けて、神のまぼろしを見たと記しています】

「聖書の神サンって、ほんまもんの宇宙人みたいや」

 ルーシーは鼻をならし、

【ネブカドネザル王はユダの民が自分の家をもつこと、しもべを使うこと、斯業にたずさわることを許しました。そして、信仰の自由など一定の自治権を認めたのです】

「しもべって召使のことやろ? 捕虜になっても召使が許されるやなんて、ネブちゃんてええヒトやないの」

【いま現在のネブカドネザル王の心は猜疑心と不信感でいっぱいです。施したにもかかわらず、ユダ王国に残った者たちが、エジプトの甘言にのって反旗をひるがえそうと策をろうしていると思っているからです。権力者とは不思議な生きものです。王自らが密偵をつかって仕掛けておきながら、いざ、そうなると裏切られたと感じるのが人の常です】

「神サンが、エルサレムを滅ぼすと決めてるんやったら、好都合とちゃうのん?」

 ルーシーは後ろ足で立つと、前足の肉球をこすり合わせながら

【ああ神よ、俗なる天使、ゴボテンのよこしまな心にお慈悲を、アーメン】

と祈り、ふたたび声を荒げた。

【かつてはアッシリアの属領であったユダ王国は、新たな主人であるバビロニアから重税を科せられたーっ。穀物の3分の1と果実の半分。くわえてヨルダン川の渡河料や街道の通行料を徴収され、ユダ王国内で既得権益をもつ王族や地主や上級祭司は大いに不満であったが、搾取する側である彼らは戦いをのぞまなかったので現王を支持した。だが、戦士を従える地方の土地所有者である氏族は違ったーっ】

「税金や通行料って、大昔からあったんや」

【グゥワン! 自国の王が他国の王に仕え徴税請負人となり、重税を民に課すことは、神の加護なき君主と氏族らは見做したっ】

「神サンの加護があったら、税金が湧いて出るん?」

【列王紀下第24章を開けよ!】

「ちょっと待ってよ。ハイハイ、開けたで」

【グゥワン! 兄のエホヤキン王に代わって、新たに王となる、弟のゼデキヤはバビロニアが送りこんだ偽の預言者の言葉に惑わされ、父のエホヤキム王と同じ、過ちを犯す。エジプトのファラオのネコと密かに同盟を結び、バビロニアに対抗しようともくろんだ】

「ネブちゃんの罠やったんや」

 ルーシーは頭を大きく上下した。

【シリアとメソポタミア全域にその名を轟かせるネブカドネザル王は属国の王をけっして信じなーい。Oh,excuse me.わたしとしたことが、乱暴な物言いをしてしまいました。イエスさまはおっしゃっておられます。『カエサルのものはカエサルに、神のものは神に』と。見張り人とも、ゆるぎなきものとも呼ばれる、まことの預言者たちは、世界に起きるあらゆる災厄は盲目的な偶然によらず、最高の裁き主である神ご自身が定めたものだと告げています。しかしながら、人間の態度いかんによっては神は決心を変えられるのです】

『ダニエル書』を開き、

「ゼデキヤ王って、21歳で王サンになったんや。ほんまの名前は、マッタニヤか。お兄ちゃんの在位期間が3カ月やから、3カ月、マッタニヤ。へへへへ。この章の最後に、『主はついに彼らをみ前から払いすてられた』とある。王サンが気にいらへんと、そこに住んでるみんなにも腹を立てるんや。怒りっぽいうえに、気紛れな神サンの機嫌なんて、だれがとるんよ」

【スタック領域に一片のデータもない、まったくのヌル=空だったとは! 電子間相互作用のない場合、全エネルギーは0になる】

「アホやとゆーてんのやろ。なんて名ァの神サンか知らんけど、頭の悪いアタシにちょっかい出さんといてほしいねん」

【〝ヤハウェ〟という御名は、神の力のシンボルであらせられ、この世界について、神は目に見える形で関与されます。その驚嘆すべき御業こそ、超人間的であり、人格主義的であられるのです】

「超人の人格者がなんで復讐なんて考えるんよ。あほらし。アンタも本気でゆーてないやろ? そやから話の内容に一貫性がないねん。ときどき、神サンの味方か、敵か、わからん物言いになる」

 ルーシーは跳躍し、前足で、わたしの金冠頭を直撃した。振動音が響いて卒倒しそうになる。

【クソったれのガキが!】

 ギャンギャンと鳴きわめき、

【北のイスラエル王国が滅びたおりに数十万の農民は南のユダ王国へ移動した!】

「ほらほら、別の話になってるやん」

【黙れーっ、黙れーっ! この地の民には12部族全体の血が流れている。だからこそ、残りの者が、わけてもユダ部族が道を開くとヤハウェはおっしゃられているのです。木や石に神が宿るなどと考える日本人に生ける神の存在は理解できなーい!】

「神サンを信じてる民やのに、なんで国が滅ぼされるんよ」

【不信仰のあなたの言うことにも一理あります。グゥワ~ン。神の住む聖なる都は不滅だとユダ王国の人びとは自らの行いを顧みずに信じたがっています。彼らは知らない、神の不在を!】

  ルーシーは白目になった。

【近い未来、神の定めた〝神の日〟=〝復讐の日〟とも言いますが、その日には、救世主=メシアであられるイエスさまが聖都エルサレムに天よりくだりて、この悪しき地上を統治されます。そのとき、信仰なき者は火と硫黄による責め苦に遭うのです。長きにわたって、不実な人間に忍耐をしいられた神は、各個人の罪の違反にたいしてついに復讐されるのです】

 リック・アストレーの『ツゥギャザー・フォーエバァ』を、でたらめの英語で口ずさむ。

【バビロニア軍の進攻がなければ、聖都に近づくほど丘陵地に牧草が茂り、オリーブの林と麦畑がひろがっているのですが】

「人間をバーベキューにするやなんて、神サンやない。悪魔や、閻魔大王や、ダース・ベイダーや」

【You funny】ルーシーは目の下に笑いしわを見せた。【あなたに10日前のビジョンを見せましょう。魔都と称されるバビロンの王宮で、伝令官の報せを聞くネブカドネザル2世王の姿が前頭前皮質に映し出されますから、しっかり知覚してください】

「そろそろ行こか」

 ルーシーをおんぶする。

「急いでるんやろ? しゃべりだすと止まらへんから、ウザイねん」

 首輪を外し、懐中時計を見る。5時46分59秒から進んでいない。時間を見やすいように首輪を縮めて二重にし、腕時計にする。時計がぶらさがらないように時間を見るとき以外は皮と皮の間に挟みこむようにした。

【知的な意味を言語によって理解できないゴボテンには、視覚で体験させるしかない。のど飴を1つたのむ】

「何かで読んだけど、単純なイメージこそ最強の力をもつんやて。アタシは自分の頭で考えたいねん。だいち、10日も前のことを見せてもろても、いまの役に立たへん。逃げる手助けになるんやったらともかく――アタシらがここへくる前に何があっても、それを変えられへんのやから見てもしょうない」

【わたしの言うところのビジョンとは単なる幻影ではない】ルーシーの鼻息を荒くした。【フッフッフッ。音による空気の振動を一千億個ある神経細胞=ニューロンと連動させることで、眼球の水晶体機能にイフェクターを起こし、知覚を極限まで高めるのである。さっさとのど飴を口に入れろ】

 木の車輪の自転車は1人と1頭の尻を跳ねとばしながら悪路を行く。牧草地は見えても牛や羊の姿はない。砂塵は衣類の中に入りこみ全身に張りつく。なぜか、バビロニア軍兵士の姿もない。

【近未来には脳の血液や脳波を検知する天使ロボットが天界において創られ、遠隔操作が可能となる。人間の脳とコンピュータをつなぐインターフェイスが当たり前の時代がすぐそこにきています。そうなれば、あなたのように不具合の天使は即刻、お払い箱になる。ザマァワン】

「さっさと時計の針がすすんで、あしたになったらええのにな」

【人間界でもいずれはヒトゲノムが解析され、意識をコンピュータにアップロードできるようになり、脳内の信号を宇宙に送信できることさえ可能に――のど飴は、まだか】

「電話料金がいらんようになるねんな」

 ルーシーの前足2本は背後から金冠頭を時間差攻撃。頭が鳴る鳴る。

【現代では、コンピュータに膨大な知識が蓄積されています。人類は外部記憶装置を獲得したと言っていいでしょう。いずれ人間の神経回路の全体図がつくられ、記憶は遺伝情報として脳内のディスクに保存されるようになるワン】

「暗記科目はなくなるわけや。考えようによったら退屈かもな」

【人工知能は実現し、限りなく人間に近い存在のロボットが創られます。人類は火星への移住さえ可能になるでしょう。開拓民は複製人間=ロボットになるでしょう】

「秦野の車を運転してたんはロボットやったんや。あのロボットは『2001年宇宙の旅』に出てくるHAL9000みたいに邪魔もんを殺せるんやろ? アンタのいう神サンに似てるな。自分なりの理屈で人間を殺すねん」

【ニューロンを模倣した電子チップが開発されれば、生命体でなくても高度な意識や感情をもち得ます。ジィーズゥージィー】

「ガンダムみたいな戦闘能力ももつわけや」

【ジィーズゥージィー。権力を手にする者たちはロボットによる戦争を避けるために、遺伝子操作=ゲノム編集を行い、記憶を核とした意識体となってロボットの機能を制御します。同時にほとんどの人間はWWWからはじまる数字を記した極小チップを埋めこまれ監視下におかれるでしよう。ちなみにヘブライ語のWWWは、悪魔の数字666を意味します。ジィーズゥージィー】

 陽炎のゆれる薄暮の中、魔女メディアの木の自転車は墓場から蘇ったゾンビのようにユラユラと走る。漕いでも漕いでも草原と砂漠のまだら模様の景色のつならりがつづく。温度が下がってくる。

【近未来には、死人の海馬に血液を流して記憶を再構築することが可能になるでしょう。不死性となった一部の超人は、人工知能と一体化し、神と呼ばれる存在になる恐れさえもあります。なんたる悲劇、ジィーズゥー】

「アメリカのどこかの大学に、アインシュタインの脳がホルマリン漬けになってるって聞いたことがあるけど、もしかしたらアインシュタインの脳細胞も生き返るゆーことなん?」

