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夜が召しあがる国【中篇小説】

 逢ひ川の中の瀬で稚児が笛を落いた
 簗打て簗打て簗に笛はとまるぞ
 恋の尺八な吹磯心凄いに
 稚児の忍びに笛吹かれた

   田植草紙・挽歌二番

     

 香水とタバコの匂いに精液が混ざりあった臭いがひろがる部屋。
 自分は、照明のない狭い待機室を出て、隠し扉を開け、秘密の部屋に入る。自分の意志に反して眩暈に襲われる。
 ヒメキが男に玩ばれるさまが、目の前に再現される錯覚に陥るからだ。
 狂乱の後始末をするのが自分の仕事だ。サックやティシュ。寝乱れたベッドをもとにもどす。シーツは毎回、替える。時には、ベッドに小便をたれ流す客がいて、マットレスまで交換しなくてはならない。
 午後六時頃からはじまって、深夜の一、二時頃まで、欲望と排泄の饗宴はつづく。幕が下りたあと、麻雀部屋の掃除もしなくてはならない。

 三ノ宮の外れにある、寂れた商店街の、なんの変哲もないコンクリート造りの建物。一階は安価な値段の中華飯店。三階に秘密の部屋がある。通りに面しては麻雀屋を装っている。
 外階段を使って出入りするようになっているので、窓ガラスの麻雀の二文字につられて、麻雀をしにくる客も時にはいるが、出入口で、店の用心棒、百九十センチはあろうかという巨体に制止される。「スミマセン。満席デス」と片言の日本語で言われると、日本人のくる場所ではないと直感し、二度と足を踏み入れない。

 客は中国人の中高年層がほとんどだ。時たま、日本人の客もいる。身なりのいい男たちだ。
 誰もが参加できるゲームではない。オーナーとビジネス上の取引のある者、あるいは影に生息する者たちに限られている。
 二十二歳のヒメキの他に、二十歳前後の男娼が二、三人いる。
 ヒメキ以外は日本語学校へ通う留学生だ。彼らは、オーナー専用の事務室に併設されている、二階の控え室で呼び出しを待つ。
 ヒメキ一人、オーナーの事務室で休息をとる。

 証拠となる写真を撮られ脅迫を恐れる日本人客も中にはいるが、福建省出身のオーナー、チャン(陳)のバックに現職警察官がついていると知ると、安心して通うようになる。もめ事があったとき、すみやかに対処してくれるからだ。実際に動くのは、みかじめ料を支払っている組関係の人間だ。

 秘密の部屋の黒い壁は、音を吸いこむ防音壁パネルが貼られている。男の呻き声や喘ぎ声は外に漏れない。ただし、隣接する待機室にいる掃除係の耳には隠し扉の隙間からもれ聞こえる。

 麻雀部屋の客はマオタイを飲み、中華料理を食い、中国式の麻雀をしながら、自分の順番がくるのを気長に待つ。彼らは日本人客にありがちな性急な気質と異なり、時間を気にすることなく高音量の話し声で麻雀をゆったりと楽しむ。

 自分はなぜ、ここにいるのか……。

 つい三ヵ月前まで、美術科に通う男子高校生だった。石膏デッサンに明け暮れ、アニメドールのヘッド(顔)を描くバイトをしていた。

  ★●★

 八ヵ月前――。

「なーんか、付き合いにくーい」

 入学式の翌日に、クラス分けがあり、隣の席になった女子に何げに言われた。男子生徒が数人しかいない、共学の美術科に入って、ようやく弱肉強食の公立中学の鬼畜どもから解放されたと思った矢先の宣告だった。
 自分は、自分の周囲に人間が、三人以上になると、言語を発することに支障をきたす。そのぶん静寂を愛する長所がある。けっしてよけいなお喋りで他人の傷つけることもない。こういう性格になったのは、言語をつかさどる左脳の突然変異のせいか、母親の抑圧のせいか、そのどちらかだ。
 おそらく、後者だろう。
 五歳のころ、精神科医にかかったらしいが、言語障害の原因に診断名はなかったという。今後、どんな異変が起きようと、自らの意志で医者にかかるつもりはない。近い、未来、左脳は、ひらめきを生む右脳のパワーを得てリニューアルされ、世界のどこかにある、黒い月と星の〝夜が召しあがる国〟へとつながっていく――そんな風に夢想していた。

 新任の美術教師だったヒメキと自分の接点は頭の周りが10センチ足らずのアキバ系〝アニメドール〟。いつも高値で入札してくれる、その相手が自分の通っている高校に非常勤講師として現われたとき、近所の路地で、宇宙飛行士に出会ったような気がした。
 ヘンタイ男子は『二十億後年の孤独』の彼方にしか、同類のヘンタイは存在しないと思っているからだ。詩人の谷川俊太郎だって、そう思ったから詩を書いた。
 ヒメキはたちまち〝スワン〟とあだ名がつくほどの超美形足長男。クラスのだれ一人として、ボサボサ頭にメガネをかけた無愛想な自分とヒメキを結びつけて考えなかった。

 なぜかって?

 一人の友達もいない小柄な男子生徒と女子生徒のあこがれのマトの美術のセンセイとは、学校の廊下や教室で話したことはない。
 すれ違うとき、眼差しで言葉を交わしていた。二人にしか通じない言葉が、自分たちの間にはあった。

……おまえが好きだ。

 生徒には冷淡だが、時に冗舌なヒメキが、変人だと思われている自分になんの興味も示さないと、クラスの連中は思いこんでいた。美術科なのに、右脳の発達したヤツがいない。脳全体が成熟していない連中は見たいようにしか、現実を見ないと決めつけていた。

 現実を見ていなかったのは、自分のほうだった。

 自分は、ネットオークションの世界では〝高額カスタマー〟としてちょっとは名の知れた存在だった。ヒメキと名乗る人物は顧客の一人だった。落札直後、入金があり、確認してから、本人宛にドールの〝ヘッド〟を郵送する。住所氏名が当然知れる。向こうは京都で、こっちは神戸だった。その相手が購入当時、学生だったとは予想もしていなかった。

 はじめての授業で、出席簿の名前に「瀬本月読(せもとつきよみ)」を見てようやくヒメキは気づいたようだ。製作者は大人の女性だと思っていた相手が男で、しかも高校生だったと。こっちを一瞥すると、ヒメキは長髪の前髪をかきあげ、語った。

「高校生になると、感情を抑えることは多少できると思う。これからどのくらいの期間になるかわからないが、付き合っていきたい。ただし、友達なんかじゃない。美を追求する者の先輩後輩として向き合いたい」

 一見、クラス中の生徒にむかって話しているように聞こえたが、自分にむかって言っているようにしか思えなかった。
 だったら、あの熱い眼差しはなんなんだと思ったが、悪感情は抱かなかった。
 自分の知る美術教師の多くは芸術家でもないのに、技術や理論は己れにしかないといった顔つきでしか話さない。いまの造形の教師に至っては教えることは二の次で、自身の作品を創ることにしか興味がない。
 教師の助言を無視する自分の成績表ははひどいもんだ。単位を落としかねない最低点をつけられたことさえある。

 比較して、ヒメキの授業はわかりやすく実践的だった。

 彼の目に止まりたくて、得意でないデザイン画を懸命に描いた。ヒメキがほんの一瞬、自分の手元を見てくれるだけで心が躍った。施しに近い一瞥だったとも知らずに、ヒメキと自分の間には切っても切れない特別の繋がりがあるのだと、妄想していた。

 すべて自分勝手な思い込みだった。

   ★●★
 
 初めての授業からひと月後、ヒメキは突然、
「他のも見せてよ」
 と、ウチへやってきた。築三十年の中古マンションの城へ。
 
 仏頂面で出迎えると、口の端で微笑み、表情を崩さない。
「まさか、ツキヨミが高校生だったとはな」と乾いた低い声で言った。
 メガネの真ん中を押し、
「ヒメキが、男やとわかってた」
 ヒメキは、姫に月と書く。荒井姫月が彼の本名だ。
「教師に呼び捨てはないだろ」
 ドール・オークションの買い手に女性はほとんどいない。ぼぼ男性だ。
「ヒメキにも月がついてる」と言うと、
「共通点は月か……」とヒメキは哀しげにつぶやいた。
 ヒメキは目を合わそうとしない自分に、
「かぐや姫は、いつか月へ還ってゆくだろ?」
「いつか、〝夜が召しあがる国〟の王に、自分はなる」
 うつむいたまま答えた。
 ヒメキのふっと笑う声が、頭の上で聞こえた。
「お互い、親の頭がイカれてたんだな」
 自分は、父が屈辱されたような気がした。
「自分の名前は、月の神の月読命(つきよみのみこと)からとられてる。古事記、知らんのか。月読命は〝夜が召し上がる国〟の夜をさす。夜の王という意味や」
 ヒメキは腕を組み、玄関の壁にもたれた。
「子供の頃、好きだったな。スサノウとか」
「白鳥になって飛んでくヤツやな。それで、あだ名がスワンなんか」
「偶然だよ」

 ヒメキはそう言うと体の向きをかえ、スリッパをはかずに、ズカズカと玄関脇の部屋に入ってきた。

 ヒメキは散らかったベッドを一瞥し、一つの枕で一緒に寝ているお気にいりのドールを手に取った。カールした銀色の髪を背中の真ん中までたらし、前髪と横髪は長めにカットし、ヘアスタイルにもキャラクターが滲み出るように工夫している。モスグリーンの瞳の線引きはひと筆もゆるがせにできない。最後に、唇にワインレッドを塗って仕上げる。ドレス、背景となるセットも、もっともふさわしいものを選ばなくてはならない。ひと目見て、ドールのキャラクターが顧客に伝わらなくては価値がない。

 遊びではじめたバイトだったが、簡単そうに見えて、一筋縄ではいかない作業の連続だとすぐにわかった。世界に一点しか存在しないドール。TUBEで、カタールの金持ちの家が映ってるのを何げに見ていると、自分のドールが登場したときは驚愕した。自分の創りだしたコが、海を渡って行ったのかと。どこへでも行けるのかと。

「オレの専属絵師にならないか」
 切れ長の目に見惚れていた。
「専属絵師……?」
「最高額を出すよ。ツキヨミの描く女のコの顔は言葉じゃない暗号をしゃべるように感じるんだ。不思議なんだよなァ。バレたら人気失墜なのにさ、ついつい買ってしまう。知ってるか? シュールレアリズムの先駆けとなった、ダリやメルベールも人形好きだったんだぜ」

