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【エッセィ】蛙鳴雀躁 No.43

 30年くらい前になるかと思う……。
 自宅近くのビルの一階で、文章教室をしていたときのことだった。 
 大きなテーブルを置いたせいで、数人しか入れないような場所だったが、表通りに面していたので深い考えもなしに借りた。
 その日、友人が遊びにきていた。
 彼女に、なんでこんなアホこと思いついたんやろと愚痴っていた。
 そこに見知らぬ女性が、ガラス窓付きの引き戸を開けて入ってきた。

 白いブラウスに黒のタイトスカート、同色のピンヒール。ひとまとめに結っている黒い髪は、ほつれ毛が一本もない。

 美しい人と縁の多い人生だったけれど、彼女はそれまで出会ったどの女性とも雰囲気が違っていた。
 派手な装いではないが、伸びた背筋といい、均整のとれた体型といい、整った顔立ちといい、弛みがない印象だった。
 ひと言で言うと、隙がない。
 視線をそらさずにじっとこちらを見つめる、切れ長の目を見れば、彼女が聡明であることはひと目でしれた。

 あいさつの言葉は記憶していないが、「ここでは枚数に制限がないのですか?」という問いかけは覚えている。
 以前、習ったところでは、原稿用紙2枚以上はだめだと言われたらしい。
「ない」と答えると、瞬きをせずに習いにくると言う。

 彼女が帰ったあと、ファッションに精通している友人が、「あのバッグ、※百万する」と言った。
 ブランド物に関心のない私は、「へぇ」と気のぬけた返事をしたと思う。
「ベンツを運転していた」とも。
 ビルの前に、クルマを停めていたようだ。

 お金持ちの美人にはそれまでも何人か出会っていたので、そのことにはさほど驚かなかったが、彼女が発している熱量の高さに惹かれた。

 3度目くらいだったか、教室にやってきた彼女に、服飾関係の仕事をしているのかと尋ねた。
 地味な服装だが、とにかく目立つ。際立つと言ったほうがいいかもしれない。人目をひくアクセサリーはしていない。手入れの行き届いた爪のマニキュアも肌色に近い。
 香水を使ったことがない私にもわかる、品のいい匂いをほのかに漂わせている。

 彼女は少しはにかみながら、低い声で、
「ナイトクラブをやっています」
「……?」
「女の子を50人くらい……べつのお店の子も合わせると百人くらい、いるでしょうか」
 店の名前を教えてもらってもさっぱりわからない。

 その晩、姪に電話をして訊いた。店の名前を言うと、姪はあきれた声で言った。
「ホンマに知らんの。三ノ宮界隈で、その店を知らんヒトはおらへんデ」
 そう言われても、夜の街がどうなっているのか、私には想像もつかない。

 その頃、私設ATMだった父が亡くなり、いくら家計簿をつけないことを自慢している私であっても、赤字つづきの教室をもてあまし、閉めることにした。
 そのとき、彼女が、自分の店の上の階に空き部屋があるので、家賃はいらないから使ってほしいと申し出てくれた。
 そのビルを所有していると言う。

 はじめて、彼女の店に足を踏み入れたとき、男性の夢とあこがれが詰まっていると思った。
 客も女の子もいないが、紫煙が香るような気がした。
 絨毯敷きの広いスペースの一隅に、グランドピアノが置かれ、大きな花瓶に数えきれない薔薇の花が飾られていた。
 ピアノを弾く女性は、女の子とは別に雇っているという。
 いくつもあるボックス席の奥の壁には、有名画家の半畳ほどの絵が架かっていた。
 席が空くまでの間、待つカウンター席もしゃれていた。
「カサブランカ」のハンフリー・ボガードが、くわえ煙草で現われてきそうな雰囲気だった。
 開店前の忙しい時間に、彼女はフロアの隅々まで案内してくれた。

 持てる者特有の奢りが微塵も感じられなかった。
 それは文章にも表れていた。
 何より、書く上でもっとも大事な必須条件――人に知られたくないことを包み隠さず文章にする気概があった。
 忘れられない言葉がある。

「道を歩くとき、女の人の顔しか見ません。この人と思ったら、名刺を渡すんです。ウチへきてもらえるかもしれませんから――中身は、わたし、男です」

 読書家でもあった彼女とは、話し飽きることがなかった。
 彼女は文章もすぐに上達した。
 いまも記憶に残る短篇小説がいくつかある。

 改装までしてくれたのに、辛抱が足りないというより、持続力のない私は、たったひと駅の近さなのに駅から歩く坂道に疲れ果てて教室を閉じた。
 10年余り、お世話になった。
 その後、ご主人が亡くなったときに一度、会ったと思う。

 先日まで、過ぎ去った遠い人だと思っていた。電話番号も残していなかった。
 LINEの機能がまったくわからない私は設定してもらっても、なぜ、「お友達かもしれない」という欄に、彼女の名前があるのかわからなかった。
 開くこともなかった。

 NOTEに彼女のことを書きたくなり、ラインを開くと、美女の顔が飛び出してきた。
 私と同じ年齢のはずなのに、40前にしか見えない。出会った頃のままの彼女がそこにいた。
 不老不死の薬でも飲んでいるのか。
 煙草は吸わないし、アルコールもたしなまないヒトだった。

 メールが打てないので、LINEにかけたが通じなかった。
 ビルの住所宛に手紙を出すと、彼女からメールがきた。
 いま、ビルを取り壊しているという。建て直すそうだ。
『元気に仕事をしております』とあった。未亡人となった彼女はこの先も実業家として活躍するようだ。

 片や私は、来年はもう生きてないかもしれんと周りに言いまくり、ついでに教室もやめると言いだし、見兼ねたのだろう。習いにきている女性のお嬢さんが、「気分転換したらどうですか」と言ってNOTEに投降してくれた。
 たしかに、NOTEに駄作を載せ、嫌われるコメントを書いているうちに、以前の自分にもどってきた。
 厚顔無恥で、ええかげんで、なおかつ図々しい。
 彼女のことを書く許可をもらっていない。
 読む人は少数なので、バレることはないとタカをくくっている。

「男気」という言葉は、彼女から習った。仕事をしているときの彼女をまったく知らないので、全体像を把握しているわけではない。ただ、少々のことではへこたれない強靭な精神力とともに、口には出さないけれど気づかいと思いやりをいつも感じていた。
 彼女と気が合ったのは、前世では、男同士の友達だったのではないか。何をやっても中途で投げ出すルーズな男が私で、何事もやり抜く意志強固な男が彼女である。友達ではなく、一方的に迷惑をかけるダメ男が私だったかもしれない。

 もしもバレたときは、男気のある彼女に「きみの瞳に乾杯」と告げたい。恩知らずな私を、許してくれるだろうか。

 にしても、あの素敵なたたずまいの店が、いまはもう記憶の中にしかないと思うと、せつない。


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