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【エッセイ】蛙鳴雀躁No.47

「異聞エズラ記Ⅲ」に目次をつようとしましたが結局、つけられませんでした。前回、前々回とどうやってつけていたのか、ジジババそろって思い出せない。頭の配線がショートしているか、もともと細胞と細胞をつなぐ配線がないかのどちらかだと思っています。
 誰も読みたくないワケのワカラン小説と格闘して幾星霜。そろそろ飽きてもいいはずなのに、飽きない。

 人気のないアイドルの推し活をしている気分です。映画を見ても、引用されるのは、イザヤ書がもっとも多い。国連の前にも、『そのつるぎを打ちかえて鋤とし、その槍を打ちかて、鎌とし――』という有名な聖句が記してあるそうです。ミュージカルの「レ・ミゼラブル」でも、この聖句が歌詞の中に出てきます。若い頃から、ハリウッドの宗教プロパガンダ映画を見てきましたが、エズラが題材になったことは皆無だし、彼の記した言葉が引用された記憶もほぼない。しかし今日、旧約聖書がこの世に存在するのは、彼の労苦なくしてあり得なかったと思っています。

 創世記からはじまる旧約聖書をひもとくと、歴代誌上下巻までは、歴史書なので年代順になっています。そこから詩編までの間に、「エズラ記」「ネヘミヤ記」「エステル記」「ヨブ記」の四編が並んでいます。これは年代順ではない。年代順に並べかえると、「ヨブ記」「エステル記」「エズラ記」「ネヘミヤ記」になるはず。

 聖書に詳しい方のご意見を無視して書かせていただくと、この四編は、エズラが記したと思っています。門外漢の私の持論ですので、お目を汚すことになりますが、お許しください。

 なぜ、そう思うのか。

 エズラは、律法学者であると同時に小説家であったと愚考するからです。
 エズラ記の第七章までは、ペルシアのキュロス王から後代のアルタクセルクセスまでの出来事が、三人称で記されています。
 そして七章から、自らが民を率いてエルサレムへ帰還した内容が綴られるのですが、このとき、最後の二九節に「わたし」という一人称が三度、出てきます。第八章になると、一節目に、「アルタシャスタ(=アルタクセルクセス)王の治世に、バビロンからわたしと一緒に上って来た者の氏族の長、およびその系譜は次のとおりである」と記載している。

 彼の声が聞こえてきそうな一文です。
 現代風に書くと、「ペルシアの王の許しを得て、この私が、大勢引き連れて、聖都にのぼってきた。その面々は、奴隷やそのへんの農民ではない。部族を代表するおえらいさんも一緒にきてるぜぃ」と宣言しているように読める。
「わたし」と一人称で書くことで、高揚感が伝わってきます。

 彼に先立って修復を思い立ったセシバザルはキュロス王の民族解放令を受けて、ユダ族とベニヤミン族の四万余の民ととともにエルサレムに帰還し、(ネブカドネザル王に破壊された)ソロモン王によって建設された第一神殿を再建しようと試みましたが、二十年かかっても完成に至らなかった。完成したようにエズラは書いていますが、だったら、自分が帰る必要がないと思いませんか?

 一応、セシバザルは総督の地位にありましたが、ヨルダン川東岸(現在のパレスチナ自治区)の知事(税の徴収)や行政長官(法律の執行者)の妨害があり、思うようにコトが運びませんでした。
 たしかに邪魔は入ったと思いますが、再建を困難にした第一の理由は資金不足にあったのではないか――。
 四万余の民はバビロニアの捕虜だったため、祖国に帰ったとき、自分のもといた場所に戻っても異民族が居住していたはずです。

 遡ることモーセの時代、ヨシュアの率いるヘブライ人が、イスラエルの地に入植したさいに、先住民を押し退けて居座ったのですから、その逆バージョンがあっても文句は言えない。このような諸事情が重なり、帰還民たちはそれぞれが生きのびることに必死だったと考えられます。当時のバビロンは世界最大の先進都市でした。そこから、産業もろくにない故郷に帰ったユダヤ人は絶望したと思います。