「……暗号……?」と、自分は口の中で繰り返した。

 意味ありげな眼差しを、そんな安直な言葉でごまかすのか……。

「なんつーか、わけのわからん言葉で、話しかけてくんだよ。不気味なんだけどサ。そこが他のヤツのヘッドとちがってんだよな。それにネットにあげてる写真より、実物のほうがずっとかわいいしさ」

 ヒメキをひと目見た瞬間から、つよく惹かれた。
 日頃から思い描いていた造形の容姿をしていたからだ。しかし、間近で見ると焦点の定まらない眼差しは、マボロシが過ぎるように自分の肩先をそれていく。理由が知りたかった。彼の示す二種類の眼差しの違いがどこからやってくるのか、を。

「頼みがある」と、思いきって言った。ヒメキの言う暗号を解読したくなったのだ。
「なんだよ……」 
「オカンを誘惑してくれ」

 無分別な発言だと思わなかった。彼こそが、思考と言語をつかさどる左脳を刺激し得る唯一の存在だと信じたからだ。

「おまえ、マトモじゃないな」

 意識下の自己は憂欝と倦怠とは無縁だった。

「夢中にさしてくれ」
「そのあとは――」
「棄ててくれ」
「棄てろって……」

 日頃、話さないぶん、脳細胞は常に発酵している。思考がいったん、言語化すると、自分の属する小宇宙を揺るがすとわかっていた。

「ラクロの『危険な関係』読んだことあるか?」
「オレ、マンガ派。ワンピースとかハンターハンターとか、そうだな、進撃の巨人とかも」と、ヒメキは皮肉な笑みを浮かべる。

 無駄話には、耳を貸さず、小説の粗筋を話した。

 彼はドールを手にしばらく、考えていたが、
「つーことは、オレはモテモテ男のヴァルモン子爵ってことになるな。んで、そっちのオカンはトゥールヴェル法院長夫人ってことになンのか。へぇ。おまえ、妙なこと考えんだな」
 なんで話をそらすんだという罵声をなんとか飲みこみ、
「オカンは、メルトゥイユ侯爵夫人」
「おまえの説明だと、メルなんとかが、ヴァルモンを使って、不倫女の法院長夫人を追いつめて死なせんだろ。ついでにヴァルモンもな」
「法院長夫人は貞淑な女なんやッ」

 このとき、父の顔が法院長夫人の顔と重なった。偶然なんだと、思った。男と女は違うのだと自分に言い聞かせた。

「わけわかんねぇし……」と、ヒメキはわざとらしく頭を傾げていたが、「タダでか」
 一瞬、その言葉に舞い上がった。ヒメキはもしかすると、自分に求愛しているかもしれないと――愚かにも考えたのだ。
「つぎのヘッドは、オークションにかけずに、おれに売ると約束しろよ」
 暗号の答えはまったく違った。それてゆく眼差しのそのものだった。

 その日、ろくでもない男とのランチから帰宅した母のミドリは、ヒメキの抜きんでた容姿に強い衝撃を受け、発情期の雌猫の目になった。
 保険の外交員をしている母はヒメキに食事をしていくようにすすめた。ヒメキは、一食助かると即座に応じた。自宅に電話をかける様子もない。家族はいないのだろうか、とそのとき思った疑問はいまも消えない。
 彼に家族という形態と概念はそぐわない。人間の生き血を吸って永遠の若さを保つバンパイアのイメージがもっとも近い。

「センセイに見えないわねぇ」と、ミドリ。
「あなたも、こんなに大きな子供サンがいるなんて見えませんよ」
「うれしいウソをゆってくれるのね」
「オレ、お世辞は言えてもウソはつけないタチなんスよ」

 二人の会話のやりとりを耳を傾けながら、ヒメキの眼差しを誤解していたことに否応なく気づかされた。独り合点だったのだと。

 本来なら意気消沈するところなのに、下肢が昂ぶった。

 こんなことははじめてだった。自分の性器はなぜか、思春期の男子なら当然感じる性的欲求とは無縁だったからだ。
 コミュニケーション障害のある自分は、孤独であることと同じくらい異性との性交願望のないことを是としてきた。しかし一方で、禁欲的な脳環境を改善したいと小学生の頃から思ってきた。そのためには、感性の危機が必須だった。17歳のヘンタイ男子にとって、隠された自己の発見には思想の根底にある肉欲の発露が求められていた。

 ヒメキとミドリはそれとしらずに自分の心奥部を刺激したのだ。

「センセイとちょっと出かけてくるけど、パパには適当にゆっといて」と、オカンは言いつつ、ヒメキの腕に自分の腕をまわす。
「だいじょうぶなんスかね、そんなこと言って……」と、口ごもるヒメキ。
 家ゴハンを食べるようにススめられた直後に、外メシか?と戸惑うのは凡人。ミドリの気紛れは毎日のことだ。
「いいの、いいの。このコは物心ついたころから、わたしと口をきかないのよ。主人とだって電報みたいな話し方しかしないんだもの。複雑な話なんてできっこないわ」
「二人で出かけたってぐらい言うでしょ? もう高校生なんですから……」と、さすがにためらうヒメキ。
「かわいいわねぇ。主人の若い頃にそっくり。ちょっとおバカさん」

 発情期に突入した中年女は、若い男の鼻の頭をチョンとさわる。
 ヒメキは頭をかいて照れる。
 ミドリはヒメキを凝視した。獲物を狙う目を隠さない。この顔をシュールでリアルに描くには黒い星が一つで足りる

「ツキヨミもいっしょに連れてきましょうよ」とヒメキが言った。
「せっかく、ごちそうになるんだったら、家族一緒がいい」と。
「この子に気を使わなくてもいいのよ。もともと外食のきらいな子なんだから」
「いいんですけど……ちょっとまずくないですか?」
「いいの、いいの。このウチの稼ぎ頭は、あたしなんだから」

 デッサンをするとき、対象は一つの方向から見るが、描く側は対象の見えない部分もそこにあるものとして描かなくてはならない。ヒメキの見えない部分を、自分は描きたい。

「ときどき、思うの。ホントに自分が産んだのかって。このコ、生まれたときからフツーじゃなかったの。このコの顔を見るたびにぞっとするのよ。物好きの夫は、ネコ可愛がりするから、余計に薄気味悪くって」

 母親があまりに冷淡なのと、父親が異常に可愛がってくれたせいで、自分はたしかに正常じやないかもしれない。子供は愛情がアンバランスな家庭環境で育つと、心の歪みが神経の突起物になって、脳細胞に異常をきたすというのが自分の持論。高じると、現実と空想の隔たりがわからなくなる。それが他人との間に越えられない障壁をつくる。

「美術系の高校になんかに行って、なんの役にも立たないのに」
「ぼくも美術系の大学なんですけど……」
「ごめんなさいね。でも先生になってらっしゃるんですもの。立派ですわ。ウチの主人ときたら、もうお話になりませんわ」

 父は世間でいうところのはみ出し者だ。同じはみ出し者のハズレ女のミドリは、出世や金儲けに関心のない父を「欠陥品」だと蔑んで憚らない。仕事へ行くと称してヒマさえあれば、オトコをつくって家を留守にする女だ。
 あげくの果てに、息子の通う学校の教師に色目を使うとは、サイテーを通り越してサイアクの極みだと、そのときは思った。

 安易で安直な思考こそが、不具合で未発達の自身の証左だと知らずに。

 小さな印刷会社に勤める父を、常識にくみしないヒーローだと自分は思っていた。アルコール依存症のせいで、職場を転々としたが、父は陽気にふるまいたいだけなのだと。

   ★●★  

 ヒメキの我が家へのデビューが事件の発端とするならクライマックスは三ヵ月前――。
 九月のある朝、薄墨の色の空から雨粒がしたたった。緑におおわれた六甲山の木々が所々、オリーブ色からセピア色ににじんで見えていた。
 季節の移り変りに人の心にも変化をもたらすのか、父の配偶者であるミドリは離婚届の用紙を食卓に置いて家を出ていった。印鑑を押した朱色が母の心を表しているようで生々しかった。
 父はその場で破り捨てた。
 次の日から、闇金の男たちが昼夜の区別なく我が家を訪れた。母の残した置土産だった。自分たちの住んでいるマンションは駅に近く、買い手に困らないせいか競売物件となった。落札した不動産業者は即刻退去せよと迫った。闇金業者と不動産屋がグルだと、否応なく知る事態になった。

「おんどらー、ナめとんのかー」

 彼らはダークスーツを着たヤクザだった。法律では、買い手がつくまで居住していいはずなのに脅しはやまない。
 しつこく鳴る電話をとると、
「金がないんやったら、腎臓、売れーッ」
 もともと精神力の強靭でない、繊細な気質の父は関東で育ったせいか、関西弁の執拗な取り立てに抗する手立てをもたなかった。

『瀬本一家は××不動産の所有する物件に不法に居座っている』 
『妻は借金を踏み倒して家出をした』
『瀬本純一は女房を寝取られたマヌケ』

 隣近所に中傷のビラがまかれると、不条理な現実に興醒めしたのか、父は勤めていた印刷会社を辞めてしまった。自分も高校をやめた。
 退職金などないので、日々の暮らしにも困り、借金は増えるばかりだった。ひと部屋しかない木造アパートに移ったが、そこにもサラ金業者はやってきた。発砲スチロールや植木鉢がならぶ狭い通りに車を停めて大声で怒鳴るのだ。

「出てこい! 息子にわしらで働き口、見つけたる!」

 どうにもならない状況を憂えた父は安酒に溺れ、現実と戦うより夢見ることを選んだ。
「おれは、『ラマンチャの男』だ」と言いだし、「見果てぬ夢」を鼻歌で口ずさむようになった。

 異常に気づいても、精神科で父を診てもらう余裕がない。途方にくれているとき、ヒメキが、通じるはずのないスマホに連絡してきた。
『携帯料金はこっちで、払ったからな』
『なんの用や』
『金がいるんだろ?』
『おもしろがってるンか』
『なんで、ドールの仕事をやらないんだ?』
『ネットオークションに画像を載せるには、ドールの背景になるセットを組まんならん。高級カメラや画像処理用のパソコンがいる。メークをしたり、ドレスを買う金もない』
『非常勤講師をやめたんだ』
『不倫教師の末路やな』
『――バイト、やらないか。ちょっとヤバイ仕事だけどな』
『風俗か?』
 電話の向こうで、クツクツと嘲笑う声が聞こえた。
『近いけど、違う』
 唯一考えられた生きのびる手段は、ヒメキのすすめる仕事につくしかなかった。
  