【死後経過時間が長すぎると再生はそのぶんむずかしくなります。、現代の医学では5分までなら、なんとかなるかもしれません】

 わたしの脳はとっくに死んでいるだろう。

【ただし、研究成果および家族や友人への私信に至るまで、彼に関するあらゆるデータを自律型回路をもつコンピュータに記憶させると、彼の思考と非常によく似た意識体を創造する可能性は否定できないでしょう】

「アインシュタインやったら悪魔ロボットに対抗できるかも」

【自律型回路をもつ不死の意識体は、魔界の王とひとしい存在となる恐れがあります。想像するだに背筋が凍るワン。17世紀に生きた偉大な思索家デカルトは言っています。『後の者は先の者が終えたところからはじめることになり、多くの人の生涯と努力とを合わせることによって、われわれは皆いっしょに、めいめいがひとりで達しうるよりもはるかに遠くまで進むことになるであろう』と】

  ルーシーの声には怨念がこもっていた。

【しかーし、人の手を借りずに自らを進歩させる機能をもつロボットを制御できるのは進化した人間ではなく神のみ。人類の創造者であられる、真の神は、わが子の暴走をお許しにならなーい! 飴を飴をさっさと出せっ】

 後の者やら先の者やらの話は、養母を思い出させる。

 乾いた熱風が砂塵を巻きあげる。

 タオル1枚では砂埃は防げない。

「のど飴が欲しかったらラクダを出せーっ。ロバでもええわ」

【ノストラダムスの研究者は、『最先端の物理学上の発見と、神秘学ないし形而上学の領域の真理のあいだに、いかなる矛盾も彼は見いだしていなかった』としたためています。ここでいうところの彼はノストラダムスをさしています】

「科学と超能力はいっしょってことなん?」

【望みがあれば、念じればいいのです】

「自転車やおんぶラックが出せるんやから、のど飴くらいさっさと自分で出したらええやん」

【人の弱みにつけこむ、性悪の両棲類めっ】

「アンタにも弱みがあるとわかってうれしいわ~」

【神聖な欲望こそが意識を正しき行為に変換できるのです。人間が悪魔に対抗し得るただ1つの領域です。よって、不適切な欲望は叶わない、残念ながら】

 自転車を止めて、ルーシーの不適切な欲望を叶えてやる。ラクダを思い浮べるついでに、適切と思える欲望のチーズバーガーを追加した。

 何も現れない。

「なんで木馬みたいなチャリンコのままやのん。アタシは人間で、アンタは犬やないの。犬以下の能力しかない天使なんかにしていらん!」

 腹立ちまぎれに、青目からもらった果実の実を口の中に放りこむ。乾燥して丸く縮まっているので、のどの奥に転がる。気道のふたになる。息ができない。悲鳴すら出ない。

 もがき苦しむわたしを、ルーシーは嘲笑い、

【いずれ、あなたは神の慈悲から切り捨てられるでしょう】

と言った瞬間に、額の裏側あたりに映像が映し出された。頭の中でアクセルが2度、踏まれた感じだった。

  10 ネブカドネザル大王

 足、腕、指、耳、首に金や宝石の飾りものをつけた褐色の肌の男性が、豹の脚を模した黄金の縁飾りのある椅子に腰かけていた。光沢のある肩かけをたらし、ふさ飾りとひだのあるモスグリーンの衣をまとっている。腰帯には家紋に似た柄が描かれ、同色の筒型の帽子には金糸を織り込んだ幾何学的な模様が施されていた。彼が高位の者であることはひと目で知れた。鋭い眼差しと高い鼻梁を引き立てる引き結んだ厚いくちびるには意志の強さが現われ、近寄りがたい印象だった。

【ネブカドネザル大王です。後年、アレキサンダー大王がバビロンを占領した年齢とほぼ同じです。18歳で即位した王は、現在26歳です】

 自転車を漕ぎながら石のように固い果実の実を、わたしは吐き捨てたついでに、声に出して訊く。

「ヒラテンの声が頭の奥のほうで聞こえるのは、なんでなん?」

 ナツメヤシを乾燥したものなのにもったいないとルーシーは嫌味を言ってから、

【わたしの意識を大脳から抽出して、信号化しているからです。あなたの思考も伝わりますので、感覚を研ぎ澄ませてください】

 王は手に黄金の杖を持ち、壇上に座していた。長方形の赤い敷物が壇上の王の椅子の下から金縁のアーチ形の通路までのびている。扉はない。壇下の両脇には、護衛の兵士らしき男たちが数人ずつ、直立不動の姿勢で控えている。室内は明るい。炎の燃える燭台が壁という壁に据えつけられ、縞模様の大理石の床は一点の曇りもなく磨かれ、王の威光を反映して眩しい輝きを放っていた。

【王都バビロンの謁見の間です。ゆるくカーブした壁は化粧しっくいが塗られ、ライオン狩りのレリーフで飾られています。規模と壮麗さにおいてニネベェをしのぐ王城です。かつてバビロニアがアッシリアに反旗をひるがしたとき、怒り狂ったセンナケリブ王がバビロンを破壊したのですが、ネブカドネザル王とその父が以前のバビロンに勝る都を再建したのです。謁見の間からはのぞめませんが、大広間のテラスからは、アスファルトと煉瓦で建てられたいくつものジクラト(階段式の高い塔)や、敷石を敷いた広い街路や商店、人びとの住む屋上のある石造りの家並みが見えます。美しさゆえにバビロンはペルシアの時代にも破壊されますが――】

「ネブちゃんが持ってるのは何なん?」

【王が手にしているのは笏杖といって、親から子に受け継がれる、王位に就いた者を象徴する品です。黄金と象牙の細工を施された椅子は、玉座と言います。羊の皮でつくった〝羊皮紙〟や木材の輸出でも名高いビブロスからの献上品です】

「大昔から地域ごとの名産品って、あったんや」

【ビブロスはエジプトとの交易もさかんで、ミイラの棺になる木材や防腐剤につかうアスファルトを売っていました】

「石の棺やなかったんや。包帯のぐるぐる巻きの下にはアスファルトの防腐剤が塗ってあったのか、へぇ。知らなんだ」

【フェニキアの港湾都市は古来より交易がさかんだったせいで、内陸部のシリアには手工業に従事する職人が多く住んでいました。アッシリアの王は、ニネヴェに王宮を建てるにあたってシリアの職人を強制的に自国に移住させたほどです】

 半裸の美少年2人が、傘くらいある扇を手にもち王の傍らに侍っている。

【侍童と言います。日本の武家社会で例えるなら、小姓のようなものです】

 背もたれに身をゆだねた王は、頑健な体躯をもてあまし気味に両足を小刻みにゆすっていた。生気に満ちた顔面に疲労の気配は微塵も感じられないが額や眉間に深い皺が刻まれている。

 正面の壇下でひざまずているのは伝令官だという。武具を身につけた伝令官は兜を抱き、こうべをたれている。彼の両脇には、身なりのいい20人ほどの男性が左右に別れ、両手を身体の前で組み、王を仰ぎ見るような距離で直立していた。

【7人の大臣と側近たちです。彼らは主として、内政を司っています。王直属の親衛隊の隊長もいます。通路につづく出入り口にいる護衛兵とはべつに、臣下の目につかない場所で、親衛隊の兵士らは潜んでいて、隊長の合図があれば乱入してきます】

 伝令官は口上を述べた。

「偉大なる大王、四周の王、シュメルとアッカドの王にしてバビロニアの王に申し伝えます。陛下の親書へのユダのエホヤキン王よりの返書でございます」

 大臣らの背後に控えていた黒ずくめの男が、兵士から筒状の書簡を受け取ると、ネブカドネザル王に恭しく差し出した。王は封印を解き、黄ばんだ紙の書状を広げて一読し、伝令官にたずねた。

「総司令官のシデオン将軍はなんと申しておる」

「南端の飛び地ベエル・シェバをはじめ、ユダの主立った町や村は平定いたしましたが、防壁のあるヘブロンとエルサレムは城門を閉ざし、開けません。シデオン将軍は陛下の一日も早い、リブラ(現シリアのリブレに近い戦略上の要衝地)へのご出陣を乞い願っておられます。フェニキアのティルスの北東の内陸に位置するリブラにおいて現況の兵力では心許なく――戦車は10両もなく、騎馬兵100、弓兵200、槍兵200。地元民から徴集したアラム人やヒビ人(サマリアの土着民)からなる軽装歩兵の500のみ――」

 伝令官はひと息つき、

「南西に位置するフェニキアの港湾都市アルワド、ビブロス、シドン、ティルスが手を組みユダ王国を援護せんと出兵した場合に備えて戦闘準備は怠っておりませんが、シリアのリブラに駐屯するわが軍が南下すれば、隙をついて駐屯地である服属国のダマスカスが離反し、ティルスらフェニキアの連合軍を迎え撃つわが軍の背後を突くやもしれませぬ。このような次第で、傭兵をふくめ1個大隊の兵力では太刀打ちしかねるとリブラの指揮官が申しております。防禦に限られた兵員の配備では適の攻撃にさらされたときひとたまりもないと――また遊牧民のベドウィンの動向によっては不測の事態も生ずる怖れありと――」

 王は眉ひとつ動かさない。

「余は、即位する以前、8歳になったばかりの頃から父のナボポラッサル王に従い、国境を接するアッシリアの戦車部隊と戦った。一進一退の激戦が10年あまりつづいた。当時は服属国もなく、戦車も不十分で傭兵を雇う金もなかった。チグリス河畔にあるアッシリアの聖都アッシュルを攻撃したが、わがバビロニア一国では陥落させることはかなわなかった。父王は隣国のメディアと同盟を結び、勝利したがそれでよかったのかどうか、いまだに判断がつかぬ。メディア人は父でさえ苦戦をしいられた北方のスキタイ人をいまでは手なずけ、自軍の騎馬部隊に組み入れている。エラムに至ってはわが国の服属国であった時代には、エラムの王に大総督〝スッカル・マフ〟の称号を与えていた。それがいまでは、表向きはわが国の支配下にあるように振る舞っているが、メディアの臣従国と言うべきだろう。エラムの交易商人とメディアは良好な関係にあり、わが国にとって脅威であることは相違ない」