 現代のユダヤ人は、「神に約束された土地」だと、イスラエルの国土はおろかパレスチナ自治区をさして言い立てますが、ほんまかいなと思いませんか?
 神が約束したのではありません。
 第二次世界大戦時に、英国の外務大臣がロスチャイルドに借金するさいに書いた一通の手紙が原因です。手紙には、「イスラエルをユダヤ人の故郷と認める」と書きました。英国は、アラブのファイサル国王にも似たような約束をし、フランスとは、そこら一帯を半分ずつにする条約まで結んでいました。
 英国はドイツとの戦いで疲弊していました。米国になんども参戦を促しますが、聞き入れてくれません。ジジババ並みに、思考回路が混乱していたとしか思えません。英国の参謀本部は休戦するしかないと、チャーチルになんども伝えますが、チャーチルは聞き入れません。フランスの敷いたマジノ線はあっという間に突破されます。
 ルーズベルトは参戦したかったのですが、国民にその気がなかった。
 で、米国はドイツと同盟国の日本を追い詰める。石油を禁輸された日本はにっちもさっちもいかなくなり、真珠湾の先制攻撃となるわけです。
 その間、待ちくたびれた英国はしかたなく、ロスチャイルドにお金を無心します。その結果どうなったか。戦後、ユダヤ人は英国が統治しているイスラエルに帰還します。映画「栄光への脱出」では、借金の話ぬきで、美談として語られています。1948年のことです。

 話をエズラに戻します。

 聖都の惨状を耳にしたエズラはアルタシャスタ王から行政長官の地位を拝命し、七千人余の自由民と自分たちの奴隷を連れ、満を持して帰還しました
 修復にかかる費用は近隣の知事や総督に頼んで出してもらえ、なんぼでも使えというお墨つきまでもらっての帰還でした。序章に、ながながとエズラ記を抜粋していますが、王の後ろ盾なくして、エズラは、帰還できませんでした。この長い引用文は、エズラが唯一、頼りとする王から賜った勅書です。

 もうおわかりだと思いますが、勅書を読み上げても、誰も耳を貸してくれません。「ユダヤ人の宦官ごときがしゃらくさい」というのが、現地を支配するペルシア人の高官の考えだったことは想像に難くありません。「王に取り入る奸臣め」と嫌悪されたと思います。王命に従わない者は極刑に処してよいと書いてありましたが、実行できるはずもなし。

 ペルシアのあとを引き継いだローマもですが、現在の独裁国家とは異なっていました。ペルシア帝国は広大な領土を、20~23州に分けて統治しましたが、総督とよばれるペルシア人の高官は、ギリシアに敗けつづける当時の王家の命令など、歯牙にもかけませんでした。
 民は民で、徴税にさえ応じれば、商業活動はもちろん、何を信仰しようと自由。同胞であっても、エズラの話に耳を貸す者は少数だったと思われます。帝国にとって重要なのは、全州にくまなく敷いた道路網=王の道でした。反乱が起きたときの兵の動員に必要としましたが、それよりも駅(関所)をつくり、そこで得る通行税が帝国の収入の大きな部分を占めていました。ペルシアと同盟国のメディアの兵士らによって、王の道は警備されていましたが、襲撃されることもしばしばあったと思われます。テロ活動です。アルタシャスタ王がエズラを派遣したのは、それらを抑えることが主目的だったのではないか――。

「すべての道はローマに通ずる」という言葉がありますが、ローマ帝国の水道設備も道路網もペルシア帝国を真似たものです。ペルシアのダレイオス王は、エジプトを支配しやすいように、スエズ運河の原型となる工事をしています。
 ペルシアの王都の一つスーサ(イラン)からサルディス(スペイン)まで、駅で馬を替えて走り、七日間で移動できました。この道路網を使って、王は、全州で起きる出来事を逐一、知ることができました。王の耳と呼ばれる密偵も属州の各地に放たれていました。