  ★●★

 雇われた初日に、清掃係は、見聞きしたことをだれにも他言してはならないとオーナーのチャン(陳)から固く口止めされた。
 肉まんのように肥ったチャンは口臭がひどく、思わずしかめっ面になる。

「おまえ、メガネ、外せば、稼げる」とチャンは言った。「その気、あったら、いつでも言え」

 そばで聞いていたヒメキは、いつもの虚ろな眼差しで自分の肩のむこうを見ていた。痛みも哀しみも感じていない表情で……。

 日給壱万円。高校生のバイト代としては破格の金額だった。

 麻雀部屋は自分の知るかぎり、定員四人のところに、待ち時間と称して一人余分に入れる。半荘(ハンチャン)で勝った者が、指名権を得られる。勝者が二階で待機する者の中から選び、秘密の部屋に消える。空いた席に余分の一人が入るシステムなので、空席はないはずだった。

 勝者はかならずヒメキを指名する。ヒメキと寝ることはその日の運まかせになる。一人、約一時間と定められているが、長引く客もいて、掃除係の自分は十五分以内に、次の客を迎える準備をしなくてはならない。
 ヒメキは客と客の間にバスルームでシャワーを浴びる。
 五人の客のうちの少なくとも三人から四人を、ヒメキは相手にしなければならない。
 ヒメキを抱きたい男はひきもきらなかった。待ち時間に負けがつづき、金を使い果たして帰る客もあった。
 例外はあった。
 麻雀で勝者にならなくても、ヒメキを指名できる男が一人いた。
 刑事の五味だ。

 四十過ぎの五味は、秘密部屋と隣接する待機室に自分がいると勘付き、いきなり隠し扉を押し開けた。重厚なカーテンの背後に隠されている扉なので常連の客でさえ気づかない。

「物音がしたと思ったら、坊やが、おったんか」と、バスタオルで腰まわりを隠した五味は笑い声で言った。「ここで盗み聞きしてるとはーーませとるな」
 自分は激しく首をふり、「掃除係です」と震える声で答えた。

 ドアを押す五味の肩先に、ベッドで横たわるヒメキの象牙色の裸体が見えた。うつぶせの姿勢で、片腕がベッドの下にたれ下がっている。両目を閉じ、死人のようだった。

「こっちへ来い」と、五味は自分に命じた。「中学生か?」

 五味は、出入りするときの扉を開け、用心棒&接客係の巨体、ファン(黄)にビールと果実ジュースをオーダーした。巨体は耳にかけた無線機用マイクで一階の中華飯店に伝える。
 昇降機でビールとグラスが運ばれてくる。ファンはトレイにビールとジュースをのせて部屋に入ってくると、体育座りをしたスウェット姿の自分を見て眉をしかめた。

「おい、ヒメキ、飲むか?」と、五味は振り向いた。

 ファンは自分だけにしか伝わらない小声で、「ダイジョブカ」と言った。

 ヒメキはゆっくりと頭をもたげた。薄目をあけた彼は、自分に気づくと、「ひっこんでろ!」と怒鳴った。

「ナニ、イラだっとるねん」と、五味は言った。「おまえは、二人とおらん、じょうモンやから、だれも勝てん」
 五味はバスタオルを落とすほど、笑い転げた。そして大股で歩き、ファンや自分の見ている前で、ヒメキの背中に筋肉質の全身でのしかかった。そして、彼の耳元でささやいた。
「紹介料、いくらもらうんや」

 階下で、ヒメキがシャワーを浴びている間、五味は、居残っていた。
「坊や、ヒメキのなんなんや」
「以前、デザイン画の授業を受けていました」
「ヒメキが、高校の先生だったという話は事実なのか」
 黙ってうなずくと、
「あいつはな――」と、五味は言いかけて息を吸い、「見た目に騙されるな」と言った。
 鋭い目つきの五味に睨まれただけで、足がすくんだ。
「チャンが言うとったぞ。近いうちに、おまえを客の前で披露するってな。ヒメキのご推薦や」
「どうして、自分を」
「掃除係は、客を歓ばす方法を、坊やのおる部屋でベンキョウするんや。覗き見できるやろ?」 
 自分は、はげしく首を横にふった。掃除係の部屋に自分を連れてきたのは、ヒメキだった。そのとき、そんな話はひと言もしなかった。
「おれが、覗き穴、探したろか」
「いりません」
 掃除係の密室に逃げこむ。

 五味の高笑いが追ってきた。

 帰りぎわ、半分も飲んでいない角ビンのウィスキーを、ファンがこっそり渡してくれた。
「キタナクナイ」と言って――。
 どうして、ウチの事情を知っているのか、訊いた。
 ファンは目を潤ませた。「フドウサンヤ、ヤクザ、チャンのトモダチ。ヒメキ、オマエの母親、ミナトモダチ」

 自分はなぜ、ここにいるのか……。

 つい三ヵ月前まで、美術科に通う男子高校生だった。石膏デッサンに明け暮れ、アニメドールのヘッド(顔)を描くバイトをしていた。
 あの頃の自分はもうどこにもいない。

    

 自らを〝夢追い人〟のドンキホーテにたとえる父親に、ただ一人の家族である自分はどんな慰めの言葉を口にすればよかったのか――。だれの所有物かわからないが、岸壁に放置したままになっている廃船に住もうと、なんども父に言った。

 掃除係の仕事をやめたかった。

「ツキヨミにふさわしくないよ。エンジンだって壊れてるし、どこへも行けやしない。でも、ママが帰ってきたら、ヨットを買おうと思うんだ。どうかな?」

 父はロマンチストというより、目の前で起きた苦難を現実として認識できない統合失調症を患っているようだった。

「ボート免許をとっとくといいな。家族三人でセーリングに出よう」

 現実を視覚で認識しても脳細胞で受け入れられないのだ。

 十二月の澄み切った空の色が目に沁みる朝、どうして父を止められなかったのか、同調してしまったのか……。悔やんでも悔やみきれない。

 朝イチに煎れた番茶に茶柱のたったことをよろこんだ父は、
「いいことの起きる前兆だよ」
 と湯呑みがわりの紙コップをのぞきこみ、ハハハと息を止めて笑った。縁起なんてかついだことなど一度もないのに……。
 そして、角ビンのウィスキーをがぶ飲みした。

 父は口元をぬぐい、ゆうべ手渡した封筒を、敷布団の下からさぐり出した。中には、掃除係をして稼いだひと月ぶんのバイト代が入っていた。休みなく働いたので三十万ある。しかし、先月、二十万前借りしているので、十万円しか残っていない。

「遠出をしよう!」父は唐突に言った。

 縞柄のパジャマのまま父は立ち上がり、「もうここにはもどらない」ときっぱりと言った。「これは勇気ある、美しい行動なのだ」と。

 布団の中にいた自分は虎の子の十万を使ってしまえば、月末に振り込んでおくべき今月ぶんの家賃が払えなくなると思った。
 夕方には、秘密部屋の掃除に行かなくてはならない。
 自分でも、呆れるほど現実的思考だと鼻白んだが、口をついて出る言葉は右脳を抑制し、左脳仕様になっていた。

「どこまでも、どこまでも行こう!」と、父は言った。

 父は布団を両手で丸めると、右腕を胸に当てて深く頭をさげた。

「ツキヨミの御子さま、どうか、ごいっしょに」

 夜具がふた組みしか敷けない殺風景な室内を見回すと、父の希望を叶えるしかない気持ちになった。ハリウッドのヒーロー映画は苦手なのに、即座に答えた。

「パパとだったら、どこまでもいっしょに行く」

 父は片足を立てて畳にひざまずくと、まっすぐに自分を見上げた。
「この先、いかなる艱難辛苦があろうとも、わたし――ドンキホーテは姫さまを生涯、お守りすることをお誓い申し上げます」

 ドルネシア姫だと、父は息子を勘違いしている。あるじにどこまてせもつき従う、サンチョパンサだと自分は思っているのに……。

 五分後には、父と二人、唯一、残った財産、車検のすんでいないクルマに乗りこんでいた。

 剣も盾もなかった。

 パジャマ姿の父は怪物に見える風車を探していたのだろう。馬のかわりに運転するカローラは料金所をすぎてすぐに高速道路の分離帯に激突した。
 エアバックのおかげで、サンチョパンサは手と足にかすり傷を負ったが、正義の騎士の父は意識不明の重体に陥った。
 救急車で搬送される間、ほんの一瞬だが正気にもどった。

「ツキヨミ……」

 つぶやいたひと言に、父の苦悩が凝縮していた。意識を現実とは異なる異次元の世界に留め置くことを、父は潜在意識で熱望していたのかもしれない。

 翌日、いきなり現われたミドリは、ICUの生命維持装置につながれた父をガラス越しに目にしたとたん、コートとトートバッグを投げ出し、
「あなた、あなた、あなたァ!」
 と絶叫し、廊下に泣き伏した。
「――ごめんなさい」
 声はふるえていたが、マスカラをたっぷり塗った目元は乾いていた。アンタのせいで、パパはこんなことになったと言いたかったけれど……、

「住むとこがない」と泣き言を口にした。軽傷の自分は明日にも退院しなくてはならない。

 ミドリの表情から感情が消えた。人は己れに迷惑がふりかかりそうになると、全身で防御の体勢に入るが、まずそれが顔面に現われるということなのか……。

 はじめてヒメキがウチの家をやってきたその日に、ミドリは一晩帰らなかった。
 その後も外泊はつづいた。
 ミドリは恋をつらぬくために家を出た。借金の大半はヒメキの身を飾るために浪費したものだったが、ミドリはその話にはいっさいふれようとしなかった。

「パパとは離婚してるのよ。もちろん、アンタの親権も彼にあるの」
 ストライプのシャツワンピースをまとったミドリは、息子の目から見ても充分に美しかった。胸が突き出ていて、ウェストが締まっている。子供のいる女に見えない。
「離婚届は、パパが破った」
 と言うと、
「アンタのいないときに、あたらしい届け出用紙に署名捺印してもらったわよ」と、ミドリはよそ見をしながら言ったすぐあとに、「自動車保険には入ってなかったの?」
「車検切れ」
「あのヒトの頭の中には、アンタしかいなかったのよ」
 いまの父はかつての父ではないけれど、自分の父への気持ちに曇りはなかった。父の愛情が息苦しいと感じるときでさえ、海の彼方を眺めるときに感じる清冽な思いを心と体の重しにしていた。