 大臣らは口々に言った。

「陛下は、アッシリアのアッシュル神を駆逐したベル・マルドゥク神そのもの。エラムの女神ナルンテなど恐れるに足りません」

 王は手入れの行き届いた褐色のあごひげを、大きな手でひと撫でし、

「まだ余の望みは道半ばである。わが国の領土は、往時のアッシリアが征服した領土に遠くおよばぬ。チグリス川の上流一帯(クルディスタン)を本拠地としたアッシリアは北のウラルトゥ国にいくども侵攻し、鉄鉱石の主産地アルメニア山を奪取し、東の山岳地のメディアからは馬を、西のパレスチナ、シリア、フェニキアからは木材は言うにおよばず金細工職人までも手にいれた。むろんアナトリア高原(現トルコ東部)の鉄鉱石を掌中にした」

「それらのものはみな交易商人によって、バビロンにもたらされております。陸路はアラム人の隊商が東方の国々と往来し、西方の国々はエドム人の隊商が、海路はアラビア人が――」

 壮年の大臣の1人が答えたが、王はさえぎった。

「アッシリアは、帝国の名にふさわしい国土の広さであった。その成果は、精銅製の武器しかもたぬエジプトをひざまずかせたことで明白である。上の海(地中海)での交易の要となるキッテム(キプロス島)を掌握し、銅を献上させた。非力であったわがバビロニアにも、内乱のたびにアッシリアは介入した。ティグラト・ピレセル王はエラム人の王と手を結び、このバビロンの王となった。わが国の民は、10年の長きにわたって呻吟した」

 重鎮なのだろう、灰色のあごひげの老人が口をひらいた。

「されど陛下、アッシリアは4つの海――黒い海、上の海、下の海(ペルシア湾)、紅海を支配下におきましたが、反乱をくりかえす諸国に長年、手を焼きました。わけても、わが国の先の王であらせられるナボポラッサル陛下が即位されて以後は、意のままにならぬ服属国がつぎつぎと現われ四面楚歌の状況に陥りました」

 王は大きくうなずき、

「街道でつながるエジプトと結んで反乱を企てた南王国ユダの要衝ラキシュを、アッシリアのセンナケリブ王は攻め落とすのに苦戦した。直後にエルサレムを包囲しながら陥落させることができなかった。これがもとで内政が不安定になり、兵と民の怒りの矛先を、わが王都バビロンにむけた。バビロンは無残な姿になった」

「すべて過ぎた昔のこと。四方に手を広げすぎたアッシリアはバビロニアとメディアの連合軍によって滅亡いたしました」老臣は戒めるように言った。

 わたしが質問する前に、ルーシーは解説してくれた。ラキシュ(現テル・エッ・ドゥウェイ)はヘブロンの西約24㌔にあり、人口は6000人から7500人ほどだったという。周囲が起伏のある地域で二重の防壁があったためにアッシリア軍は攻めあぐねたのだと。紀元前701年、ラキシュ攻城戦のあと、エジプトへ遠征したセンナケリブ王はエチオピアの参戦で平定を断念し、エルサレムを包囲した。しかし、兵を退かざるを得ない事態が生じた。一連の遠征が帝国の躓きのもとだったとルーシーは言う。

「アッシリアの国力が衰えたのは、自国の民の兵役を免除したせいだ。バニパル王の死後、後継者に恵まれなかったことも――」

 王の言葉が終わらぬうちに、王にひけをとらない華美な装いの若い男が前へ進み出た。

「兄上、わがバビロニアがあらたに支配した地域もございます」

 王は眉間を寄せた。

「たしかに、バビロンからアラビアのテマに至る道をわがものとした。南に三角形状にのびるネゲブ砂漠を大兵力で横断することによって、ユダ王国を紅海から切断できる。しかし、アラビアの大部分は砂漠だ。ラクダの兵站部隊や隊商の移動には適しているだろうが、騎馬部隊や重装歩兵の行軍には適していない。駐屯地のラマにわずかばかりの兵をおいて、通行税を徴収しても守備隊の兵士の糧食に費やされる。これで紅海の西の沿岸地域を手に入れたといえるのか。問題は、わが軍はいまもユーフラテス川の渡河に手間取っていることだ。これではいつまで経っても、ティルスに侵攻できぬ」

「渡河のさいに必要な軍船の数は年毎に増しております」と王弟は言った。「アッシリアも渡河には苦労したようです」

「時がかかりすぎる。砂漠と山脈の間にある弓形の緑地伝いに100日余りかけて移動する方法しか陽のしずむ西にむかうすべがない。どれほど急いでも軍の移動にはふた月かかる」

ルーシーの声が頭の中に侵入してくる。【江戸時代、参勤交代のさい、薩摩から江戸までおよそ1700㎞ありました。3カ月かかったそうです】

 大臣らは互いに目配せをし、自分以外のだれかが発言するのを待っている。

「わが国とメディアとでアッシリアの領土を分割した」

王は口惜し気に言った。

「北西部の領土を得たメディアのほうが南西部を得たわが国より広さにおいても資源においても利を得ている。メディアにはどの国も欲しがる駿馬がいる。そのうえラピスラズリを産するバクトリアを手なずけて大儲けしている。同盟関係にあるメディアだが、余が王都を留守にすれば、リュディア方面に展開している軍勢と示し合わせて四方から攻めてくるやもしれぬ。わが国の東の山岳地(ザクロス山脈)に位置するメディアにまったき信頼を寄せることはむずかしい。伝令官ならその程度のことはわからぬかっ」

 あたりをはらう王の怒声に伝令官は平伏した。

「余がじきじきにリブラへ出向かぬと、フェニキアの諸都市を牽制できぬとシデオンは申すのかっ。なんのための総司令官かっ」

 兵士は無言だった。

「占領したリブラに駐留する、属国からかき集めた傭兵部隊は余ではなく、支払われる金を待っているのだ。ベドウィンもだ。やつらは金さえもらえばどちらにでもつく。戦車や武具を盗むこともなんのためらいもない。そのような事態は出陣前からわかっていたことだ。エルサレムをひと月で陥落させると豪語したのはだれか!」

王を阻む者は王しかいない。

「シデオン将軍は総勢10万余の大軍を擁しながら小国のエルサレム一国を早々に落とせぬと申すのか!」

【王は弟の推挙した総司令官の無能に苛立っているのです】

 壇上に座す王の背後には、青い海原のように見えるつづれ織りの地図が壁に掛けられていた。傍らに象牙の浮き彫り細工のある低いテーブルが備えられている

 王はこぶしで椅子の肘掛けを叩き、

「北上してくるやもしれぬエジプトに側面を突かれるやもしれぬと案じておるのであろう。旧態依然としたエジプトにその力はない。わが軍には鍛造した鉄の武器がある。雨期が終わったいまなら収穫期にあたるゆえ、兵站(武具や食糧)は容易に調達できる。馬のはむ草も、兵士の糧食も、泉の枯れる第3の月(6月初旬頃)まで充分にある。この機に一気呵成に攻略せねば、時がたつほどに兵站に苦慮する。アッシリアは戦力を誇示するあまり、北王国の王都サマリアを攻めるさいに兵站の補充を怠った。そのせいで、城門を打ち破るのに3年の月日を要したのだ。おそらく、ヨルダン川の東側(トランス・ヨルダン)に住むイスラエル人の逃亡兵らに兵站を運ぶラクダ部隊が襲撃されたにちがいない。同じ轍を踏んではならぬ。命じた通りに、エルサレムに通じるすべての街道を封鎖せよ」

みな、平伏した。

【いくさには戦闘力は言うに及ばす、鉱物資源を産する領土と人口、同盟軍の有る無しが重要なのですが、兵站の確保が何より大事なのです。これは近代戦においても同じです。南王国を中心に記述された聖書は、北王国の敗北を神の思召しのように書いていますが、実際は、圧倒的な戦力を有するアッシリアに対してよく持ちこたえたと言っていいでしょう。グゥワンウグゥグゥ……】

 バビロニアは軍事において強国であるが、鉱物資源の確保と同盟国に不安を抱えているとルーシーは言う。

 王は大臣らを見回し、

「兵の糧食が不足ならばリブラで待機する軍に命じ、陸路でフェニキアの各都市へ送られる穀物を奪えばいいだけのことだ。いくさにもっとも必要とされるのは、指揮官のゆるぎない信念だ。勝利は兵士の数によるのではなく、指揮官のはげしい戦意こそがあらゆる不利な状況を克服するのだと、エルサレム城外で陣を張るシデオンに申し伝えよ。言い忘れるところであった。不測の事態を怖れるリブラの指揮官は即刻、更迭するように言え」

 伝令官は「御意」と言って低頭したまま、身じろぎしない。王は笏状を傍らの少年に預けると、黄金の玉座から立ち上がり、つづれ織りの地図の前に立った。

「余が王位に就く直前、カルケミシュにおいてアッシリア軍と戦った。覚えておるか? 戦いのさなかに、わが父ナボポラッサル王の訃報が届いた。父王は死期の迫りくるなか、余と民のために北方の諸部族の鎮圧に力を使い果した」

 王は地図の中心となる箇所を筒状の書簡入れで差した。

 大臣らの視線が一ヶ所に集まった。

「ニネヴェが陥落したのち、アッシリア軍の残党どもが、ユーフラテス川の支流に面した都ハランで軍の再編成を行なった。これを好機と見たエジプトのファラオ・ネコはこのとき、アッシリアの残党と手をたずさえ、わが軍と雌雄を決せんと北上してきた」

 王は心なしか目を細めた。

「当時のユダの王ヨシヤは無謀にもエジプト軍を迎え撃ちメギドで戦死している。5つの方向に街道が通じている戦略上の要衝地メギドには、たしかに地の利がある。しかし、わずかばかりの兵力でエジプト軍に対抗できるわけがない。騎馬軍団を擁しない小国の王が、なぜ、そのような決断をするのか、かの国の王の真意が当時の余には解せなかった」

 王は伝令官にむかって言った

「ユダの王のおかげで、わが軍はエジプト軍を迎え撃つ態勢を整えることができたが、釈然としない思いが長くのこった。エジプトのファラオはわが軍との戦闘の前に、ユダ王国を攻めるつもりはない、通過するだけだとヨシヤ王に伝えていたのだ」