 たいていの方は、それの何がおもしろいねんと思われると思いますが、歴史を学ぶとき、白人国家が文明の礎を築いた錯覚をもたらすために、主としてギリシア・ローマからはじまったように記憶しています。いまは違っているのかもしれません。このことが、私はガマンならんわけです。文明は中央アジアからはじまっています。東に行けば中国、西に行けばエジプトです。

 ここで結末を書いてしまいますと、エズラは神殿や城壁の修復ができませんでした。つぎにネヘミヤという人物が登場してあとを引き継ぎますが、これも完成に至りません。だったらだれが、第二神殿を建てたのか。
 新約聖書に登場する、極悪非道の人物として名高いエドム人のヘロデ王です。名前を思い出すのに三日かかりましたが、彼がソロモン王の建てた壮麗な神殿を再現します。軍事にたけた彼は戦略家であったばかりでなく建築家としても有能でした。ローマ帝国の支配者、シーザーにはじまり、アントニウス、オクタヴィアヌスに媚を売り、ユダヤ人の反感を買いましたが、第二神殿は彼にしか建てられませんでした。しかし、ユダヤ人は彼の死後、ローマに歯向かい、神殿は焼失します。――で、現在に至ります。イスラム教の神殿、岩のドームが第二神殿跡に建っています。オスマン帝国の遺物です。
 多くのユダヤ人はこれをとっぱらって、第三神殿を建てたいと願っています。このとき、第三次世界大戦になると予測されています。
 ユダヤ人の信仰の根幹をなす神殿は二千年かかっても再建されていません。

 二千五百年前、エズラの失意はいかばかりであったか。「エステル記」は、先代のクセルクセス王に、エステルという名のユダヤ人女性が正妻を廃して嫁ぎ、王妃になるというシンデレラストーリーです。ペルシア史にエステルの名はありません。正妻は、アメストリスです。正妻を仮名ワシテにしたうえで、仲がよくないように、エステル記には書かれていますが、アメストリスには子供が七人います。これって、どーよと思いませんか? 同じユダヤ人のモデルカイという宦官の働きかけがあったものと思われます。
 仮にこれが事実であったとしても、クセルクセス王は暗殺されたわけですから、モデルカイとエステルの運命がハッピーエンドで終わるはずがない。結末を、エズラは知っていたはずです。
 そして、「ヨブ記」です。この物語は、モーセがへブライ語で記したとされています。ちなみにエズラは、バビロン在住でしたので、複数の言語に堪能でした。「ヨブ記」は神への不信がながながと述べられています。私には、エズラが晩年、ヨブ記を書く気持ちに至ったことは当然だと思います。神殿の再建に生涯をかけたと言っても過言ではない。しかし、かつての輝きを取り戻せない粗末な建物しか建てられない。三人称小説を思い立ったエズラは、何もかも失ったヨブを登場させます。ヨブ記は、「神はいないのかーっ」と絶叫しているように読める文章がつづきます。

 人々がハッピーエンド物語しか受け入れないことを、紀元前五世紀を生きたエズラ先生は熟知されていたようです。最晩年、エズラ先生は、自分の後継者ともいうべき、ネヘミヤが城壁を再建したとき、バビロンから出かけて行き、〝ありがた涙〟でむせび泣きます。この物語「ネヘミヤ記」を自分の物語「エズラ記」のつぎにおき、もっと感動できる物語はないものかと先生は考えたと愚考するわけです。

 先生は先人の書記官であったモデルカイを思い出し、王妃はユダヤ人の女性であったという物語を書きますが、虚しさは去らない。とうとう「ヨブ記」に行き着きます。信仰に犠牲はつきものですが、おのれの一生はなんであったのかと疑問に思ったのではないかと――。しかし、聖書の編纂をし終えたのちに、これではいかんと思いなおし、神からお言葉を賜り、健康も財産も取り戻すハッピーエンド物語にします。四編とも結末はハッピーエンドです。
 先生は、幸せな結末を求めて七転八倒したとしか考えられない。
「異聞エズラ記」は、私の妄想小説です。ここまで、お目通しくださった方がおられましたら、お詫びしたい気持ちです。
 


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