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【エッセィ】蛙鳴雀躁 No.46

 頭痛に胸痛に鼻水。近所の内科医にかかりたくない。インフルエンザの疑いがあると、待合室に入れず、外で待たなくてはならない。「このトシやから、もう死ぬかもしれへん」と言って家族に嫌がられる。
 またはじまったと夫も娘たちも諦め顔。
 具合が悪いと、「葬式は直葬でええから」と言い、「やっぱり、いつも来てもろてる、お寺さんトコにしてな。S会館のいちばん安い会場は地下やからいややねん。地獄へ直行する気がする」
 その前に、身の回りを少し、整理しなくては――と思う。

 見渡せば、家族で、私だけが、片づけられない病にかかっている。整理箪笥は、一度開けると閉めるのがむずかしいほど衣類をつめこんでいる。夏物と冬物は分別されていない。入らないものは、洗濯かごや段ボール箱など目についたものに投げ入れる。
 ゴミ山と同居している。
 録画するだけで見返ないDVDの山。本と雑誌の山はもはや収拾がつかない。なんども捨てたが、すぐに蓄まってしまい、そこら中に積み上げっている。壁には、お気にいりのタカラジェンヌやワンコの写真を貼り、娘たちの絵も飾っている。

 なんで片づけられないのか。

 高齢のせいではない。合理主義のせいだと、自分では思っている。なんでも探さなくてもいいように、手っ取りばやく取り出すには、目に見える範囲に並べておくのがいちばんいいと思っているからだ。

 おしゃれに暮らしたいと内心では、思っている。

 半世紀以上昔、1970年、山口県のS市在住の、二十歳の私より四歳年上の女性が、築50年を過ぎようかというわが家に下宿することになった。父の勤めていた会社が引き受けた仕事で、そうなったらしい。いいおウチのお嬢さんなので半年間、預かってほしいということだった。
 岡本太郎氏制作の太陽の塔に、ご記憶のある方はもはや少数派だと思う。来年?大阪で、開催される万博のように盛り上がらない博覧会ではなく、日本の高度成長を象徴するような「万国博覧会」の会場に勤めるために彼女はやってくることになった。

 なんでくるねん!

 当時、夫が薄給であったため、私たち夫婦は実家の二階に住んでいた。一階に、空き部屋があった。もちろん、私は物置に使っていた。彼女がくるまでに、その部屋を片づけなくてはならない。腹が立った。洋服箪笥を明け渡し、押入れの中の物も二階の物入れにそれこそ押しこまなくてはならない。さんざん文句を言った。
「どこのだれかしらんけど、会場に近いアパートを借りたらええやないの。ウチから大阪まで通うのもたいへんなんやし――」
 ベッドと箱型のミシンだけは、どうにもならないので、置きっぱなしすることに。

 玄関に現われた彼女をひと目見た私は笑顔になった。山口県からやってくるというので、垢抜けない女性を想像していたが、まったく違った。
 
 身長は私より高く、西洋人顔の美人であることにまずびっくりしたこともあるが、彼女の装いに目が吸い寄せられた。
 私はいつものように膝のぬけたジーンズに毛玉だらけのセーターの着たきりスズメ。
 彼女は流行のグリーンのチェック柄のスーツに、スマーとな靴。髪を茶褐色に染めていた。大げさでなく、ファッション雑誌から脱け出したようだった。いまなら、だれも驚かないと思うが、その頃、髪を染めている一般女性は、少なかった。
 あとから聞くと、彼女は彼女で、おみやげに持参した蒲鉾を、私が、彼女の目の前で包装紙を破り、板つきの蒲鉾をそのままかじったことに驚いたのだそうだ。

 父は後年、「子育てに失敗した」と嘆いたそうだが、誰もやらない行儀の悪いことを、私は子供の頃から平気でした。

 彼女は私の身の回りに見かけないタイプだった。中学生の時、出会ったハーフの女の子はどちらかというと、かわいい顔立ちだった。
 彼女は鼻梁が高く、くっきりした目元にやや大きめの口。ハーフというより、アーリア系の容姿だった。渡来人の一族が山口県に移住したとしか考えられない顔立ちだった。