 ミドリは頼られても困ると言った。わたしはもうだれの束縛もうけない自由の身なんだからと。自身の産んだ子供はどうなるのかと、言葉が喉元まで出かかった。我慢した。自由のお題目に勝てる論理などない気がした。

「さっき看護師さんにきいたんだけど、あさって退院するそうね。手続きがあるだろうし、もう一度、くるわ」

 ミドリはそう言うと、どこか知らない場所へと帰っていった。父の親戚にも連絡をとったが、返事はミドリと同じだった。ろくに名前も知らない相手に入院費のことを切り出す勇気はなかった。

「どないしたらええんやろなぁ……」

 父のまぶたは閉じられたままだ。着替えることも、ひげを剃ることも人の手を借りなくてはならない父は、うざったいディカプリオみたいだった。
 胃にチューブで高蛋白輸液を送りこんでいるので食事の心配はいらないそうだ。

 担当医からは、怪我は軽傷だし、頭部に大きな異常も見られない。本来なら意識がもどっていいはずなのに、この状態がいつまでつづくかわからないと告げられた。近日中に、ICUから一般病棟に移すという。ミドリという名のモンスターの術中にはまり、哀れな父はいっさいの思考力をなぎ倒されたのだ。

  ★●★

 その日のうちに退院の手続きをした。会計の窓口に行く。社会保険書はミドリが先に届けていた。支払い金額は少額だった。清掃係の仕事で得た金で清算できた。

 窓口の女性は健康保険書に一枚の紙きれをそえて差し出した。
「生命保険会社への提出書類用の診断書です。複数の会社と契約がある場合はコピーでいいと思います」と言ったあと、「お父さまの診断書は少し先になります」とつけ加えた。

 ミドリがこの病院にきた理由がわかった。

 昼すぎ、人込みで混雑した病院のロビーを車椅子に乗って横切る。
 どきやがれーッと、心の中で喚き散らしながら。
 洗面所のある廊下を奥へ突き進むと非常口。人気がなくなる。くたびれたパジャマのズボンからスマホを取り出し、ヒメキに連絡をする。完全に治っていないので迎えに来いと。

『マジかよ』
『ゼロ分で来てほしい』

 手続きをして、呼び出していると、ヒメキは気づかないのか、気づいていて素知らぬフリをしているのか?

 包帯で片腕を吊り、足にも包帯を巻き、車椅子に乗っているが、十日後にせまった十二月十二日のヒメキの二十三歳の誕生日に、どんな阻害要因があろうと彼のマンションで過ごすつもりだ。見返りのクリスマスプレゼントは後生大事に手放さずにもっていた――ヒメキが欲しがった最高傑作のアニメドールの〝ヘッド〟。

『オレはさ、二ノ宮通りのマンションにいるんだってばッ!』
『日赤までクルマで十五分やろ』
『松葉杖をついて、バスで来いよ』
『コツコツ行けるんやったら、とっくにそうしてる。松葉杖がないからゆーとるんや』
『おまえなー、なんで言いたい放題なんだよ。ふだんはろくすっぽクチもきかないくせしてサ』

 人間には思いがけない側面があるものだと、教師になる時に習わなかったのか。目に見えたままにしか理解できないなんぞ、想像力の欠如だと思わないのか。自分は子供の頃から動物的な勘があった。言語にならない感覚を、一瞬で感じ取れるのだ。

『ガキのくせして、オレをナめてんだろうが』
『絵はしょぼいくせに、えらそうなクチきくんやな』
『おまえなー、ムカつくことしか、言えんのか……』
 ヒメキの声が途中でしぼむ。
『わるりぃか』

 物心ついたときから、自分の右脳と左脳は一致協力し、右手を使って話すように絵を描いてきた。自己を表現する手段を線と色彩の感覚によって得ていた。だだそのことを、他人にわかってもらおうと思考しないだけなんだ。

『どぉーしても、オレが、お出迎えしないといけないわけ?』

 ヒメキの声はよく響き、スマホを通してもロマンチックな音色を放出する。アノトキも、ロマンチックに放出するのだろうか……。 
 疑問が残る。

『こっちは、車椅子なんや!』と脅す。
『知ってるんだぜ。ホントは、もう歩けるんだろ。手だって、治っているってきいたぜ』
 だれから聞いたか、訊ねなくてもわかっている。
『有り難いバイトに行く気になったんやから喜べよ。ヒメキの負担がちょっとでも軽くなるやろ。そっちの仕事は肉体労働やもんな』
『もうすぐ、おまえは本職を再開できる。待ってほしい』と、急にしおらしい声になる。
『傑作を作りたいから金も手間も、ようけかかるんや』
『わかってるよ。だから頑張ってンだろう……』声が尻すぼみになる。 
『それやったら、さっさと迎えに来んかい!』

 ヒメキの溜息が聞こえる。そういえば……客の呻き声や喘ぎ声は聞こえるのに、ヒメキの声は聞こえたことがない。どうしてだろう。無声の快楽に溺れているのか?
 
『来る気がないんやったら、それでもええンやぞ』
『ただし、送るのは商店街の手前までだ。ツキヨミといるところを店のやつらに見られるとコトだからな』
『えッ――なんでやねん。元教師と教え子の関係やろ。ナニがハズいねん。そうか、そうか、三日にあげずにくるオッサンが妬くもんなぁ』
『妬くわけねぇだろ』
『あの刑事とは、どんな関係やねん』
 スマホのむこうのヒメキは押し黙った。

 何かがおかしい。言葉にできない何かが。   

  ★●★

 腕と足の包帯を外し、パジャマを脱ぎ、ファンがわざわざ届けてくれた服に着替える。
 病院の前のエントランスで待つ。
 街路樹の植わった道路を迂回して、タクシーの列にならんだグレーブルーのクルマが見えると、病院の自動ドアの手前の影にかくれる。
 車椅子と包帯は病院の玄関脇に置いてきた。
 流線型のクルマから降りてくるヒメキの容姿を凝視する。
 運転席のドアが開くと、サラブレッドのような細長い足がクルマの外につき出した。
 お気に入りのモチーフだ。
 鼻梁が高く、彫りの深い顔が真っ先に目に入る。教師を辞めた直後に、髪を栗色に染めているので一見、ホストと見紛う。数秒後に印象はかわる。切れ長の目の冷淡さにたじろぎ、なめらかな厚めの唇に隠微なにおいが漂う。
 
 ジーンズのポケットから手の中に入るほどのノートを取り出す。
 先の丸くなったエンピツで、痛みの残る手で線を重ねていく――。視覚に訴えかける対象物に出くわすと、右手の指が積み重ねた記憶をよみがえさせる。

 対象物と視覚が一つになる一瞬一瞬を線にしていく――。

 サングラスをかけ、定番のチェスターコートに身をつつんだ上半身がゆっくりと現われる。間近で見ようと、前のめりになる。病院の自動ドアで額を打つ。
 手は動いている。
 ヒメキが明日死ぬとわかっても涙なんて出ない。デッサンのモチーフを失うことを思うと、この瞬間をかけがえのないものに感じる。
 西の空の夕陽を背負ったヒメキは周囲を見回し、サングラスを外す。どこを見つめているのか判然としない眼差しをまぶしげに細める。

「ちッ」
 と舌をならし、コーデュロイパンツのポケットからタバコを取り出し、包装紙の底を指ではじき、飛び出した一本をくわえる。クルマにもたれかかった無防備な姿勢の構図が、完璧だと信じきってんだろうな。

 求めているカタチではない。

 もっと自然体のヒメキを描きたい。コイツはどんな瞬間にも格好をつける。そのせいか、紙の上に描かれる平面上のヒメキのほうが、実際のアイツ自身よりも本人の性格を表現していると思うのは自分だけなのか。

 どこか寂しげで、哀しみがチラついていて、そのくせ非情な気質がかいま見える。

 ヒメキは片方の肩を上下し、フィルター部分を噛む。
 自分はノートをジーンズのポケットに隠すと、ヘラヘラ笑いながらヒメキの視野に入る位置に移動する。彼の口から、ああ、という声にならない声が、タバコをくわえた薄い唇からもれる。

「ナニしてンだよ! 待たせやがって」

 ヒメキが口を開いたとたん、タバコが足元に落ちる。彼はもう一度舌を鳴らし、地面に落ちたタバコを靴底で踏みつぶす。

「迎えにきてやった礼のかわりに、拾えよ」
「そうくると思った」

 自分は即座に拾い、息を吹きかけ、付着したゴミを吹き飛ばして手渡す。ヒメキは携帯用灰皿に捨てる。

「さっさと乗れよッ」

 ヒメキは茶色の濃い瞳を翳らせると、「愚図なんだよ、おまえは」となじる。
 礼儀正しいスワンではない。
「あと一時間で、店をあけンだよ。知ってんだろ? おまえンちのオフクロのせいで、非常勤講師の仕事をオレがフイにしたってことはサ」

 五時を少し回っている。ヒメキは手にしたキーをくるっと回して、クルマにもどろうとした。

「オヤジが、どんどん元気がなくなってくんや……」
 湿っぽく訴える。狡猾なヤロウには、こっちもズル賢く立ち回るしかない。
「おまえ、耳はあンのか?」 
 ウンと小さく頷いて見せる。
「オレにこれ以上、ナニかを頼めるはずねぇだろ? 借金を払ってやり、バイト先を世話してやったあげくに、オヤジさんの入院費用まで肩代わりしてやってんだろがっ! 償いは、とっくにすんたはずだ……」
 言葉の強さとは裏腹に、ヒメキは声のトーンをおとす。
「いったい、どーしてほしいンだよ」
 あきらめた気配だ。自分はゆっくりと車道におりる。
「一日だけでいい、オヤジと自分を、ヒメキのマンションに泊めてほしい」
「正気か、おまえ。意識のない人間をどうやって外に出せンだよ」
「ひと晩だけ、人間らしい生活をさせてやりたいンや」
「マンションの周辺を、ミドリがしょっ中、うろついてることは知ってるよな」
「いっしょに住んでるんやろ?」
「住んでねぇし――おまえのオフクロとは一回こっきりの仲だ」
「家を出ていく前に外泊ばっかりしてたンは、どこへ行ってたんやろ?」

 ヒメキは口を閉ざす。ファンの言った言葉を思い出す。不動産屋、ヤクザ、オーナーのチャン、ヒメキ、みな友達と。

「元亭主の重病人を運びこめるはずがないだろ」
「ならええ。こっちにも考えがあるからな。オーナーが自分を近々、客の前で披露させるそうや。ヒメキより売れっ子になるやもしれへん」
「おまえが、おれの代わりがつとまるわけねぇだろ。非モテオタク少年に興味をもつ、ヤツはいねぇよ。だいち、未成年だろ」