「いにしえの栄光を夢見たのでございましょう。ソロモン王の時代にはひとつの王国でしたゆえに」

したり顔の王弟が言った。

 背後の者は老大臣をのぞいていっせいにうなずいた。

王弟はそれらの者を従えているように見えた。

【王弟はネブカドネザル王にとって悩みの種です。賄賂で人事を決定するからです】

 ネブカドネザル王は眉間に深いしわを刻み、

「戦闘力に関して明瞭にひらきのある2国間に争いが起きることは通常の戦役では考えられぬ。かつての北王国イスラエルは南王国ユダより、はるかに強国であったがアッシリアとは比較しようもないほど小国であった。年月を経たいま、北王国の当時の王の心中だけでなく、メギドで戦死したユダの王の心中もおもんばかれるようになった。強国が自国の領土を平然と通過すれば、民はその一事で王と自軍への信頼を失う。領土を明け渡したにひとしいからだ」

 うなずく者もいたが、目をそらす者もいた。

「現王エホヤキンの祖父であったヨシヤ王は彼らの神に忠実な王であったという。ユダの王は命を賭して戦うことで、他国の侵略を断じて許してならないと民へ知らしめたのだ。戦略のかけらもない無謀な信念だが、ユダの民はヨシヤ王にならい、勝敗を度外視した戦いに臨むおそれがある。その証左に、ヨシヤ王はいまもユダの民から讃えられている。小国が大国に敢然と立ち向かったことで、伝説の王となったのだ。そのことをシデオンに伝えよ。油断するなと。しかし、時期を失せず敢然と戦えと。余は父王からそのように学んだ」

 伝令官は顔を伏したまま、

「現王のエホヤキンに開城をうながすご親書をいま1度、したためていただけますでしょうか」

「おのれの才覚で事を治めよとシデオンに申せ!」

 伝令官は一礼し、逃げるように立ち去った。

 沈黙が広間を支配した。

 王弟が問いかけた。

「兄上、神の尖兵となればいかなる困難、死さえも乗り越えられるというお言葉でございましょうか」 

「弟よ、そなたは意志の力を侮っておるのか」

 弟は兄の不興をかいながらも、

「なんとも不可解なお言葉でございます。どの国で神であろうと、敵国にまさる戦闘力なくして勝利に導くことは及びもつかぬかと――父君とそろいの胸繋(馬の胸から鞍にかける組み紐)で戦ったわたしはそのように学びました」

「いかなるいくさであっても、完全に終結したいくさはない。戦いに敗れ、辛酸をなめた敵軍の兵と民はいつの日にか報復をたくらむ。同族が支配するシリアを嫌い、アラム人は各地に移住し、定住した。彼らは、わがバビロニアに移住したのちも地元民のカルデア人と問題を起こさない。しかし、隣国からやってきたエラム人はアラム人との間で争いが絶えない。一見、われわれカルデア人に関わりないように見えるが、そうではない。一時はわが国の宗主国であったエラムからの移住者はわが国を徐々に蝕んでいる。一瞬の気のゆるみが、狡猾なエラム人の野心に火をつけるのだ」

 ネブカドネザル王の父の先祖はアラム人だという噂があるとルーシーはこっそり言う。

「エラム人はいつの日にか、かならずわれわれにとってかわろうとする。そのさい、手段を選ばぬ。大昔、2つの大河に沿って点在していたシュメルの国々はエラム人に侵略され、滅んだ。いまも彼らは宮廷にいさかいの種をまいておる。連中は金で人の心を買う」

 王はそう言って、王弟を見つめた。

「兄上の臣下である、王族の中にだれ1人、兄上の統治に異をとなえる者などおりません」

「古来より、自国の民がそっくり他国の民に入れ替わった例は枚挙にいとまない。王も同じだ。血族の者が引き継ぐのではなく、力ある者が王笏を所持する者となる」

 壮年の大臣らしき男が咳払いをし、

「陸路での交易をめぐって、アラム人とエラム人は競っているので争いが絶えないのでは――」 

と言上すると、王は即座に返答した。

「エラム人はメディア人の手のうちにある。わが国に支払う交易路で徴収する通行料などたかがしれている。エラム人の得た利益は貢ぎ物の形でメディアに吸い上げられている」

「兄上、ならば……エラム人の商人をわが国から追放なさればよろしいかと存じますが」

王弟は得意げに言った。

「それが可能なら、とっくに交易路の通行を止めている。アラム人はラクダの隊商を率いて高山を越えてバクトリアに至り、ラピスラズリを入手してくるが、エラム人の商人は自らは移動せず、木材や銅や錫や鉄などあらゆる物資を独自の交易ルートを行く交易商人をもちいて入手し、自国で加工し、わが国に供給しておる」

「他国より安価ですので、好都合ではありませんか」

 壮年の大臣が口添えた。

「交易路の通行料は言うまでもなく、エラム人に雇われた船の渡河料と下の海に停泊する船への税はもれなく課しております」

「バビロンの波止場は各国の船で賑わっているが、ティルスの港が面している上の海ほど海路での交易がさかんではない」

「そのようなことは断じてございまん」

壮年の大臣は王の言葉を強く否定した。

「バビロンの埠頭のにぎわいは他国とは比べようもありません」

「わが国の船が一艚でも、鉄や銅や錫をふくむ鉱石を運んできているのか!」

 王は一喝した。

「アラビア人の小舟が貝や香料を運んでくるが、香料のカシアをはじめ、ティルスの商人から買い入れている」

「アラビア人はクジャラート(インド・ガンジス川付近)から香辛料をじきじきに――」

 言いつのる大臣の声に、王は耳を貸さなかった。

「いくさにおいて肝要なのは、交易路の確保にある。それは陸だけに限らぬ。荷をおおく運べる船の海路の支配が国運を決するのだ。王城を陥落させるのはそののちのことだ」

 王は立ったままからだの向きをかえて、フェニキアの沿岸部と思われる位置を、書簡入れで叩きながら、

「シドンやビブロスの君主は朝貢に応じたといっても、戦略物資はけっして献上せぬ。それさえ、ティルスは応じぬ。かの国の富はわが国と比してもひけをとらぬ。はるかに勝っている。そなたらは自らが利を得ることしか目がむかぬ」

  王弟を除く者たちの目に恐れが見える。

「わが国の財政は常に逼迫しておる。服属国に課す黄金300シェケル(約38535㌦)だ。毎年、貢納させたうえで羊毛や大麦やなつめやしの実などを献上させている。アッシリアが、なぜ、狂ったように毎年遠征したのか、これで知れる。河川や街道から得る通行料も上の海や下の海の交易による利もいくさに費やされるからだ。わが国もかわらぬ。何も言うな! いくさを命じているのは余だ。しかし、地位や役職を利用して賄賂をとるのは、おまえたちだ」

 空気が凍りつくのが、映像を通していてもわかった。

「ティルスを手に入れぬかぎり、わが国の未来はない」

 断罪する王に、別の大臣がおそるおそる口をはさんだ。

「バビロニアがアッシリアの侵攻に苦慮していた時代、フェニキアの諸都市ティルス、アルワド、シドン、ビブロスは、アラムとダマスカス両国の王アダド・イドリを盟主とする反アッシリア同盟に加わっておりました」

 王はわずかにうなずき、

「シャルマルセル3世率いる7万のアッシリア軍を、反アッシリア同盟軍がオロンテス河畔のカルカル(現テル・カルクル)で迎え撃った戦いだ(前853年)。シリアのハマト、エジプト、遊牧民のアラブ人、それに北のイスラエル王国のアハブ王らが同盟軍にくわわった」

「陛下は諸国のいにしえの情勢におくわしい」

 高齢の大臣が感嘆すると、王は口元に微苦笑をうかべた。

「イスラエル王国のアハブ王は要衝メギドに防壁を築き、戦車2千両に歩兵1万の軍勢で参戦した。反アッシリア同盟の盟主がアダド・イドリ王ではなく、北王国と南王国の再統一を試みたアハブ王であれば、アッシリアに勝利したやもしれぬ。このとき、南のユダ王国の者たちは傍観しただけではない。北王国を裏切ったのだ。分裂した王国を1つにまとめ、国力を高めようとしたアハブ王の真意はユダの民に伝わらなかった。神より戦略を重んじた北のイスラエル王国が滅んだのはユダの民にとっては当然の帰結なのだろう。余が案じるのはそのことなのだ。戦略より信仰を優先するユダの民は愚かで頑固だが、彼らの指導者の中には時に岩をも砕く意志を有する者が現われる。われわれにはないものだ。もしかすると、ユダの民にしかない気質なのかもしれぬ。迷いがなく、自らを犠牲にすることもいとわない。われわれが滅んだのちも、彼らは滅ぶことはないだろう」

「なにを仰せなのです! お気の弱いことを」

 老臣は気色ばんだ。他の者も口々に、バビロニアの兵士は陛下のために死を賭して戦うと言った。

 王は手のひらで大臣らに黙るように命じた。

「ティルスの富の大半は鉱石を諸国に売ることで得たものだ。アッシリアの属国であったアナトリアは、鉱石をアッシリアに献上するかたわらティルスに売っていたふしがある。ティルスは買いつけた鉱石を諸国に高値で売りさばいていた。アッシリアの支配から解かれたいまも、アナトリアはフェニキアのどこかの国で鉄を鍛造して武器をつくり、それをティルスの船主が買いつけ、わが国に売っているのだ。めぐりめぐってティルスはわが国の国庫から黄金をかすめとっている。小国といえども侮れぬ。わがバビロニアが、ティルスに侵攻することを察知するやいなや、エジプトのファラオをそそのかし、わが国の属領となったユダ王国を離反させる策をもちいた。いまいましいかぎりだ。ティルスにとって、鉱石を産することのない貧しい国、ユダの国は捨て石なのだ」

「ユダの塩の海(死海)から紅海の東の端にかけて銅の鉱床があります。また、エドムとの境界にも銅山があります」

 と王弟が口をはさんだ。

「エジプトが掘りつくしているし、銅だけでは武器はつくれぬ。鍋や鎌のたぐいをつくっていると聞く」

 地図の両サイドには、さまざまな色合いのカーテンが円形の天井を支える彎曲した壁を縁取るように吊りさげられている。黄金の止め金が謁見の間の玉座を一層、きらびやかに見せていた。