 驚きはそれだけではなかった。
 彼女は私の使っていた部屋をあっという間に、おしゃれに整えた。ベッドとミシンにカバーを掛け、段ボール箱でゴミ箱を作った。彼女の亡くなったお父さまがお皿一枚にもこだわりがある方だったとかで、彼女はゴミ箱を作るとき、フランスから取り寄せた古いボーグ誌を切り取って段ボール箱に貼りつけた。アメリカ系のハーフとは、好みが真逆だった。ヨーロッパ系と言えばいいのだろうか。上品で、中間色を上手に着こなしていた。とにかくセンスがよかった。それくらいは即座にわかった。
 彼女の休日になんどか三ノ宮に御供したが、洋服を選ぶのに、何時間もかける。私のように安易に選ばない。ヘアスタイルにはじまり、洋服、バッグ、靴、アクセサリーに至るまで納得するまで買わない。洋裁も得意だったので、生地の材質にもうるさかった。
 西洋人顔の美人と出会ったのは、このときがはじめてだった。

 その後、これでもかというくらい西洋人顔の女性と出会うことになるとは、夢にも思わなかった。
 八ヵ月間、同居したが、兄姉といっしょに暮らしたことのなかった私は、ほんとうにたのしかった。夫と彼女が同い年だったので、末っ子の気分を味わえた。買物に出かけない休日には、彼女が麻雀ができるとわかり、近所に住む兄を交えた四人で一日中、麻雀をした。

 万博が終わり、彼女が去るとき、二度と会えないと思い、お互いに涙を流して別れた。しかし、ほどなく彼女の実家に遊びに行き、再会した。予想した通り、山の手に彼女の実家はあった。震災で建てなおす前のボロ家によく住めものだと感心した。家の中に坪庭があり、彼女の部屋も広かった。邸宅の広いテラスからは関門海峡が望めた。

 この時、萩市にも二人で旅をした。吉田松陰の家を見学したあと、伊藤博文の家を見た。武家屋敷に住む吉田松陰は掘っ立て小屋に住む伊藤博文に学問を教えた。彼女は私に、よい趣味とはどういうものか、見せてくれたのだと思う。習得はできずじまいだったけれど希有な体験だった。

 いま彼女は神戸の山の手に居住している。ほとんど会わなくなって何年も経つ。
 NOTEのエッセイだけは読んでくれているらしい。この記事が目に触れると思うと、そらおそろしい。これまでも、わがままな私は彼女の気に障ることを平気で口にし、なんども、怒らせている。

 来年は会おうと思っている。万博で見た「月の石」の話でもしたい。いまの小学生に話しても信じてもらえないと思うが、米国は月面探査船で「月の石」なるものを持ち帰ったことになっている。何時間も並んで、黒い小石を見学した。昔はよかったと言いたくないが、私たちは、それを本物だと信じきっていた。異を唱える学者もいなかった。いまなら、ボロクソだったと思う。あの石はどうなったのか。

 不用品は思いきりよく捨てる彼女と何年ぶりかで会う前に、身の回りを少しは片づけたい。
 たぶん、むりだと思うけれど……。
 断捨離ができる人は、本物の「月の石」なのだと思う。

 昨夜、12月18日。この駄文を目にした彼女からメールがきた。脚色しすぎていて、気味が悪いと。ピンヒールは履いていなかったと。今朝、スマートな靴と書き直したが、彼女の腹立ちは治まらないと思う。ウソを書いているつもりはまったくなかったけれど、そのように読めるということは、文才のなさ故、だろう。№48の女子三人以外の美女は、ここに書いていることを知らない。お読みいただいている方は少数なので、安易に考えていたが、考えを改めなくてはならない時期にきているのかもしれない。

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