 ヒメキは言いつつ襟元に顔を埋める。切れ長の目が獣に似た鋭い目つきになる。曲線の集合体のヒメキに直線が混入する一瞬だ。

「いつ?」
「十二月十二日」
「かんべんしてくれよ。おれの誕生日じゃん」
「車椅子に乗せれば、なんとかなるからええやろ」
「そんなマネを、真っ昼間にやったら犯罪になるぞ」
 歪んだ頬のラインが芝居がかっている。一応、デザイナー志望なんだから、常におのれ自身をデザインしてるんだろう。

 引き結んだ口をヒメキはおもむろにひらく。
 
「おまえは、今日から中華街の店で皿洗いだ」
「時給がさがるんやろ?」
「もちろんだ」
「なんでなんや」
「そのほうが、おまえのためだ。金のことはなんとかする」

 カーゴパンツの足元に、ヒュウヒュウと北風がうずまく。パーカの下に薄手のセーター一枚の自分は頬がこわばるけれど、唇を横にひいて笑顔をつくる。彼の目にはふてぶてしい表情にうつるはずだ。

「いまはだれが清掃係なんや?」と、訊く。 

 たぶん、階下にテーブル係で入った中国人だろう。日本語学校へ通うという名目で在留許可証をとり、複数の中国人の若者が階下の中華飯店で働いている。自分の前の掃除係も中国人だった。そいつはいま控えの男娼に昇格している。指名がない日があると、怒り出す。そのときは、カスリと呼ばれる、麻雀のテラ銭の一部がわたされる。

「ジュンみたいに、稼ぎたいんや」ぼそっと言う。

 ヒメキはクルマに乗りこむと、早く乗るように急かす。
 エンジンをふかし、ハンドルをくるくる回しながら、
「おまえさ、オレのこと、バカにしてんだろ?」
「尊敬してるーーかもな」
「オレがやりたくてやってると思ってるのか?」
 こういうときは黙る。
「美大に行くのに、金がなかった。ほんとになかったんだ」
「学生のときから、ヘッドを注文できるほど稼いでたんや」
「言っていいことと、そうでないことの区別もつかないのか」

 前のクルマがさっさと動かないので、ヒメキはイラついている。ワイヤレスイヤホンが助手席の足元に落ちている。拾って耳の穴に押しこむ――知らない曲ばかり流れる。

「ヒメキに棄てられたショックで、オカンの放蕩も終わると期待してたのになぁ。それがナニがどうなったンか、オカンはアンタと遊ぶために大金を使うて、借金しただけやない。離婚までしてオヤジを追い詰めた」

 小説のまンま、父は法院長夫人のごとく生死の境をさ迷っている。

「おまえは自分のせいだと、思わないのか。そもそもおまえが仕掛けたことだったろ」と、ヒメキは言う。
「オヤジは、アンタやオカンや自分のように悪人やないンや」
「悪人で悪かったな。クソッタレのガキがッ!」
「クソはたれへんデ。本で読んだンやけど、ゲイは、潅腸してからスルってほんまなんか? もしかして、アレにウンコがつくんか?」
「ろくでもない本を読むな」と押し殺した声。「音楽でも聴いてろ」
「なんの曲や、これ。知らんのばっかりや」
「BAKの不言論、優里のアイガキ、HYの366日……おまえ、全然、知らないのか? ふだん、何きいてんだよ」
 何も聴いてないと答えるしかない。音楽が鳴っていると、絵が書けない。ドールの顔もかけない。
「ヒメキ、なんで、あんな仕事するンや。もうセンセにもどらへんのか?」
「おまえなー、だれのせいで――死ねッ!」
 どんな悪態にも、自分は傷つかない。
 造形としてのヒメキは、視神経を捉えるけれど、実体のヒメキは、脳細胞を破壊するほどの威力はない。

 ヒメキは中華街に入る手前の道路で自分を降ろし、秘密部屋にむかった。今夜も客の相手をするために。

  ★●★
    
 中華街の極彩色の門を見上げる。
 一歩、中へ入れば、異国だ。胡麻団子や揚げ饅頭が店頭を賑わす。笑顔の洪水だが、ここを根城にする人たちと自分とは味覚の一点でしか共通項はない。

 自分はジャケットのフードをかぶり、寒さと痛みで小刻みにふるえながら路地を通ってチャイニーズ・レストランの裏口へむかった。

 いまだけは、働こう、いまだけは。

 午後五時半開始。オーナーはかわらない。チャンだ。時給は千八○円に一気に低下。

「洗い場の仕事は手と指のリハビリにはちょうどいい」と、ヒメキは言ったけれど。

「えーッ、来たの! なんでぇ」
 裏口から入った自分を、テーブル係のチーフが目ざとく見つけた。
「怪我のあとだからって、テレテレされるとさ、こっちが迷惑すんのよね」

 元美容師だというチーフのヤン(楊)はノリのきいたカッターシャツに蝶ネクタイを結び、黒いスーツを自分の皮膚のように着こなしている。刈り上げた茶髪にアクのない顔立ちは愛くるしく、男性客からも女性客からも愛される容姿をしているが、チーフだけあって、仕事にはきびしい。

「いじのわるいコックは、オーナーに言い付けるんだよ。気をつけなきゃ、かばいきれないんだからね」
 ヤンは日本で育ったので、日本語は流暢だが、女っぽい話し方をする。
「皿洗いのかわりは、いくらでもいるんだからね」

 一分の隙もない装いと慇懃な態度で客席とレジを往復しているジュンは苛立ちを厨房にいる新人の自分にぶつける。

 あごの張った台湾人のシェフと、大陸からやってきた二人のコックは調理に忙しく、洗い場の自分のことはおかまいなし。鍋としゃもじをカンカン鳴らして作る調理の仕事は怒鳴っているひまがない様子。

「はいりまーすッ」

 エプロンをし、キャップをかぶり、ゴム手袋をする。二つの水槽には、汚れた食器がうず高く積まれている。鍋や皿やコップにシャワーをかけ、食洗器に入れる。洗っても、洗っても終わりがない。つぎつぎ洗い物はくる。機械が洗うのだけれど、かなりの重労働だ。もっとラクな仕事もあるのかもしれない。いまは、ヒメキから離れるわけにいかない。見えない部分が描ききれていない。

 油臭いにおいがつらい。

 揚げ物の鉄鍋を洗ったとき、吐きそうになる。ラードを使っているので、いくらゴム手袋をしていても、ヌルヌル感が全身に伝わってくる。客は知らずに、汚泥のような油であげた揚げ物を食べている。それだけじゃない。ゴキブリだって、ネズミだって走っている。洗い場を担当しているもう一人の中国人男性のエプロンなんて、いつ洗ったのかわからないようなしろものだ。

 几帳面なヤンは汚れた皿を運んでくるたびに衛生、衛生と言うが、食器を熱湯消毒しても、その皿をさわるゴム手袋が清潔でないとなんにもならない。口うるさいヤンのお節介というものだ。

 麻雀部屋とその隣の秘密部屋を掃除するうちに、大勢の人目に晒されないモノ、ヒト、コトは不潔ではないと思うようになった。ラードで揚げた揚げ物のように食えない性格のオーナーも、目にしなければ腹もたたない。自分の生存にとって無害の人間だと感じる。

 五味は違っているが……。そう思ったとたん、肥ったチャンと脂ぎった顔の五味が二人そろって、湯気の立ちこめる洗い場に現われた。

「かわいい、ここ、もったいない」とチャンが満面の笑顔で言った。

 メガネをかけずに、キャップをかぶった自分の顔は、丸顔で重たげなまぶたをしているのでそんなふうに見える。

「なんでだろー、やーねぇ」と、ヤンが横から言った。「こういうの、童顔っていうのよね。肌もツルツルだし」

 チャンは自分のそばにくると、しげしげと見た。

「いま、ヒメキ一人、忙しい。もひとり、いる。五味さん、どぅおもう」
「そのときの口開けは、オレだからな」と、五味が言った。

 二人がいなくなると、ヤンは言った。「オーナーに色目、使ったでしょ、アンタ」

 首を振る。

「ヒメキが大事にしてるって聞いたけど、アンタってヒメキのものなの?」

 首を振る。

「あとでいいから、ヒメキの携帯番号、教えなさいよ」

 十分間の休憩時間、路地に出ると、海のにおいがした。このにおいを父に届けたいと思う。失われた意識の一部分でも呼び戻せないだろうか。

 ヤンがやってきた。手帳をだし、ここにヒメキの電話番号を書けと言う。

「ほんとはサ、アタシもあっちの店で働きたいのよ。手術代だって、いまのままじゃ、貯まらないしさ。チャンがナニからナニまで管理するんだもの。なーんにも自由にならないのよ」

 女装すれば女の子にしか見えないヤンだが、このままホルモン注射をしなければ、男性化がすすむのだそうだ。体毛が濃くなることが何よりもイヤだと言う。

「チャンって、気難しいのよ。オカマ嫌いのゲイでしょ? 困るのよ。アタシは女の子になるのが、子供の頃からの夢なのにさァ」

 オーナーの愛人らしいヤンは、チャンがオカマを嫌うので、男の子のままでいないといけないと愚痴る。

「そんなの、性差別よぉー。思わない?」

 生返事をしながら、しゃがみこんで疲れた手足を休めていると、ヤンはタバコをふかしながら、
「アンタさー、人の話、聞いてないっしょ?」

 ヤンは大きな瞳で、自分をのぞきこむ。

「アンタ、ホントはヒメキにイヤがられてるンでしょ?」

 うなずき、手帳を返す。

「噂じゃ、しつこいオバサンがいて、つけ回されてるって話よ。アンタもそのクチね」

 ミドリの顔がうかぶ。

「ヒメキの誕生日に、マンションに泊まることになってる」
 無口な自分が、いきなりしゃべったので、ヤンは口をあんぐり開けた。
「冗談じゃないわよ。ヒメキなんて呼び捨てにして――皿洗いのくせしてサ」
 ヤンの瞳を見つめ返しながら、
「ヒメキと約束した」
 ヤンはうなじにゆれる髪を両手でかきあげる。
「チビのブサイクはね、どんなにがんばったってどーにもなんないのよ。美容師をしてたときもそーよ。アンタみたいなタイプの男はこっちが同情するフリすると、すぐにつけあがるんだから。お茶に行こうとか、うるさっくってサ。アンタさぁ、うっとおしいのよッ」