「前王エホヤキムが即位して4年目だった。余はユダ王国に遠征し、貢納に応じなければいくさをしかけると脅すと、恐れをなしたエホヤキムは、穀物や果実にくわえて少量の黄金を差し出したが、エジプト軍を頼みにして密かに同盟を結び、3年後に貢納をやめおった。同盟国を選び違えたのだ。ティルスに話をもちかけても、ティルスの君主は応じなかっただろう。王位に就いたばかりの余を侮ってのことだったのだろうが、余が派兵をにおわすと、エホヤキムの側近はわが王宮に伺候し、詫びをいれた。1度は許したが、4年ののち、エホヤキムはまたしても貢納のやめた。叔父のエホアハズ王を欺き、エジプトのファラオ・ネコによって王位に就いたエホヤキムは、死の間際まで同盟を結んだエジプトを頼みにした。なぜ、同じ過ちをくりかえすのか。かくたる戦略もなく、軍備の備えもなく将兵を無駄に死なすのか。大国の干渉を受けたくなくば戦馬を育て、戦車の乗り手を訓練し、常備軍を育てなくてはならぬ。民には苛酷な王と映るだろうが、備えなくして勝ちは見えぬ」

 王のこめかみに青筋が見える。

 口をひらく臣下は1人もいない。

 王はため息をつくと、玉座に腰をかけた。

「命を助けてやると伝令官に伝えさせると、前王のエホヤキムは開城し、攻囲中の余の軍をエルサレムの市中に招き入れ、足元にひれ伏し命ごいをした。不様な男だ。援軍もなしに篭城するとはな」

 王弟がまたもや口をはさんだ。

「現王エホヤキンは時を稼げば、兄上のお怒りを、彼らの神が宥めてくれるとでも勘違いしているのでございましょう」

「災いをわが軍にもたらしてか?」

 王はそう言ってクツクツと嗤った。

「前王エホヤキムと戦士団を処刑したが、かの国の神は余と余の兵士に災いをもたらさなかったぞ」

「さようでございますとも。ベル・マルドゥク神の御加護のある兄上にかなう敵はございません」

「ベル・マルドゥク神の加護か……」と王はつぶやいた。「復讐と呪いのユダの神にわれわれは勝てるのか……時を経ても……」

 高齢の大臣が杖をつきながら、そろそろと進み出た。

「シデオン将軍の真意は、リブラではなくエルサレムへのご出陣かとぞんじあげますが、総司令官の要請に耳を貸されてはなりません」

「ハランの占星術師が何か申しておるのか?」

「かの者の書状によれば、陛下がエルサレムに出兵されれば、ユダの王は怖れをなし開城するそうにございますが、禍根を残すやもしれぬとわたしめに申し伝えてまいりました」

 王弟は失笑し、

「長く、雲や砂塵の嵐により観察が不可能であったと、宮廷の占星術師は申しております。月神シンを崇めるハランの占星術師の一族はかつてアッシリアの宮廷に使えた者ら。自らの誤りを怖れるあまりの書状ではないかと――」

 王はうるさげに手を上げた。それを合図のように、大臣らとつき従う側近らはその場からいなくなった。

居残った黒ずくめの男は少年らに命じ、黄金の杯と極彩色の楕円形の壷を用意させた。

【この男は宦官長のアシュペナズです。蓋つきのエメラルドの指輪には毒薬が仕込まれています】。

 王は書簡をかたわらの侍童に手渡すと、杯を手にとった。

 王と体型の似た男が1人、足音を忍ばせてテーブルの傍らに立った。簡素な装いの男は壷を捧げもち、手持ちの器に少量たらし、飲み干した。献酌官と呼ばれる毒味をする役目の宦官だという。献酌官が王の杯に酌をすると、アシュペナズは待ちかねたように、

「エジプトが弱体化したことに気づかないとは、シデオン将軍はよほど世情に疎いのでしょう」

 細くかん高い声で言った。

しかし、王は首を横にし、

「ユダのエホヤキン王は放蕩者の父や弟と異なり、温厚で誠実な人柄だ。覇気はないが、民衆に好まれる。そういう男だから貢納にも応じると思い、王位に就けたのだ。だがしかし、隊商を率いるアラム人の報告によると、戦士団を擁する地方の氏族の領袖らは、エジプトに取り込まれている弟のマッタニヤを王位に就け、わが軍に反旗を翻えさんと画策している気配が濃厚だという。民を扇動して、内乱をおこしかねないそうだ。王族や長老と呼ばれる上級祭司らは、野心のかけらも見えぬエホヤキンに飽き足らぬが、おのれの権益を守らんがために開城を主張しているらしい。いくさになれば、富を失うからな」

 王の身辺はきらびやかだったが、その表情に焦燥の色は隠せなかった。

「こたびは前年、見逃した腕のいい手工業者らとともに若い女や子どもを捕らえ、バビロンに連行するようシデオン将軍に命じている。城内に残すのはユダ部族のうちでも身分の低い者らと、先住民のカナン人と、ユダ部族から蔑まされている不自由民ら(ゲール)だけでよい」

「自由民に数えられる城内に滞在する寄留民(近隣の外国人)らはいかがなさるおつもりでございますか? 地方で農作業や放牧に従事するユダの民や、城外に居住するアマレク人の遊牧民は?」

「兵士でない者らは捨ておけ。神殿に仕える祭司や年寄りも捕らえなくともよい。連中は10分の1税と称して民から金や家畜や穀物を絞りとっている。それを、われわれに献上させればよい。城内のほとんどの民が捕らわれの身になれば、献上金のたぐいもたかが知れているだろうがな」

 アシュペナズはいかにもと相づちをうち、

「われわれの守護神ベル・マルドゥクの黄金像をもたぬ民に神々の加護はありませぬ。貧しきゆえに神への祈りにこだわるのでございましょう。彼らの崇める聖なる櫃(契約の箱)をバビロンに持ち帰り、神殿を空にしてやりましょうぞ。かつてユダの王都エルサレムに侵攻したアッシリアのセナケリブ王の率いる18万余の軍勢を、聖なる櫃の力で一夜で滅ぼしたとユダの民は固く信じております」

 王の表情がわずかに変じた。

「聖なる櫃か……」

 アシュペナズの眉根がせまった。

「愚かな王と民でございます」

「余は笏状の保持者となって8年になる」と王は言った。「これまで属領とした国の神殿や神像には手をつけなかった。余に伏すれば、異教を信ずることを許した。ハランのナイードは月の神シンを信仰しているが、許している。バビロンの城外、ニップルに住まわせたユダの捕虜にも彼らの神を信仰することを許可し、自治権を与えている。バビロニアにも、かつてはシャマシュ、エア、イシュタル、シンなど神々がいた。いまも多くの民が崇めている。どの国の民が何を信じようと余は気にとめぬ」

 王の表情にほんのわずかだが、揺らぎが見えた。

「いかにも温情あるご処置」

黒衣の男、アシュペナズは大仰にうなずき、

「わが軍はアッシリアとは異なります。当時、敗軍の将となったアッシリアのセナケリブ王は10年足らず後に遠征先において息子らに暗殺されたよしにございます。しかし、2人の息子はニネヴェに逃げ帰るやいなや、父親殺しのかどで民衆に追放されたとか。ご存じのように、アッシリアには王位継承について、かくたる法律がありませんでしたので、エサルハドンが王位の継承者と決まるまでの混乱した時期に、奴隷のユダの民が彼らの王と仰ぐ者を守って、逃亡したと――」

「逃げたのは、メディアに売られた北の王国のイスラエル人だ」

王は言下にさえぎった。

「ニネヴェに捕われていたイスラエル人の多くは南のユダ王国の反乱の身代わりとなって殺された」

 アシュペナズは上目遣いになると、

「民衆の旗印となる王族は生かしてはなりませぬ。エホヤキン王とその子らには死を賜わるべきでございます」

 王は黄金の杯をテーブルに置き、上体を玉座の背から離し、肘掛けに腕をのせた。

 やや前のめりになり、

「ラキシュを陥落させたのちに、エルサレムを包囲したアッシリア軍の実数は歩兵5万6千、戦車2万両、騎馬兵1万、火砲55門と仄聞した。何が起きたのか、詳細なことはわからぬが、疫病の流行で敗走したようだ。いくさで敗れたわけではない」

 アシュペナズは合点がいった表情になった。

「陛下は、ユダの民が言い伝えている18万8千というアッシリア軍の兵力を信じておられぬのですね。それで当時のアッシリア軍と比して遜色ない兵力で攻めておられるのでございますか。敬服いたします」

「アッシリア軍は最強であった。まともに戦ったなら小国のユダの適う相手ではなかった。しかし、アッシリア軍の敗走はユダの民が神の力を信じる根拠となるには充分な出来事であった」

 王は考えをまとめるためか、しばらく口を閉ざしたが、

「アッシリアは征服した国の民に対して、情け容赦なかった。強制移住を行い、多くの国の民の恨みをかった。余もまたユダの民を捕虜にし、バビロン近郊に住まわせている。こたびも反乱の首謀者である王や、司令官によって訓練された過激な戦士は生かしておけぬ。だが、恭順する王族や大祭司や商人は生かしておくのが得策だと考えておる。民の心を宥める者は必須であるし、牧羊者や農民から家畜や穀物を徴収する役目を担う者もいなくてはならぬと思うからだ」

 アシュペナズは両腕を王にむかって両腕をあげて讃えた。

「世界を統べる英明な陛下のご聖断に、異教を信ずる者らは歓喜して従いましょう」

 王は苦笑した。

【前任の大祭司ヒルキヤは現王のエホヤキンに油をそそいだのち、捕囚の身の上となりました】

 彼らは現在はバビロン城外の荒地ニップルで家族とともに暮らしている。いずれ、以前からバビロンに住んでいるユダヤ人の豪商ヨアキムに娘を嫁がせるという。

「戦争してる相手の国の人間やのに、ネブちゃんはユダヤ人の商人をバビロンに住まわせてるのん?」

【資産を有する者は危険を察知する能力が常人とは桁違いに高いと思ってください。現代においても富裕層と呼ばれる人びとは人種を問わず、資金の集まる巨大都市に住み、その国の政治に少なからず関与しています。かつてのイスラエル王国や現在のユダ王国の富裕層も同じです。両替商をあきなう者も多くいました】

「両替商?」

【いまでいう銀行ですね。両替商は金銀のかわりに信用状を発行していたのです。現在のトルコ、リュディアですが貨幣を発明するまで、金の塊と銀の塊を秤にかけて交換していました。メソポタミアでは銀がほとんどでしたが、黄金もありました】

 信用状がわからないと言うと、手形だと思ってくださいとルーシーは言う。頭をかしげると、手形とは、一定の金額の支払いを目的とする証券のことだと言う。

「もっとわからん」

【今回のミッションには関係ないのでわからなくていいです。貧乏人は一生、かかわらない書類ですから。肝心なことは、大金にかかわる両替商の彼らに国境はあってないようなものだったということです。海抜750㍍の丘の上にあるエルサレムに住む両替商もいましたが、日常的に商取引のあるバビロンに住むほうが利便性があり、あつかう金銀の量が多いと利幅も多くなります。そのうえ、強国に住めば他国に攻められる恐れもすくない。ネブカドネザル王も言ってましたよね、服属国の貢納と通行税だけで巨額の戦費がまかなえないと。戦争には大金がかかります。支配者は足りないお金をどうやっておぎなうと思いますか? 子どもでもわかる問題です】

「銀行、両替商に借りるとか……」

 ルーシーはあごをあげて、胸をそらすと、

【グゥォフォン! 第一次世界大戦下のイギリスに多大な科学的貢献をもたらした人物がいました。ユダヤ人の指導者、ヴァイツマンです。彼は、空中の窒素から火薬を製造する手法を発明したのです】

「それが、何か?」

【それまで火薬の原料には硝石が必要だったのです。日本の戦国時代においても硝石を得るために各地の大名は苦労しました。九州の大名、大友氏らはキリスト教に改宗し、硝石の代金のかわりに領民を捕らえてポルトガル人やスペイン人に引き渡したのです。彼らは日本人の奴隷をヨーロッパ中に売りさばきました。これを仲介したのがイエズス会の宣教師でした】

「ということは、イギリスも奴隷売買のお金で、窒素を火薬に変えたわけ?」

  ルーシーは小声でアホンダラと言い、

【ヴァイツマンの発明を、現実のものとするには莫大な資金が必要だったのです。ウランの原子核を発見したからといって、核兵器がつくれるわけじゃありませんからね】

「輸入したほうが安くつくんやないの?」

【イギリスは南米のチリから硝石を輸入していたのですが、ドイツのUボートに阻まれたのです。途方にくれた当時のイギリスの外務大臣は一計を案じました。ユダヤ人の代表者ともいうべき大金持ちのロスチャイルドに手紙を書いたのです。この大戦に勝利したあかつきには、ユダヤ人が2千年前に追われたパレスチナに〝民族的家郷〟を認めると。ありていに言うと、国をつくっていいと約束をしたわけです。これを知った世界中のユダヤ人はがんばってイギリスの味方をしますよ。ついでにイギリスは、目障りなトルコを中東地域から排除するためにサウジの国王とも似たような約束をしただけでなく、フランスとのあいだでも中東を分割統治するサイクス・ピコ条約を結んだのです。驚くべきことは、当時の覇権国イギリスの三枚舌外交ではありません。ユダヤ人が、イギリスの口約束を信じたことです。当のイギリスはその場しのぎにいい加減なことを安請け合いしたわけですが第2次世界大戦後、世界中のユダヤ人の有志がイギリスが統治する〝シオンの地〟を目指したわけです。ついに神が約束を果たしてくださったのだと――このことが大英帝国の植民地の解体をうながすきっかけになっていくわけです。2度の大戦は自由と正義の戦いだと戦勝国の国民の大半は思っていますが、現実は違います。紀元前の戦争と少しも変わらない、領土の分捕り合戦でした】

「ロスチャイルドのお金って、半端な額やないんやろなぁ」

【旧約聖書の『エズラ記』を見てください。神の言葉を記すと言われた写字生のエズラはペルシア王のキュロスに許されて、有志の民をともなってエルサレムの神殿を建てなおすために帰還するのですが、そのとき持参した財宝は、現代の価格にして500万㌦相当だったと言われています。日本円にするといくらになるのか……為替があるので……とにかく大金だったわけです。ユダヤ人はバビロニアからペルシアの時代に移り変わる約70年のあいだに、ほぼ無一文の状態から財をなしているのです。このとき帰還したユダの民の多くは豪商でも両替商でもない一般人の愛国者だったと思われます。余計にびっくりしませんか? ついでにお話すると、日露戦争のとき、開国して30年ほどしか経っていない小国の日本に戦費はありませんでした。信長の桶狭間の戦いより厳しい情勢でした。ひと晩で決着がつくような戦争ではなかったからです】

「まさか、ユダヤ人に借りたん?」

【当時、日銀の副総裁だった高橋是清がアメリカやイギリスに出向いて、高利の戦時公債を買ってほしいと頼み回ったのですが、負けると予想される小国の公債なんて、どんなに利率がよくてもだれも買ってくれません。そのとき、続々と入ってくる戦況が日本の優勢を伝えたせいもあってか、ユダヤ人協会の会長だった銀行家のジェイコブ・シフが必要な戦費の3分の1の公債を買ってくれたのです。それだけではありません。上海香港銀行に必要額の3分の2にあたる1億円を買い入れるように話をつけてくれたのです。イギリスとしても、アフガニスタンの権益をロシアと争っていましたから当然のなりゆきなんですが、シフの口添えがあったればこそ、1億5千万の戦費を賄えたのです。日本の国家予算が4億円の時代だったので、借金の大きさがわかりますよね】

「親切にしてくれる人って、下心のある場合が多いやん」

【ロシアで、ユダヤ人は迫害されていました。シフは同胞を救いたかったのです。ドイツ1国がユダヤ人を迫害したわけではありません。戦後、連合国は歴史を捏造したのです】

 わたしたちが話しているあいだに、ネブカドネザル王は侍童に命じ、ユダのエホヤキン王からの書簡をアシュペナズに見せた。

「城門を開けるように命じたが――このとおり、エホヤキンは、おのれのために都を危険に陥れることは望まないと返答してきた。それだけではない。刈り取ったばかりの大麦を献上するという。民の命乞いをし、宮殿内に立て篭もっておるようだ。事ここに至っては、貢納のかわりとなるのは民しかないとわからぬようだ」

 王は拳で玉座の肘置きを叩いた。

「戦う気概がなければなぜ、シリア領内のダマスカスやリブラのように重臣や将兵を説得し降伏せぬのか。神託によって四周の王たらんとする余を苛立たせてなんとする。余は、時を無駄にできぬ。上の海への足がかりとなる、フェニキアのティルスをなんとしても攻め落とさねばならぬのだ」

「港町にすぎぬティルスごときは陛下の敵ではございませぬ。近隣のシドンやビブロスがティルスに加勢しないかぎり――」

「ティルスは自国で採れるレバノン杉で造った船で上の海に乗り出し、銅が採れるキプロスは当然のこと、植民都市のカルタゴ(アフリカ大陸北部)を拠点にして西の果て、イベリア(スペイン)を越え、陸地沿いに北方の島ブリタニア(イギリス)まで鉱石を求めて航海している。戦力を増強したい諸国は鉱石を争って買い入れている。香料や香辛料まで売る手腕はたいしたものだ」

 戦備をそなえるには鉄や銅が必要だったとルーシーは言うが大昔、それも紀元前に、地中海を出てイギリスまで行ける船があったことに驚く。ティルスは国そのものが、現代の商社のように組織力があったのだろう。

「上の海の海路をわがもの顔に往来するティルスをなんとしても足下にひざまずかせねばならん。レバノン杉の積み出し港であるビブロスやシドンのようにいくさを避け、貢ぎ物を差し出せば君主による統治を許し、上の海に限らず、下の海での交易権も認めてやるものを……ティルスの君主は傲岸だ。軍もろくにないくせに」

 王の顔面が上気した。

「わが国は父ナボポラッサルの御代より、海の国として知られている。余はいずれ、いくさで国を富ませるのではなく、異国との交易――それも高価な逸品――どこの国もつくることのできない品を売った金で、国の防備をさらに堅固にしたい。アッシリアが隆盛の時代、いくさによる掠奪で国を成り立たせていたがその末路は老いた獅子のように惨めなものだった」

 アシュペナズはおもねるように、

「陛下のご心痛はごもっともでございます。何しろ、ティルスの者らは、海路での交易を可能とする高い造船技術と航海技術を有しております。このまま放置すれば早晩、陛下がご案じになられるように、ティルスはわが軍を阻む尖兵となるやもしれませぬ」

 王は膝をゆすりながら、

「いやティルスは戦いをさける。そのティルスを征すれば、東と西の拠点となる要衝キプロスを押さえられる。ギリシアの諸都市が視野に入ってくる。決して現状に甘んじてはならぬ。栄華を極め、至福に酔ったとき、国は滅ぶ。アッカド人が建国したかつてのバビロニアがそうであった」

「北方の民のアッカド人の国バビロニアと、わがカルデア人が建国したバビロニアとは、まったくの別物だとわたくしは認識いたしております。祖先がどうあろうと――」

「おまえは、かつてベル・マルドゥクの神像を奪ったエラム人の子孫だ」

王は宦官の言葉をさえぎり、

「アッシリアの敗因は何に起因したのか、余は考えぬ日はない。版図の拡張をしすぎたのか――それもあるだろうが、鉄製の戦車に操る兵士と弓を射る兵士を同乗させたことで戦果をあげたが、攻撃することに重きをおき、防禦をおろそかにしたことが主たる敗因であると考察する。わが軍とメディア軍に挟み撃ちにあうことは想定外だったとしても――王都ニネヴェの防禦がおろそかになっていることに気づく者がアッシリア王の身近にいなかった。王族は宦官どもに操られ、王位を争うことのみに傾倒したゆえだ」

 アシュペナズは警戒する顔つきになった。

 王はじれたように、

「メディアの騎馬軍団が、アッシリアの戦車軍団に勝利したのだ。単騎の騎馬兵と2頭立ての戦車となら、だれもが戦車が有利だと思う。しかし機動力においては、砂漠さえものともしない騎馬軍団が勝る」