 ヤンは感情をバクハツさせた。

「知らないらしいからゆっとくわ。アタシ、ヒメキと寝たことあるのよ」

 性格に歪みのある自分はヤンが羨ましい。自分の気持ちに素直なヤンは心の奥を秘匿しなくていい。

 終わったのは零時半、洗い場の先輩に片言の日本語で、遅い、荒い、役たたずとミソカソに罵倒されながらまかないを食べたあと、固くなった肉マンをもらい、乗り捨ててあった自転車で陸つづきの埋立地に向かう。途中、二十四時間営業のサウナで油臭い髪と体を洗う。

  ★●★

 つらなるネオンの灯りが街灯にかわり、あざやかな光が単調な色彩になったかと思うと、クシ形の突堤に囲まれた海面が現われる。電柱のない整備された街並と対岸の夜景にはさまれながら、どこまでも自転車を走らせる。
 海面が淡い光を映す鏡に見える。
 神戸港には使用されていない岸壁が何箇所もある。突堤が四方にあり、内海のような場所に打ち捨てられた小船が停泊している。
 廃船は空き地のような岸壁に接してただよっていた。ブイに繋がれていなければ夜の風に吹かれて出帆しそうだ。

 甲板に飛び乗る。

 キャビンに入り、懐中電灯を点ける。電源がないので、電気もテレビもない。暖房器具は使えない。ワイヤレスイヤホンも電池が買えないのできけない。スマホの充電は店でしてきた。
 病院で寝泊りするよりいい。
 父が入院した直後にアパートを追い出され、ここへきた。持ち出せたのは身の回りものを入れた紙袋一つと寝袋。
 五メートル四方ほどのキャビンに粗ゴミの日に拾った絨毯をしき、ソファを向かい合わせにくっつけておき、その上に寝袋をおいて、モグラのように中に入る。
 キャビンは冷凍庫の中にいるみたいに寒い。
 読書をするときはマスクと手袋をし、明かりは登山用のペンライトを使う。洗面とトイレは港内にある公共施設を利用する。

  ★●★ 

 猛スピードでビンボーが普遍化している。凍えそうなほど寒いこともあって靴下を二枚はき、厚手の下着にセーターも二枚きている。
 カットにもいけないので、髪は肩に届きそうだ。
 リストラにあったおじさんたちが、あっというまに転落するように、自分の人生も一変した。三ヵ月前まで、石膏デッサンに明け暮れていたなんて自分でも信じられない。デッサン用の鉛筆を削るだけでも、小一時間かかっていた。同じ時間があれば、千八○円稼げる。欲しいもんがどんどんなくなっていく。おかずがないと、調味料もいらない。ワイヤレスイヤホンも、ケースがないと使えない。

 天才にしか許されない、純粋芸術に身を捧げるなんて、とんでもないことを思っていたけれど、物知らずの妄想だったとつくづく思う。
 石膏デッサンをやめてもつらくもなんともない。
 ホンモノの才能があったなら、描かずにいられないはずだ。ピカソは七歳にして、完璧なデッサンが描けた。他人に学ぶ必要なんてなかった。自分は自分の落書きにそんな才能を微塵も感じない。いまの自分の望みは、ヒメキそっくりのフィギュアをつくること。おいしいものを食べて、あったかい場所で手足をのばして眠ること。そして、父と二人で小型ボートに乗り、もう一度、どこまでもいっしょに行くこと。

   ★●★

 三日間、金属音に似たカモメの鳴き声で目覚めていた。今朝はちがった。自分の胸が発したうなり声でうつろな意識が一気に鮮明になった。憑物が落ちたように気力が萎えている。発熱のせいで体の節々がキリキリ痛い。コロナに感染したのかもしれない。
 キャビンの丸い窓に晴れ上がった空がくっきり映っても、寝袋からどうしても起き上がれない。病院に電話をし、見舞いに行けないことを告げる。ついでに、ヒメキにも連絡する。
『店、休む』 
 中華街のチャイニーズ・レストランの電話番号がわからない。
『勤めたばっかだろ、甘えてんじゃねーよ』
『熱がある、たぶん』
『ほんとか……』

 二時間後、スマホが鳴る。

 毛糸の帽子をかぶり、白のダウンジャケットをはおったヒメキが岸壁に姿を見せた。旅行にでも行くような特大のボストンバックをぶらさげている。
 傾きかげんの頭を起こす。
 どうしてここがわかったのか?
 だれにも言っていないのに。

「あ、け、ろッ」と一音づつ、怒鳴る。

 いつものは石膏像のようにどこを見ているのか判然としないヒメキの眼差しが、目いれをした達磨のようにまんまるになっている。
 頭痛で起き上がれない。
 ヒメキは数歩うしろに下がると、大股で助走し、跳躍して、デッキに乗り移った。衝撃で船体が揺らいだ。操縦席のあるフロントグラスをたたく。何がなんでもキャビンに入りこむ気なのだ。
 頭痛はひどくなる一方だ。
 船体が揺れる。
 デッキより上にある側壁の囲い、ブルワーク(舷墻=げんしょう)を、ヒメキは押して揺らしている。

 遊園地のブランコに乗っているようだ。

 寝袋を這い出ると、ヒメキは、揺らすのをやめた。長椅子にくっつけたパイプ椅子を離し、空間をつくって小窓付きのドアを開けた。ヒメキは、ワォと声をあげ、デッキからキャビンに移動してきた。
 酔っ払ったみたいに頭がクラクラする。立っていられない。ヒメキは、ミノムシのように床の寝袋に舞い戻る自分をボケっと見ていたが、唇に力をこめて、言い放った。
「おまえなー、休める身分かよ」
「身分とビョーキは関係ない」
 ヒメキは埃だらけの操縦席に腰をおろした。
「ヤンにオレの携帯番号、教えただろ」
「それがなんや……」
「よけいなことしないでくれよ。それでなくたって、ヤヤこしいことになってんだからな」
 ヒメキは立ち上がると、ドンドンと船底を踏みならした。
「この下、物入れになってンのか」

 上体を起こす。眩暈がとまらない。ぐるぐると目に映るものが回る。

「三日でへばるのか、根性がないな」

 ヒメキは顔をあげ、片方の目に涙をひと粒ながした。涙のないほうの目は乾いている。コンタクトの具合がよくないのだろう。
「水を一杯、くれよ」
 足元のペットボトルを指さす。
 ヒメキはひと口のむと、背伸びをし、くしゃみをした。
「片目で泣くの、うまいだろ?」
 いつもの薄ぼんやりした眼差しではない。
「なんで、ここがわかった」
「このまえ、あとをつけた」
 ヒメキはキャビンを見回し、
「きったねーなァ。片づけてやろうか」
 壁に貼ったデッサン画に気づいたのだろう。
「さいしょっから、見惚れてたよな。オレって、そんなに美形かな?」
「性格の悪さが、ひと目でわかるように描いてある」
 体調を崩しているせいもあるが、ヒメキに対してナニも感じない。いまは平面化したのちに立体化したいだけだ。器材さえそろえば見本のフィギュアをつくり、ネットオークションにかけて、量産化してくれる企業をさがす。
 ヒメキの分身を数えられないくらい売りたい。

「目がすわってるじゃん」
 ヒメキはそう言って、ボストンバッグの中から解熱剤を投げてよこした。
「……」
 タバコを吸いかけて、こっちを見てから懐にもどした。
「ヤンとオーナーが鉢合わせして、そこへミドリまでやってきて、もめにもめて――」
 ヒメキの乾いた低い声を耳がひっかかる。
「ほんとはヤなんだよ。いまみたいな暮らし。カッコいいオレに似合ってないもんなァ。普段着にブルガリの時計してるみたいだろ?」

 この声で、宮沢賢司の『春の修羅』を朗読すれば聞き入ってしまうだろう。

「なんで、オーナーとミドリが揉めるんや」
「んー……」と、ヒメキは言いよどむ。
 熱っぽい頭で考える。おそらくマンションを売却した金の分配についてだろう。ファンから聞いた片言の話が事実なら――。
「さっさと服めよ、クスリ」ペットボトルをひざの上におく。
 ヒメキは口を大きく開けて笑った。歯列矯正したようなきれいな歯並びが育ちのよさを物語っている。
「オレさ、小中と近所の学校だったら、なんとか辛抱できた。それが高校はアメリカの高校へ入れられて、もーいやでいやで、日本に帰ってきたらきたで、親の跡をつぐために有名私立大学へ行けと言われて、拒否ると、勘当だよ。それでもなんとか自力で芸大へ入って、教員免除をとって、コネで臨時講師になんとかなって――」
「体を売ってか」
「うっせぇよ。オレにはオレにしかない事情があんだよ。おまえには、絶対、わからない事情が。言い訳がましいけど、おまえのオフクロとは……むこうも強引だったしさ……犯されたようなもんだよ……おまえがおかしなこと言わなかったら、ヤれなかっサ」
「一見、石鹸で洗い上げたみたいに見えるもんな。ミドリも、抑えつけてでもヤりたかったんや」
「オレ、ほんとは……」
「ダメなんやろ」
「どうして……見てたのか?」
「見てない。声が聞こえんから、一回も」

 イライラしてきた。熱が上がってくる。体の骨が輪切りにあったように痛む。

「今朝、ファミレスで、サラダバー食ってて悟ったんだ。オレの肉体は野菜を浴しているってさ。つまり、オレのペニスはついに心と一体になることをのぞんだわけよ。セックスは排泄行為とはちがうんだって、ヤツは主張しはじめたんだ。これって哲学的だろ?」
「澁澤龍彦はずっと前から、快楽と幸福は相容れンってゆーてる」
「おまえの日本語ってわかりにくいのな。夕べも、五味にしつこくさわられたら、イキナリぞっとしらけてサ。面倒くさいパトロンだからさ、いつもそれなりにオツトメしてたんだけど、どーしてかダメだったんだよ」
 ヒメキは、五味を突き飛ばしたとぶっきらぼうに言う。
「んで、オッサン、怒りだしてさ……」

 自分は起き上がると、寝袋を半分に折り畳んだ。
「要するに、クビになったんか」
 やや厚めの唇がほころぶと、肩が上下した。
「でさ、マンションに帰ったとたん、ミドリがなんでか居座ってて、そこへヤンがきて、あとからオーナーがやってきて、出てけって言われて……ワケがわかんねぇんだよ。どーなってると思う?」