「平原でならアッシリアは敗れませんでしたでしょうか」

 王は深くうなずき、

「鉄鉱石の産地であったアルメニアやアナトリアを支配下におきながら王都に攻めこまれたとき、強国の名を欲しいままにしたアッシリアは為すすべがなかった。ニネヴェの兵と民はわが軍の歩兵に根こそぎにされたのだ。アッシリアかつての名君アッシュル・バニパルは、センナケリブ王がなし得なかったエジプトのテーベを陥落させ、エジプト全土を従えた。さらにエラムにも勝利したバニパル王が存命であったなら、われらが攻めたとき、いっとき撤退し、反撃に転じただろうか……。しかし、どれほど偉大な王も老いと死には勝てぬ。バニパル王の死後、わずか15年でアッシリアは滅んだ。その間に、王位に就いた者は5人いたが――わがバビロニアは余亡きあと、なん年、国名が残るのだろう」

「陛下、お言葉を返すようでございますが、わが軍の主力部隊である大型戦車の活躍なくして、アッシリアは倒れませんでした。この先、長きにわたって、バビロニアはメソポタミアの覇者でありつづけます。そのことを疑う占星術師はおりません」

 ふと気づいた。影のようにおのれの存在を消しているが、献酌官は彼らの交わす話に耳を傾けていた。微動だにしないが、伏し目がちの目のまつげが、別の生きもののようにほんのわずかだが動いていた。

「宮廷のもめ事しかしらぬおまえには、何もわかっておらぬ。鉄が不足し、主に精銅製の武器で戦うしかないエジプトは恐れるにたりぬが、シリア・パレスチナの属王らはエジプトのファラオの甘言にのって反乱をくりかえす。アッシリアの王はこれに気づき、親子2代にわたってエジプトに遠征せざるをえなかった。いまの余も同じだ。やりきれん。いつになっても服属国とのいくさは収束せぬ。余は自らの亡きあとのことを思うと、安堵して眠れぬ。占星術師の助言がどうあれ、ヨルダン川が増水するこの時期に自ら出陣する気にならん。ユーフラテス川の中州に建つバビロンは水路と二重の防壁で守られているが、いついかなることが生じて敵の侵入を許すやもしれぬ。王都を安心して任せられる者もおらぬ。いつの日にか、人知を越える意志をもつ者が現われ、わが帝国は滅びるだろう」

【後年、紀元前539年、ネブカドネザル王が案じた通り、ペルシアのキュロス王によって、バビロンの城門は破られます。キュロスに助言する者がいたのでしょう。かつてセンナケリブ王がもちいた策――運河を掘り、ユーフラテス川の水流を減少させて進軍したのです。バビロンの王宮では宴の真っ最中でした。ダニエルさまはそのとき、宴の場にいらしたのです】

 頭の中で、597から539を引くと、58になる。バビロニア帝国の滅亡は現時点から58年後ということになるのか……。

【ネブカドネザル王の死後、わずか23年で新バビロニアは滅びます。ネブカドネザル王の子・ナボニドス王はセンナケリブ王にバビロンが破壊された過去を忘れ、メディアとペルシアの連合軍に包囲されていると知りながら、エルサレムの神殿から奪った金銀の器で酒宴を催したのです。ネブカドネザル王の建てた王城に攻め入る者などないと侮っていたので、妻妾をはべらせ、高官を招き、木や石や鉄などでつくられた神々の像をたたえたのです。すると突然、人の手が現われて、宮殿の塗り壁に文字を書き記したのです】

「信じてないよな?」

 ルーシーは牙をむき、

【1229頁を読め! ナボニドス王は腰がぬけ、ひざが震えて止められなくなったとある】

「聖書では、王サンの名前がベルシャザルになってるで」

【同一人物であっても、ヘブライ語とアッカド語では読み方が異なる】

「ネブちゃんとネブちゃんのパパはそのまんまやん」

【黙れっ! 当時、閑職に甘んじていたダニエルさまはその夜、王の母の推挙で宴の席に招かれ、その場で、だれも読めない文字を読み解いたのです。『メネ、メネ、テケル、そしてウパルシン』と。王国は残りの日数をかぞえられ、王自身は天秤で計られて、王国は分けられるという意味でした。預言のとおりに、メディアとペルシアに攻められ、王は処刑され、領地は2つの国に分割されたのです。グゥワン】

 自転車にまがったわたしは二つ折りになって笑った。

【何がおかしいのですかーっ】

「アンタはマンガを読まへんから、頭が固いねん。大広間でどんちゃん騒ぎをしてて、人の手が見えるのは前の席の少人数や。マジックはよーしらんけど、壁と同色の服をまとって手以外を隠して、落書きするくらい、手先の器用な人間やったらできるやん。現にその時代にも妖術師がいてたんやから、目の前の人間に催眠術でもかけたら楽勝や。こっちの世界へきてから、いっぱいふしぎな目ぇにおうたけど、それとアンタの話はちがう気する。ダニエルが宴の席に呼ばれたとき、ユーフラテス川の水量はすでに減ってたはずや。いろんな地域に移住したユダヤ人には、彼らだけの通信手段があったと考えられへんか? それにユダヤ人は、バビロンの図書館の文献に目を通してセンナケリブの戦略を知ってたはずや」 

 ルーシーは気分を壊したようだ。歯ぎしりをした。

 自転車を止め、のど飴を1つ差しだし、

「ダニエルはどうなったん?」

 薄目をあけたルーシーは片頬の口を引き開け、奥歯を見せた。そこへ飴を入れろということらしい。

【スズゥ……ダニエルさまは、キュロス王から金の鎖と紫の衣を与えられ、3人いる宰相の1人となられました。当時62歳だったキュロス王は全国を120州にわけ、それぞれの州を治める総督を監督する役目をダニエルさまに命じられたのです】

「やっぱりな。バビロンはどうなったん?」

【アレキサンダー大王の時代までバビロンは古代オリエント世界の中心でしたが、西暦7世紀のはじめにイスラム教が起こった頃からバビロンは次第に朽ち果てます。現代まで残った遺蹟は、ネブカドネザル王の王宮にあった人間を襲うライオンの石像くらいでしょうか。〝イシュタルの門〟の彩釉煉瓦は発掘時に国外に持ち出され、現地には残っていません。ジクラトなどに使われていた煉瓦は付近の住民の家屋の一部になったと言われています】

 アシュペナズのキンキン声が聞こえる。

「わがバビロニアはアッシリアのように強き者が王位に就くのではなく、後継者となられる皇太子がおられます。ゆえに帝国の未来は子々孫々、安泰でございます」

 アシュペナズは得意げに言って置物のように控えている献酌官を見つめ、小さくうなずいた。アシュペナズの部下らしい献酌官はいったん、引き下がり、見知った女、だれあろう秦野亜利寿をともなって現われた。

 うっそお!

 コートこそはおっていないが、民家で会ったときのままの身なりだった。異なる点は、黒の帽子のかわりに赤紫色の薄絹のベールを、結い上げた髪を隠すように頭からかぶっていることだった。ベールごしであっても燭台の灯りを跳ね返す美しさだった。

「四周の王であらせられる陛下の寿命長久をお祈り申し上げます」

と、彼女は胸に手を当て、腰を低く屈めて言った。

「何者だ? 後宮の女なら、謁見の間に入れてはならぬ」

「この者は、星宿を見る者=占星術師でございます」

アシュペナズが代わって返答した。

「死者の霊を呼びおこし、その霊を通して依頼人の将来を予言することもできるそうでございます」

「占星術師のふれこみでは足りぬと思い、腹話術師の真似事までするのか、そのようなまやかしを行なう者なら掃いて捨てるほどいる」

 秦野は顔を伏せたまま、

「ご無礼のほどをお許しを」と言い、ゆっくりと顔をあげた。「控えの間におりましたわたくしの耳に、陛下のお声がもれ聞こえました。陛下におかせられましては、こたびのユダ王国への親征を、取り止めるご所存であるかのように伺いましたが、まことでございますか」

「それがどうした!」

 王は苛立ちを隠さなかった。

「ご勘気をこうむりますれば、深く、お詫び申し上げます。ただひと言、申し上げたきことが、ございます。このたびのいくさで、陛下はこの世の支配者となられます。近隣のどの国よりも強きことが証しされますでしょう」

「相手はとるに足りぬ小国だ。ティルスならともかく、ユダの民を捕らえたところで、フェニキアの諸都市とシリアへの見せしめになるくらいのことだ」

 秦野はさらに身を低め、

「ハランの占星術師の言葉を耳に入れてはなりません。陛下が王宮にとどまれば、皇太子殿下の御時世は長くつづきません」

「皇太子がどうなるというのだ!」

 秦野は口の中で、呪文のようなものを唱えた。

 ネブカドネザル王の表情に疑心暗鬼の色が浮かんだ。

 秦野は目を見開き、両腕を高くあげ、わたしが耳にしたことのない男性の声を発した。

「親征せよ。メソポタミア全土を平定し、大帝国を築け」

「その声は父上っ!」

王は立ち上がり、くちびるを震わせた。

「父上っ、エルサレムへふたたび赴けば、ユダの神の怒りにふれ、凶事を招くと思い……遠征は二の足を踏み……」 

 秦野はベールをとり、背筋をのばし、王の視線をはねかえすように微笑した。彼女の髪は深紅に染まっていた。ベールの色だと思っていたがそうではなかった。布や髪を染める染料がこの時代にあったとルーシーは耳打ちする。

「陛下ご自身に代わる者に命じて、神殿の御物を奪うことをおすすめいたしますが御手でお触れになれば、災いが起きるでしょう」

「どうなるというのだ」

「狂われます」

「いまなんと申したっ!」

王は帯刀している短剣を抜いた。

「ただし、わたくしの助言をお聞き入れになれば災いは避けられます」

「ど、どうすれば……?!」

「エルサレム陥落後、麗しき者が御前にかならず現れます。その者の言葉に陛下は心を動かされますが、惑わされてはなりません。むろん、皇太子さまに近づけてはなりません。麗しき者はユダの現王エホヤキンともども処刑なさることです。このことをくれぐれも、お心に留め置かれますように。陛下が親征を思い止まれば、2人を生かすことになります。2人を生き永らえさせれば、ユダの民のそれぞれの部族が所持している巻き物を、後世の学者が一冊の書物に編纂し、ユダの民は記されている言葉をよすがに、将来、おそいくるいかなる困難も乗りこえるでしょう。陛下が案じられている通り、永遠に滅びることがないでしょう。これまでさまざまの名の民がこの世から消えました。2人を殺せば、ユダの民も他の部族と溶け合い消滅いたします」

 王の表情がくもった。

「妖美なる者よ。そなたの言う麗しき者とは、そなた自身のことをさすのか」

 秦野はベールをかぶり直し、そで口のフリルを引っ張りながらふくみ笑いをもらした。

「わたくしは陛下や麗しき者のように、後の世に名を残す者ではございません。身分卑しき者でございます」

「しかし、アシュペナズに取り入り、余に謁見しておる。どのような魂胆があって余に近づいたのだ」

「世界を統べる陛下の御名を惜しむ故にございます。ここで、ユダの民が崇める聖櫃を恐れるあまり、親征を思いとどまることにでもなれば、現王の子孫から彼らのいう救世主が誕生し、麗しき者は神の言葉を預かる者となり、いずれバビロニアに破滅をもたらすでしょう。人びとは時を経るごとに、その者の書き記す預言の書に支配され、不幸のすべてを当然のこととして受け入れるようになります」

「余をあなどっておるのか!」

 秦野は笏杖を捧げもつ侍童にむかって手のひらをさしのべた。まばたきする間もなく、秦野の手に笏杖が宙をとび移動した。

侍童は恐怖のあまり、その場に尻餅をついた。

親衛隊の兵士はいっせいには長剣を引き抜いた。

アシュペナズは青黒い顔をさらに青くした。

王は兵士らを片手で制し、顔を上から下になぞり、目の前で起きたことを、どう判断していいのか、言葉をさがしている気配だった。

 秦野は両膝を床につき、

「このように、王の証しとなる笏杖は人の手から手へとまたたくうちに移るものでございます」

と言って、壇上の王にむかって笏杖を捧げた。ネブカドネザル王は立ち上がり、壇下に降りると、秦野の手から笏杖を取り上げた。

「おまえの魔術はしかと見せてもらった」

「この世にたしかなものは何ひとつございません。お身の回りにお気をつけることでございます」と秦野はたたみかけた。「麗しき者を守ろうとする、異形の者にはとくにご注意を」

「いかにすれば災いを避けられるのだ?」

「異形の者を捕らえ、その者の所持する石と、時を刻む腕輪を取り上げれば、陛下と皇太子さまに起きる災いを避けられるでしょう。末代までもとは申せませんが」

 秦野はわたしに敵意を抱いているのか?

「石とは、時を刻む腕輪とはなんだ?」

 秦野はゆっくりと顔をあげた。

「人の手によらず、大いなる者によって、切り出された石にございます。その石と時を刻む腕輪とが合わされば、時を越えることも可能ですし、この世を破壊することもできます。恐れながら、陛下もわたくしと同様に、この世を自らの手で滅ぼしたいと心のどこかでのぞんでおられるのでは――」

「そのような……余は……」

 石と時計で、この世を終わらせられると秦野は本気で思っているのか?予備校に現われたときから、彼女はそう言っていた。ルーシーの言う、神の手でこの世を終わらせる〝神の日〟と何が違うのだろう。

「陛下に災いをもたらす、その者はいまこの瞬間も、陛下とわたくしの会話を耳にし、エルサレム近郊からながめております」

「なんと申した?!」

 王が身を乗り出したそのとき、親衛隊の隊長が小走りに謁見の間に駆け込み、王の足元にひざまずいた。

「ティルスの兵が南進する気配を見せている由にございます」

「護衛長のアリオクを呼べ!」

王は大声を出したあと、自らに言い聞かすようにつぶやいた。

「いまよりエルサレムへ赴く。決着をつけねばならぬ。風評を気に病んでいては大業はなせぬ」  

 王は身をひるがし、別室へ移ろうとしたが、足を止めた。

「ついてまいれ」と秦野に声をかけた。「宮廷の占星術師とは異なる、そなたの具申も興味深い」

 ヴィジョンと呼ぶ映像がフェード・アウトした。

わたしの足は懸命に木のペダルを踏んでいた。脳裏の映像と眼前の視覚は個々に機能していたようだ。地平線上の太陽がセピア色の大地に徐々に沈んでいく。農地や放牧に適した丘陵地も散見できるが、ユダの人びとは高台というより山の頂に居住している。

「まさかなぁ、秦野がなぁ……。あっちはロボットが運転する空飛ぶ車みたいやから、バビロンまでひとっ飛びなんや。こっちは木の自転車やもんな。太刀打ちできひん」

【感心するのはそっちですか。サタンの手先の彼女はあなたを敵視しているのですよ】

「秦野はほんまにサタンの手先なんかなぁ。こっちへ来る前から世界を壊したいゆーてたけど、本気やないやろ?」 

【正真正銘の魔女ですから】

「ええかげんことばっかりゆーて――だれが何者でもどうでもええわ。アタシの知ったことやない」

 自転車を停め、腕輪にした腕時計を見る。7分すすみ、5時53分59秒。耳を当てる。時を刻む音がはっきりと聞こえる。動いていることはまちがいない。

【ほんのちょっと注意力を働かせればわかることなのに、わかりませんか? 最初に7秒、いま7分進みました。さて次は?】

「日没のようやから、この世界の時間に合ってるのかなぁ……」

【脳は学習するマシンなのです。課題をクリアするたびに強度を増します。しかし、例外の脳もあるようですね】

「金輪際、しゃべらん! のど飴もやらん」

 喚き散らすが、ペダルを踏む足が攣り、痙攣した。砂漠が途切れ、丘陵地と切り立った山々の彼方にある聖なる都に行き着けない。変化にとぼしい景色がつづき、距離が縮まった感覚がまったくしないのだ。

「ラクダやったら、もっとラクに行けたやろのに……」

【しゃべりましたね】とルーシーは言った。【グゥフフフン】

 頭にくる赤犬だ!

【砂漠の民のように、あなたはラクダを乗りこなせません】

「試してないのに、なんでわかるんよ」

【あなたに何ができて、何ができないのか、よーく存じています。わたしはこれでも、目の中にマルチ人感センサーを内蔵しています。動物愛護精神に欠ける人間にラクダは任せられません】

 こいつは天使の名代ではなく魔犬にちがいない。

【I see.バカな犬だと思われるより、So,good】

「脳ミソのつまった、史上最強の魔犬やと思てるでぇ」

 ルーシーは長い顎をアタシの肩に乗せると、

【ご褒美がないと、モチベーションがねぇ】

 ぼそぼそ言い、鼻を鳴らす。こっちは、息も絶え絶えに自転車を漕いでいるというのに魔犬は飴、飴、飴の連呼。合間に、例のジィーズゥージィーの雑音を耳元で繰り返す。

【ミカエルよ、わたしの祈りに耳を傾けてください。わたしの願いを避けて飴を隠さないでください。詩編55章1節を、私的に流用しました】

「大天使ガブリエルの名代がそんなことしてええんかっ!」

怒鳴ると、

【ダニエルさまの五感と接続してあげましょうか】

「いらん。マンガのBLは好きやけど、現物の男子はうっとおしい。あざのせいで、いじめられた記憶しかない」

【三白眼を忘れていませんか?】

 わたしが文句をたれる前に、

【ダニエルさまはまことに美しいお方なのですよ。It’s must see? 必見ですよ】

「秦野が王サンに、寄せつけへんように忠告してたんのは、ダニエルのことなんや」

 突然、映像が浮かびあがった。蝋燭の明かりを、黄金の壁面が反射し、目もくらむような室内が眼前にひろがった。

 ルーシーはわたしの問いかけを無視し、話す。

【ソロモン王が建造した祈りの場であり、神が住まう契約の箱=聖櫃、ざっくり言うと神様が顕現される聖なる箱ですね、それが安置されている場所です】

「音声が入ってへん!」

 ルーシーはサイレント映画の解説でもするように、

【あなたの目に映っている場所は、王族はもとよりレビ人の上級祭司すら立ち入ることが許されない至聖所です。紫の緞帳の向こうには祭司らが控えています。大祭司以外の何人も入れない場所なのですが、いまは緊急事態に備えてダニエルさまがおられるのです】

「ダニエルは大祭司の代理なん?」

【いいえ、ダニエルさまはエホヤキン王とは親族ですが、レビ人祭司でも大祭司の一族でもありません。しかし現在、大祭司の地位にあるアザリヤは、次席の祭司セラヤではなく、霊力のあるダニエルさまに、聖櫃と信じられている類似の木箱をゆだねておられます。この時代に生きる人間の中でダニエルさま、おひとりがレベル5=超知能の持ち主ですからね、IQは前人未到の数値。猜疑心の固まりのようなネブカドネザル王を懐柔できるのはダニエルさまをおいて他にありません】

「……秦野も超知能の持ち主やて、ゆーたよな?」

【グゥワン! ささいな失言をあげつらわないでください】

「レベル5は、ダニエルひとりだけやって、たったいまゆーたやないの」

【この世界の進行について意義を申し立てる愚者こそが、磐石の世界に歪みを生じさせるのです。グゥワン。A fool go to any extremes】          

「わざと理解できんように話してるやろ?」

【What makes you think so?】

 何げに腕時計を見た。7分すすんで、6時00分59秒。

「7時間進むんやないの!」

【言ってませんけど】

「イケズのヒラテン!」

【バカのコボテン!】

「ほんまむかつくわぁ」

 言ったとたん、右足がひきつった。またもや、自転車ごと横倒しになった。

全身が筋肉痛で身動きできない。このまま昇天するのかと半ば、諦めの境地でいると、赤みがかった砂塵の舞う黒い路の両脇をうめるようにラクダの隊列が見えた。

【彼らがこのあたりに到着するまでのいっとき、ヴィジョンを見せましょう。先に言っておきますが、これは個人的なサービスですからね】

「タイムスリップ以外のサービスはいらん」

【使命を果たすべき人間が、このように自分勝手では先が思いやられますワン。天界にもどったさいには特別手当を申請しなくては――】

 

紀元前7世紀バビロニア・メディア・エジプトの勢力図

 

 

 

 

 


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