 ヒメキはダウンジャケットを脱ぐと、熱っぽい自分の額に冷たい掌をおき、「かなりあるな」とつぶやき、ハンカチを濡らして額に押しつけてくれた。

 深く眠った。
 
 喉が乾いて目覚めた。ペットボトルの水をごくごく喉を鳴らして飲んだ。

 夜空に浮かぶ月を見ようと、立ち上がり、デッキへ出た。

 黒い月と星が、見えた。この世にないもの。それが自分と自分のからだ。内部で蠢いている、もう一人の自分が早く、ここから出してくれと、唸り声をあげている。

 キャビンにもどり、隣に眠っているヒメキの上に倒れこんだ。

「なんだよ」と、眠そうな声。
「幸福はふわふわしてとりとめがないもんやけど、快楽は確固として基準があって、ぎゅっと手でつかめるもんなんやと、澁沢龍彦は書いてる。渋龍って、知ってたのかな? 言葉以上の快楽を――そのことがずぅーと疑問なんや」

 ハーバーライトが揺らめき、カモメの群れが、キャビンの窓を一直線に横切っていった。

 ヒメキがだれと寝ようと、だれに触れられようと、自分にはなんの影響も関係もないと思っていた。が、一人がやっとの隙間に二人で重なるようにしていると、秘密結社を二人きりで作ったような気分になる。

「わるいけどさ、きょうから、おれもここに住ましてもらう」
 と、仰向けになって言う根なし草の唇に、唇を押しつけた。
 唇の中に割って入り、ヒメキの舌を吸いあげる。
 ヒメキは、自分の胸を突き押し、
「言っただろ! オレはダメなんだって」
 タタないんだと怒鳴った。
 自分は、ヒメキの手を、自分の下着の中に誘った。
「おまえとは、メンドウなことはしたくないんだよ」
 と言いつつ、まさぐっていた手がとまる。
「嘘だろッ」と、ヒメキは目を見開いた。
「ほんとのことや」
「おまえ、どっちなんだよ」
「どっちでもあるし、どっちでもない」
「両性具有ってことか……」

 唖然しているヒメキの服を脱がし、自分も脱ぐ。
 ヒメキの舌を吸い、乳首を咬む。
 またがり、彼の尖った分身を、だれも触れたことのない、もう一人の自分にあてがい貫かせる。鮮血がしたたる。
 彼はやはり、吸血鬼だった。
 彼の両足を開かせる。彼は無言で従う。自分の屹立した性器を彼の下腹部にあてがい、彼の性器をもう一人の自分が吸収する。彼の恥骨に自分の恥骨をあてがい、両足を閉じ、腰を前後に揺する。はじめはゆっくりと、そして次第にはやく――。
 ヒメキが呻く。はじめて耳にした甘い声だ。
 ヒメキと自分は同時に、射精した。

  

 船底から伝わる振動に睡眠が中断される。エンジンの音にも気がつく。寒くない。だれかが船にガソリンを給油し、エンジンを作動させ、エアコンのスイッチを入れたのだ。父のはずはない。歩けないんだから。
 姿は見えないが、ヒメキなのか。
 寝袋から這い出し起き上がると、背伸びをした。トイレにいこうと、歩いたとたんに目が回る。
 大きな紙袋をぶら下げたヒメキが帰ってきた。夕べのことは夢だったのだ。
 なんのてらいもない表情と、明るい声で気遣ってくれる。
「トイレか」
 うなずくと、ほらよ、と肩をかしてくれて、港と接する道路脇の公衆トイレまで連れていってくれた。
 外は明るい。
 潮風に吹かれて、二人で岸壁を歩いていると、心を重くしていた悩み事がすこしづつ晴れていく気がした。入院している父のことも心配だったけれど、病院にいるんだから死にはしないだろう。
「インスタントのリゾットでも食うか」
 電気プレートも買ったから、お好み焼きだってつくれるとヒメキは言う。
「お金は?」
「いいんだ、なんとかなったから」
 ヒメキは眉間を寄せた。横顔なので、はっきり見えたわけではないけれど、眉の形でわかった。
「ヒメキって呼ぶのやめてくんねぇか? なんかさ、思い出すんだよ」
 ヒメキは唐突に言った。ナニを思い出すというんだろ。ろくすっぽ顔も覚えていない男たちとのことか、ミドリやヤンとのことか。
「じゃあ、なんてゆーんだよ」
「アンディでいいや」
 風邪薬も買ってきてくれていた。ポカリスエットで飲みくだす。しばらくすると、また眠くなってくる。
「空気が抜けるみたいな呼び方やな」

 いつのまにか、うたた寝していた。

 気づくと、ヒメキの腕枕で寝ていたた。
 いつのまに――。
「昔さ、オレの裸を見た見ないで傷害事件がおきたんだ」
 自分は半身を起こし、肘でヒメキの胸を押した。足の裏で踏みつけてやりたい心境だった。
 ヒメキは笑いながら上体を起こし、胡坐をかいた姿勢で自分の背中を抱き寄せた。たったそれだけのことで、全身が溶けてゆく。

 抑制できない自分に腹が立ち、ヒメキの腕をふりはらって立ち上がった。

 ヒメキは手近にあった自分の足首をいきなりつかんだ。
「ナニすンねん!」
 目の下の顔面を張り倒そうとしたが、逆に転倒しそうになる。繊細な外見からは想像できない強い握力におどろく。

「小便するとき、どっちですんだよ。上か、下か?」

 こぶしで、サラサラの頭髪をなぐるが、手はツルツルすべるのに、足首は接着剤でくっついたようにヒメキの手に貼りついたまま離れない。まるで、罠にかかった小動物のように逃げられない。
「だからさァ、キスしてやるよ」
「だれもたのでへんッ」
 ヒメキは整った顔を上向ける。目も歯も笑っている。自分は、はーっと息を吐く。腹の底から吹きかける。胃液が臭ったはずだ。

「……ったくもう」

 ヒメキは自分をじっと見つめると、握った足首を手前に引いた。自分の頭はソファの背の上をこえて機器でいっぱいの操縦席の上に落ちていった。ぶつかる寸前に、ヒメキの腕がゴムバンドのようにのびて、背中を抱き留めた。自分の胸は頭の重みでうしろにしなった。
「オレ、見た目より、マッチョなんだぜ」
 長椅子に寝かされ、ヒメキの顔が自分の上に重なった。唇が接触する前に、
「やっぱ、臭くねぇよ」
「どけよ」
「うるせぇ」

 ヒメキはささやく、「黙ってろ」。
 下唇に咬みついてきた。いくら顔をふっても、離さない。自分の唇はチューインガムみたいにベロンとのびて、赤むけになった。セックスへの欲求なんていっぺんに冷める形相になっているはずだ。

「……ぐぅ」言葉にならない。

 ヒメキの手と腕が自分の頭を抱えこむと、ヨダレのたれる下唇の中側に舌を押しこんできた。
 口まわりの皮膚が粟立つ。
 舌を咬みきってやろうと、歯を開けたとたん、暴れまわっていたヒメキの舌がマシュマロのように柔らかくなり、自分の口の中を徘徊し、歯の隙間をねらってヒメキの唾液を送りこんでくる。
 朝ごはんを食べていないせいか、溶ける寸前のバターの味がした。甘味があって、クリーミィな感じ……。

「きちんと見せてくれよ。オレのも見るか?」

 ヒメキは手をのばし、二人ぶんの着ているものを手早く剥いだ。なにもかも見られてしまったし、見てしまった。気恥ずかしい気持ちより理科の実験室にある裸体図を見ているような具合だった。意外だったのは、ヒメキの胸郭が広いことだった。
 ヒメキの性器は尖った状態でも、果実のように清潔な印象だったけれど、比べて自分の小さな性器は見劣りがした。
 真剣な眼差しになっていたのだろう。
 ヒメキはニヤニヤしながら、
「どっちでもいいじゃん。オレはそんなことゼンゼン気にしてねぇもん」
 ヒメキは、腕を首に回すように言った。

 互いの舌を吸い合った。

 溶け合った唇が離れたとき、躊躇いは渇望に変わっていた。もっと強い刺激を自分のからだは求めていた。デッサンのときにも感じるのだけれど、評価がどうあろうと、心の秘密を明かした描線のデッサンに仕上がると、ある種の恍惚感を味わえる。深部でうごめいている未知の感覚が解放されたように感じられるのだ。いまの自分も、すべての束縛から解き放たれたいと思っている。

「夕べのつづきだ」

 ヒメキはそう言うと、座った姿勢で、抱き寄せようとする。
 嫌がると、強引に太ももを開かせる。
 夕べより奥へ、性器の先端が突き進んでくる。
 切り裂かれる痛みで、悲鳴をあげる。
「やめてくれよ」
「いやだ」
 
 どうにもできなかったズレが別のもので埋められていくようだった。

「コレって……キスと……セットになってるもんなんか?」
 
「たぶんな。唇は言葉を話すところだから、キスには魂がいるんだよ。ツキヨミにだったら、オレの魂をそっくりやってもいい」
「だれかのペットの魂を、もろてもしょうない」
「なんだよ、それ。失礼じゃんか」

 ヒメキは自分の耳たぶをしつこく舐める。下腹部で股間を摩擦する。剥き出しになった凹みにある小さな突起物を指や掌でこする。
「……病院へ行く」
「まだだ」

 男のものと女のもののどちらが、より強く昂ぶっているのか、わからない。くるぶしから背筋を通って、後頭部に振動が伝わると同時に二つの性器が揺れ動き、愉悦を排出した。
「いい子だ」
 ヒメキは腕の中の自分を横抱きに寝かせると、自分の凹みに射精した。耳元でささやいた。いっしょに暮らすつもりで、マンションを出てきたと。
「五味刑事とは――?」
「そーゆー個人情報はきくもんじゃねぇの。しらけるだろ」

 なんとか自分を見失わないでいられたのは、病院に行く時間が迫っていたからだ。

「行ってる間に、片付けとくよ」
 岸壁に降り立つ。
 ヒメキは船に乗ったままだ。
 手を振っている。
 
 倉庫の裏に停めた自転車にまたがると、ペダルを踏む前によろける。体の奥が音を立てて唸っている感覚にとらわれる。いますぐ抱かれたいと。

 昼前に病院へ。
 一般病棟へ移されたベッドの周囲に、薬品の臭いがする。口で息をする。父は自分の顔を見ない。閉じられたまぶたはときどき、なんの脈絡もなく開くが、自分の視線と焦点が重なることはない。
 自分は父の痩せ細った体をきれいに拭うと、ベッドの足元に上半身を投げ出し、少し眠った。睡魔がやってきて意識は朦朧としているんだけれど、どこか一ヶ所だけが目覚めていて、黄泉の入り口にいるみたいな気分だった。

 ベッドに起き上がった父が、自分にほほ笑みかけている。顔には靄がかかったいるが、父だと、自分にはわかる。

「……ツキヨミ」
「パパッ、治ったんか!?」
「なんて言えばいいか……」
「なんや」
「いや、いい」
 父は口をつぐむ。
「ツキヨミ、もういいんだ」 
「ヒメキとしたこと、気にいらへんかったンか?」
 父の表情が険しくなった。
「ツキヨミ、愛してるよ」
 整った横顔に苦悩の色がにじみ出ている。
「ツキヨミは勘違いしてるよ。ツキヨミのせいじゃない」
「自分はどーしたらええんや……」
 泣いてしまった。
「ゴメンよ、心配かけて。でももうおわったんだ」
「ほんなら、なんで、そんな暗い顔するんや!」
「ツキヨミはいつまでもオレのお姫さまだよ」
 父は手をのばして、自分の頬に触れた。冷たい手だったが、父はカーテンの外を見やり、小さく笑うと、輪郭を失って消えた。

 自分の肩をだれかが強く押した。頭を上げると、ナースの緊張した声がふってきた。
「お父さんを治療室に運びます」
 自分は追い払われるようにして、父のそばから排除された。
 ストレッチャーに乗せられた父はナースに運ばれていく。

 父の死亡が確認されたのは、十五分後だった。

 わが家に起きた数々の出来事は悲劇であったことはまちがいない。いまの自分には両親はいない。高校は中退し、なんの拠り所もない身の上となった。
 幸か不幸か、と問われれば、
「かるい」
 と答えるしかないが、すべての軛から解き放たれたこの浮遊感をどんな言葉で言い表わせばいいのか。

  ★●★
          
 廃船に帰ると、ミドリがきていた。
 二人でもいっぱいなのに、三人となると、それこそ息がつまる。
「なによ、まだ生きてたの。ヒメキくんもダメねぇ」
 スリットの入ったスカートの裾からむっちりした太ももがのぞいている。見せつけるようにして、長椅子に腰かけたミドリは高圧的な口調できりだした。
「あんたは出生時に、両性の性器があると言われたけど、瀬本は手術を希望しなかった」
 ミドリは事もなげに言った。そして、ついでのように、
「異常に可愛がった。お風呂もいつも一緒に入ってた」
 ヒメキはぼうっと窓の外を見ている。肩ごしにそれていく、例の視線だ。
 ミドリはヒメキを振り返った。
「瀬本は自分の欲望を抑えるためにアルコール中毒になった。はじめてヒメキくんに会ったとき、同じ道をたどる気がしたわ。こわかったのよ。だから、保険の仕事で知りあった不動産屋にたのんだ。瀬本とツキヨミを追い詰めるためにね。もちろん、ヒメキにも協力してもらったわ」
 石膏の胸像のように微動だにしないヒメキの背中に、ミドリは訊く。
「欲しがっていた捜し物は見つけたの? あんなもの、ネットで買えばいいじゃないの」
「しかたねぇだろ」
 欲しかったんだからとヒメキは言った。
 ミドリは、向かいにいる自分の顔を指差し、
「自分の子供でも、夫を奪われたあたしの気持ちがアンタにわかるはずないわ。産んだ気がしなくなるものよ。憎しみしかなくなるのよ」
 自分は苦笑した。
 ヒメキが振りむいた。
「それくらいでいいだろ」
「ヒメキ、あたしと組んだはずでしょッ」
 ミドリは言ったとたん、バッグをヒメキにむかって叩きつけた。彼の頭にあたったバッグは乾いた音といっしょに口が開き、狭いキャビンに中身が散乱した。
 ヒメキは黙って見ている。
「あたしを裏切って、よりにもよって、まともじゃないツキヨミと寝るなんて最低よ」
 ミドリは無言のヒメキにか飛びかかっていった。首に手をかけている。自分はミドリの肩をゆさぶった。
「パパが死んだ」
 ミドリの手が止まった。
 ストップモーションがかかったように突然、動きを止めると、おびえたような眼差しで自分を見た。
「いつ……」
「ついさっき」 
 ヒメキが気怠げに振りむくと、
「これで大金が転がりこむ。オレが男たちをたぶらかして稼いだ金を合わせると、チャンの店を買い取れる」
「あの人が死んだ。そんなことってあるの。どんなことをしても、いつも許してくれたあの人が死んだだなんて……。あたしのいないところで、あたしに黙って逝ってしまうだなんて、これから、あたし、どうすればいいの……」

 ミドリは身をくねらせて泣く。なんで、このバカ女が自分の産みの親なんだろ。ヒステリックな泣き声をきいているだけで、鼓膜が腐りそうだ。
「泣くなら、ヨソで泣きなよ」
 自分は父の遺体を焼き場に直葬する手配をしなくてはならない。
 ミドリは立ち上がり、バックの中身を拾おうとするが、途中であきらめたようだ。起き上がりこぼしのように、彼女の頭はぐらぐらと揺れている。不安定な心がそのまま体の動きになっているようだ。
 ドアを開け、デッキから岸壁に片足をかけようとしたが、足元がふらついているので移れない。
 ミドリは肩を揺らしながら、振りむいた。
「ツキヨミ、おまえが、あの人を殺したも同然よ」
 ミドリは片足を宙に浮かしたまま、一歩踏み出した。

 自分は、彼女の背中を押した。

 ミドリは岸壁とボートのわずかの間に落下した。

 あっという間に海中へ沈んだ。

 あたりを見回すが、ヒメキの他、だれもいない。

 着膨れしている、ミドリは浮いたり沈んだりを繰り返す。

 ヒメキはスマホを指で操作している。
「ほら、見てみろよ。オレにおまえを殺せって命令してる文字に、(笑)が四つに、絵文字の笑顔が二つもついてるぜ。笑えるよな」
 ひと晩で、気の変わる女だった。ヒメキも同じなのだろう。目の前で、一度にしろ、寝た女が殺されても、(笑い)しか返さない。
「これで、この女の保険金は、子供のおまえのものだ。オレと二人で、外国へ行かないか」

 ファンが現われた。

 病院からここに帰るまでの間に、ファンの携帯にメールをしていた。読めないと思うので、『助力』と打ち、居場所を画像で報せた。

 ファンを目にした瞬間、ヒメキはたじろいだ。
 激しい感情が、脳をゆらした。自分は腕を真横にのばし、海中にヒメキを突き落とそうとした。その手を、ヒメキがとらえた。
「まだ、わからないのか。あいつらは、みんな仲間なんだよ。男を男に売って食いものにしてるんだ」

 五味が後部座席から降りてきた。

 ファンはデッキに飛び乗り、オールを見つけだすと、ヒメキに殴りかかった。避けようとしたヒメキは海中に落下した。浮き上がってくるヒメキの頭を上からオールで押した。

「やめろッ」と、最後にひと言だけ聞こえた。

 ミドリはとっくに沈んでいる。

 五味はゆっくりと近づいてきた。「これからは、おまえが、ヒメキの代わりを勤めるんだ。文句はないな」

 ヒメキが、反対側の船べりから顔を半分、見せた。

 二人にしか通じない眼差しで、ヒメキと自分は合図した。
 自分のほうから、五味の腕の中にもたれかかった。五味は咳払いをし、キャビンに誘う自分についてきた。
 ファンはヒメキを探しているのだろう。落ちたあたりの海面を凝視している。
 リーバイスの靴を脱いだヒメキは蜘蛛が這うように狭いデッキを這い、ファンの背後に迫り、ロープを首にかけ、一気に絞めあげた。
 五味は、唇をむさぼっている最中だったので、デッキの物音に気づかない。息つぎのとき、自分はわざとらしい喘ぎ声を五味の耳に聞かせた。

 押し倒され、下肢をまさぐられる。
 
 五味はヒメキ以上に、驚き、喘ぐように言った。「おまえは、オレ一人のものにする。いいな」
 うなずくと、五味はズボンをおろし、黒光りのする性器を握り、陰部に突き立てた。
 ヒメキが真後ろにいることさえ、臀部を上下動させる五味は気づかない。
 自分は感じている声を演じた。
 五味の頭部を、ヒメキはオールで一撃した。その瞬間、五味は射精した。

 アニメーションに実写フィルムが重なった映像を見せられている気がした。

 ヒメキは気を失った五味の上着の下のホルダーから拳銃を抜き取り、弾倉を回して弾の有無をたしかめると、銃口にタオルを巻き、五味の心臓を撃った。

 たぶん、ぼんやりしていたのだと思う。
 ヒメキの平手が頬を打った。「服を着ろ。いいか。もし、こんど、他のヤツにヤらせたら殺すからなッ」

 ヒメキはファンをキャビンに引きずりこむと、デッキと船底の空間を利用した床下収納庫から石油の入った赤いポリ容器を取り出し、キャビンの床に撒き散らした。

「おまえの留守の間に、こんなこともあるだろうと思って用意してたんだ」

 ボストンバックを肩にかけると同時に、ライターに火をつけ、デッキからキャビンに投げ入れた。
 そして自分の手をとり、岸壁に停めてあるヒメキのクルマの助手席に押し込んだ。

 爆発音が岸壁に轟いた。

 深夜、父の遺骨を神戸港に撒き、ヒメキと自分は、中突堤に停泊している高雄行きの雑貨船で密航した。
 到着後、ヒメキが隠しもっていた金で、偽造パスポートを買い、カタールへ旅立った。
 彼のほんとうの名前は、曽偉雄(アンディ・ツァン)。親類縁者と縁を切るために国籍を大阪の**で買い、日本人になりすましたが、そのことで五味に脅されつづけたという。

  ★●★

 飛行機の中で、ヒメキの欲しがっていた最高傑作のヘッドを彼に手渡した。このコだけは、燃やさないようにポケットに入れておいたのだ。
「そういや、今日がゾロ目の誕生日だったな」
「自分より、そのコのほうが、かわいいか?」
 女性でパスポートを作った。髪をカールし、前髪をピンで止め、ピンクのドレスをまとい、アニメドールとそっくりのメークをしている。
「夜の王になるんじゃなかったのか」
 ヒメキはそう言って、窓ぎわにいる自分の顎を指で上向かせると、うなじにキスをし、耳たぶを噛み、手を握りしめた。
「オレは、夜の王の奴隷だよ」
 
  


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